コーヒータイム

「無名作家のメモ」、「無名作家のつぶやき」とでもいうべき欄です。
このHPの中で、管理人が、最も気楽に書いている部分です。内容は、やはり「文芸について」です。


ということでありましたが、評の類はどうにも苦手であるということがわかりました。
2010年2月からは、「小説に至るメモ」の場として、この欄を使いたいと思います。乱雑なメモ、の類に終止するかもしれません。
私生活については原則として触れないことにいたします。同人誌等の関係者の記述をする場合にあっても、出来得る限り御迷惑にならないように心掛けるつもりでおります。

NO 7
2016年01月以降の分は→ NO8へ
2014年12月までの分は→ NO6へ
2013年12月までの分は→ NO5へ
2012年12月までの分は→ NO4へ
2012年03月までの分は→ NO3へ
 2011年06月までの分は→ NO2へ
2009年12月までの分は→ NO1へ

 


 
書くため1231(2015.12.31)
 書くため、という題字がちょっと斜めにちらつきますが、書くというより整理をした年だったのかな、と思います。全作家の書庫にわが作品を微修正して入れさせて貰っています。わがHPにも同じものを同じペースで載せています。
 海の第一期から引きずっていた運営(同人費の額、配布冊数、掲載作品、編集方針など)についての見直し、という大事もなすことが出来ました。ちょうど、繰越が赤になるというタイミングにも重なり、中期点検が出来たということになります。
 海二期も第10号あたりから強力な書き手の参加を得て、かなり機運が盛り上がっているところですから、同人費の値上げは好ましいことではないのですが、先行きが見えているものを最低限是正したということになります。しかし、これが要因で中だるみになってはいけません。心して掛からねばならないといけないな、と思っております。
 わが作品も中だるみに掛かっていますから、骨格になるものを明瞭にし、工夫し、汗をかいていかねばなりません。ここからスタート、の気持です。
 全作家第100号が送られてきました。掌編小説特集号です。まだ中身は見ていませんが、少しずつ新しい作品が出ているようで、うかうかしてなどいられません。早速出席の申し込みをし、年会費を送付しました。
 火垂るの墓を読み終え、何故か、三浦哲郎の作品をまた読んでいます。


 
書くため1230(2015.12.30)
 小説と詩と評論が送られてきました。今回の森田雄蔵賞2名の発表がなされています。なるほど、当然至極の選考結果だと思えます。
 御二人を少々存じ上げているので、たいへん納得がいきました。
 賞というものは、なかなかいただけないもので、目の前に降って湧いたときにはそれほどとは思わないのですが、選考のためにたいへんな苦労をしていただいた委員の皆様に、時を経て今、私も実感が湧き上がってきました。おめでとうございます、御二人。そして、御労苦を厭わずに進めていただいた委員の皆様、関係の皆様に今にして御礼を申し述べる次第です。ええ、御二人の受賞を祝すのが一義ですが。


 
書くため1229(2015.12.29)
 海のホームページを整理、第15号の会計報告も確定したようです。
 さて、読むべき本が多くあります。火垂るの墓も届きましたから、新しい方からチャレンジしていきたいと思います。
 今年の同人誌活動も一段落、ということでいいのでしょうか。
 気持を改め、工夫し、考え、チャレンジしていく作品、これに当たれるよう目標を定め、力をつけていきたいと思います。
 最近、身辺雑記風な作品が多くなってきましたので、「核になる作品」をものにし、書き継いでいければと思います。動機があって、工夫があってという段階に一歩を進め、わが道を探っていきたいと思います。


 
書くため1228(2015.12.28)
 汚名(九大生体解剖事件の真相)、文藝軌道ほかを読みます。読み掛けたままの本があまりにも多く、戸惑っています。
 夢のなかで、「人生を否定するな」「肯定しろ」というメッセージが来て、懸命に応じていたのを思い起こしています。「あまり捻くれるな」という意味でしょうか。ともかく、これはわが重大なテーマですので、どう生かしていくべきかを考えます。


 
書くため1227(2015.12.27)
 ちょっと休憩したい気持で、ファイルを開いたものの閉じてしまいました。
 夕方になると、何とか闘争心が戻ってきましたので、もう一度挑戦です。切れ目はないのです。もっとも、読むことの方がまるで疎かになっています。
 読んでもなかなか頭に入ってこないのですが、ここは踏ん張りどころです。もともと理解力、記憶力に劣るのですから、足元を、一歩先を見るつもりで続けることでしょう。文化というこの巨大なものを捉えることは、容易ではありません。


 
書くため1226(2015.12.26)
 こうして職を退いても、忙しいことは余計に増した感があります。電子情報の利用というものが生活の中に入ってきて、忙しさが増しました。
 同人誌でも、日にちを掛ければそれなりに出来上がるものなのでしょうが、電子情報のスピードに振り回されている、とも言えますね。
 現代人は短気になった、ということなのかもしれません。
 パソコンに慣れると、手で書くことがまどろこしくなり、ストレスが増すという循環の中にあります。幸なのか、不幸なのか。


 
書くため1225(2015.12.25)
 珍しく、海の関係のことはありません。
 新たな決めごとが、どう展開して行くかということになります。これから約半年近くかけ、意欲的な作品が多く生まれることを願うものです。
 工夫をし、チャレンジをして行きたいものです。


 
書くため1224(2015.12.24)
 海の今後の運営についての資料を送り終え、どう動いていくのか見えませんが、波の行く方向に流れて行く、の気持です。
 方向がずい分変わりましたので、半日をかけホームページの修正をしました。果たして、うまく出来たものか、見直すには少々体力がついてきません。
 うまく行ってほしいというより、行かせねば、ということになります。さあ、舞台の準備は出来た、存分に踊ってほしい、というところです。


 
書くため1223(2015.12.23)
 海編集委員会(12月21日)のまとめを、何とか仕上げました。委員3名の御協力に感謝いたします。最初2名に資料の確認をお願いしたのですが、今回はどうしても花書院の方の業務にも触れますので、社長(委員)にも資料を確認していただいたところ、夕方わざわざ立ち寄っていただき、的確な指示をいただきました。
 そこで、関係資料を作り、点検し同人各位にメールで発信したのが22時、郵送を必要とする同人にポスト投函したのが23時と、今日は「海の運営について」の資料作りで終えました。これがうまく行ってくれれば、と願うものです。


 
書くため1222(2015.12.22)
 昨日の委員会のまとめを作って発信段階に。が、重要なことをいくつも決めたので、出席者の2人に概要の確認方をお願いしました。
 何とも手の掛かることです。運営の主要な部分全てにかかる大切なことですから。この何度資料を作ってもエンドレスな状態が、いつまで続きますやら。


 
書くため1221(2015.12.21)
 海編集委員会です。第15号までの報告、点検、反省を踏まえて、第16号以降に臨むことになりました。
 具体的には、同人費額の変更、フォントなど編集内容の変更、冊子必要部数を印刷前に把握する等々です。これらについては整理し、同人への周知を行うということになります。海の目標は「高質な作品を掲載する」、としたことも分かり安くなりましうた。


 
書くため1220(2015.12.20)
 海の作品に対する評が掲載され、感想が届きます。
 これが同人誌を出すことなのだな、と嬉しく思うものです。
 しかし、嬉しさや口惜しさにいつまでも浸っている場合ではありません。次が待っています。第16号以降をどう出していくのか、の方に切り替えねばなりません。
 必要な書籍も読まねばなりませんし、他にもすべきことをせねばなりません。


 
書くため1219(2015.12.19)
 海第15号の収入が確定し、支払いも終えましたので、会計報告を作成し、同人各位にお諮りしています。内容から、第15号が経費的には苦しかったことを示し、逆に内容的には大きく伸びることとなった点が伺えます。
 寄付をいただいた方々に、改めて感謝の意を表しますとともに、それぞれの個性をおおいに発揮する作品を提供いただいた各位に、お礼を申し上げる次第です。
 背伸びする訳でも何でもありませんが、全国的なレベルでの注目をいただける内容になり、この第15号を機に新たな展開を目指し、歩みを始めたいと思うものです。


 
書くため1218(2015.12.18)
 何はともあれ、印刷所への支払いを済ませました。前号の繰越金だけでは足りず(と見ていましたが)、花書院始めの寄付により済ませることが出来ました。
 となると、会計報告に入り、今後の運営についての編集委員会に入ります。
 第15号をもって、ちょうど振り出しに戻ったというかたちになります。
 第15号への感想等が、いつもより早めに入ってくる感があります。


 
書くため1217(2015.12.17)
 海第15号の感想を何件かいただきました。本当にありがたく思います。
 何か少しずつでも世評にのぼるということは、よいことも、そうでないこともありますが、魂を込めて書いた作品であれば、それらの感想や評を真っ直ぐに受け止めることが出来ます。好評の場合は「自分のうちに生かし」、そうでない場合は「自分のうちで更なる工夫をし」というふうであれば、必ず次に繋がっていくのではないかと思います。
 一度、一作の評に一喜一憂しないこと、だと思います。読んでもらった、という一歩引いたところから、目の前の感想や評を捉えていただければ、と思います。
 今発表した作品は、今の精一杯のもの。では、次の作品は今の作品を越えようとするもの、というふうに(私の場合は)捉えていきたいと思います。


 
書くため1216(2015.12.16)
 海を送付して、早くも感想が届き始めました。ありがたいことです。
 次は支払いを終え、会計報告を出し、編集委員会となります。何だかんだと大騒ぎした感のある第15号でしたが、これまでの教訓と反省を生かし、よりよい「運営の方向」を探っていくという筋道を辿る予定です。
 破綻しかけながらも、第15号までを世に送ることが出来たことをありがたく思い、感想や批評を得て、次のステップに進みたいものだと思います。


 
書くため1215(2015.12.15)
 昨日海第15号を発送しましたので、今日は1日かけてホームページの整理です。
 近く編集委員会で懸案事項を協議するので、ホームページの全部は埋まらないのですが。作品の公開は創刊号から続けています。
 ともかく、第15号の発送・発信の部を終えました。


 
書くため1214(2015.12.14)
 海第15号(通巻第82号)の発送を終えました。約3時間の作業でした。ヤマトのDM便というのは、これまでとそんなに変わった様子ではありませんが、第15号の冊子の厚さが1センチを越えたため、2冊の入れ方に手間が掛かるなど、結構きびしいものです。
 全115通と1包みです。いやあ、ここまで来るのはなかなかです。
 後は数日して会計報告となり、それを受けて来週の編集委員会に臨むことになります。同人誌1号を出すことは、何度やっても簡単ではありません。原稿受付から2月以上の間、緊張が解けることはありません。大胆かつ微細な神経を、張り巡らさねばなりません。前号の168頁と比較して222頁となると、ずい分重たい感じがします。
 ここらは、個々で感じ方が異なるものと思われますが、何故でしょうか。妙に気が重たいのは、冬バージョンの表紙のせいもあるのでしょうか。


 
書くため1213(2015.12.13)
 NHKテレビ「“医師の罪”を背負いて〜九大生体解剖事件〜」は、東野利夫氏(東野産婦人科元医師、元iェ文芸教室主宰者)の戦中の事件から、今日までの70年を追った番組で、息つかせぬ迫力がありました。
 昭和20年5月5日に米軍のB29が日本軍機の紫電改の体当たりにより、大分県の山中に墜落。捕虜となった8名が、九州大学医学部で生体解剖された。東野氏は九大医学専門部に入学したばかりで、その解剖の場に入り補助を行った。この運命的な事件を追って東野氏は、贖罪の70年を送るというものです。
 東野氏とは、氏が設けられたiェ文芸教室受講生(昭和60年頃から約10年)としてお世話になり、お人柄をよく知っているだけに、感慨深いものでした。
(ウィキペディア)
 この事件は、最終的なGHQの調査で、捕虜の処理に困った佐藤吉直大佐が小森軍医に相談し、石山教授に持ちかけ実行されたことが判明したが、企画者のうち小森は空襲で死亡、石山は自殺したため、1948年8月に横浜軍事法廷で以下の5名が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。
(NHKのホームページの番組説明)
 終戦間際の1945年5月から6月、九州帝国大学医学部で米兵の捕虜を使った生体実験がひそかに行われた。墜落したB29の搭乗員8人が、海水を使った代用血液を注入されたり、片方の肺を切除されたりして死亡した、いわゆる「九大生体解剖事件」。医学生として生体実験の現場に立ち会った東野利夫さん(89)は、戦後、福岡市内で産婦人科医院を営みながら、国内外で事件関係者に取材を重ねながら事件と向き合い続けてきた。とあり、再放送は、2015年12月19日(土)午前0時00分(Eテレ)となっています。
 この番組の衝撃が止まぬ中、明日の海第15号の発送に向け、宛名シール、文書作成等を、1日かけて行いました。


 
書くため1212(2015.12.12)
 昨夜になってようよう編集委員会の日時、場所を決めることが出来、スケジュールを1つ進めることが叶いました。気分が急いでいたからか、単純ミス連発です。
 花書院から発送の細かな手順を知らせていただいたので、宛先を確認、DM便とやらに合わせるつもりで、宛名ラベルの作成をしました。
 送付文ですが、これは編集委員会での協議を待って「原稿・冊子作成要領」等を周知したいという文言も作成することになりました。
 ということで、昨日作成した委員会用資料を見直しながら、まだシミュレーションをしたり、文言を扱ったりと、なかなか定まりません。
 それだけ、今は大切な時期であるのでしょう。海のレベルアップに繋がってくれることを、ただ願うばかりです。


 
書くため1211(2015.12.11)
 作りました。私にしては100枚の作品にも匹敵する資料。そうです、海編集委員会の資料です。決めごとが多くありますから、使う使わないは別にして関係のありそうな資料は全部です。私が全ての事情を知っている訳ではないのですが、他の人はもっと知らないでしょう。こういう閉鎖的な状況になってしまった、というのが一番悪いのですが。どうしてこうなったのかは、私にも説明がよく出来ません。
 よって、データを読み解き推測する外にはないのです、私にも。とはいえ、こうも一人だけに偏ってしまっているということ自体が、奇怪です。
 悔やみごとばかりを並べてはいけません。ボランティアが我が身を嘆いていては、ボランティアではありません。しかし、これは一人が独断専行して成るものではありませんから、うーん、です。7年前の自分は、こういうことを担当している人がいるということすら知らなかった、のですから。
 資料は作り、いつでも会議はOKですが、日程調整の返事が戻ってきません。何か意味があるのだろうか、といらぬことまで考え込んでしまうではありませんか。


 
書くため1210(2015.12.10)
 編集委員会の日程調整をしたり、ホームページの整理をしたりと、海のことでは切れ目なくものごとがあります。
 あまり経費を上げたくないな、という意識がどこかに残っています。過去の収入、支出、繰越を調べてみたら、第10号のあたりまでは、今の「30人のメンバーがいるとした経費方式」で、奇跡的にうまく出来ていたのです。つまり、メンバーがなかなか頁を使ってくれなかった(書いてくれなかった)ということです。
 ところが、現在は逆の悩みを抱えるようになりました。一定頁数(10頁あたり)を越えると赤字を持ち込み、一人最大13,000円程度の赤字をカウントする仕組みですが、書き手が増えて、中身がよくなるということは赤字を多く背負い込み、これまでの繰越額を第15号で使ってしまうということになったのです。
 10数人というメンバーのシミュレーションなど出来よう筈もないのですが、では「実費主義」となると、書き手が萎縮するということを招きます。これは質の問題に繋がります。では、よい方法は、となるとこれがないのですね。
 頁1,000円という「破格の印刷所の好意」と、私たち「自らが、完全原稿に近くなるまで割付原稿を作る」ということに支えられた上での、「実費主義」なのですが、これまでの「30人の構成員を見込んだ価格設定」が、なまじ機能していただけに悩ましい話です。書き手にとっては、裏話が何なのかなど興味のないことであるのですから。
 どこかから、足長おじさんが現れないか、などと考えてしまいます。
 溜まっていた他誌の作品を読み、お礼状などの投函もしました。


 
書くため1209(2015.12.09)
 今日は書くぞ、というもくろみは簡単に消え、海の雑事をやります。第16号以降の運営、同人費の考え方など、資料を作り出したらたいへんなことに…。
 電子書庫の資料を送りました。


 
書くため1208(2015.12.08)
 海のことはしばし忘れていようとしますが、そう簡単にはいかないものです。
 次の「9ポイントに落としたときの組み方」などが他誌に例がないか、どういう字数で、どういう行数で、つまりどういう1頁の字数で、どういう感じに組んでいるかを見ることになります。その殆どは、「あまり詰めた組み方はしていない」のですが、たまたま今日送られて来たQ誌に面白い3段組みがあったので、目に止めました。
 100枚を越えるほどの原稿は、こういうふうに組めば、頁数を減らすことが出来るのだが、という訳です。全体が3段だと非常に詰まった感じになるのですが、頁数が即負担額に繋がるのであれば、頭の隅に置いておく必要もあろうか、と思ったところです。
 今日の大方は、自分の作品の見直しをしていましたが、約100枚といったあたりですから、早々にはケリがつかないというところです。
 散文から詩文の方に切り替えたり、その逆をしようとなると、やはり簡単にはいかないものですね。わが能力のこともさることながら、短くても長くても、「すらすらと書けたりすることはない」と、当たり前のことを感じる日でもありました。


 
書くため1207(2015.12.07)
 海第15号、222頁の校正を終えました。ボリュームがあります。が、殆ど直しはなかったという「責了」の原稿を、印刷所に持参しました。いよいよ次は発送です。
 新たな方式での発送。どういうことになるのか、どういう準備をすればよいのか。せめて、今日ぐらいは考えるのを免除させてもらいたいところです。
 要は、冊子の厚さが1cmを越えるかどうかによって、料金も、送付方法も変わってくるのではないかということです。


 
書くため1206(2015.12.06)
 寝ているときも海のことを考えており、今の同人費額がどういう時期に設定されたものであるかを調べてみました。第一期は第67号で終刊となるのですが、第64号時は28人の同人を数えていたのですね。多分そのときの設定のままなのでしょう。
 第65号で同人数は一気に13人へと減り、第67号は11人です。
 第二期を創刊した第68号が9人でしたから、同人費が枯渇するということもなかったし、第二期当初は頁が埋まらずに苦心していたものでした。それが、第79号(第10号)前後から優れた書き手の入会を得て、急速に頁を増やすことになりました。100〜130頁あたりで推移していたものが、第10号で190頁、第14号で168頁となったものの、それでもおおむね150頁あたりという冊子であったのが、
次号第15号では222頁という極端な伸びとなりました。(冊子そのものの、分厚さも問題となるのですが)
 こうなると、現在の相互扶助的な同人費の額(第一期の、同人約30人の頃の額であろうと推定される)では、母体が半分以下の現陣容だと成り立たない訳です。
 ちょうど同人費額を含めた海の「反省・見直し」を行おうとしている時期に重なりましたので、「相互扶助→実績主義」へ舵を切らざるを得ないという実情になってきました。見た目はずい分額が増えるというふうに見えるのですが、製作単価はどこよりも安い価格となっておりますので、決して不当なものではない筈です。
 それに付け加えねばならないのは、
製作単価を安く設定していただいている印刷所の御好意が第一にあり、さらに「編集担当者が自ら『完全原稿に近い内容に』まで仕上げているという事実があるということを、抜きにしては語れないものです。
 他誌では多くの陣容を抱えているための会費が見込めるため、執筆額が少なくて済むという、大規模誌ならではの利点があることは否めませんが、海レベルの誌は「書く→殆どの作品を掲載する」という異なった目標を持って進んでおります。
 見かけ上の同人費(掲載費を含む)が高いではないか、というお叱りを受けることになるかもしれませんが、「表現し、掲載を目指す」という誌ならではの特徴を持つものですので、大規模誌と同列には比べられないという点を、いま記したいということです。そこには、先にも出しました「自前の編集という煩雑な作業」が存在するのですが、この方は見えにくい構造(特に、デジタル化は見えにくい)になっている、という事情があります。同人諸氏には、このあたりの仕組みを御理解いただければと願うものです。


 
書くため1205(2015.12.05)
 久しぶりに、俳句、俳句自由律の方に入り込んでみました。本来、最も好きなジャンルのものであるのですが、勘が鈍れば容易く入れるものではありません。普段読み流しているという程度では、リズム感や微妙な言い廻しになかなか入っていけません。
 甘く見るものではないですね。そのそれぞれに道がある訳ですから、ちょっと時間が空いたからやってみようなどとは、ゆめゆめ思わぬことだと感じました。
 かといって、散文に徹すべしだとか、韻文に徹すべしという言い方には抵抗を覚えるのですから、天の邪鬼としか言いようがないのかもしれません。


 
書くため1204(2015.12.04)
 海のことに、今日は手を付けない休日にしました。傍に置いている本を無作為に手に、読み始めました。なんと、海の用務のない日の静かなこと。あまりのことに、拍子が抜ける感じです。海のことに、こうも向かわされているというか、向かっているというか、離れるとこういう日々になるのか、と実感したことです。
 その海のことは、寝ていても頭の隅にあり、「ああしよう」「こうしたら」と自然と思いが浮かぶものです。同人費の新たな案は「ベストな考え方であるが、現在とはかけ離れすぎる」「現在の方式は、海のメンバーが30人ほどいた頃の考え方であり、今の状態では成り立たない=半分ほど書かない(掲載出来ない)ということを当て込んだもの」「新規の額は、世間に比べても妥当であるが、現行との差が大き過ぎる」「いく分の寄付が必要であるのか」などと考えるものです。


 
書くため1203(2015.12.03)
 「パソコンに体よく使われ 一日終わる」「電子情報の危うさ これがベストか」「電話でも手紙でもない メールという危うさ」「断固パソコンは使わぬと 吾も主張してきた」
 こういう句を作ったのは約20年前です。
 職場でパソコンか、ワープロかで論争し、パソコンは「劣る」と主張してきたものの、見事にワープロは敗北しました。その前は、ファックスでした。とにかく、24時間が忙しくなったのは、ファックスが登場し、パソコンが登場したことにより、仕事や用向きが知らぬ間に忍び込んでき始めたのです。油断のならない世の中になったものだ、と仕事のスピードが上がり、浮き足だってきたという感慨を覚えたものでした。
 それが、今やパソコン、スマホ等々を使いこなさねば話になりません。便利にはなりました。しかし、本当に油断の出来ない時間を過ごさねばならないことになりました。
 パソコンの機能の難しさ故に、我々世代より上になると、「わからない」「さわらない」となります。インターネットにメールなど、いくらお願いしても使ってもらえません。かく言う自分も、よくも悪くも、内容を知らないのですが、使わねばならない職場にいましたから、いく分かを囓っています。そのせいか、中途半端に使います。ですから、落とし穴によく落ち込みます。分からなくなり、長時間立ち往生します。
 今回のPDFの問題も、そこに穴があるということを思いもしなかったということに起因しています。分からないということは、非常に危険です。
 以前、現職のとき、「研究者一覧」なるものを全国の大学で一斉に作ったという時期がありました。冊子にし、それをホームページに掲載しようとしたとき、情報系の教員団から「それは危険だ」「特に個人情報の情報化には気を付けねばならない」という趣旨のクレームがきました。情報系の教員団だったら、情報化に前向きな考えであろうと思っていたら、「情報化は大きな危険を孕む」という主張で、驚いたものでした。
 今、その意味が分かりかけています。電子情報化したものは、意図しないままどこまでも流通する、ということです。
 使用しているワープロソフトの中の深部に書かれた名称が、ホームページにアップした途端、前面に出て来たというのが今回のトラブルでした。
 パソコンなど、情報機器の内部には、いったん入り込んだデータがいつまでも残されるというのですから、恐いものです。パソコンを用いてよからぬことなど出来ようもない、とは思うのですが、どこにどう情報が潜り込んでいるのか見ることのできない我々です。めったなことはオープンに出来ないという、恐れを感じつつ、日常的にパソコンに向かいます。
 油断のならないことになったものだ、と思うこと大です。マイナンバー制度や、パソコンでの商取引など、どこに何が潜んでいるのでしょうか。


 
書くため1202(2015.12.02)
 ホームページのことでは、担当の方にたいへんな迷惑をお掛けしました。多分、多くの気を遣い、時間を使ってくださったのでしょう。今回は、私の一方的なミスですから、迷惑をお掛けしたというより、担当の方は災難だったことでしょう。
 お陰様で、綺麗な姿に一変しました。心から感謝いたします。
 こうやって、多くの人々のお陰で、いろいろの製作をやっております。
 独りよがりはいけません。自分の価値観と、他の方の価値観は同じではありません。学ばされ、反省したこの数日のことでした。
 海の新たなフォーマットなどを考えています。考え、働き、工夫するということは、今の私にはとても必要なことなのでしょう。


 
書くため1201(2015.12.01)
 12月、師走です。海のことが少しの間手を離れたと思ったら、ホームページのことがありました。ワードのファイルをPDF化し、ホームページにアップして初めて分かる問題に向かうことになりました。
 これまで何度かワード文書をPDF化しホームページにもアップしてきたのですが、今回の事例には初めて出逢いました。ホームページのURLの前に、「水位」「曙光」という文字が出てくるのです。これはファイルに付けられたタイトルであろうと思い、プロパティを開いては消していたのでした。単にPDF化しただけでは結果は見えないのです。ですから、ホームページ用原稿として提出、そのアップされた状態になり、「妙な文字がある」とハッと気付く訳です。
 自分が作るホームページの方に先に出てくれていたらまだしも、他の方に作業をお願いするホームページで「奇妙な文字が出てくる」訳ですから、なんとも始末に困ったものです。モジモジしているうちに、同じフォーマットを使ったからか、ゴミの出るホームページが増えてきます。それも、IEなどのブラウザには出ず、私がいつも使っているfirefoxで出るという始末の悪さです。
 これ以上「ゴミ」を増やさないようにせねばと、消す方法を知ったのは2日前です。うむ、どうしようと悩んだものの、結局先方の担当者に伝えることになりました。先方の担当者も意味がわからない、ということです。IEのブラウザには出ないのですから。担当の方には、さんざん迷惑を掛けてしまうことになります。原因はわがファイルにあるのです。何とも頓馬な話ですが、結局担当の方の手を煩わすことになりました。本当に、本当に済みません。好意的にしてくださるだけに、申し訳ないことです。
 出来上がったホームページの45ものファイルの差し替えになるのですから、極め付けの迷惑な話を、持ち込むことになりました。まさに師走突入です。


 
書くため1130(2015.11.30)
 海第15号の原稿を2日かけて確認し、データに落とし、プリントした原稿とともに花書院に持参しました。ここまでが一山です。
 一週間後ぐらいに校正、その具合で印刷・製本と運ばれる段になります。
 さすがに、この段階までくると多少安堵します。後は、良い冊子が出来るのを待つ、ということになります。内容としては期待の持てる冊子になるものと信じます。今回ほど、真剣に取り組んだ号はありませんでした。というのは、一応の目算にして来た第15号という区切りになるからです。頁数の222という数字も、行儀よく見えます。
 ええ、その間には発送文書作成、ラベル作成、等々の作業が入ります。


 
書くため1129(2015.11.29)
 海第15号の総読み込みに入ります。読みながら、字句の誤りなどあればデータも直し、ということで6時から初め、0時30分まで行いましたが、今一つ足りません。
 明日は印刷所に出向く予定ですが、気に掛かる箇所を日を替えて確認した上で、持っていく方がいいでしょう。
 222頁という分量の厚さに焦ります。しかし、内容は良いものだと納得しました。
 わが電子書庫の「不要のタイトル」の消し方がやっとわかり、消去しました。


 
書くため1128(2015.11.28)
 井本氏の祝賀会です。まほろば賞、「フランス語で俳句」入選、詩集出版といくつものことでの祝賀会です。それにしても、日仏学館関係、文学関係、美術関係といった実に幅広い範囲の「文化関係者」が集う会でした。手作りの祝賀会という自由さもよい雰囲気を醸し出していました。異文化に飲まれそうになりましたが。
 はてさて、また難問発生か。海の原稿が手元に戻り、さて最終のチェックをしようという段ですが、次号の経費がらみの問題が。海はなかなか大人しくはいきません。


 
書くため1127(2015.11.27)
 2日間に亘ったゆるめのコメントを辞め、普通に行きます。
 さて、最終確認原稿が手元に集まってきました。いま、海はよい書き手に恵まれ、より質を上げようとしています。同時に量も増えています。そこで、より良い誌としての内容を保ち、さらに向上させるべく、全力をあげて作業を行っております。
 今後の展望を睨んだ「現状分析、課題整理、運営の改善」等の案も作成しています。第15号の刊行の後、創刊から第15号の刊行までをひとまずの区切りとして検討していくつもりです。海の「質を高めつつ、かつ、量の適正化を図る」というところです。
 懸案の会費の問題も、慎重に検討したいと思います。


 
書くため1126(2015.11.26)
 校正を依頼していた原稿が、無事に戻ってきました。後は確認の方の原稿待ちです。
 ガバと、それこそガバと、編集の現場のモロモロを書き出してみました。よくもまあ、いろんなことがあるものです。思い出したくないことは書きたくもないので、書いてしまうとナンダ・コンダと見えるのでしょうね。
 編集、編集作業、御用聞き、便利屋、よろず相談窓口、よろず屋等々と、書き出すと誰も引き受け手がなくなりますね。主宰もどきに会計も。ボランティアです。
 7年前が懐かしいです。知らなかったですよ、こういうこと。いやいや、これらは全てブンガク修行なのだ。頑張りたまえ、アリモリくん。本が出来上がったときの喜びは、他に替えがたいものがあるでしょうが。などと、ブツクサ。
 やれる人にはヤレルのでしょうが、アリモリくんは、不適格だな。と書いたのですが、そりゃあ不謹慎だわ、ともう一人のアリモリくんが睨んでおります。
 アリモリくんがやるにしても、もう一人誰かは必要ですね。
 何でか、昨日あたりから急にトーンが変わっています。IT化、IT化と草木も靡く。IT化って、アリモリくんの下手な句にも「電子情報の危うさ これがベストか」ほかたくさんありました。ベストなんて、そもそも世の中にある訳はないのですが。
 でも、しかし、なにをどう言ったって、良い作品を世に出すこと、これにはアリモリくんも、やる気満々ですよ。つまり、ボランティアが嫌いな訳ではないのです。こう書いてくると、問題は、やはりモンスター「IT化」ですね。編集作業がIT化された(世の全ての仕事がそうでしょうが)ということが、コトを難しくしていますね。難し過ぎです、ホントに。


 
書くため1125(2015.11.25)
 こちらも「感情の動物だぞ」と叫びたくなる、そんな感じですね。
 編集作業人兼、主宰もどき兼むにゃにゃというのは、表掃除、裏掃除をやっている途中、ケンカがあれば前に出、ボヤがあれば後ろに下がり、難しいことに頭を四角にして考え、難しくないことはそれなりにやり、得体の知れない獣らしきものが現れればまた表に出、上向き、下向き、右向き、左向き、斜め向き…踊ってるんではありませんよ。
 結局やれるやんか、と結果はそう出たとしても、途中はいつもぬかるんでいるのであります。こんなこと、ボヤク相手が、ロボットでもいいから、誰かいないものでしょうか。
 なんのことでしょう。好きでやっとるんじゃから、でオチという訳です。そうそう、本音を言うのはタブーだったんです…かあ…。また、表掃除に、裏掃除を…。
 でも、作品は抜群なのです。救いは、唯一これです。
 あとは、文芸福岡とやらの校正をして、送付しました。


 
書くため1124(2015.11.24)
 海の連絡掲示板に、暗めのことばかりを書きました。うーむ、というものです。
 作品内容は高いレベルを維持している。これは望ましいところですが、経費の面の厳しさに見舞われています。お前までも「金か」という情けない感慨です。
 その金がないと、編集自体がたいへんなのです。今はIT化して見えにくくなっていますが、IT化したからこそ作業が大変になりました。
 IT化というものは、気持を籠もらせ、晴れなくさせる弊がありますね。


 
書くため1123(2015.11.23)
 この一月ほどの間に溜めた本が、回りを埋めています。志賀直哉、星新一、尾崎紅葉、李白、杜甫、ル・クレジオ、村上昭夫、鮎川信夫、吉岡実、伊東静雄、村野四郎、金子光晴などの本に、出口がないほどに囲まれています。
 このところ、全然読めていません。
 今日も、海第16号以降の同人費の額についてシミュレーションをしてみましたが、人数、執筆頁数が変われば変動することになりますから、正解に近い数字が出ません。
 一方で第15号の経費面の問題が見えています。この号まで進み、書き手が揃い、評価が上がってくると、これまで静観していたメンバーの筆力もアップします。内容的には非常に好調に進む中、経費の方ではピンチを迎えています。となると、海レベルの他誌の方法などをも参考にし、これまで実施に踏み込まなかった「執筆による実績主義」を採用しないことには、落としどころが見付けられなくなってきました。
 そんな資料を作り、12月の準備にも入っています。同人には、かなりの動揺があるのではないだろうかというときの、当方の覚悟も込めてということです。


 
書くため1122(2015.11.22)
 WEBで原稿の最終確認を依頼していた委員から、結果が寄せられました。
 この14号から15号の間に、何か動揺が起き始めていやしないか、と感じます。それは文化の違いの問題であり、経済力の違いであるのでしょう。
 これまで会費制という形をとり、多量執筆者の援護を重ねてきましたが、今回の200頁を大きく越えるという事態になれば、手当がかないません。ここは涙を飲んで、これまで実施してこなかった「実費主義」の方に切り替えるというしか手はなさそうです。書かない人にも、多く書く人にも配慮した方法は、もうこれしかないのでしょう。
 同人の誰かが編集の直接の作業を行うという現況では、人数の増減に気を使います。30人も100人もの人を集めるとなれば話は別ですが、今の体制だと20人以内がよいところでしょう。もしそれを越えるようだと、運営方法を根本から変えねばなりません。
 それより、校正依頼中の原稿が、頁の増減なく早く帰ってくることを願うところです。


 
書くため1121(2015.11.21)
 海第15号の全作品をプリントアウトし、確認担当の委員に送付しました。同時に、WEB上で担当してもらう委員にも送信しました。
 今回の222頁で考えたことは、以前から考え方としてはあった「実費主義・実績主義」を現実のものにしなければならないかも知れないということです。現在の方式は、誰かが書かないだろうという経験的な実績をあてにしてできている会費制です。
 しかし、海が活気づき、多くのメンバーが書くことを始めると、その実績分をいただく、ということにしないことには、「足りるだろうかどうか」というハラハラが拭い去れません。
 この方法の欠点は、これまで額を低めに押さえてきた分量の多い執筆者の負担が一挙に増えたかたちに見えるということです。逆に、書けなかったメンバーは相応の低い額の運営費の方の負担をしていただく、ということになりますが。さてどう進み行きますか。


 
書くため1120(2015.11.20)
 昨日送られてきた小説100枚の割付をし、作者に関係資料をプリントし、校正依頼をしました。第15号の目次も作成、222頁を数えました。
 200頁越えというのは初めてですから、ちょっと張り切り過ぎかなと思わないでもないのですが、最後のまとめの時、わが作品を多少削除しました。
 今の陣容のほどが続くなら、200頁で収めるということの方が無理な相談であるのかもしれません。そこで、実費主義という以前から提案されたまま日の目を見なかった会費額(運営費+執筆実費)という考えです。こうすれば、書けば一定の額が必要ですが、書けないときは少額で済むという、通常の誌が取っている方法です。
 が、さてどこがどうなりますやら、第15号を発行しての相談となります。


 
書くため1119(2015.11.19)
 海第15号の最終原稿と思われる、小説100枚が送られてきました。これで安堵したというか、妙に落ち着いたから不思議です。中途の150頁あたりのときが、一番息苦しかったものです。予想どおり200頁を越えました。
 それでは割付に掛かりましょう。1日を要しますね。


 
書くため1118(2015.11.18)
 海の原稿が届きました。割付をして、郵送で校正依頼をします。
 今後の海の運営のことが気になり、5時に起きて資料を作りました。多少の人員の増減や頁数の変動にも耐えるには、どうすればよいか。
 シミュレーションを何十回やったことでしょうか。これだ、という決め手がないのが難しいことを、ますますわからなくさせます。


 
書くため1117(2015.11.17)
 内科には、さすがにタクシーで行き、点滴をしてもらいました。文字を読む段ではありません。目が回っているのですから。
 今号と、次号のことを併せて考えるということで、最近さすがに疲れました。
 今日は、届いた原稿2件を割り付けし、郵送とメールとで送付しました。今日のところは、これにて御容赦を。


 
書くため1116(2015.11.16)
 海の原稿締切4日前です。もう今のままで、十分発行できるだけの内容の原稿が揃いました。あとどのくらいになるでしょう。
 風邪具合の中、小休止と行きたいところです。今回は、原稿量の多さと、経費の掛かり具合とを考え、いらぬ心配もあります。
 第16号からの、運営の見直し、同人費額の見直しなど、問題が多くあります。
 1冊が1センチを越えると送料はどうなるのかを花書院に確かめたところ、1部送付の場合は100円で、2部送付の場合は別の方法で送付200円でということのようです。ですから、3部送付の場合は1部と2部に分け、5部送付の場合はまた別の方法で、となるようです。少しずつのように見えますが、高くなりますね。
 ※2センチ以内だと、1つの封で送れるのだそうですが。


 
書くため1115(2015.11.15)
 作品が入ってきましたが、まだ未着がいくつもあります。それはそうで、11月20日が締切ですから。この号は、出て来たものの量を制限せずに作成することになるのでしょう。いったいどれだけの量になるのか。
 それを案じても仕方がないのですが、ちょうど全ての切り替え時に当たるので、根本から考え、資料を作らねばならないのが、難しいです。
 まあ、やるだけやれば何とかなるのでしょう。


 
書くため1114(2015.11.14)
 他は手が付かず、海の同人費をどうするかのシミュレーションを、まだ扱っています。簡単に結論が出る訳ではなく、かつ、他誌の情報も得ています。
 海は、多くを自らの手でやらねばなりません。この機に、それを書き出してみました。実に、編集者、印刷作業員、営業担当、責任者、会計担当の顔まで持っています。
 どうりで、重たい筈です。


 
書くため1113(2015.11.13)
 写真コピーが送られてきたので、スキャン、切り取りの上、関係のあるであろう箇所に挿入。しかし、慣れないことで、横書きの写真説明がうまくいきません。
 こんな場合は、インターネットで「ワード 写真貼り付け 写真説明」などと検索し、なんだかんだと試しながら、やろうと思えばなんとそれらしきことが出来るものです。ほぼ1日を費やしましたが。これは読者の要望ですから。


 
書くため1112(2015.11.12)
 海の委員に第15号の現況の報告をし、第16号以降に必要と思われる打合せ案をそれぞれに送信しました。創刊以来の、打合せを持つべきときに来ました。
 この間、それなりに評価を得て来ましたが、編集がマンネリになっていることと、執筆が旺盛になったこと、それに伴う適正会費額の設定等々の問題が出てきました。
 創刊時から見れば、約2倍の構成員になったとはいえ、依然少数です。その少数のうちに、多くの有能な書き手が集ってくれています。この機運を下げることなく、編集も、妥当な会費の額も定め得ないことには、せっかくの機運に水を差すことにもなりかねません。いうなれば、大きな岐路にあるのだと思われます。
 海の行く手を塞ぐことなく、広げて行く、これが問われています。


 
書くため1111(2015.11.11)
 海の原稿のことを毎日書いていますが、どんどん予想枚数が膨らんでいきます。
 今回の第15号で一応の区切りを付け、反省事項を出し合った上で第16号に進もうとしていたところでした。ヤマトのメール便の廃止に伴う送料の増や、近まる消費税増にも対応するための同人費の改訂をしなければならないときでしたから、タイミングとしてはよいのですが、適正な額の算出に苦しみます。基本負担分を何とか落とそうとするのですが、少人数という弱さ、どうしても適わない感じです。
 次は、できるだけ負担の平等をと考えてきた執筆料ですが、22頁まで12,000円という額が苦しくなりました。これは、執筆されない方のお陰を当てにしていたものですが、発表が活発になったため、この1人12頁という算定が成り立たなくなってきました。現在の額のままだと、100頁が適性ラインですが、今号の第15号は240頁をにらむところにあり、この「全て掲載する」という前提にも歯止めを掛けねばなりません。
 10数通りのシミュレーションをしてみましたが、この人数が変数であり、執筆数が変数であるというものに「正解」は出せないということが分かりました。では、妥当な線はどこか、です。多少の変動に絶え得る線、しかもこれまでと極端には変わらない線、となると息が切れます。数学の得意な人、どなたかおられませんか。


 
書くため1110(2015.11.10)
 海の原稿3作品ほどを済まし、ちょっと合間ができそうな気配です。まだ、主立ったところが見えていないので確たるイメージは出来ませんが、今号がこれまでで最も充実した誌になりそうな気配は感じられます。
 小説6編という見込みですが、これだけ出ると逞しさを感じます。海の作品には、老いを嘆くという内容を主にするものはあまりなく、今が青春という雰囲気さえ感じられます。今なりの今、これこそ充実に繋がるのではないかと思います。
 全作家の書庫に、原稿を提出しました。


 
書くため1109(2015.11.09)
 運営のための資料作り。これが、なかなかうまくいきません。難し過ぎです。海では、誰もこんなこと考えている人、いないし…。
 といううちに、原稿が入り、割付、細部までの読み。何やってるんだろう。自分の時間など、ありません。そう、断言しないと。何とも辛い先行きでもあるし、突き抜けた先の喜びも遠くに見える感じでもあります。受贈誌も来ました。


 
書くため1108(2015.11.08)
 今日も海の原稿に追われました。だんだん状況が変わり、どうかしたら230頁半ばまで行くのかもしれない、と腹を固めました。なったときはなったときです。
 幾つも作ったシミュレーションも、この状態に対応出来るのだろうかと、心細くなってきました。編集も、手強くなってきました。どういう場合を想定すれば適切であるのか、なかなか読めないものです。


 
書くため1107(2015.11.07)
 海の原稿を、ずい分読みました。WEB上で読むもので、とても疲れます。
 今度の号は、読み応えがあります。分量もですが、内容もしっかりしています。小説が6編以上出る模様で、今の段階で概算してみたら、200頁を越えるかも知れないという怯えに変わってきました。足りるかな、という怯えです。
 第16号からは、今の状況を考え執筆量により0円〜6,000円程度の増のシミュレーションをしました。一方で、26文字×23行というところを、26文字×26行にし、ポイントを9.5から9.0に落とすというものですが。はたして、両面作戦がなるかです。


 
書くため1106(2015.11.06)
 1日中、海の作業でした。原稿の方は届き次第割り付けをし、作者に校正をお願いします。かなりの厚さになりそうで、少しヒヤヒヤしてもいます。
 同人誌費のシミュレーションを、何通り作ったことでしょうか。構成員数、執筆予想、それらの数値が動くものを算定する訳ですから、難しいですね。多分、この算定には正解というものはあり得ないものなのでしょう。
 そんな慣れないことをやります。作品の方も難しいですが、数値を想定していわゆる会費額を出すというのは、私のごとき頭では歯がたちません。しかし、いろんなことを経験するものです。なにせ、人間社会一般を相手にする稼業です。会計という一番難しいものに直面しなければならないとは、有り難いというか、酷な話です。


 
書くため1105(2015.11.05)
 作品が届きます。いいものが多いですね。かなりの厚さになるのかもしれません。
 途中で、同人費のシュミレーションを数通り作りましたが、結局現況に近い考えによったものになるのでしょうか。あまり激しい変化は好ましくありませんし、海には海の手法が出来ていますから、とんでもない変更は無理か、と思いかけたところです。
 作品としていいものを出す。これが最も肝要ですから。


 
書くため1104(2015.11.04)
 新規加入の方の作品など、作品が寄せられてきます。うまく対応したいと思うのですが、毎回新手の問題が出ます。
 多すぎる種目を減らすこと、種目の中の作品を絞ること、これが今号に与えられた課題です。経費をどう変えて行くか、という問題も併せて考えねばなりません。
 これらの事項に目安をつけながら、やはり高度の作品を発表する。これが最も大切ですが、今はどうも運営の方にばかり頭が行っています。
 一点でも、二点でも、対外的に認知され得る作品、自らも手応えのある作品、これが必要になりますから、あまり外野席の声を聞くばかりでははじまりません。良い作品が集まり、良い作品が掲載出来る場にしなければなりません。


 
書くため1103(2015.11.03)
 海原稿が寄せられてきます。うまく対応せねばいけません。風邪で、神経質になっているのかもしれません。上手にこなしている、とは言えない状況です。
 委員に意見を求めた件もあります。何度やっても、難しいものです。


 
書くため1102(2015.11.02)
 書くために、今は読むことにします。読む時間も必要です。
 井本氏の祝賀会の通知がきました。11月28日だとのことです。


 
書くため1101(2015.11.01)
 何もかも放り出し、ダウンです。活字を追うことも辛いですね。
 頭が痛く、肩が凝り、胸苦しく、寒く、神経が痛みます。いけませんね。


 
書くため1031(2015.10.31)
 全作家は読み通していたのですが、とうとうダウンです。思うにまかせない、この情けなさです。誰に文句を言うでもないのですが。
 風邪薬の飲み過ぎで、これも何ともいけません。集中力が出ず、ぼんやりしています。明日からは11月、何とかしなければの思いです。


 
書くため1030(2015.10.30)
 ようやく全作家の通し読みをしました。まだ浅い読みですが、これで臨むことになります。午前中は頭がぼんやりしていましたが、やや、ええ、やや戻ったかなというところです。風邪薬を飲むと、もともとぼんやりしている頭が、余計ぼんやりします。


 
書くため1029(2015.10.29)
 全作家作品を読む予定が、全作家書庫に資料を送ることを先にしてしまいました。
 本気で、全作家を読まねばなりません。この間、いろいろ家族内のトラブルがあり、なかなか集中出来ませんでした。この雑音が辛いです。
 齢70近くになり、努めて集中しようとしているのに、人間というものはややこしいことばかりを思い立ち、他にも強制します。(家族の問題です、これは)
 どこか、仕事部屋でも作らないことには雑音から逃れ得そうもないのですが、そんな非人情もいけないと思うことだし、第一私がやろうとしていることは「遊び」と言われてしまうのですから、「その遊びに没頭したい」ものですが、「親孝行の形を競ったりする」レースから、どうしたら避難できるのでしょう。
 やはり、非人情に徹することぐらいしか、今は思い付かないところです。「芸術的遊びと非人情の仕組み」という大論文でも書きますか。


 
書くため1028(2015.10.28)
 全作家の作品を読まねば、と思うのですが体調が今一つです。
 根保氏にお礼のメールを作りかけて、途中から点滴に行き、帰ってそのまま出したら、何と評を書いてくださっており、たいへん失礼なことになってしまいました。
 こういうチグハグをやっております。


 
書くため1027(2015.10.27)
 海の作品の割付などをしていると、田舎の騒ぎが何とも愚かなことに思えてきます。何で、子供を我がものとしか見れないのか。そこに全ての原因があるだけに、騒ぎの当事者の行為が正当化されそうな(少なくとも田舎では)気がします。
 これでは、不平不満をかこつばかりで、見栄に生きるしかないのでしょう。その見栄というものを錦の御旗に立て、という仕組みです。
 作品では人物がいろいろな動きをしますが、そんなことを凍らせてしまいかねない無知が支配しています。決してこちらが無知ではないなどと言うつもりではないのですが、明治以降何一つ変えようとしない家、我慢が、果たして美徳であるのでしょうか。
 美徳ではない、生活だ、ということなのかもしれませんが、子の腰を、手を足を、頭の中まで縛り付けて、見栄を張らねばならない「もの」とは何でしょう。
 私など、お尋ね者であり、変人であり、裏切り者であり、背徳者であるのでしょう。まさに芸術に魅せられると、こういう道を辿ることになりますね。


 
書くため1026(2015.10.26)
 高岡氏の作品を割り付け、校正に出しました。原氏の原稿も入りました。
 割付には、結構時間を使うものです。しかし、これは心地良い時間です。
 海の誌で精一杯の作品を発表し、その結果を受け止めてもらえれば、同人誌の半分の役割は果たせるのだと思います。
 あと、養成だの引き継ぎだのという面もありますが、この「発表し」というところが成されないことには、どんな議論や巧言や論争をなしたとて、空しいでしょう。
 これらの全てが成せれば万歳ですが、万歳の向こうに、また道があります。
 道は果てしなく続くでしょう。ですから、その一駅一駅で喜びを得て、また次の旅への出発になります。人生もブンガクも芸術というものも、皆難しい旅なのでしょうね。


 
書くため1025(2015.10.25)
 一気に手元が忙しくなりました。井本氏の「トッカータとフーガ」(季刊午前第51号)が「第9回まほろば賞」に決まったとのことです。井本さんの快挙が続きます。
 高岡氏から、5回連載になる予定の作品原稿が送られてきました。
 作品が見えてくると、目標が定まり始めます。さあいざ、という気分です。
 小説と詩と評論の方の校正原稿を、返送しました。


 
書くため1024(2015.10.24)
 今日はこの欄は実質お休みですが、壱岐から帰ると、校正済みの原稿が届いていました。ちょっと異質な空気に触れてきたので、少し戻るのに時間がかかりそうです。


 
書くため1023(2015.10.23)
 新規の入会希望があり、嬉しいことです。委員に照会したら、異議はないとのことで、早速入会の連絡をしたり、資料を作ったりしました。
 こうやっていても、なかなか新規の入会の方にはお目にかかれないものです。数ある誌の中から海を選んでいただくということは、何かの御縁があるのでしょう。
 はてさて、原稿受付を開始しましたが、届いたのは私の原稿と、私が整理している遺稿と、詩と画というところです。事務的な資料も出来ています。
 どういう内容の、どういう冊子になるのか、期待したいところです。
 あんなことこんなことの方で、詩が生まれそうだということを書きましたが、そんなときのために、詩や句のノートを作ることにしました。勿論小説もです。どんなときにどれを書くか、それは私自身にもわかりません。拾ってくる感じですから。
 

 
書くため1022(2015.10.22)
 文芸フリマが、今日の西日本新聞の文化面に大きく扱われています。確かに、市場の問題を抜きにしては語れませんが、「売る」という行為に違和感を抱きます。じゃあ、売らないのかと問われれば、「売らない」と答えます。
 われわれがやろうとしていることは、文を売ることではありません。若かろうと、老人であろうと、問題外です。売ろうなどと考えている人は、海には必要ありません。
 文芸フリマに参加しなかったのは、そのことにつきます。「タダで配る」であれば、多少は心が動かされたのかも知れません。
 全身全霊を傾けてやっていることを、売るという行為で「売る」ことは出来ません。それが、ブンガクという類の恥を晒していることの報いだと思います。
 それに、大学は西南しかないのか、九大しかないのか(今日は登場していませんが)という姿勢に、メディアの劣化を感じます。


 
書くため1021(2015.10.21)
 2点を投稿しました。1点の場合は、プリンタが掠れてしまい、全ページに亘りボールペンで直しを入れたりと、苦戦しました。最初に紙を巻き込んで、インクの出が悪くなってしまったのです。こんなことなら、インクのノズルチェックを済ましてから印刷すべきだったんですね。まあ、これも運だと思いましょう。
 そんなことで、結構修正に時間をとられてしまいました。お陰で、3度読み返すことになったのですが。自分の作品でも、1度ぐらいでは何を書いていたのか忘れてしまっています。というと、キザになってしまいますが。


 
書くため1020(2015.10.20)
 たまには投稿もと、準備しました。これも結構疲れるものです。当たる訳もないのですが、こういうチャレンジも辞めてしまってはジリ貧になりますから。
 宝籤を年に1、2回買うの類です。まだ若いつもりで、競争の中に入り行きます。
 詩と句を読んで、終わりでした。風邪と寝不足が響いて、いけません。


 
書くため1019(2015.10.19)
 週明けの恒例となった、電子書庫関係の原稿を送りました。週明けはあまりよろしくない選択で、事務局の忙しいときでもあるのにと思うのですが、当方も何日も抱えているのも重く、習慣となってしまいました。改めて、Nさん申し訳ありません。
 井本氏の半生記「瑠璃の陸橋」の出来映えに、本当に驚かされました。苦労はされていますが、生まれ付きの芸術派だと思います。情に篤い親分肌だと見える氏であるのに、ナイーブな神経、博識、博学、社会経験の豊富さ、繊細さに感心させられました。
 それに比べると、私などまるで世間を知らない、駄々っ子に過ぎないですね。
 海の問題点など整理し、会費の仮計算などするのですが、この計算ばかりは根拠を明確にすることが出来ないもので、結局現状との比較になってしまいそうです。


 
書くため1018(2015.10.18)
 季刊午前に、改めて見入ることになりました。綺麗ですね。素人のダササがありません。それは、北川氏が志れた誌ですからねえ。
 これを比べてF氏が「見習うべき」だと言われたのですね。確かに、無駄がない、絵も、スペースも上手に使ってあり、玄人の誌ですよね。構成員にも、構成員数にも恵まれています。かつての海も、こんな時期があったのでしたが。
 昨夜、電子書庫用の整理をしていましたら、遅くなってしまいました。
 李白も、杜甫も届きました。詩集の数冊、漢詩、欧州の詩など、しばらく詩の中に暮らすことになりそうです。
 また、「現代の秀句」(1976年版)を、わが本箱から取り出し眺めていたら、よい句がたくさんあって、印をいくつもつけています。あれは、もう40年前ですか。


 
書くため1017(2015.10.17)
 俳句に絞ってみました。わが句ではないのですが、俳句も本当にいいものです。細かいところが書かれていないところが、深みを感じさせます。想像力をかきたててくれます。詩もいいのですが、よい俳句の切れ味には適いませんね。
 詩集なども、村上昭夫、谷川俊太郎、鮎川信夫等々を読んでいますが、村上昭夫にはかなり惹かれるものがあります。
 李白、杜甫の詩集なども届き始めました。今は、詩句の中に埋まっている感じです。ここから散文の世界に移るには、少々時間を要します。


 
書くため1016(2015.10.16)
 海の、当方の準備はほぼ終えました。原稿の出を待つことになります。
 この間、電子書庫の整理をし、新たに短編、詩などを書くことになります。全作家の通し読みも必要です。手元に届いている本も読まねばなりません。
 日本文学振興会に、海からの推薦分の手続きを行いました。


 
書くため1015(2015.10.15)
 原稿の打ち込みが続きます。遺稿ですから、どこからでも始められるのですが、肝心のところが散逸していたり、尋ねてみたいところが不明だったりします。
 仕方がないので、打ち込む側の推測を働かせて、本人の筋書きに合うという辺りを少し想像し、手を入れます。
 最後のあたりが見当たらない、というのが一番残念です。なにしろ、段ボール箱一杯あり、それも原稿用紙に書いたり、広告の裏に書いたり、とんでもないところに離れていたりするので、一作をまとめるのが大変です。しかし、よくもまあ、あの高齢になって書いたものだ、とまず感心するところから作業が始まります。


 
書くため1014(2015.10.14)
 データを当方で打ち込んだ作品をメールで送り、郵送も併せてしました。うまくいけばいいと思います。とにかく、作品を書くということは、内容がなんであれ敬意を払うべきことだと思います。
 編集作業の何が大変なのかというと、原稿受付がスムーズにいかないということ、細かいイラストの貼り付け作業などに時間をとられるということ、連絡がスムーズにいかないということ、特にメールでのやり取りの仕方(添付ファイルの扱い)がうまくいかない、あるいはメールを取り入れてもらえない、ということが主です。
 メール、メールと言えば関係者を責めるみたいですが、なかなかおいそれとはいかないということが分かってきました。せめて、メールアドレスなりを教えてもらい、閲覧することだけでも協力してもらえたら、意思疎通がかなり容易になるのですが。海第二期は、情報伝達を電子情報を用いて行う、と当初の目標に置きましたので。
 データさえ集まれば、作業そのものは難儀しませんので、対人関係でかなりの労力を用いるということです。どんなマニュアルを作っても、乗ってもらえないことには始まりませんから、これも相互が遠方に離れているということと無縁ではないでしょう。
 組み方の方は、特別なビジュアルを目指さなければ、大丈夫でしょう。


 
書くため1013(2015.10.13)
 掌編小説を送りました。
 海の詩の方も、大方のかたちを作りました。もっとも、見直しが必要ですが。
 その他、出来る準備はしておこうと思います。メールでのデータのやり取りがうまくいきません。CDでのやり取りも、たまにはうまくいかないことがあるものです。
 こうなったら、打ち込みです。後はなんとかなるでしょう。


 
書くため1012(2015.10.12)
 ようやく掌編を纏めました。ほぼ纏めました、という方が適切なのですが。
 次は、海の作品です。小説は粗書きを終えましたから、もう少し読み込む必要があります。俳句は発表しません。俳句は電子書庫の方にのみ出そうと思います。それだけに、余計疎かにはできません。
 要は詩です。この間、詩の本などを幾冊か読みましたが、容易く変われるものでもありません。読んで、熟成させ、果実になるのはまだまだ先のことでしょう。これまで書いてはきたのですが、どこをどうするとも、新しい手法が見えたとも、いえません。詩ほど甘くない相手はないと思っています。ただ、詩文の方は松本西夏名で書いてきましたが、海の方の多作を止めることもあり、詩文も有森でやり始めたいと思います。
 海は今後、「小説と詩」を発表する場としていきたいと思うものです。


 
書くため1011(2015.10.11)
 海第15号のための資料整理を、まず行います。
 海のわが原稿も、再度チェックしなければなりません。
 全作家の短編は、今日こそ仕上げたいものです。新しい何かをと考えていましたが、どうもうまくいきません。やはり、これまでに3割なりに手を付けたわが資料の中から選び、仕上げることになります。
 なかなか、今すぐにとはいかないのが素人である所以です。


 
書くため1010(2015.10.10)
 昨日整理した書庫の微修正と、HPの小さな見直しをしました。
 海第15号の受付期間が近まってきましたので、資料作成(海第14号作品について等)を始めました。これから、約1か月半は海の仕事をすることになります。海についての説明や、受贈誌等の整理もする必要があります。
 海の運営等の見直しを第15号発行後に行う必要がありますので、作成する資料の内容もこれらを想定したものにする必要があります。


 
書くため1009(2015.10.09)
 1日を費やし、電子書庫の整理をしました。本当は新しいものに掛からねばならないのですが。こう散らかっていては、気持が落ち着きません。最近、メールを出す際、日付を書き間違えたりすることが多いですね。何となく気付き、後で冷や汗です。
 文学街、文芸思潮の主なところを走り読みしました。


 
書くため1008(2015.10.08)
 谷川俊太郎を3冊読み、村上昭夫を読んでいます。まだ感想を言える段階ではありませんが、どうして40年近くも詩人と言われる人の詩を読まなかったのだろうと、悔いています。しかし、谷川俊太郎の詩の解説にもあるように、「少年詩人の目をつつんでいたのは、絶対的な孤独感だったと思う。(中略)人はひとりで生まれ、ひとりで死ぬ。と気づいた時に、宇宙は一気に近づいてくるのだと思う。宇宙空間にひとりぽっちの自分がはっきり見える。その目を向けると、日常世界は透明感を増して、生きることの「かなしみ」につつまれて見える。人生のひととき、少年たちは自分の「存在」という命題をかかえて、小さな哲学者になる」(「二十億年の孤独」解説・山田馨)という説明は、まさに私自身の過去を言い当てられたと読み違いしてしまいます。
 要は、谷川俊太郎の詩そのものが「よいのだ」ということなのです。
 谷川俊太郎の「世界への睦言」(「夜のミッキー・マウス」に収録)の一節、「星々は言葉をもつ 宇宙を文脈として/大地もまた 懐かしい無言のうちに/火も水も木々も風も言葉をもつ/ヒトが話すことも書くこともできない言葉を//だがその言葉をヒトは聞くことができる/君の耳をかりて(後略)」という詩もあるのですね。
 もう少し、せめて10年早く読むべきでした。
 それに、どこかに「人間関係のことにはあまり興味はなかった」といった意味のことが書かれていたのだったなと、今探すのですが、見付かりません。


 
書くため1007(2015.10.07)
 海の原稿受付を前に、海の諸問題について書き出してみました。運営の改善のことが第一ですが、ヤマトのメール便廃止による送料の値上げ(多分)や、1年先の税率の上げに対する会費の問題が、弱小の団体には痛く響きます。
 とにかく、会費には適正な算定というものが難しく、流動性が高いものですから、弱い計算を何度も何度もやり、疲れました。
 他誌など、編集その他をどううまくこなしておられるのか、聞きたいものです。


 
書くため1006(2015.10.06)
 詩の森文庫の「現代詩入門」、その他詩の関係書を読んでいます。この40年近くの間に、詩がどう書かれてきたのか、興味あるところです。
 果たして、生活詩でないといけないのか、という興味もあります。
 海入会希望者には、今日回答を送付しました。
 何やかやと苛立っていたのか、掲示板にはかなりの調子で書きたてていましたが、言いたいことは「海が個人のものになってしまっている」ということです。この個人というのは「私個人」ということですが、少なくとも当初は会計ぐらいは分担していました。この全てを握り込むということのまずさは、いけません。何かいい方法を考えねばなりません。第14号発行後に検討を行いたいと思います。


 
書くため1005(2015.10.05)
 詩の森文庫の「現代詩入門」(大岡信・谷川俊太郎)を読んでいます。詩の解説書を読んだことは、40年近く前の「詩学」「現代詩手帖」あたりでしたから、なんと長い間遠ざかっていたことだろうと思います。
 私にとって、詩が最も基本となるものです。いまの不明の点を、必要とすることを、何とか調べられるだけ調べ、学びたいと思うものです。


 
書くため1004(2015.10.04)
 あれやこれやで、海作品の方は中途休憩の状態です。なかなかデータでの原稿提出というラインが、完璧にはいかないようです。大方の協力は得られていますが。
 ならばと、電子書庫の方の整理をとなり、短編2編、詩10編、俳句自由律ときて、俳句定型もと欲を出しました。拾い集めれば定型もかなりある筈ですが、散逸してしまっているものと思われます。短歌も同様です。
 この30年は、小説を中心にやってきましたが、これとて体系的に説明し、一定の評価をいただくには遠いものです。
 いろいろやり過ぎると、自分が何者かわからなくなってしまいます。電子書庫も、風呂敷を広げるだけ無駄だ、という声も自分の内にないではないですが、小説、詩、俳句自由律、俳句定型までは整理してみたいと思うものです。
 逆に、エッセイはどこにも出しません。自分に密着し過ぎるからです。また、評論は書くことが出来ません。論理的に書く力量がないからです。


 
書くため1003(2015.10.03)
 若干のゆとりが出来たと思ったら、海の原稿が集まり始めました。ところが、CDにデータが入っていないというものです。急いで連絡を入れました。
 新規入会希望者の資料も。データではないので、委員にスキャナで読み込んで配布し、検討を依頼中です。なかなかデータ化の協力は得られないものです。
 それやこれやで、今日行う予定のものは何も出来ていず、まあ仕方がないかというところです。同人誌には、個々の同人誌の特長もあり、どうしたものやらです。
 文連からの問い合わせ、全作家関係の連絡等、済ませました。


 
書くため1002(2015.10.02)
 全作家第99号が届きました。陽羅、野辺各氏による美倉さんの弔文には泣かされます。本当に淋しくなりましたね。野辺氏の編集後記『石川氏が「ああ、健さん、起きろよ」と小声で言い、すすり泣いていた』というくだりが堪りません。
 エッセイでは、橋氏の全作家に久しぶりに出られた7月の会の模様が書かれていますが、ハートの底から信頼しあえる仲間が集う場、という感想に心惹かれました。
 久しぶりに天神に出、TSUTAYAに寄ってみたのですが、目指す詩集には出会えませんでした。やはり、アマゾンでということになりそうです。


 
書くため1001(2015.10.01)
 海掲載予定の小説約70枚を、プリントし読みました。1回目の修正は終えましたが、また日を置いてやる必要があるでしょう。
 海入会希望の人から電話があり、短い参考作品を出してもらうよう伝えました。
 注文していた詩集などが届きつつあります。丁寧に読んでみたいと思いますし、電子書庫をやっているのだから、やはり詩も小説も「読む、書く」「もう少し作品に責任を持てる状況を作る」ということを、真剣に考えます。


 
書くため0930(2015.09.30)
 電子書庫の原稿を作成し、送付しました。掌編2編、詩9編です。
 書庫のレイアウトも整備してもらいました。
 全作家第99号の発送日だったとのこと、Nさんまたまた申し訳ありません。同文芸時評に2人の作品が紹介されました。この第14号は、なぜか今一つ評に縁がなかったという思いがありますので、少々ほっとしました。
 海掲載予定の作品もプリントし、読み込んでいます。


 
書くため0929(2015.09.29)
 届いた詩集などを読んでいます。高見順、立原道造、山村暮鳥、三好達治、八木重吉、草野心平、田中冬二、石垣りんなど、なかなかいいですね。萩原朔太郎、中原中也は勿論です。ただ、現代詩の、鮎川信夫ほかを読んでみたいものです。
 絶対文感をめぐり、数度メールのやりとりを行いました。


 
書くため0928(2015.09.28)
 文連の20枚、ギリギリになって出しました。冷や汗ものでした。
 詩集などを追加注文しました。詩のことが(も)分かっていないため、じっくり読んでみたいと思います。現在の私は、萩原朔太郎、中原中也、北川冬彦のほかは、細切れに詩文を囓ったばかりですから。
 村上昭夫、鮎川信夫、吉岡実、伊東静雄の詩作品に、現代詩についての対談集など10点ほどを注文しました。詩にしたい、という衝動ばかりはあるのですが、これらは我流に過ぎません。我流といえども、詩の作品集の斜め読みで得たものなのですが。
 考えてみれば、詩人、作家の生き様にまで迫ったということは、石川啄木、尾崎放哉、深沢七郎、三浦綾子等数名に過ぎません。もう少しは、深めねば話になりません。


 
書くため0927(2015.09.27)
 20枚を取り急ぎ書き殴りました。これから詰めて読み込む必要があります。なにしろ、9月末が締切なのですから、大急ぎの仕事です。
 最近詩や、句に興味があります。もともとやっていたものですが、これまた自分本位になっているのではなかろうかと思うものです。どなたからも手ほどきは受けないままですから、自分で読み、感じ、会得するしかありません。


 
書くため0926(2015.09.26)
 どなたか存じませんが、ローマ字入力の表が正しくないとの御意見をいただき、ありがとうございます。なるほど完全ではないようです。しからば、どれに差し替えるかとなると、それぞれ内容が一致していないようで、こうなると幾つかを列記しないといけないのかもしれません。いくつかにリンクするという方法になりますか。
 今出ている表も、逐一試したわけではありませんでしたので、漏れがあったようです。気付きませんでした。当時、PDFとして独立しているものの1つを、利用させてもらおうとしたのでしたか…。方法を考えねばならないようです。しばし、お待ちくださいますか。それとも、外した方がよいのかもしれませんね。
 詩を注文したところ、明治、大正、昭和初期の作品ばかりなので、現代詩という括りで検索し、追加注文をしました。


 
書くため0925(2015.09.25)
 アマゾンに注文した詩の本、どれもこれも明治から昭和初期の詩ばかり。読みたいと思っていた現代詩は、殆どありません。
 加えてまた、これまで幾度か読んできた明治、大正の詩を改めて読み、感動出来ないのに驚いたことです。これは、恐らく自分の感受性が鈍いためでしょうが、こういう詩にかつて入れ込んでいたときもあったのだ、と奇妙な思いです。
 詩というものは、魂を揺する芸術だと思っていたのが、理屈っぽい、我が儘の言い放題の言葉の羅列かとも…勿論、おかしいのは自分でしょう。


 
書くため0924(2015.09.24)
 早速、電子書庫の資料をアップしていただきました。翌日送付した「小説と詩と評論」の原稿も受け付けていただきました。
 さて、アマゾンに詩の本5冊を注文し、2冊が届きました。これまで曖昧な出来のまま発行した2冊の詩集ですが、こうして何冊かの資料を先に参考にすべきでした。しかし、当時はそれを待てないほど、切迫したものがあったのですが。いつもいい加減な発車をしてしまうため、あとで後悔することになってしまいます。


 
書くため0923(2015.09.23)
 後の予定があるため、という理由で、22日に「電子書庫の資料」を、今日23日に「小説と詩と評論」の原稿を送付しました。
 休み中とか、今回のようなシルバーウィーク中に資料を送るというのが悪い癖です。その実、後の作業は殆ど進んでいません。Nさん、いつも申し訳ありません。


 
書くため0922(2015.09.22)
 陽羅氏の腕の怪我はどんなでしょう。大怪我をされたと聞いています。10日ほど前に、雨の中で滑って、ということらしいです。大事にしていただきたいと願います。
 小説と詩と評論への投稿を忘れていました。いえ、1月遅いと思い込んでいました。1月遅かったのは、全作家の方でした。
 文連もあります。これからやらねばなりません。海の方もあります。


 
書くため0921(2015.09.21)
 やらねばならないことが重なり、あわてるとかえって手につかなくなります。
 本当は短編を何とかしないといけないのですが、詩の方に入ってしまいました。詩の気分に入ると、簡単には散文に戻れませんから、やっかいです。
 詩の方も焦点が絞れずにいますが。


 
書くため0920(2015.09.20)
 電子図書館の方の処理を先に整えました。「零地点」はほぼ完成です。あと、短編1編を整理しています。小説、詩、俳句も扱えば切りがありません。
 新規作成の必要もあります。手を抜く時期はありません。


 
書くため0919(2015.09.19)
 新たに書くというのではなく、電子図書館の未整理分のうち主なもの、「零地点」の残り80作品を見直し、整理しました。
 過去の時点で、一応の折り合いをつけ冊子にしたものを見直すという行為は、どこまでやるべきか、難しいものです。いっそ削ってしまいたいと思うものが多くて、困りました。というのは、距離をおいて見直すと、途端にアラが見えてくるということです。一冊を仕上げるときの熱情が、冷めてしまうのが素人の作なのですね。
 まだまだというより、いよいよ恥を書きつつある、の感ありです。


 
書くため0918(2015.09.18)
 一応最終章まで終えたのですが、文章技術だけに走らず、テーマをより鮮明に、人物をより鮮明に、作品としての香りを鮮明にしたいと思います。
 この作品はしばらく置いて、文連の20枚未満の作品にも掛かってみようかな、と思い始めました。出来ないことはないと思います。
 電子図書館の資料の整備も必要です。頑張らないといけません。


 
書くため0917(2015.09.17)
 昼間は雷が激しく、パソコンが開けませんでした。
 約70枚を読み返し、最終章までを完結させねばなりません。


 
書くため0916(2015.09.16)
 約70枚というあたりです。これから、最終章に入ります。
 詩も必要ですし、小説20枚も別に必要なのですが…。


 
書くため0915(2015.09.15)
 少し文芸に戻りました。海掲載予定分は、約60枚というところまできました。勿論、まだ続いていきますし、数度の読み直しも、確認もが必要です。
 読まねばならない本が、全く読めていません…。


 
書くため0914(2015.09.14)
 今日も、文芸はお休みです。


 
書くため0913(2015.09.13)
 ごたごたが尾を引き、文芸は今日も休みです。


 
書くため0912(2015.09.12)
 法要のため、文芸はお休みしました。


 
書くため0911(2015.09.11)
 壱岐往復の道中、なぜか全作家97号を持参していたので、「遺失物」(本間)を読みました。なるほど、3.11の喪失感と遺失物という言葉が重なり、うまい構成だなと感じました。こういう目線で書く、ということは文章作法を越えるものだということも。
 最近、自分自身まともなテーマに取り組んでいないな、との感があり、やはり現実を向くことが大切だと思います。ただ、わが現実には何とも重苦しいことばかりが生起し、書くことを敢えて避けているのですが、「遺失物」といった類の工夫のある作品は出来ないものかと、考えねばなりません。


 
書くため0910(2015.09.10)
 関東文芸同人誌交流会掲示板に掲載された記事のことを、関係者に知らせました。
 少し書きましたが、なかなか方向が見えないままです。


 
書くため0909(2015.09.09)
 少し書きました。
 関東文芸同人誌交流会掲示板に、ようやく海第14号の記事が掲載され始めました。多くを取り上げてもらっており、嬉しいことです。


 
書くため0908(2015.09.08)
 少し書き足しました。焦点がうまく定まっていませんから、走りがよくありません。
まあ、こんなところから始まります。
 九州文学や井本氏の「回帰」などを読んでいました。


 
書くため0907(2015.09.07)
 海第15号(通巻第82号)の原稿締切案内を出しました。さあ、火ぶたは切って落とされたという気分です。今回は事前にいろいろなことがあり、気を揉むことが多くあったので、ちょっと出鼻をくじかれた思いです。
 要は、よい誌を作ればいいのです。よい作品を出せばいいのです。
 ビジュアルな誌もいいですが、何といっても中身です。海の作品は、どこに出しても恥ずかしくないし、そうあればいいことです。


 
書くため0906(2015.09.06)
 いきなり海のフォーマットに書き込んでいます。15枚ぐらいになりました。
 15枚あたりまで進めることができると、何とかまとめることが出来てきましたので、気持を切らさないよう頑張ってみます。
 今の内容だったら、60〜70枚あたりを必要とするのではないでしょうか。
 明日には、海の最終案内の発送をしたいと思っています。


 
書くため0905(2015.09.05)
 海第15号の最終案内(締切日、原稿・冊子作成要領等について)を、週明けにはしたいと思います。他のことにかまけていたせいもあって、私自身の準備が殆ど出来ておりません。ちょっと焦っております。
 普段だと自分の原稿は出来上がっている筈のところ、今から書き始めねばなりません。この方も、これまでにない状態で焦っております。
 文連の20枚の方は、無理であるかもしれません。


 
書くため0904(2015.09.04)
 完全原稿という言葉には、10通りを越えるケースに使うことがあるとのことです。ワードを用いての原稿作成は、そのまま印刷可というにはほど遠い内容ですね。
 言葉というものは難しいもので、引いても押しても的確というところには収まらないもののようで、ここから作品の方に話題を変えるのは適切ではないかもしれませんが、人によっていかようにも取れるというのが、われわれが書く作品ですね。作品の言葉に慣れ過ぎているのでしょうか。安易に言葉を使ってしまいます。
 また、元の話題に戻りますと、完全原稿に「近い」、という言葉でさえ意味するところが正確ではありません。こういう大きな問題になるとは思わなかったというところが、素人の浅はかさです。
 とはいえ、目の前のスケジュールをこなさねばなりません。海の原稿締切の最後の連絡を行い、原稿の受け入れ、編集作業に入っていきます。
 花書院には、お会いする機会があれば、編集ソフトがなにものかについて聞かせていただくことにし、当面はスケジュールをこなすことにしたいと思います。


 
書くため0903(2015.09.03)
 2日前、編集ソフトを用いたらどうかという提案がありました。他誌では、編集には殆ど手を煩わせていないそうだ、というものです。
 しかし、落ち着いて考えれば、これは海の2倍以上の人数を抱える誌の場合のことです。海は「完全原稿提出という条件で、ページ*円」という約束の元にあります。それ以外のことは頼みようがありません。
 また、編集ソフトなるものは、第一期終了前の臨時編集者が使っていて、その内容の確認をしろと、それこそドカッとデータと資料が送られてきたのを思い出します。
 それは、編集ソフトを操るだけの人は「簡単」なのかもしれませんが、編集担当者はその内容確認のため、とんでもない労力を強いられたものです。
 編集というのは、傍で見ていると「ひどく簡単そうに見えますが」誰かが必ず、一定の労力を提供しなければならないのです。冊子の一冊ですが、簡単には作れません。まして海は、少人数でやっていますので、潤沢な経費を持っていません。これ以上の経費増は、自らの首を絞めることになります。
 海の問題は、「編集、会計、主宰もどき」の役割が一人に集中しており、それがために「たいへんという類のことではなく」「繋いでいくことが出来ず、一人が考えることですから、いくらメール等で意見を聞いても出てこないし、よって目新しい案の浮かびようがない」「同人が全国に散らばっていて、集まることができない」「そのため、ますます一人の手に落ちてしまう」という悪循環に入っているということなのです。


 
書くため0902(2015.09.02)
 短編集合評会には臨めそうにない状況ですので、やむなく欠席の旨を連絡しました。こうやって、キャンセルしたことは何度目になることでしょう。
 何とも言いようがないのですが、いつもいつもこういう次第になってしまいます。何かを企てようとしたり、大切なことをしようとすると、こうなるのです。
 もう少しは子のために協力してほしいと願って、70年近くきましたが。なんという我の強い親なのだろう、とことばもありません。子がとび発とうとするときには、後ろに引っ張るのではなく、何もせずともよいので、放っておいてくれさえすれば。
 もう、怒り心頭といってもいいですね。この逆はないのです、本当に。


 
書くため0901(2015.09.01)
 壱岐往復の船中、寄贈いただいた本を読んでみますが、周囲の状況が状況で、深く読めないままでした。病院を訪ねるというのは、どうもいけません。


 
書くため0831(2015.08.31)
 準備した資料を事務局に送付しました。早速アップしていただきました。


 
書くため0830(2015.08.30)
 後のスケジュールが立て込んでいるので、電子書庫の方のデータ整理に追われました。短編2編(交差点、幸福の詩)、掌編3編(視線、採用、遺言)と詩の「カオス(混沌)」の全部です。かなりの量になりました。
 事務局の永井さん、いつもごめんなさい。


 
書くため0829(2015.08.29)
 短編小説、掌編小説、詩、俳句の整理をしています。電子図書館に送るためです。
 データを集めただけで、かなりの分量になります。この一つ一つを見直し、電子図書館にデータを送ります。この作業だけやっていても、かなりのものになります。
 散らばっているわが作品の整理と、現段階での見直しという意味を兼ねていますので、ゆるがせにはできません。現在だけで、原稿用紙約1,000枚分ほどの作業をしたことになりましょうか。いずれにしても、こういう途中での作業が入ることにより、作品の微修正と、これからへの動機付けともなってくれそうです。


 
書くため0828(2015.08.28)
 30枚の作品に切りをつけました。
 寄贈いただいた作品を読んでいます。


 
書くため0827(2015.08.27)
 30枚の作品はほぼ終わりに近付いていますが、今一つ切れ味が鈍い感じです。どこかに、流れを過ぎる鋭いものがほしいのですが。
 電子書庫の資料(詩16編、掌編3編)を提出しました。提出用のPDFの作り方の感覚もわかってきました。となると、先に提出した「コスモスダンス」「火の音」絡みの分をどうするかということになりますが、これらに掛かると膨大な時間を要しますので、先に進めねばならないことの方から取り掛かる必要があります。


 
書くため0826(2015.08.26)
 30枚を読み返し、訂正を入れました。まだまだです。
 電子書庫の資料(詩、掌編)を整理しました。作業は明日にも及びます。


 
書くため0825(2015.08.25)
 台風の中、パソコンを点ける気にもなれませんでしたが、夕方にONにしました。まずは、30枚のものをプリントアウトしました。実際、紙で読んでみないことには勘がつかめないのです。これからの作業になります。
 さてさて、いただいた書を読まねばなりませんし、文連の20枚も。その後には、海の原稿締切がやってきます。思えば、最も優先して半年前にはOKになっている筈の原稿を、全く書いていないことに気付きました。それに、電子書庫もあります。


 
書くため0824(2015.08.24)
 何とか30枚を終え、2度見直しました。少し間を置き、数度見直してみねばなりません。説明過剰になっていないか、内容が効果的に伝わるか、が問題です。
 海のHPも書き込みが必要になり、そちらのパソコンを起動してみましたが、15日程度開いていなかったこともあり、セキュリティ面やアップデートなどで手間取り、数時間を奪われることになりました。機械類は使わないのが一番悪いですね。
 溜めていた本を読まねばなりませんし、電子書庫の整備も必要です。


 
書くため0823(2015.08.23)
 何とか30枚に達しました。しかし、中身はこれからです。電子書庫の作品の見直しなどをして切っ掛けを掴もうと思いましたが、切っ掛けは書きながらでないと掴めないようです。とにかく、何であれ1作を重ねられたことはうれしいことです。


 
書くため0822(2015.08.22)
 電子書庫の原稿を整理したりしました。
 30枚の方は、方向がシカとは定まりませんが、後半に入り駆け抜けることは出来そうな感じではいます。ちょっと説明過剰かなあというところもあります。
 書き継ぐことですが、書きながらでないと新たな展望や次のものはヒラめかないものだと、私の場合は思います。小説なら小説に体が浸かってしまわないと、いけません。


 
書くため0821(2015.08.21)
 橋さんから届いた葉書を読んでいるうち、天女降臨(俳句自由律)の電子図書館へのアップを急遽思い立ち、事務局に送付することになりました。
 当初からほんの先刻まで、「オノマトペや未使用十箇条等を参考に微修正した上で」実行するつもりでおりましたが、既刊のものであり、俳句を修正すれば元の句は消えてしまう、700もの句を当たるのは容易ではない…と思うに至り、結局最も安易な方法である「現行どおりでのアップ」という方法になりました。
 句自体見直すべきものばかりですが、現行どおりというのが最も正直な方法であろうと、今回また「恥を晒す」次第となりました。


 
書くため0820(2015.08.20)
 30枚の作品の10枚当たりで、行ったり来たりしています。うまく乗って行けないのです。十分に中に入り込んでいないからでしょう。
 流れの中に入り、呼吸がある程度スムーズになると、転がり始めます。
 その空気に浸ること、これを待っています。足掻いています。


 
書くため0819(2015.08.19)
 さてお立ち会い、わが30枚はいかがなりますやら。などと言うくらいに、まだ何も出来ておりませんが、必ず出来ます。そういう波がやってきつつあります。
 波を掴まえると、強引に走ります。多分、大丈夫でしょう。


 
書くため0818(2015.08.18)
 今日は何をしていたのか、と言われそうです。次の30枚を書くための準備を、といってもぼんやりしていただけです。実は、次の作品に移るときには、必ずこの無為の時間が必要なのです。読みも書きもしない無為な時間。
 何故か、この時間なしには次に進んだ試しがありません。


 
書くため0817(2015.08.17)
 全作家の電子図書館に、「火の音」関連の資料を送付しました。
 ところで、詩や小説などを書く、という状態が長く続くということは、実のところ自分でも想定していませんでした。詩や小説の一端に触れたのは、確か中学2年生の頃だったと思います。田舎の中学校には図書室がありませんでした。ところが、大掃除のときに倉庫を覗いたら立派な本棚があるのです。どういう訳で倉庫に入っているのか、元々がどれほどの本棚があったのか、前に目にするのは1つの本棚だけです。
 戦時中には、本など読んでいる場合ではないということで、片付けられたのでしょうか。で、1つの本棚には、明治大正期の文学全集や、美術全集があります。こういうものがあるんだな、という思いで文学全集を抜き取ってみました。石川啄木、倉田百三、島崎藤村らとの出会いでした。めくっているうちに、啄木の歌に興味を覚え、いったん棚に戻したものを、黙って借りることにしました。
 という貧弱な体験で文学というものに出会い、他に文学書の類はなかったので、啄木の歌は諳んじ、啄木と一体になるまで入れ込んだことでした。しかし、周囲に同好の者がいる訳でもなく、我が家では「読書を禁ずる」という縛りもあり、文学へ向かう関心は、特に進むことも退くこともありませんでした。
 高校に入ると、さすがに図書室があり、文学書も哲学書も科学書も一通り揃えられているのでしたが、「文学全集を読み通す」という方向には向かいませんでした。啄木を最初に知ったことで「作ることの方に夢中」になり、多くの文学書を読まねばならないというふうには頭が回らなかったのです。高校にはなかった文芸同好会を発起してさえ、そこまでの知恵は芽生えませんでした。
 社会に出ると、望めばいくらでも読めた筈です。しかし、文化というものの空気に触れてこなかった自分には、読まねばならないという知恵はここでも出ようもありませんでした。無知な者は、大切なことを聞かされても無知故に、気付くこともないという図です。
 35才で文芸教室というカルチャーに入っても、同じでした。講師がいて、30数人の生徒がいましたが、体系的に読まねばならない、という空気にはならないまま10年を過ごし、定年を迎え、本気で書くことに向かおうと思ったことまではよかったのですが、文学というものの足指の先を少し囓っただけの存在です。気持はあるのにどこかがずれていると気付いたのは、全作家に入会した62歳のときです。とんでもない無為な時間を過ごしてきた、ということにようやく気付かされました。
 そこからの出発です。頭も、感覚も錆び付いています。しかし、そこからの出発を、敢えて試み、大恥を書き連ねつつ、今日に至っています。中学2年時の倉庫での発見、文芸同好会を起こした高校、大学と、何度もチャンスは巡ってきた筈です。カルチャーの10年だって、無知の無知たることを知ることもなく、呻吟しつつ書くということばかりに拘ってきました。でもしかし、これも意味があるのでしょう。当時の30数人のうち、一番最初に投げ出してしまいそうだった私と、あと1人しか現在も書くことに向かっている者はいないのです。「残ったのは2人だけだね」と、当時のメンバーの1人に言われ、そうなのだなと気付いたという次第です。
 

 
書くため0816(2015.08.16)
 当初の予定をずい分オーバーして、「コスモスダンス」「火の音」の最小限の修正を終えました。オノマトペと未使用十箇条を念頭に、いつかはやらねばと考えていた2冊の微修正を終えた訳です。とはいえ、抜本的な書き直しとか文字遣いの直しにまでは踏み込んでおりませんので、第一次の修正と言うべきでしょうか。
 今回この作業に取り組みましたが、考えさせられることが多くありました。よくぞこれだけの分量を書いたものだ、よくもこんな妄想を膨らませたり、こんなに青臭いことを書いたりしたものだ、と出来不出来のことは横に置いて、つくづく思ったことです。また、書かなければこういう思いは影も形も残るまいにとプラスに思ったことが半分、残りの半分は、書かなければこういうマイナスの反省事項(特に、モデルに近いと思われる人から、抗議を受けたことや、それが切っ掛けで断交するに至ったことなど、苦いことが多く思い出され)を抱えることもなかったろうという2点でした。
 やっぱり、書くという行為は、「特に周囲からは迷惑に」思われることが多いものだ、と強く思ったことです。勿論、私が特に周囲や周辺を警戒させるという書き口(ヒネた性格の故なのか、そもそも書くということはこういうことであるのか)を用いているのかもしれません。そうでないと、メディアなどで報じられる「○○賞受賞で家族や地域が喜んでいる」という図が、どうして出てくるのか理解出来ずにおります。
 それでも、「芸術としての作品」「人間の深部を見つめた作品」を何とかして書きたいと思うものですから、これは「業」なのでしょう。決して「自慢でもなく」「ハッピーでもなく」「身のうちからせり上がってくるものを」書きたいのです。
 芸術とは、大方が「破壊に向かう」ものかもしれないな、とも私的には思うものです。


 
書くため0815(2015.08.15)
 火の音収録の4作品の、微修正の流し読みをしています。終戦70年記念の日だというのに、テレビも見ずに、こんなことをやっています。「火の音」「タイム・スクリーン」まで行きました。
 他の2作は、どう頑張っても明日までかかることでしょう。


 
書くため0814(2015.08.14)
 火の音収録の4作品の微修正を終えました。もう1度流し読みを行い、ホームページに出したいと思います。
 後の日程がつかえているのですが、発表するのに慎重でなければなりません。これが最終であるとの覚悟で、当たらねばなりません。
 それにしても、作品を発表することはたいへんなことだと改めて思うことです。


 
書くため0813(2015.08.13)
 火の音収録の「紙飛行機」「レフト・アローン」を読み返しています。当時は純朴だったというか、生真面目だったというべきか、ところどころに気恥ずかしい記述が出てきます。現在の自分と比べ、世の中に多少なりとも真っ直ぐに向かっていたのだという思いがします。それが気恥ずかしいとはどういうことだろう、と考えます。
 技術的に云々ということではなく、自分を、人というものを信じようと、懸命だったのかもしれないと思ったりもします。面映ゆい感じです。
 この間、すべきことが次々にやってきます。文連の原稿も必要です。


 
書くため0812(2015.08.12)
 火の音収録の「火の音」「タイム・スクリーン」などを読み返し、微修正を行う作業をしています。字句の使い方のまずさはありますが、言っていることは間違いではない、と改めて思った次第です。
 あんなことこんなことの方と関連しますが、「私のメッセージは、1にも2にも『人類の存亡にかかる危機』なのです」が、これを出してもなかなかキャッチしていただけません。戦争、経済、核、格差や貧困、人種問題などが勿論喫緊の問題ではあるのですが、現在迫り来る「息苦しさは、これらを根こそぎ浚っていく」ほどのものであるのですが、いかがなものでしょうか。


 
書くため0811(2015.08.11)
 ホームページを作り始めた頃、ieやfirefoxなどのいくつかのブラウザで見え方を確かめていたことを思い出しました。また、言わずもがなのことになりましたが、「少なくとも横書きにすれば改善されるのではないか」ということを調べた上で、全作家事務局に申し出たところ、Nさんも同じことを考えておられたとみえ、横書きへの変更を進めていただいている途中でした。
 最初に当たり、いろいろと迷惑を掛けることになりましたが、快く対応していただき、ありがたく思います。せめてホームページの中身を充実させるよう努めることが、これからのわが課題なのだろうかと頭を掻いているところです。


 
書くため0810(2015.08.10)
 全作家電子図書館に、詩の投稿を行いました。Nさん、すぐに対応していただきありがとうございます。「え、もう」という感じで少し席を外していたら完成です。
 ところが、よく見ると「小説」の「説」が右に、「カオス」の「ス」が左に、「火の音」「その他」がゆるくズレているようです。「ま、いいか」と思っていたら、Nさんから「疑問点があれば遠慮なく言ってください」とのことばに、「言ってみようかな」と甘えてしまったのが間違いです。「firefoxとieとでは見え方が違う」ということは、下手なHPを作っている身としてはわかっていたのに、このときは「忘れていた」のですね。
 しばらくして「何のブラウザで見ていますか」との問いに、アッと、ここで気付いたというお粗末です。Nさんにはたいへん失礼なことをいたしました。申し訳ないことです。最近、「自分を疑うということを忘れており」、いけないいけないと思いつつも、またまた、やらかしてしまいました。何でしょう、トシですか、暑さですかねえ…。一発、いえ二、三発は殴っておかねばなりません。
 

 
書くため0809(2015.08.09)
 全作家短編集をようやく読み終え、ひと言コメントを書き、事務局に送りました。
 さて次に、ということでHP用の読み込みをしようと元資料を準備しました。これは刊行しているものを主にしたいので、特に読み返すことでもないと思う反面、元のデータの確認と、最小限度の修正の必要がありますから、その作業に入ります。
 橋さんからの白幻記も読まねばなりません。30枚の作品にも掛からねばなりません。この時期に、すべきことが多くあるということを喜びたいと思います。


 
書くため0808(2015.08.08)
 全作家の短編集、17時現在であと4編を残すところとなりました。今日中には、何とか終わらせたいものです。結構時間が掛かりました。丸4日は要しました。
 私の感じでは、約半数はかなり高度の作品だろうなという感じがします。
 全作家もこれだけの作品を提供できるのだ、という勇気をいただきました。
 ただ、全作家として、「作品は売らない」という一方の旗と、書店には並べたいとの間の意思の疎通がうまくいっているのかどうか、要するに流通の面での工夫をしていくのかどうかという、やはりここに思いは至ります。 


 
書くため0807(2015.08.07)
 全作家短編集、今日は何編読んだのだったでしょう。残りを数えると、あと9編を残しています。全体的にはよいレベルにあるのだと思われます。
 あと9編、1日では無理ですかねえ。頑張ってみましょう。
 全作家HP用の読み返しもあります。せめて、新作1編ぐらいは書きたいとも思っています。この間、不思議なことに猛暑を忘れています。


 
書くため0806(2015.08.06)
 全作家短編集の読みにかかります。これが結構たいへんです。コメントを出さねばなりません。これまで約半分を読みました。残りはまだ200数十頁です。
 ううむ。やるしかありません。あと2日はかかりそうです。


 
書くため0805(2015.08.05)
 全作家HP用として、コスモスダンス収録分の5作を微修正し送りました。火の音収録分は、しばらく時間を置いてということになるでしょう。
 詩や俳句自由律も手掛けることにしていますから、こちらが先になりますか。もっと良い作品をお持ちの方は、多くおられると思いますが、新参者が申し訳ないことです。
 橋さんから「白幻記」という本が送られてきました。今の作業をするため、読ませてもらうのは少し後になってしまいそうです。
 文学街334号も送られてきましたが、330号の「女王蜂の飛行」を嫌いではないという意見の方がおられ、ほっとしました。森氏が、数ある意見の中から、わざわざこれを見付けだし、掲載してくださったのかもしれません。


 
書くため0804(2015.08.04)
 いやあ、たいへんなことになりました。コスモスダンス収録の5つの作品を、オノマトペ、未使用十箇条に沿い、最小限の修正をしようと始めたのですが、こう手こずるものだとは予想もしていませんでした。丸2日を要しました。
 70枚〜100枚の作品5作の読み直しとなり、疲れます。自分がこんな作品を書いていたのだったという、ある意味では再確認にはなりますが。
 火の音収録の方もあります。ちょっと時間を開けたい気持になります。


 
書くため0803(2015.08.03)
 全作家HPへの掲載依頼をしようと準備しましたが、内容の確認もしておかねばと、確認作業に入りました。始めたのはいいとして、これがなかなか簡単にはいきません。
 作品を全て見直すということでもありますので、慎重になります。まあ、現在わがHPに掲載している作品でもあるので、そこまで万全を期さなくてもとの思いもありますが、この際作品を見直す機会が持てたというのは、当面の処理のためにも、今後のためにも自分の肥やしになるのではなかろうかと思うことです。


 
書くため0802(2015.08.02)
 全作家のHPの件で、わがHPを見てみたところ、これは以前からそうしているのですが、コスモスダンス、火の音、零地点、カオス混沌、天女降臨の全てを、わがHPにアップしています。これで刊行しているのだから、このURLにリンクしてもらえば済むことではないかな、と思い始めました。
 後、海に掲載した作品なども公開していますので、これもリンクしてもらえば済むことなのですが。もっとも、内容の問題が残るのでしょうが。


 
書くため0801(2015.08.01)
 ひょんなことから、全作家のHPに詩を掲載し、1週間ほどの頻度で更新してみるのはどうか、との話がありました。
 選りに選って何で詩を、と思ったのですが、HPの活性化の方に狙いがあるのだと思えます。ところで、「我が詩は大丈夫か」という危惧が先にきます。50年前に書いていたのですが、挫折しました。詩は難しくて、力の限界を感じて辞めたのです。
 では何故、また詩を始めたのかという説明がなかなかし辛いもので、「海二期」を刊行するに当たり、定額分では経費が足りないのです。そこで、3万円足りないと踏むと、にわかに書いた詩や俳句で頁を増やし、3万円を作っていたという何とも変なことを始めたのでした。こういうふうに埋め草として書いた作品が良い訳はなく、内容が「人間生活を見下している」「傲慢だ」「体をなしていない」といった声を聞くのが常態化しました。
 また、他誌からは1人が何種目も作品を掲載し、真剣味がない。雑然としている。何でも載せている、といった感想が届いていました。
 発行経費を捻出するための「裏技」が、品質を落とすだけのものになったのですね。これは、なかなか説明出来るものではなく、今日に至っておりますが、では埋め草を全て除くと発行が出来ないという悪循環にあるのです。勿論、これは海二期の問題でありますから、対応を考えねばならないのですが、なかなか妙案もなく。
 しかし、その埋め草の「詩を掲載」ということですから、かなり悩みます。しかし、この機縁もなにがしかの意味があるのかも知れないと、少し頭を冷やして考えてみることにしたところです。


 
書くため0731(2015.07.31)
 全作家短編集をまた少々読みました。畠山氏、平井氏までですが、メモを書きながら読むため、なかなか進みません。御二人の作品は、さすがだなと思いました。
 それ以外に何をやっていたのだったか。ああ、わが部屋を少しでも開けようと、受贈誌(同人誌)のかなり以前のものとか、雑誌類を片付け、押入の掃除をし、衣替えをしたのでした。今日は、どうしたことか熱いメールなどいただき、有り難いことです。感謝申し上げます。なんとも、なんとも、わが力をつけねばならないことですが。


 
書くため0730(2015.07.30)
 後ろ向きの感慨にふけっているのも辛くなり、全作家短編集の読み込みに入りました。読んでは感想を書き込まねばなりません。陽羅、崎村各氏の作品は、さすがにレベルが違います。陽羅作品は青春の光を、崎村作品は現代の老年社会に起きそうな代替え殺人事件を扱っているのですが、筆が巧みだとよい作品になるものだと思いました。
 35編中の数編を読んだだけですが、よいものはよいという全作家の力をみました。


 
書くため0729(2015.07.29)
 そう言えば、約1週間前の文芸の集まりで「お前は生真面目過ぎる」とキツく言われたのを思い出しました。「かも知れないなあ」と思い始めたのは、昨日今日になってからです。確かに「不真面目ではない」「しかし、生真面目だとすると何が悪いのだろう」「生真面目が本当だとすれば、周囲は窮屈なのではないか」「威圧感さえ与えているのではないか」「このコンプレックスの裏返しの生真面目、几帳面が、相手に付け入る隙を与えない雰囲気を醸しているのかも知れない」「不機嫌そうな表情、もの言いが、相手を切り付けたりしているのではないだろうか」と、じわじわと胸に染み始めた訳です。
 だとすると、「謙遜→自虐→自慢? →攻撃」という筋道さえ見えて来ます。
 まてまて、いつも「身内からの叱責、注意、心掛けなどを言われ、受け、それを自分への攻撃、威圧、自慢など」というふうに捉え、不機嫌になっていたのですが、自分が不快に感じる図のとおりに、自分も周囲に同様に感じられているのだ! と、考えました。
 今にして思い出すのは、せっかく近くに寄って来てくれた人々が、何時の間にか去って行く、という不思議な図でした。「自分には人徳がないからな」という思いでこれまで見送ってきたのですが、多くは「人徳のなさ」故ではあったのでしょうが、「生真面目が発する窮屈さ」が遠ざけていた面も否定できません。
 深沢七郎の手記を読んでいて、彼は「不真面目と真面目がチャンポンになった性格」のようで、必ずしも友人が多かったとは思えないのですが、「懐に飛び込んで行ける」性格であったろうことだけは頷けます。
 なるほどなあ、「自分は窮屈なんだ」「面白くないんだ」「被害者意識ばかりが強く、まず自分を認めていないんだ」「負けていないぞ、などという嫌なオーラを放っているんだ」などと考えてきたところ、先日言われたキツい言葉が納得出来る気がします。
 70年近く生きて来ての気付きで、職場でもサークルでも「考えないではなかった根源の問題を、今またまざまざと突き付けられた」という思いです。
 人間関係もですが、自分の作品が「読後感がよくない」というのは、やはりこのヒネこびた自分の性格にあるのですね。


 
書くため0728(2015.07.28)
 深沢七郎の「月のアペニン山」を二度読みました。30枚ほどの短編ですが、凄い作品です。「夫婦で引越を重ねる−どこに行ってもイジワルをされると、妻が言う−とうとう最後の10回目に、江東区南砂町に越して来る(東京湾のゴミの埋め立て地の近く)−ようやく隣人とも付き合いが出来、喜ぶ−隣人の話では、この家では2人が病気で亡くなったという−台風が過ぎて3日目の真夜中、黒胡麻を播いたような蝿の大群に襲われる−電気を点け蚊帳を吊ろうとしていると、後頭部を激しく叩かれる−誰から叩かれたのかわからないでいる−翌日勤務先から帰ると、妻が入院したと隣人から知らされる−何の病気で? と気付かない−病院に行くと、妻が「精神病の重症患者だ」と説明を受ける−全然気付かなかったことに自分が驚く−弁護士の配慮で離婚に動く」といった内容ですが、これが実に上手く書けているのです。
 何度も、上手いなあと呟きながら読みますが、この間合いの取り方のよさ、いくつもさり気ない種を見せておいて、それが繋がって行く、という巧みさです。
 ああ、自分も身辺雑記風なものを遠ざけ、こういう類のものが書けないものか、とつくずく思ったところです。こうだと、作者自身の(作品のではありません)「怨念だとか、悪意だとかを越えた」作品になり得るのです。方法は他にもいくらもあるのでしょうが、こういった方向に舵を取るということに光明を見る思いです。
 勿論、「月のアペニン山」ほどの作品がすぐに書けるとは限らないし、はるか遠くの彼方にあるものかも知れませんが、拾いに行くとしたら一つの方向ではないだろうか、と思い至ったところです。


 
書くため0727(2015.07.27)
 何かが終わった−。起き抜けに、そう思いました。何かが終わった、ということばが胸の奥から込み上げてきたのです。
 何が終わったのか、内容は自分でも把握していないという、まさに漠たるものですが、もう終わりだ、ということが心に響いてきました。
 何が終わりであるのか分からないままですから、心の底に何が起き、何が何をそうさせたのか判然としないことを書くのは憚られますが、推測出来ることと言えば身内のこと。それに起因する、わがコンプレックスのことかもしれません。
 こういう雁字搦めの人間関係の中に生まれ、遭遇したのは、「我が選んだ宿命」でありましょうから、「その中から何を学びとし、どう切り抜け、別の『待っているであろう次元』にどう繋げていくか」ではないかと思われます。この呪縛、マインドコントロールから抜け、少し開けた場所に出る勇気が必要です。マインドコントロールの中にあっては、新しい発想も、経験してきたことの整頓・整理も、生きて行こうとする道筋も見えませんから、これは「終わらせなければ」なりません。
 事実、この最近の長い間、頭を締め付け、体を締め付けてきたのは、身内のことでした。体に染みついているのです。思い出そうともしないのに、どんなときにでも頭を出してくるのです。それが現れると、どこかに行こうとするときも、何かを始めようとするときも、何かを書こうとするときも、しゃしゃり出てきて、モノを言うのです。結果として、そのネガティブな感情に押し流され、行く手を塞がれ、叩き潰されてきました。
 勿論、今直接言われたり、起きたりしたことではない場合の方が多く、勝手に自分自身で想像を膨らませ、物語を複雑にしているということがないではありません。とにかく、口惜しくて、悲しくて、何の希望も見出せなくなってしまいます。
 ですから、私からの一方的な宣言であり、通告であります。
 そうなると、これから書くことは身辺雑記的なものは除かねばなりませんから、果たして素材が得られるものかが心配です。しかし、これを果たすためには、多くの時間をかけてでも「終わらせ」、「次なる次元に踏み込む」ことに向かわねばならない、と内なる声が命じたのではないだろうか、と思えてならないのです。


 
書くため0726(2015.07.26)
 重いものを重く書くことは、自分のうちにも重いものを残します。重いものを書くためには、覚悟しておく必要があります。
 重いものを軽く書くためには、伎倆が必要です。能力が必要です。
 軽いものを重くだとか、軽いものを軽くというのは…。


 
書くため0725(2015.07.25)
 批評の場に出て、多くの意見の出方に驚かされ、教えられます。
 自分のうちにも、もう一人の目を持った自分が必要ですね。その前に、まず目の前の作品をどう読みこなしていくか、という問題もあります。
 何かを書くということは、我が身を同時に穿つとでもいうべく、辛いものを背負い込むことにも繋がりかねないものだ、と切に思っています。
 全作家の美倉健治さんが亡くなられたとのこと、心から哀悼の意を表します。


 
書くため0724(2015.07.24)
 全作家の全体を読みました。一度に読むというのは、疲れることです。読んだ端から忘れてしまうという、困った状態にもあります。よほど印象の強い作品以外は、残らないというのは困ったものです。
 全作家とは関係ありませんが、わが書く作品も方向を定めねばなりません。最近、どうも芸のない経験談に近いものばかりを書いています。もっと工夫を、です。


 
書くため0723(2015.07.23)
 今日は文芸仲間との意見の交換の日。1年に2回ほどしかありません。
 貴重な意見交換の最中に電話が。田舎からです。めったに留守などしないのに、こんな日に限って。なんということか、という気色さえもありません。
 母に言いたいのです。これまでどれだけ、子供を自分の楯代わりに使ってきたものかと。誰か一人を身近に置くという犠牲者のほかに、子共みんなの希望も自由も奪ってきた。一体何故、と言いたいのですが。世間にいい顔ばかり見せるのも、もういい加減にしたら、とも。


 
書くため0722(2015.07.22)
 取り敢えず一作を整理し、投稿しました。
 こういうふうにやらないと、作品が練れないのですね。海などに掲載するときも、ギリギリまで練ります。練ったつもりが、日を開けて見ると、不十分な点がいくらも見付かります。ここに第三者の目が入っていたら、とどれだけ思うことでしょう。
 しかし、同人誌ではどうしても作者の自己責任になります。そういう仕組みをしか選び得なかったのですから、自分が自分を鍛えていかねばなりません。自分自身の内に、どれだけ編集者の心得があり、客観的な目を併せ持つかということでしょう。
 いやあ、難しいことです。どう動こうが自由ということが、逆に自分の手足を縛り付けてしまうという仕組みですから、簡単ではありません。
 ものごとは、いろいろな立場を経験しないと理解が出来ないですし、経験し過ぎるとまたそれも動きのとれないものになってしまうという、難しさの中にあります。客観的な目を持ち過ぎると、そもそもが始まらないということも言えることです。要は、与えられた環境の中で地道に工夫を重ねていく、ということになりましょうか。


 
書くため0721(2015.07.21)
 わが作品を整理してみました。最近、書けていないですね。もう一つ、明瞭な入口が見付けられずにおります。書く気はあるのです。
 あまり構え過ぎるのもよくないのでしょう。かと言って、身辺を題材にあまりしたくないのですから、いよいよ内容が限られてきます。かくかくしかじかのレベルの作品を書かなくては、と思い過ぎるのも方向を狭くしています。
 恥を書く、といっても十分恥ばかり書いてきました。


 
書くため0720(2015.07.20)
 さて、日常に戻りましょう。海の方針は変わりませんが、出版社・書店・メディアが企業の論理で「出版部数を誇る=利益をあげる」ことを目指し、称えるものであるなら、海は「目の前のただ一人の読み手であるかもしれない読者に感謝する」という本来の姿勢に戻りましょう。数や量ではない読者の一人一人に感謝するという大切な姿勢です。
 海の発行経費は微弱なものです。企業の大きな資力、知力をつぎ込んで本を作品を作家を作り上げていくという手法には、同じ土俵では勝負出来ません。
 では何で行うかとなると、「中身で」と言いたいところですが、これは今後の課題です。勝負などという概念を「はぐらかしてしまうほどの作品への挑戦」、これでしょうか。


 
書くため0719(2015.07.19)
 この2週間近く、書店巡りに発し、出版社の思惑どおりに運んだ芥川賞・直木賞の「仕組まれたフィーバー」に振り回されていましたが、打ち切ります。
 海が出版社の仕掛けた大芝居に振り回される理由も、義理もないことです。作品の内容を知らないままですが、ここまでの「ワイドショー」に仕立てた見通しの見事さというか、ダサさというか、演出に踊らされ、付き合わされるいわれはないわけです。
 先方の誘いに乗ることなく、こちらはこちらの日常に戻るまでのことです。


 
書くため0718(2015.07.18)
 芥川賞効果を報じるニュースが続きます。当地では、直木賞も福岡県在住とあって、書店も、作家の住む地域も、異様な盛り上がりの中にあるようです。

(スポニチニュースから)
 人気お笑いコンビ「ピース」の又吉直樹(35)が、中編小説「火花」で第153回芥川賞を受賞してから一夜明けた17日、出版元の文芸春秋は同作について64万部からの大幅な増刷を決め、累計発行部数が104万部になると発表した。新人作家のミリオンセラーは極めて異例。低迷にあえぐ出版界の救世主となりそうだ。
 一気に40万部の増刷を決めた文芸春秋は、「数としては異例の増刷と言っていい」と“芥川賞効果”を口に。理由については「単純に書店からいっぱい注文が来たから」と説明し「ますます増刷がかかる予感はする」と手応えを語った。
 東京都内各地の書店では「火花」が山積みに。売り切れ店も続出した。三省堂書店神保町本店営業企画室の課長は「出版界にとってここ数年で最大のニュースの一つ。本は枯渇状態になるのでは」。インターネット通販大手アマゾンの在庫もなくなった。過去最大の落ち込みにあえぐ出版界の関係者からは、状況打開を期待する声が多数上がっている。又吉はこの日、文芸春秋掲載用の受賞者コメント取材以外の仕事は入れず。つかの間、受賞の喜びをかみしめたようだ。
 関係者によると、16日夜の表彰式終了後は出版社主催の祝賀会に参加。作家の呼びたい人物を招くことができるもので、又吉は同居人でもあり「火花」の執筆時にアドバイスを求めた“最初の読者”でもある「パンサー」向井慧(29)と「ジューシーズ」児玉智洋(35)を会場に呼んだという。
 向井、児玉ら又吉の知人数人やスタッフら20人足らずで行われた祝賀会は、日付が変わった午前2時半ごろまで続いた。又吉は一部の知人とタクシーに乗り合わせ、夜の街へ消えた。関係者は「朝まで祝杯を挙げていたらしいです」と話す。
 授賞式では、敬愛する小説家である太宰治の墓参を希望していたが、この日、墓地のある東京都三鷹市の禅林寺には足を運べず。所属事務所によると「仕事の合間を縫って、近々に行きたいと話している」というが「時の人ということで、ゲストのオファーをたくさんいただいているが、ほぼお断りしている状態」といい、芥川賞効果で当分は多忙を極めそうだ。


 
書くため0717(2015.07.17)
 「芥川賞“復権”へのろし」というのが、西日本新聞の夕刊の見出しです。ぶっそうな見出しだなあ。品がないなあ、と見たのはほかでもありません。なるほど、出版不況と言われる中、出版界の狙った作戦が見事に的中したという訳でしょう。
 文學界の同人誌評の廃止(2008年12月号)をめぐっては同人誌界に衝撃を与えましたが、狙いはここにあったのですね。出版社も書店も、勝ち抜くためには企業の論理で動くのはしかたのないことでしょうが、日本文学振興会(運営は文藝春秋社が行う)が同人誌などからも広く候補作品を受け付けている、という体裁を繕うポーズをとり続けるというのは、気持がよくありません。「関係する出版社、書店で候補作を選び、当選作を出している」という当たり前のことを、当たり前に公表した方がよくはないでしょうか。
 もっとも、「火花」は読んでいませんので、作戦が「見事に的中」したかどうかのコメントは今後読んでからのことにしますが。それにしても、100万部を突破するという作戦を見事にやりおおせたのだから、言い逃れをしたり、平等を期しているなどという見え透いた作り事は言わない方がまだ高等な作戦だと思われますが。
 要するに、2008年12月の以前も以降も同様に、「同人誌は対象から除いている」ということに変わりはないでしょう。たまたま、全作家の作品集のことで、私が書店に相談に行ったのが今回の賞の発表の1週間前だったので、「同人誌」という話を出しただけで厳しい対応になったということも、納得出来る気がします。

(WEBニュースから)
 小説『火花』が『第153回芥川賞』に選出されたお笑いコンビ・ピースの又吉直樹(35)が16日、都内で行った受賞会見には、お笑い芸人として初の快挙を成し遂げた又吉の第一声を取材しようと異例の数、約350人の報道関係者が詰めかけた。
 会見場に用意された既定の座席は当然のごとく満席となり、その後方に立ち見スペースが設けられる“盛況”ぶり。これには主催者側も「報道陣の方がいつもの3倍くらい来てもらっていますね。まさに又吉さん効果」とにっこり。又吉ら受賞者が登場すると、まばゆいばかりのフラッシュがたかれ、この日の“主役”又吉に向かって「ピースをお願いします!」「笑顔で!」とカメラマンたちが次々にリクエストを飛ばした。
 異例なのは、会場の混雑ぶりだけではなかった。過去の会見では、受賞者一人ひとりが約15分の持ち時間で喜びを語り、質疑応答に応じるのが通例。しかし、又吉の声を少しでも多く拾おうと各メディアが熱望したことから急きょ、又吉のみの2度目の会見が開かれた。結局、午後8時45分ごろスタートした会見は約2時間という長丁場で幕を下ろした。 金屏風の前に座り、会見に臨んだ又吉は大勢の報道陣を前に「すごいびっくりしたけど、うれしいです。ありがとうございます!」と喜ぶ半面、「緊張してますし、まだ信じられない」と恐縮し切りだった。
 会見では『火花』の映像化にも前向きだった。「思い入れが強いので、(作品の)空気感が反映されたらいい」と願望をポロリ。大先輩・明石家さんまも同作が映像化された際のオーディションを受けたいと希望しているが、「誰かというのはない。10年間を描いているので難しいんじゃないかな」と話した。
 又吉は今後、芸人としての活動と執筆活動を両立させる意向といい、この日は「恥をかいてもいいから絶対に書きます」と早くも次回作に意欲を見せた。芸人初の偉業を成し遂げた“作家”又吉直樹への期待の大きさは、異例づくしの受賞会見から容易にうかがい知ることができた。


 
書くため0716(2015.07.16)
 そうだった、と思い出しニュースを見ると、芥川賞の受賞者が決まったとのことです。なるほど、と思ったものの作品を読んでいないので、今日のところはコメントなしになります。果たして、「さすが」と思えるか、「こんなものが」と思うことになるかですが、予断を持たずに臨むことにしましょう。
 わが意見などは置いて、「これはいい商売になるなあ」と思うところです。
 それに、直木賞は東山彰良(46)の「流(りゅう)」、福岡県在住。あれまた、福岡のメディアが大騒ぎすることでしょう。

(WEBニュースから:芥川賞)
 お笑いコンビ、ピース又吉直樹(35)の小説「火花」が16日、第153回芥川賞(日本文学振興会主催)を受賞した。都内で選考会が行われ、羽田圭介氏の「スクラップ・アンド・ビルド」とともに受賞を射止めた。お笑いタレントの同賞受賞は初めての快挙。
 1回目の投票でトップの評を獲得しての堂々たる受賞だった。9人の選考委員を代表して会見した作家山田詠美氏は「どうしても書かざるを得ない切実なものが迫ってくる。欠点も多々あるが、何か強いものを感じて、主人公と先輩とのまさに火花がよく書けていた」。選考委員からは「1行1行にとてもコストがかかっている」と評価する声もあったという。
 お笑いタレントとして初の快挙に、山田氏は「その人の職業については、選考会ではほとんど出なかった。どんな世界も小説にする普遍性を選考委員の先生方は読み取ったと思う」。又吉が敬愛する太宰治や、山田氏も受賞できなかった芥川賞。初の作品で射止めた又吉に、山田氏は「又吉君うらやましい」と笑顔で祝福した。
(WEBニュースから:直木賞)
 第153回直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が16日、東京・築地の「新喜楽」で開かれ、東山彰良(46)の「流(りゅう)」(講談社)が選ばれた。
 東山作品は、1975年以降の台湾が舞台。17歳の葉秋生(イエ・チョウシェン)は祖父が殺されているのを発見する。殺人事件を通奏低音に無軌道な秋生の青春を描き、やがて事件は中国の国共内戦の過去につながっていく一大叙事詩。
 東山彰良(ひがしやま・あきら) 台北生まれ。2002年「このミステリーがすごい!大賞銀賞・読者賞」を受賞してデビュー。09年「路傍」で大藪春彦賞。福岡県在住。


 
書くため0715(2015.07.15)
 書くことも読むこともせず、ISBNコード、バーコードのことなどを調べています。調べれば、ますます同人誌というものが特殊なものに分類され、あまりよい気はしないいものです。あのきらびやかな書店の中には、同人誌のスペースなどないのです。ただ、地元のお情けで、隅の方に置かせてもらっているということでしょうか。
 明日は、芥川賞・直木賞の選考がなされ、売らんかなの連中が手ぐすねを引いて待っているのでしょう。まるで、陣取り合戦の様相ですね。
 メディアも真っ先に持ち上げるときます。海の先人が、「同人誌にも配慮しろ」と言っていましたが、事態は反対に反対にと進んでいます。本当に、メディアには同人誌の関係者など、普通には扱ってもらえないのですから。


 
書くため0714(2015.07.14)
 全作家がらみのメール交換や、海の今後の体制についての資料などを作っているうちに、作業終了となりました。
 予定していた本は、結局読めずということでした。


 
書くため0713(2015.07.13)
 拍子抜けがしています。著名な作家しか相手にされない、というのが現実です。
 同人誌には錚々たるメンバーがいて、学び、研究し、書いている訳ですが、書店には最初から相手にされていないということです。世間とは、そんなものなのでしょう。
 残念ですが、書店などの選別、メディアなどの選別も、世間そのものですね。
 こういう危急存亡の時期に、「売れる、売れない」というのが生きているのですね。であるなら、世間は何も見えていない恐竜みたいなものではないでしょうか。


 
書くため0712(2015.07.12)
 珍しく眠れ、さあ今日はやるぞという気持で始めたのですが、海のブログに「気迷いごと(さらなる余録)」を書いたがために、落ち込んでしまいました。
 書店と掛け合ったがために「同人誌の位置付け」を突き付けられる恰好になり、ショックというか、気迷いが出てきました。同人誌も商業誌に負けず頑張っている、と思い込もうとしていたのが、書店の流通の中では迷惑千万といわんばかりの扱われ方をしているのです。なんでそうなるのかというより先に、まず店頭の片隅の立ち話で「同人誌ですかあ」という態度でしか接してもらえないのですね。
 念のため、書籍の流通の現況を調べてみると、商品管理・在庫管理システムの横紙破り的存在だというではありませんか。要するに、流通対象(商品とは言わないまでも)とは見なされず、特定地域でのみ特別に扱ってもらっているという、何とも屈辱的な話ではないですか。ううむ。こうなると同人誌側にも問題はないか、と考えるのがわが悪い癖です。もともと、文学・文芸を大上段に振りかざす知恵も理論も持ち合わせない訳ですから、このいい加減な扱い(それを改善しようともしない同人誌側にも)に対し、不信が芽生えてきたという次第です。
 あの同人誌評の終了というのは、寡占を目論む出版社のための一里塚であった、ということにしかならないのではないでしょうか。こうなると、いかにも短絡的かもしれませんが、芥川賞・直木賞を徹底的に批判するか、逆にその旗をわが方に立ててみるかのいずれかですね。私のような単純なモノを怒らせると、ただでは済まないことになりかねません。もっとも、芥川賞・直木賞という名称にこだわるものではありませんが。
 勇気が湧いてきました。今に満足することなく、意地でもアップしたいと思います。 


 
書くため0711(2015.07.11)
 この湿気の中です。集中出来ず、頭が働きません。最近いろいろなことがあり過ぎて、その反動で少しダラケたのかもしれません。
 こういうときは、三浦哲郎の本を読みましょうか。


 
書くため0710(2015.07.10)
 全作家短編集の全国書店への配本。大手書店から指摘された「何故直販とするのか」「何故ISBNコードなしなのか」「何故全作家の短編集を売りに出すのか」「金の流れは」「全作家協会員の任務の重さは何故に」等々、まだ問題を引きずっています。
 本当に末端は困りました。問われる説明に答えられないのです。これでは、想定された任務の果たしようもありません。事務局には、引き受けるという書店と十分意志の確認を済ませた上で、送本等に移ってほしいとお願いしました。
 井本さんが季刊午前第51号に発表した「トッカータとフーガ」が文芸思潮に転載になり、「まほろば賞優秀賞」に選ばれました。全6作が、これから最優秀作の選考に入るということです。井本さんの快挙が続きますね。より高みを目指してほしいと思います。同時に、海も「表現する」「発表する」まではよいとして、以降をどう進めていくべきかについて、考えるねばならない時期にきているようです。


 
書くため0709(2015.07.09)
 全作家短編集を抱え、海を置いて貰っている書店を訪ねてみました。
 紀伊國屋書店、ジュンク堂ともに、「文芸書は控えめにする傾向にある」「地元のものではないし」「問屋を通して欲しい」「直販はやっていない」「ISBNコード、バーコードがない」という否定的なものばかりで、ある意味納得させられました。
 もうそれまでと思いつつ、残る1店舗の金文堂に「念のため」という気持で寄りました。もはや「駄目だ」という結論を、こちらも得るつもりで。それがまた、店長不在で、店員の対応のまずさなども重なり、本当に帰ろうといったん店を出たものでした。出掛けたところで思い直し、結論を得るまではということで再び店に舞い戻ったものです。
 待つこと10数分、戻ってきた店長が「引き受けましょう」ということ。あっけにとられたのはこちらの方で、逆におたおたしてしまい「大丈夫ですか」などと確かめたりする有様で、いやあ「ことはわからない」ものだと、驚いてしまいました。バーコードも付ければいいことだそうで、当方が「わけがわからなくなる」という顛末でした。
 海第14号に対する評等が出始めました。「誌が雑然としている」という意見を得て、先日対応を相談しましたが、「熱心でいい。どれもいい作品である」との評もあり、見方や感情の具合で「こうも変わるものか」と、感慨深い思いです。 


 
書くため0708(2015.07.08)
 全作家短編集が届きました。ところで、この冊子を書店に並べたいとのことです。勘違いかもしれませんが、全作家は売らない主義だと思っていたのですが…。それとも、書店に置いて広く周知させるため…ですか。おそらく、後者でしょう。
 最近、分からないことが幾つか起きます。何なのでしょう。


 
書くため0707(2015.07.07)
 須永氏から、海第14号の全般にわたる感想をいただきました。確か第8号以降、毎号にわたりいただいています。これだけ冊子の全てを読んでくださる方がある、ということに心から感謝したいと思います。
 よって、ホームページの記述を中心に整理を行いました。
 4時過ぎに目覚めたので、5時には机に着き、三浦哲郎の短編を読みました。
 3氏に礼状などを書き、投函しました。


 
書くため0706(2015.07.06)
 パソコンを見ているとひどく疲れるので、今日は辞めにしました。
 忍ぶ川に収められた短編を読んではみましたが、頭に入ってきません。作品内容が悪いということではなく、気分がひどく落ちています。
 三浦哲郎の本を7冊頼んでいたうち、3冊が届きました。


 
書くため0705(2015.07.05)
 読んだり書いたりを一人でやっているうちはいいとして、発表しようと考え、そのための同人誌に入ったりすると、面倒な目に逢ったりするのですね。
 そりゃあ、最初から最後まで一人でやるとか、最初から新人賞に受かるとかした場合はこの道に入ることもないのでしょうが、地域の同好集団とも言うべき同人誌、これにもやはりしきたりがあるのですね。
 村社会の煩わしさを、わざわざ体験しに行くようなものでもありますが。本当にムラ社会そのものですね。迂闊に入ったら、出るに出れないという。
 しかし、能力のない者にはこの道に入るしかないんですね。村社会は、何ともぎらぎらするほどの現実的社会です。現実から逃れようとする者が、ここに住む。ナント、皮肉で滑稽な図であることでしょう。
 ムラ社会の話はともかくとして、文芸に染まるというそこからして、そもそもヘンテツなことであるという、この方にも問題はあるのでしょうか。


 
書くため0704(2015.07.04)
 意見がまたきました。もう、昨日までで討議は終えた筈のつもりでしたが。
 こういうことをやっていると、いろいろあるものですね。やっている方も脛に傷持つ身には違いありませんから、四方から来る弾や矢に敏感になってしまうというのは、まるっきり修行が出来ていないことの証拠をばらまく、というものですね。
 同人誌などという、こんな厄介なことをやっている同輩は、いったいどのくらいいるのでしょう。例えば日本の文芸年鑑などを見ても実体が掴めているのやら。文芸誌と銘打つものだけで約500誌ほどあります。もっとも、誌や句や歌誌というものは除いてのことです。1誌30人として、15,000人ですか。多いのやら多くないのやら。もっとも、数がどうのこうのではありませんが。
 みなさん、しっかり人間を見つめようとしておられるのですね。人間というもの、どっこい奥が深くて、いろいろの波長の方がおられるものです。
 私の悪癖は、個人<人間<人類<生き物<万物<神(言い方が悪ければサムシング・グレイト)<摂理、などということをすぐに考えてしまうことにあります。


 
書くため0703(2015.07.03)
 海の問題についての対応案(最終)を作成し、送付しました。
 種目を絞ることのほか、事務的事項も中身を絞る必要があるようです。例えば、次号の予告などは3行以内ぐらいに。フォントも小さめに。
 等々と考えると、これまた面白いではないですか。残念なのは、同人が全国に散っているため、一堂に会することが出来ないことです。メールや文書ですと、どうしても空気が伝わり難いし、意見を聞き難いものです。ここは我慢ですね。
 海の体制も、然るべく「主宰、編集、会計」に分担すべきところですが…おいおい是正していくよりほかありません。
 要は作品ですから、事務的事項にヤワなことを書き過ぎているので、ここも誤解を生む元になっているのでしょうね。「実に実に、緩い作品はなく、神経を張り詰めている作品ばかり」なのですが。形の上などから、いろいろ言われるものです。


 
書くため0702(2015.07.02)
 お礼状などを5通書き、今日最低の仕事は出来たのか、と思うところです。
 内容はいろいろですし、感想をくださる方も様々ですので、その内容に合わせるかたちでハガキを書きます。パソコンで打ち、書状にする方が上手くいきそうなのですが、ハガキでのお礼、というさりげなさも必要です。
 メールでとなると、やはり細かく、しつこくなってしまいます。パソコンで書くということも、上手に使い分けないと良し悪しとなるのですね。


 
書くため0701(2015.07.01)
 昨日は、井本氏の「フランス語で俳句」入選のビッグニュースに、おおいに力付けられることになりました。やはり、「知情意を兼ね備えた人に果報はある」のですね。もっとも、現実世界(社会)を見ていると、「エゴイストに果報はある」かの如き、収拾のつかないほど乱れた様を見せられてばかりいるようですが。
 さて、海の問題について改めて考えるに、1)海二期は、海(一期)の難破消滅の中から数人が取り残されて始めた会であり、2)多くの問題点を抱いたまま、取り敢えず誌を発行している、3)手法は引き継ぎも何もないところから、手探りで生み出した個人誌的な手法に近いもので、小まめにやり過ぎているという現状があります。
 4)問題は、福岡地区に人が少ないこと、5)故に会の形が出来ずにいること、6)会計の適任者が必要なこと、7)発送作業等の共同化等が必要なこと、8)出来たら主宰(知情意を供えた人物でなければならない)がいる環境の設定が肝要なこと、といった同人誌ならではの通常の実体を持つことが先でしょうね。
 つまり、「全貌が個々には見えてこない」という、ここですね。
 少なくとも、集まって話せるという体制になれば、ことはずい分よくなると思われ、些細なことから順に、解決がなされていくのではないだろうかと思われます。


 
書くため0630(2015.06.30)
 やれやれ、たかが同人誌ほどのことで、感情を波立たせるのも変です。故に、こういう類の話には乗らないことがベストなことだった、と今になって思います。
 3週間ほど前の文芸の会でも、これは特定の個人の話ですが、「ビッグになると、誰のお陰であったかも忘れてしまう」ということが言われていましたが、同人誌の世界もまさに同じですね。いや、モノ書きというそのものが、他へのジェラシーから始まり、それをモチベーションとして生き継ぐのかもしれない、という筋立ても大方間違ってはいない、とも考えられます。
 悟りや救済に向かうべき宗教でさえ、好みが異なれば平気で殺し合うという現実を、嫌というほどに見せられていますから、モノ書きというエゴイストが、和気藹々と行くというのは土台無理な注文であるのでしょう。
 箸の上げ下ろしにも神経を尖らせるという嫁と姑の関係の如く、昨日のナントカは今日のナントカ。これは、海(一期)創刊号のなかに出て来る言葉ですが、モノ書きと称する老いも若きも、まさに人間です。
 文学・文芸は、人間の醜さ、愚かさ、悲しさを書くでしたか、そういう意味だったかと思いますが、人間臭さを抉り出していくことを競うこの作業は、まさに戦場の前線に立つの思いです。やはり、やれやれ、然り、というべきですね。

 などとボヤイテいたら、
「井本さんがフランス政府の募集する『フランス語で俳句』に入選とか、ビッグなニュースが飛び込んできました。サスガです。


 
書くため0629(2015.06.29)
 今回の「海の対応案」を作成し、ともかく出しました。動かないことには、先に進みませんから。まあ、当初の提案をしない方がベターだったのかも知れませんが。
 それでも、「俳句と掌編小説を削除」したのは、よかったのではないかと思われます。そもそもが、埋め草として設けた鬼っ子の種目でしたので、用もないのにロビーをウロウロされるのも、気が散ることになりますから。というところで、種目を削ると経費の収入の部に影響が出るかもしれない、という危惧は残りますが。


 
書くため0628(2015.06.28)
 時差ぼけ気分でなかなか焦点が絞れませんが、海の方向性を提案するための資料作りに入ることにしました。第二期以前の海(第一期と呼称)や、他誌のあり方など、参考にすべきをとりまとめ、出来るだけ簡便な資料を作りたいと思います。
 1)海のそもそも、2)他誌の例、3)種目として残すもの、4)種目から外すもの、が骨子になると思われます。あまり現状とは離れない方向でのまとめを心掛けたい、と考えます。


 
書くため0627(2015.06.27)
 海の方向性についての案が次々に浮かんでくるのを中途で押しとどめ、父の10年祭に臨みました。1日間を空けたことで、少し客観的に考えることができたようで、この時間も無駄ではなかったのだろうと思いました。


 
書くため0626(2015.06.26)
 個人が同一冊子の中で、複数の種目、複数の作品を書くことについての意見を求めたところ、熱心な意見が寄せられています。大切な問題であるのでと、期日を7月3日までとしたのですが、2日間で主要な意見は寄せられた感があります。
 明日は壱岐行ですので、戻り次第、意見が出揃ったと見ることができれば、早めに意見の集約を行い、海の方向性を決めたいと思います。


 
書くため0625(2015.06.25)
 海第14号の感想をいただきます。ありがたいことです。
 以前からもいただいていたいた感想「個人が複数の作品を掲載しており、雑駁な感じが否めない。作品に賭ける真剣味という点でも、いかがなものか」というものがあります。かつて、同様の感想をいただき、中央からも、「もし良い作品があったとしても、他の作品との兼ね合いで評価が薄められてしまう」という評もいただいておりました。
 海の伝統として、「表現し、発表する」ことに目標を定め、現在の型になっておりますが、以前にも行ったように同人の意見を再度聞き、対策を検討したいと考えます。


 
書くため0624(2015.06.24)
 ふと思い付きました。思い付くというのも変な話ですが、海第14号には、「仮面人形」の母と「リメンバー・パールハーバー」の母が、対照的な姿で登場しているのです。
 私にとって、いずれもが心の内外、生活の内外に量り知れない影響を与えています。創作ではありますが、母は、女性はまさに強し、という典型がここにありますね。
 気の弱い私や、世間の人たちは、この強力な竜巻に、どれほどの影響を受けてきた(いる)のか、考えただけでも気が遠くなります。


 
書くため0623(2015.06.23)
 海第14号の感想を郵便でいただきます。ホームページに書き込んだり、お礼状を出したりと作業が続きます。やはり、当方が気付かなかった点などが書かれていたりし、参考になりますし、有り難いことだと唸ります。
 文章にこれでよい、ということはありません。見方を少し変えただけで、新たな意味が分かったり、疑義が生じたりします。編集に関わっていなかったときには気付くことさえなかった点を、教えていただくことになります。
 通り一遍の見方、考え方だけではないものがある、と知るだけでも有り難いです。
 

 
書くため0622(2015.06.22)
 海第14号の会計を済ませ、会計報告を出しました。はて、了解が得られますやら。
 同時に、海第15号からの委員の構成を変えました。井本氏に加わってもらい、福岡地区が手薄な現況を少しでも改善していきたいということ、及び海の運営状況を一人でも多くの人に理解していただきたいという意を込めて、ということです。
 海第14号についての感想が届きます。「あちらこちら文学散歩」には、写真や図を入れたらどうかという意見には、納得しました。と同時に、何故当初からそうしなかったのだろう、という反省が出てきました。やはり、複数の目で見て行かないことには、初歩的な勘違い、思い違い、思い込みが生じてしまうものですね。


 
書くため0621(2015.06.21)
 海第14号の感想をメールでいただきます。読んでいただくということは、ありがたいことです。途中でへばりそうになっていたことも、癒やされます。
 引き続き三浦哲郎を読んでいます。「ユタと不思議な仲間たち」は児童文学として書かれたとのことですが、「座敷わらし」というものを中心に据え、この世に生まれ出なかった存在を主人公にし、とても興味深いものになっています。書かれたのは昭和46年となっていますが、現在にも何も古びていない物語です。この間引きによって生を断たれた、赤ん坊の「死者としての時間の扱い方」、「空間の用い方」に共感を覚えました。


 
書くため0620(2015.06.20)
 海第14号が着いたという関係のメールが入ります。返事をしたり、福岡地区を強化するために、新たに井本氏を委員に加えてもらえないか、という相談を持ち掛けたりしました。海第14号は、新たな抒情詩人二人の加入によって、これまでとは違う誌に変わったかの感があります。内容的には、ほどよいバランスを生んでいると思います。
 少し気持の余裕が出来たので、積み上げた本の中から三浦哲郎ほかを読んでみました。その三浦哲郎の「忍ぶ川」ほかの短編、「拳銃と十五の短編」などは、解説に「古風な作風」とあるように、誠実な分かり安い表現で描かれ、「こんなに鮮明に描くという書き方もあるのだ」という原点に返るという作品を読ませてもらいました。


 
書くため0619(2015.06.19)
 海第14号についての感想が届き始めました。海全体が良い方向に変わりつつあるのではないか、というものが多いようです。有り難く思います。
 マンネリになり兼ねないところを、最近入会された方を中心に、新鮮な風を吹き込んでいただいたことによるものでしょう。まず、読もうかという気になっていただいた方には、感謝しきれない思いがあります。
(付記)
 こういう記述の後で言わずもがなのことですが、次期芥川賞候補作は文學界掲載作品3点、新潮掲載作品3点の計6点となっています。
 直木賞候補作は、6点のうち3点が文藝春秋刊となっています。
 何か釈然としない思いを持つ方は、他にもおられましょうか。 


 
書くため0618(2015.06.18)
 朝の5時からホームページの書き換えの作業に掛かったのですが、「アップロード出来ません」というメッセージが出て、作り直しです。
 これだけの大量の処理をしたときに限って、こんな冷たいメッセージが出るのですね。ともあれ、作り直して事なきを得た? つもりです。
 海のことは、しばし忘れて他の本でも読みたいところです。


 
書くため0617(2015.06.17)
 海の発送作業を行いました。ヤマトのメール便が7月で廃止(一般には3月末で廃止)されるので、これまでと多少異なった方法で行ったこともあり、実質4時間を要しました。やれやれですが、中身がうまくいっていることを祈るものです。
 発送が終われば請求に基づき支払いをし、それが終われば会計報告を作成します。
 会計報告に異議がないとわかった時点で、第14号が終わります。いえ、評や感想が届くのはその後になるのですから、対外的にはこれが始まりだということになります。
 それに、ホームページなどの整理が必要になります。


 
書くため0616(2015.06.16)
 海は明日発送ということで、昨日準備を終えています。念のため「ウミ」の口座の確認に行きましたが、9割はOKというところです。
 取り急ぎ投稿分を1つ作成、送り込みました。最近第2次での敗退が続いていますが、とはいえチャレンジしないことには始まりません。編集作業人をしているときより、普通の書き手に戻れるとき、これが一番です。
 編集作業も、発送、会計報告と続き、次号へのアナウンスときます。元々、私には向かない仕事ですし、やりたくない役目でもあります。主宰を置かなかったということは、せめてもの救いです。が、無形の責任、経済的補填など必要が生じますね。
 もっとも、こういう役目により教えられることは多くあります。他誌を受贈し、海とは違う息吹き、世界観を感じることが出来ます。これは何物にも代えがたい経験になりますから、発行責任者の後継者があれば、と日頃考えるところです。


 
書くため0615(2015.06.15)
 宛名シール、送付文書、同人宛送付文書、懸案事項書き出しなどの印刷を終え、海の発送の準備が整いました。
 この間、投稿分を一作ぐらいはものにしたいものです。


 
書くため0614(2015.06.14)
 ホームページを修正するための準備(作品をPDFにする)を行いました。第14号送付の文書、懸案事項についての文書、原稿・冊子作成要領等の準備も行いました。
 当日に向け、印刷と宛名シールの印刷が残っています。
 1号、1号を作成するたびに、新たな問題が出てくるものです。


 
書くため0613(2015.06.13)
 はてさて、17日の発送に臨めそうなかたちだけはこしらえました。後は、粛々と冊子を発送することです。
 ホームページの更新も必要になりますね。


 
書くため0612(2015.06.12)
 気持が乗らないままですので、こんなときは海の懸案処理をするのに最適なのかもしれません。同人費のこと、編集レイアウトのこと、外での活動のこと。他にもあるのでしょうが、次号第15号の原稿作成案内に向けて、最低これは外せないことです。
 先人から「生真面目過ぎる」というクレームがありましたが、編集作業現場に関わると、生真面目でいないと冊子など出来ないのです。この編集作業人が「愛想良く、無頼」を決め込んでいたら、どうなりましょう。普段、実に細かいことにも関わっている訳で、「いいよ、いいよ」では進まない話になります。この担当者が、新聞種ばかり追い掛けていくようだと、実に楽しくはありましょうが、組織の態を成さないことになるでしょう。
 このくだらないとも思われがちな部分こそが大切であり、「細部に神宿る」という言い方をする場合もあります。そうです、「言いたくないことも敢えて言い、馴染まない人には辞めていただくことを直言したりする」顔の役割もありますから。


 
書くため0611(2015.06.11)
 壱岐への葬儀に出向きました。本も持参したのですが、気が晴れず、とうとう1頁も捲ることはありませんでした。


 
書くため0610(2015.06.10)
 6月17日の海発送を前に、3点ほど詰めておく必要のあるものがあります。
 急遽登場した(1)文学フリマにどう臨むか、(2)編集は現在のままで行くか、それともアクセントを付けるか、(3)ヤマトのメール便が廃止になる影響を被ることになる第15号の同人費額をいどうするか、というものです。
 (1)の文学フリマは、「ブース使用料要、販売用冊子は少部数しかない。準備や現場の対応に誰が臨むか」等の問題があり、見学に行くことはヨシとしても、ブースを出すこについては出さない方向で様子を見る、(2)編集にアクセントを付けるということは分かるが、何を主にするのか等編集担当者に負わされるには荷が重たく、作品を平等に発表するという海の主義に完全に嵌まるものではない。ただ、事務連絡的な部分はフォントを落とすなど、作品とは明確に区別する、(3)同人費額については、手元にも発行所にも何のデータがない中、シュミレーションのしようがないので、やむなく現行のままで行き、データが出た時点で考える、というあたりになるのかな、というのが現在考えられ得る線になりましょう。


 
書くため0609(2015.06.09)
 諸連絡をしたり、ホームページを書き直したり、いろいろあるものです。
 文学フリマの方も、売る部数、裁く部数がないという最大の理由があり、「不参加の方向」での様子見ということになりましょうか。


 
書くため0608(2015.06.08)
 印刷所での、海第14号の校正です。今回は(も)、3度ぐらい読んでいたのですが、さすがにプロの方、5カ所ほどの誤記(「、」や「・」や「線種」)を見付けてもらいました。最近の印刷所は、前後の意味まで読み込んでチェックをしておられるようで、たいへん心強いです。(これをされない印刷所もある中で)
 2時間ほど掛かりました。たいへん神経の疲れる作業ですが、この行程まで来たということの方をヨシとしましょう。
 というところで、夕刊を見たら「文学フリマ百都市構想」なる記事が。今年10月には、福岡でも初開催をするという。東京の文学フリマが全国に、ということのようですが、広がりを求めるのはいいとして、「売る」のは今一つの感ありですね。


 
書くため0607(2015.06.07)
 南風忌2015(北川晃二氏)の催しが、薬院のRead cafeで行われました。氏が逝かれて何年になりましょうか。1994.2.27 没とありますから、21年になるのですね。
 そういえば、寒い日のことだったと思い出します。それに、「魂はない」といわれた氏の通夜の遺体から、赤い火が抜け出し、スウッと昇っていったのを思い出します。
 今日は約20人の集いで、氏を偲ぶとともに、文芸交流会の様相でした。


 
書くため0606(2015.06.06)
 浮き足だってはいけませんが、私が文学の歴史古典を真面目に学んでこなかったのは、文芸軌道の編集後記にもあるように「ひょっとすると、ヒト最期の瞬間に立ち会えるところまで来てしまったのか」もしれない、という思いがあるからです。
 こう書くと、不勉強の言い訳になってしまいますが、私の関心がココから始まっていることで、今となっては説明のつかない奇妙なモノ書きの端にいます。
 ことを煽ったり、荒立てたりする気は毛頭ないのですが、そういう変化の最中にあり、ヒトが現実の場でいがみ合ったりしている間に、私たちを取り巻く大切な星の上での乱暴狼藉がヒトを除こうとしているのではないかと取るのは、詩人の風上にも置けない笑止に過ぎない話なのでしょうか。詩人の端くれとして、不気味な予感を覚えるのは…。


 
書くため0605(2015.06.05)
 読む、書くのペース配分がなかなかうまくいきません。文学、文芸というもの、計算どおりにいかないところが面白くもありますが。
 書こうとすると、どうしても前のめりになり本を手放してしまいます。もう少し読むことに重心を移すことが大切ですね。悪い癖はなかなか直りません。


 
書くため0603(2015.06.03)
 探していたノートが、ひょんな所から見付かりました。本当に探している最中には見付からず、まるで違うことをしていると出てくるものですね。
 やれやれです。いくら書き散らしのノートだとはいえ、拠り所にしていたもので、出現は有り難いものです。そこで、最近TSUTAYAやAMAZONで買ったり、注文した本のタイトルなどを整理することができ、落ち着くことが出来ました。


 
書くため0602(2015.06.02)
 印刷所との間で校正の日を決めました。それまでは、読みます。
 今、何故か小泉八雲を読んでいます。夢野久作、泉鏡花などをまとめて積んでいます。中上健次、大江健三郎、ガルシア・マルケス、三浦清宏、三浦哲郎、深沢七郎、ドストエフスキー、トルストイなど、この選択は何なのか自分でもよく分かりません。
 読んでは忘れ、読んでは忘れでしかないのですが、理屈ではなく、自分には感じる何かがあればいいか、と達観しています。森鴎外、夏目漱石、太宰治なども勿論あるのですが、読んでも血肉に出来る時期を失しているのでしょう。
 それより、最近の購入書籍を書いたノートを紛失。探していますが、必死になっているときには見付からない、ということにしています。


 
書くため0601(2015.06.01)
 海の原稿を印刷所に持ち込みました。予定どおりでいけば、13日までの週に校正、20日までの週に発送可となる運びだとか。
 約1週間は海のことを考えずに、他のことをしたいものです。
 ただ、メール便の廃止に伴い、今後の送付方法、送料がどうなるかです。多分経費が膨らむことになりましょうから、会費にどういう影響が出るかが気掛かりです。


 
書くこと0531(2015.05.31)
 明日、海の原稿を印刷所に持ち込みます。そこで、もう一度全体を読み返し、データに落とし、持参する資料の準備もしました。
 これで、しばらく自分の作業が出来るだろう、などと思うのですが、是非そうあってほしいものです。読まなければならない本、資料、返事をしなければならないことなど、山積みしているのです。編集期間というものは、特別ですから。


 
書くこと0530(2015.05.30)
 印刷所への持ち込みに、1日の猶予があるので、この間にすべきことをと受贈誌などを取り出してみましたが、簡単にはいきません。
 頭の切り替えが、ついてこないのです。受贈誌には礼状を出す関係で、ポイントだけでもとらえねばならないのですが、上手く回転しません。早めにしなければと、焦りが生じ、そうなると余計上手くいきません。


 
書くこと0529(2015.05.29)
 最後の読み返しです。これがまた、慎重になるものですね。
 何度も行きつ戻りつしながら、納得するまで進め、6月1日に印刷所に持ち込むという予定にしました。この間、まだ読めないのに、アマゾンで20冊近い注文をしました。


 
書くこと0528(2015.05.28)
 海の修正データを入力し、通し読みをしています。やはり、ペーパーで読まないことには感じが掴みにくいものです。ペーパーと修正後のデータを見比べながら、読み返します。これが最終作業となると、難しいし、迷いが生じたりします。
 出来るだけ誤記のないようにしようと、努めます。結構たいへんな作業です。慣れれば、余計に細かい詰めをすることになりますから。


 
書くこと0527(2015.05.27)
 編集委員による海第14号の最終確認の結果を得て、大元のデータを修正します。今回は偏りが見られますが、カタカナ文字の表記の直しが大半を占めています。
 本人校正には出しているのですが、最終確認で今回ほどの大幅な修正が必要となったのは初めての経験です。やはり、作者は「真剣に取り組んでほしい」としか言いようのない状態にあります。自身の表現内容は、突き詰めて考え、行う必要があるのではないでしょうか。それに、読み返してみれば簡単に分かる誤記が多いのが目立ちます。
 編集者まかせではなく、自分の作品にもっと愚直に向かう必要がありそうです。


 
書くこと0526(2015.05.26)
 海の委員による最終確認が行われ、戻ってきつつあります。これが揃えば、私の方でデータの修正を行い、今一度全体の読み返しを行います。
 7月1日の発行に向け、スケジュールが順調に刻まれています。


 
書くこと0525(2015.05.25)
 編集委員から、WEBでの修正事項の連絡がありました。予定を4日早めての連絡で、びっくりしました。それにしても、たくさん見付けてもらいました。
 早めに受け付けた分で、私の方でも緻密な受付を行っていなかったのですね。


 
書くこと0524(2015.05.24)
 原稿が手を離れたので他のことを、と思うものの急に転回はできないものです。読みかけた本もなかなか頭に入らず、割り付けたデータの方に気が向いてしまいます。
 あとがきをいじったり、表の体裁を変えてみたりと、今一つ落ち着きません。


 
書くこと0523(2015.05.23)
 海の全体校正に移り、しばしわが手を離れます。それこそしばし、ですが。
 考えて見れば、よくもまああんな体裁までに仕上がったものだと思ってみたり、作品の内容から見ると「もっと、もっと」というべき段階であるのでしょう。
 とにかく、係わっている時間の長さといったらありません。どれだけなのかと勘定しても、せんない話です。好きでやっていることですから。いやしくも芸術に、時間制限などない話です。命がけで突き詰め、自分を深めるためにやることですから。


 
書くこと0522(2015.05.22)
 冊子1冊分の中身をプリントアウトし、編集担当者に送りました。ペーパーそのものを読んでもらい、誤字等を修正しようとするものです。
 WEB上でチェックをしてもらう委員にも、メールでデータを送りました。
 ここまでが、編集の大きな作業になります。編集担当者でのチェックが済めば、印刷所に原稿を持ち込みます。6月下旬の発行を目指します。


 
書くこと0521(2015.05.21)
 全体の原稿が出揃ったので、頁を打ち、目次を作りました。168頁になりました。
 共通分、特に「あとがき」などを作成し、1冊の中身を定めました。書き終えたのが午前2時になったので、後の作業は翌日に回すことにしました。
 小説2編というのは少し物足りませんが、詩やエッセイが充実しています。


 
書くこと0520(2015.05.20)
 海の締め切り日です。19時現在、あと1つの作品が出るであろうと予測しています。今号もまずまずの内容になるのかな、という思いです。
 この間の妙な緊張がいけません。他のことに手を付けるには、半端な気分のままです。編集作業人というのは、まさに裏方の掃除人そのものですね。


 
書くこと0519(2015.05.19)
 海の締切が明日ということになりました。この時期は、何度経験してもたいへんではあります。慣れる、ということにはならないものです。
 今回はもう約一月にわたって作業をしているので、ずい分拡散されてはいる筈ですが、原稿量が多いという嬉しい悲鳴もあります。何も焦る必要はないのですが、この集中しなくてはという気分が、どうしても起こってきます。経験すればするだけ、文章というものの難しさに改めて気付かされるものです。奥深いものです。


 
書くこと0518(2015.05.18)
 海の締切が近くなりました。今号は、エッセイと詩の発表が多いですね。
 分かる範囲で頁付けをし、大方の目次の順番を決めました。勿論、新たに送られてきた原稿の割り付けをし、校正依頼をします。
 夕方は海の通帳のつけ込みや、入金のために郵便局に出向きました。
 全作家短編集の合評会の案内がきましたので、返事をしました。


 
書くこと0517(2015.05.17)
 海発行に必要なデータの整理作業(受贈誌の書き出し等各種)などをし、頁を作成するに当たっての準備を整えました。わが作品も読み返してみました。
 周囲には読まねばならない本を積み上げていますが。こう頭が固くなっては、一度や二度読んだぐらいでは理解出来ません。さらなる努力が必要です。


 
書くこと0516(2015.05.16)
 日本文学振興会から作品の推薦の照会があったので、昨年10月に設けた要領により、推薦しました。推薦はしても、同人誌から採られたことはないので、マスターベーションにしか過ぎないのでしょうが、それはそれです。
 海に作品を掲載するに当たっては、作者個々が「それなりの」「相当の」内容のものを掲載しています。と言うより、それ以上の「つもり」の作品を書いています。
 いつもいつも、文芸五誌からのみの候補作で占められますが、その慣習を必ず突き破ってみたいと、心意気は荒く大きいのです。
 三田誠広の「早稲田大学小説教室」を読むにつけ、そう思います。この歳になると、いかほどの作品を生み、発表してきたかということが気に掛かりますね。


 
書くこと0515(2015.05.15)
 掌編作品をようやく書き終えました。掌編といえども、難しいものですね。
 この間、アマゾンに注文していた「百年の孤独」(ガルシア・マルケス)、「拳銃と十五の短編」(三浦哲郎)、「長男の出家」(三浦清宏)ほかの6冊が届いています。
 併せて海の作品待ち、というところです。


 
書くこと0514(2015.05.14)
 海の原稿について、いつも寄稿される方でまだ連絡のない方に電話で尋ね、大方の内容が見えてきました。今号は、詩とエッセイのレベルが高いように見えます。
 小説の方は、休会者が出た関係で、1編の作品が掲載出来ないという残念なことになりそうです。小説と評論の肉付けがなれば、かなりのレベルアップとなるのですが。


 
書くこと0513(2015.05.13)
 海の原稿受付中です。校正も順調に戻ってきています。
 行き掛かり上、書かねばならなくなった掌編小説作品を準備しています。ちょっと立ち止まっている時期でしたので、転がり始めるには少し時間が掛かりそうです。
 一度辞めてしまうと、なかなか戻れなくなるということがよく分かりますね。


 
書くこと0512(2015.05.12)
 校正を終えた後の、海の原稿が届きます。かなり形が見えつつあります。
 79歳の方から「同人誌とは何ですか」という問い合わせがあり、形や内容のおざっぱなところを説明しました。聞くところによると、どこかの出版社が出版を勧めるので頼んだ(?)ところ、「お金が必要だと聞いてびっくりした」ということらしいです。何だかおぼつかない感じではありますが、本屋で同人誌なるものを見比べた上で、どこかに入りたいということのようでした。ワープロやパソコンを使わないということでしたが、ここが問題になりますね。
 私たちより4、5年上の方たちは、職場でワープロやパソコンを直接扱うことから免れた、というケースも多くあったようです。


 
書くこと0511(2015.05.11)
 文学やるぞ、の掛け声のもと、まず「真剣に読むこと、読み返すこと」に気合いを入れ、取り組んでいます。漫然とではなく、「やるなら、まともにやろう」の気持になりました。どこまでやれるかはともかく、「やってやれるところまで」のつもりです。
 海の原稿が入ってくれば、即対応しています。


 
書くこと0510(2015.05.10)
 いつもいつも「文学音痴」を標榜してばかりいるのも、情けなく思えます。最近の流れを少しだけ落ち着いて眺めると、このままの我流を貫くのは邪道かと思えるようになりました。ではどうするか。どれだけ時間と労力を要しても、文学の何たるかに踏み入り、歩き、よじ登らないことには「我流の気紛れ」を続けることになります。
 逃げずに、正面から入らねばなりません。わけのわからない恥ずかしさばかりを負うのでは、何事にもなりません。
 頭が固くなってからですが、「読み、感じ、追求し」という姿勢をものにしなければならない、と思うに至りました。陽羅氏の「絶対文感」、三田氏の「早稲田の講義録」を読ませていただいている中で、「愚直に求めていく」ことなしには、「時々の思い付きや、馬鹿話だけに終始する」という末路しか見えないということを感じました。
 読んで忘れ、また忘れても、食いついていかねば道はない、と思います。今回大いに恥を書きましたが、一歩一ミリずつでもまともな歩みをしなければ、と思い知らされました。この煩悶の中で、ただ一つだけ知り得たことがあります。「文学は大いなる遊芸である」「遊芸の奥に、深みがあり、軽みがあり、侘びがあり、寂びがあり、道がある」ということを確認できたことです。
 もの書きは「遊びだろう」と言われ続け、自らも思い、その都度言葉に詰まってきましたが、「遊びでよいのだ」「命がけの遊びなのだ」ということを確認することができました。


 
書くこと0509(2015.05.09)
 出た結果には拘りつつも、いつまでもそれを追わないことだと考えました。自己責任ですから、自虐になっても、増上慢になってもいけません。
 次、次、また次という気持で冷静に、一歩ずつ、進めて行きたいと考えます。一喜一憂する暇などないのです。確かに文学の素養は不十分です。Aが、Bが「かく言った」という箇所でいつも躓いています。しかし、躓かないことには進めません。
 やはり、恥を書き続けるほかないのです。それが嫌なら、最初からやっていない筈です。訓練が必要であるのは判りますが、訓練も実践も同時並行でやらざるを得ません。直感も生かせる筈です。総動員して進み、恥を書き続けることになります。私の場合は、またそれでもいいと思っています。当分方向は定まらないかもしれませんが。


 
書くこと0508(2015.05.08)
 海休会希望の申し出があったので、対応を相談、本人にはその旨の連絡をしました。たいへん残念なところですが、事情が険しそうなのでやむを得ません。
 これが問題とは言えないのかもしれませんが、各号ごとに何かがなかったということがありません。私の力不足は否めません。やはり文学に係わる集団ですから、文学に長けた人材が中心にならないと求心力が出ないようです。そうです、その人物を慕って集まるという力量も、度量も兼ねた人物の登場が望まれますね。
 海掲載予定の頁は130頁ほどにはなろうと予想していますが、まだ未定です。20頁の減は確実ですので、今回は取り止めるつもりだった掌編小説にも、これから取り組んでみようかなと考えています。


 
書くこと0507(2015.05.07)
 文学街330号「女王蜂の飛行」については、活字になったこの作品を読み返す力が湧き上がらず、悩みました。「読み物に堕した」「今の緊迫した世情とかけ離れ過ぎている」「性の露骨な描写に終始している(ポルノまがい)のではないか」といった言葉が、自分を責め続けておりました。
 それも、これが何故か近作で、なぜこうなったのかの意識付けをなし得ないまま、発表してしまったことについて、「いくら恥を書くと宣言したからといって、もう少し書きようもあったろうに」と思い、落ち込んでしまいました。
 陽羅氏、畠山氏、井本氏ほかからは、「試作としての(であろう)激励」をいただき、どうにか落ち着くことができました。根保氏からは、ポイントを突いた評をいただき、心地良く納得しました。みなさまには、心から感謝する次第です。
 それにしても、発表するということの難しさを今回改めて知ることになりました。書くという行為の最中にはそれほど感じなかったものが、日の元に晒されるという段階にくると、辛くもあり、しかしこうやって進ませていただく、という無形の何かを得た思いがします。「だからこそ書く」という楽しみさえ、併せて得た気がします。


 
書くこと0506(2015.05.06)
 海の方、文学街の方と、やり取りが急に増えました。
 海発行のためには、全体への目を持たねばなりません。1に裏方、2に裏方、3に裏方で、4に書き手という力配分です。多くはない人数ですが、それぞれが個性ある存在ですし、貴重な表現者です。その引き出しを上手に作ることを考えます。
 投稿する誌の方は、作者としての自分が大きくなります。何を書いても、ベターにはなかなか到達しないものだと思えます。それでは、何をしなければならないかです。
 慌てて資料を読んだり、他誌作品を読んだり、作家の作品を読んだり、と心急きながらですが、新しいものが得られないか、書けないか、と悩むばかりです。
 陽羅氏の絶対文感を眺めながら集めた作品も、読んでは忘れ、途中までしか読めず、といった繰り返しの中にいます。山高し、道遠し、の思いです。 


 
書くこと0505(2015.05.05)
 全作家短編集のゲラ刷りの校正をしました。これも、集中が必要ですので、後一度通し読みをし、送付したいと思っています。
 同人からのメールへの対応、連絡先の変更などの処理をしました。


 
書くこと0504(2015.05.04)
 海の原稿の方に気持が奪われています。今号は、原稿の出方が早いので助かります。もっとも、いつも出て来る3〜4人の原稿待ちという状況です。
 わが「女王蜂の飛行」に対し、井本氏から好意的な感想をいただきました。そして、「ペーソスが足りなかったのではないか」とも。なるほど、詩人の感想は目の付け所が違う、と納得しました。作品にペーソスを加味するすることが出来れば、ずい分味わい深くなったことだろうと、そこは努力目標にしたいと思います。


 
書くこと0503(2015.05.03)
 割り付けた原稿を含む資料を送付し、一息です。第14号は、詩の作品が多く、面白いのではないでしょうか。
 今の時期は、「書くより纏める」の方の度合いが多く、しかし、この作業はやってみなければ判らない面白みがあり、自分の力にもなるものです。
 全作家短編集第14巻の、校正刷りの確認作業にも入らねばなりません。


 
書くこと0502(2015.05.02)
 文学街330号を、関係諸氏に送りました。陽羅氏から励ましていただいたお陰で、ずい分気分が楽になりました。作品を出した後は、落ち着くまでが大変ですね。
 海の新たな原稿が入りましたので、割付の作業を行っています。明日には、校正依頼の資料が出せそうです。


 
書くこと0501(2015.05.01)
 文学街330号に掲載してもらった「女王蜂の飛行」ですが、何だか場違いなものを発表したのではないかという思いで、落ち込み、悩んでいました。
 そこに、陽羅氏から励ましの連絡をいただき、恐る恐るもう1度読んでみました。奇妙な作品には違いないのですが、一言の励ましに奮い立たされました。有り難いことです。お陰で、また何とか前を向いていけそうです。
 海の作品がだいぶ集まってきました。寄せられた順に割り付けをし、作者に校正の依頼をしています。こうやって、曲がりなりにも進められていることを嬉しく思います。こういう結社誌には、中心の核になる人がやはり必要ですね。適任の人材が現れないものかと、いつも待っているのですが。
 全作家短編集第14巻の校正刷りが届きました。校正の前に、経費の払い込みを済ませました。やっている自分の気分が不安定なときでも、こうしてまず理屈抜きに、作業を積み重ねていくことが大切なのだろうと思ったところです。


 
書くこと0430(2015.04.30)
 詩と画の原稿が届きました。これをどう処理し割り付けるかというと、画の方をスキャンし、切り抜きます。この作業が意外と難しいのです。
 スキャンしたイラストを、詩文の中に埋め込んでいくというものです。パソコンに不慣れで要領がよくないのか、1日を要するのです。
 内容が明るい作品なので、イメージを出来るだけ生かせるようにと考えます。


 
書くこと0429(2015.04.29)
 世の中がざわついていますが、このようなときこそ浮つかずに、読む、書くを続けるクレバーさを持つことが必要であるのかも知れません。
 文学、文芸、その他芸術は、あの戦中を越えて残ったものですから。こういうときにも、決して感情を乱さず…と書いて、少々辛くなりました。


 書くこと0428(2015.04.28)
 海の編集作業の続きです。わが作品の見直しです。
 世の中、本当に殺伐としていますね。こう世の中が逼塞していると、夢だとか、展望だとかが描き辛くなってきます。
 他誌の皆様は、どのようにお考えなのでしょうか。
 浅田次郎氏が紫綬褒章とのことですが、「いつも小説のことばかり考えている」という姿勢には頭が下がります。私など、雑音ばかり考えてしまいます。


 
書くこと0427(2015.04.27)
 文学街330号が届きました。何しろ、どこにも掲載しなかった「女王蜂の飛行」を掲載してもらっていますが、同誌のレベルを落としやしないかと心配です。
 群系第34号も届きました。「昭和戦後の文学」という特集があります。


 
書くこと0426(2015.04.26)
 海の編集作業の続きです。少し間が出来ました。本当にたいへんなのは、5月20日の締切前後あたりから6月20日頃までになる予定です。
 その間、読む、書くの方にも身を入れていきたいと思います。
 又吉直樹の小説「火花」が掲載された文学界2月号が再増刷で4万部の創刊以来 初の大ヒットを記録しているそうです。
 単行本も、35万部とか…。第28回「三島由紀夫賞」の候補になっています。


 
書くこと0425(2015.04.25)
 海の編集作業の続きです。受贈誌への礼状も出しました。


 
書くこと0424(2015.04.24)
 笹原氏から、詩4編が出されました。海へのことばもなかなかです。
 笹原氏のNHKハート展入選の記事案を作り、確認の依頼をしました。入選作品の詩文が発表されていないので、これも依頼しました。
 かなりのペースで第14号が埋まりつつあります。


 
書くこと0423(2015.04.23)
 この2〜3日、かなり妙なことを書き込んでいますね。嘘ではないのですが、「新たな文芸・文学・芸能・芸術」なるものが、そう容易く成るとはとても思えないことです。「文芸・文学・芸能・芸術」とは、はたして人間だけが登場し、人間だけを相手にするものであろうかと考えたとき、「どこか相容れない」部分をずっと長い間感じてきたことです。それに、科学、哲学、神秘学などとどう違うのだろう、となると明確には答えられないものです。幼い頃、何の学問も知恵も持ち得なかったであろうとき、必死で空を仰いでいたものです。そのとき見えていたもの、聞こえていた音、判ったと思っていたものなどの一部でも取り出すことが出来れば、と思うのです。
 あれは、本当に何だったのだろう。あの穏やかな音、風景、気分、時間は…。
 海の原稿、高岡氏の小説が出てきました。うまいですね。読後に、実に「よいもの」が残ります。「山も谷もあった上での、感動」と単純に言ってしまえば、感じる方の表し方が良くないという反応がくるのでしょうか。
 また話し転じて、願わくば、海にも女性の情念を書ける女流がほしいところです。何故なのでしょう、伝統的に女性には縁のない誌でありますね。


 
書くこと0422(2015.04.22)
 わが昨日の記述が書き放しになってしまい、このままでは意図するところが曲がって行きかねないな、ということで続きを書くことにします。
 文芸・文学・芸能・芸術等々という「実学・実業」の反対にあるものは、「文化的な環境、理解、伝統」などのあるところや、伝えられたところに芽吹くものであることは言うをまたないところですが、時空の「種」からでも芽吹くことがある、ということを付け加えねばなりません。確かに、文化的環境に、文化的DNAを引き継ぐことは大切なことではありますが、であるが故に、引き継いだ文化やDNAの範囲を越えることは難しいでしょう。阿川佐和子氏が父が築いたものの上に次なるものを生もうとしても、父を越えることは困難でしょうし、そのプールの中で泳ぐことになりはしないでしょうか。
 私が目指すのは、新たな文芸・文学・芸能・芸術というものです。その肥やしは、宙空とキャッチボールをしながら、得ることになるのです。わが過去において、いや未来においてなした(なすであろう)種から直接いただくのです。そう、必死に手を伸ばせば届くという仕組みになっている筈ですから。
 これは、ハングリーな者のみに見えるオーロラなのかも知れません。みんな、一等当初の場合はそうして得たに違いないのですから。それにしても、開拓者には試練や困難が待ち受けているだろうことには違いありません。


 
書くこと0421(2015.04.21)
 戦後70年ということを考えていたら、詩句がふつふつと浮かんでき始めました。何も戦後70年に合わせようというつもりではなく、戦争というものが、言葉が、イメージを投げてきます。あまり露骨にならない程度にと、押さえつつではありますが。
 私の場合、詩句は「そこらから立ち上がってくる」というか、「イメージとして迫ってくる」というものを、掴み取ることにします。ですから、あまりクレバーではないのがわが詩句の特徴です。これをどう仕上げていくか、に掛かっていますが。

 このところ、相次いで「あんな作家 こんな作家 どんな作家」(阿川佐和子)や「家の履歴書」(梶山寿子)などを読んでいましたら、作家・芸能人たる種族は、何という富裕階級に属していた(いる)のかということをまざまざと見、これじゃあ庶民のわれわれがとても敵う訳がない、と淋しい思いになりました。とにかく出自が違いますから、囲まれて育った文化が違います。
 辻井喬なども複雑な生い立ちではあったのでしょうが、大物政治家で実業家の内縁の妻の子(後に長男となる)として生まれます。勉強が嫌いで、中学受験には全て失敗し、府立中に入り、東大に入るという経歴です。卒業後は、共産党絡みでの職を得ていましたが、結核療養に入ります。治癒後は、父の秘書を務め、百貨店経営に当たりますが、幼い頃から憧れていた執筆活動に入り、やがて実業界から身を引く、というものです。世界が違うな、という思いです。
 ただ、上岡龍太郎の芸能界からの58歳での引退(2000年4月)の潔さと、その後全く復帰の姿勢を見せないというところは、痛く感動しました。ただ1度、2007年の横山ノックの葬儀で弔辞を読んだだけといいます。(その弔辞が実に胸を打ちます)上岡氏本人は高校卒ですが、父は京大出の人権派の弁護士、母はお茶の水女大出という、DNAを継いだものか、有り余る才覚をほしいままに発揮し、颯爽と自ら幕を引きます。
 文芸・文学・芸能・芸術等々という世界に生きる人々は、まさにタレントたるべく、出自も、環境も、多少の揺れこそあれ、まるでわれわれとは違うものを持ち来たった運命の人たちなのだろうか、と読むにつれ(悲しく)思いました。


 
書くこと0420(2015.04.20)
 和田の遺稿文の書き出しを、2日掛かって終えました。「茶色の旅」とあったタイトルを、中身にふさわしい「リメンバー・パールハーバー」としました。
 戦後70年ということに拘ったものではなく、真珠湾を訪ね、アメリカの見方と日本の見方の違いをまざまざと体験するということと、今の日本の変容について触れたものであることとで、そう改題しました。頁数もかなりあり、8頁を数えました。
 自分にも、このような素材の持ち合わせがあれば……と思ったりしましたが、そこはわが工夫と研鑽が必要なことであろうと、努力目標にしたいと考えます。


 
書くこと0419(2015.04.19)
 海第一期の詩の書き出し、和田の遺稿文の書き出しを行うなど、海の準備に入りました。現在約70頁が埋まっています。
 これからどんな原稿が出て来るのか、興味あるところです。どう低めに考えても、150頁というあたりでしょうか。今回から、送料の心配が入ります。


 
書くこと0418(2015.04.18)
 海の原稿が本格的に出てきだしました。井本氏の「あちらこちら文学散歩」はなかなか面白いものです。何しろ、御自身の見たままが書かれていますから。それも、舞台はフランスから始まります。海の内容に、より文学性が加わり有り難いところです。
 この分で行くと、当分の間連載となるでしょうから、乞う御期待ですね。
 詩も本格的になりました。群青氏も詩や劇を書かれるそうですから、井本氏、群青氏、笹原氏、鳥井氏で、誌面が大幅に刷新されんことを期待します。
 海第一期には優れた詩人が在籍されましたから、その優れた作品を再掲することも始めて見たいと思います。
 小説の方も、レベルを上げていきたいですね。一つ望むとすれば、女流の小説が加わることです。女性ならではの情念が入ってくれば、海の全体も「より粘りのあるもの」に変われるのでしょうが、こればかりは都合よくは行きません。
 勿論、牧草氏、高岡氏、赤木氏という現在のメンバーでかなりのレベルの作品が書かれてきましたから、より以上のアップといきたいものです。
 エッセイでは、上水氏、原氏に大いに期待ですね。
 わが作品も、3度目の通し読みを終えました。


 
書くこと0417(2015.04.17)
 この数日来の煩悶から、少々抜け出しました。
 反語的ですが、「文芸だけが全てではない」「評価が高いだけが全てではない」「知識だけが全てではない」などと思えるようになりました。「いい文章を書くことだけが全てではない」、も付け加えましょうか。
 やはり、「いい内容を書くことが一番だろう」と思うのです。これは、自分の心と問答した結果がそういうことのようです。であるなら、「知識がない」「学がない」にそれほど拘る必要はありません。評価にも拘る必要はありません。
 わが信じることの出来る道、やはりこの道を行くことです。自慢も、傲慢もありません。文章を書いて、自慢したり、傲慢になったりしていた日には、本物の芸など見えてこないでしょう。芸は、「あくまでも高いものを目指し、真摯に努力する」ことです。
 今日ぼんやりと空を眺め、雲を眺め、空気の気配を感じながら、「行くべきように行くことが肝要だろう」、という言葉を聞きました。
 それは、まさに厳しい道です。踏み込もうとして踏み込み得なかった信じる道です。私には、「人間の悪を書く」という方向ばかりには向けません。人間としてと言うより、生かされているモノとして、やはり進むべき道がある筈です。
 憑きものが落ちた気がしないではありません。求める先には、「感謝の涙」がある筈です。ハートが第一です。例え、作品として甘いと言われようとも。


 
書くこと0416(2015.04.16)
 作品を読み、まず感動出来ないものは、私はとらないことにしています。理屈に勝り、知識に勝っても、感応するところがなければ、と思います。
 作者にそれを求めもしますし、作者としての自分にこそ課して行きたいと思います。ということは、たいへん難度の高いことを要求するのですから、先が思いやられます。芸とは何か、それは何を書くか、何のために書くか、に自ずと繋がるものだと思います。芸とは何か、を常に追い求めて行くことになります。辛いことですが。
 もしかしたら、たいへん楽しいことであるのかも知れませんが。


 
書くこと0415(2015.04.15)
 文芸・文学は、人間のための芸術であるのでしょう。犬や猫や秋刀魚や柿の木のためのものではないのでしょうから。(これには、多少割り切れない気持もあります)
 であるなら、自分が納得し、少なくともあと一人か二人ぐらいには納得してもらうにこしたことはありません。(自分のために書く日記なら別でしょうが)
 芸術であるためには、芸がなければならないでしょう。では、芸とは何でしょう。それが分かれば悩みはないのですが、やはり優れたものであることは確かでしょう。元々持ち来たった才能も必要でしょう。愚直なまでに一つのことを磨き上げる、という工夫と努力も必要でしょう。ただし、自慢することではありません。自慢ということが入るだけで、その空気は濁ります。むしろ、自分の愚かさや限界をさらけ出す、という方が当たっているでしょう。しかし、露悪とも違います。何でしょう。やはり芸です。
 文芸・文学ですから、文の芸です。私にとっては(他の人は違うだろうという思いが強いものです)、雲の形みたいなものです。水の流れみたいなものです。何気なく見過ごしてしまいそうな、一刷毛の雲。いわし雲。積乱雲。名前はどうでもいいのですが、見て、えも言われぬ涼味を感じたり、楽しさを感じたり、暑苦しさを感じたり、不安を感じたりするもの。水の流れも同じです。滴り、渓流、穏やかな流れ、枯れ川、汚物を包み込んだ流れ、逆巻く濁流などです。
 感嘆です。理屈抜きに飛び込んでくる感嘆です。
 説明など私には出来ません。ただ、涼味も、楽しさも、暑苦しさも、不安も、磨き込まれた伎倆に裏付けられた、確かなものということにさせてください。 


 
書くこと0414(2015.04.14)
 杉浦日向子、小路幸也、別冊宝島の本を読んでいたら、止まらなくなってしまいました。全作家第97号の本間氏の「遺失物」もよかったですね。しなやかな表現力というものを感じました。いつの間にか引き込まれていく、という良さがあります。「山があって、谷があって、落としどころがあって」という作品ではないのですが、読者を引き付ける魅力があります。これを才能というのでしょうね。
 私たちの書く作品は、どうも肩に力が入り過ぎ、読む方も肩が凝りますから。こういう何喰わぬ顔で、良いものを書かれると「ウム」としか言いようがありません。つまり、書き慣れた書き手の手垢の付いた作品が、重く感じられます。というわが作品も、「重く、重く」書いてしまい、「軽いものを重く書く」という部類になり、本間作品のように「重いものを軽く書く」という手法の前には、脱帽です。ただ、本間作品をこの手で2作、3作と読んだときにどうか、ということでしょうね。
 私の方も、書くに当たっては、今少し肩の力を抜き、伸びやかな作品にすることが出来るよう、研鑽しなければならないと思います。


 
書くこと0413(2015.04.13)
 杉浦日向子の「江戸アルキ帖」を読んでいると、見開きの奇数頁に日向子氏の江戸風景画(人々のスケッチが多い)があり、右の偶数頁に氏の文章があります。絵もいいし、文章もいいのですが、鷹揚な江戸人、せっかちな江戸人、粋な江戸人、のんびり時間を暮らす江戸人、貧乏でもネチネチしない江戸人がたくさん描かれていて、思わず「いいよな」と呟きます。面白いのは、現代の目を持った日向子氏が、スッと江戸の町に入り込み、隅田川や両国や外堀を歩き、雷門で手を合わせ、呉服屋をひやかしたり、天ぷらや穴子鮨や蕎麦掻きや金平糖を食べたり、銭湯に入ったり、ざるを買ったりします。氏自身、江戸と東京の行き来で時差ぼけになったりします。
 氏の人柄にもよるのでしょうが、江戸や東京の人々の暮らしは、一般的に「粋、のんき、せっかち、遊び好き、楽天家」ときていますから、羨ましいです。
 田舎の「貧乏性、遊び嫌い、心配性」とくると、なんと堅苦しい日々を送ってきた(今でも)のか、と悩ましくなります。これを生まれたときから続けてきたのですから、どれだけ異なった人種が同空間に生息しているのだろうかと、考えさせられます。
 話は変わり、モノを書くことが出来たときには充実感があるものですが、歩きに例えれば、きちんとした姿勢で歩いてこその満足感ならよいのですが、思い込みの我流では、やり過ぎるほど頑張ってもラチがあかないというか、逆の作用すら出かねないのですから、書くことでの満足も、人と内容によりけりなのかな、と思うこと大です。


 
書くこと0412(2015.04.12)
 今日もTSUTAYAで約20冊を衝動買いしてしまいました。杉浦日向子も2冊あります。読むことが追いついていきません。
 書くことの方は、内容はこれまでのままで、少し動いています。書くことが出来たときが、最も落ち着きますので、ここを重点に動かねばなりません。その書くことに当たり、必要な調べを怠ってはならないことです。が、出来ることからするしかないようです。あまり、形やリズムや配分に拘りすぎると、何もしないままになりますから。


 
書くこと0411(2015.04.11)
 杉浦日向子の「合葬」「お江戸でござる」が届きました。
 後は宮部みゆき、塩谷信男の本があります。こうやって資料ばかりを集めていますが、読む、書く、の割り振りを上手くしないことにはいけません。
 もとより、もっと基本的な資料もあり、これらも中途半端に手を付けたままです。赤松啓介、上野千鶴子もあります。読むべき文芸書もあります。
 多く送られてくる同人誌もあります。
 ホームページの更新や、ホームページからの情報確認もあります。
 どれも十分にこなしているとは言えません。海の編集もあります。やれやれ、要領を得ないまま、積ん読、つまみ読みが増えていきます。


 
書くこと0410(2015.04.10)
 杉浦日向子の「百物語」、「江戸アルキ帖」、「二つ枕」が届きました。まだ届いていないものもあります。これらが漫画だったことは嬉しいのですが、「百物語」そのものをと検索してみても、買える書物はなさそうです。関連のものとして、宮部みゆきの「おそろし」などを追加注文しました。
 こうやって、目に止まった中から選んで本を注文することにしています。新書はめったに買わず(買えず)、中古をTSUTAYAなどで求めることにしていますが、出逢いというものは味なものであり、気に入っています。


 
書くこと0409(2015.04.09)
 注文していたうちの一冊、「風流江戸雀」(杉浦日向子)が到着しました。漫画なのですね。杉浦氏が漫画が本業であることを知りませんでした。NHKの「お江戸でござる」を担当していた頃のことは知っています。10年前に、40半ばで亡くなったのですね。とても落ち着いた、茶目っ気のある江戸研究者でした。
 30枚の作品の方は、ちょっとまだ気持が熟していません。その気分がまとまるまで、しばしの時間が必要だと思えます。


 
書くこと0408(2015.04.08)
 海の締切りまでの間に、30枚のものを書く必要に迫られました。自分で書いてみたい、と思ったことですが。
 海掲載のわが作品を見直していますが、しばらく間を空けて第3回目に入りたいと思います。第2回目で詩と俳句は半分に削ることにしました。
 作品というものは、1月も空けて見ると、全く印象が異なってくるものですね。発表した作品を、他の方が読まれたときに感じる印象が、作者の思いとはズレるということが分かる気がします。作者本人が、間を空けることにより、多少は他人の目を持った読み手に変わるのですから、「創る」「書く」ということは簡単ではありません。


 
書くこと0407(2015.04.07)
 5日にはちょうど上京していた井本氏によると、新規入会希望者の群青(むれあおい)氏は「北九州の医師で、革命家、詩人、劇作家、すごい男です」ということで、実現すればたいへんすごいことになりそうです。
 海第14号の準備態勢に入り、今出来るところから始めました。やはり、このモードに入ると真剣になります。他誌に投稿するときも十分気を配りますが、自分たちが発行する誌となると、さすがに違うものです。良い作品の寄稿を期待するものです。


 
書くこと0406(2015.04.06)
 新規入会希望者のための資料づくりに、1日を費やしました。
 海の説明資料、冊子、出されてきた原稿の割付、現在の海の状況等々についての資料を作り、送付しました。その前に電話連絡をと思いましたが、何度掛けてもFAXに繋がってしまい、とうとうこちらは諦めました。
 新規の方が入ってくれるとなれば、心強い限りです。


 
書くこと0405(2015.04.05)
 海への入会希望の方から資料が送られてきました。詩を主に書く方だろうかと思います。何はともあれ、海への打診ですから嬉しいことです。
 早速編集委員の意見を聞くため、照会しています。明日午前中いっぱいまでに意見を受けることになります。
 その間、わが作品の見直しを行っています。やはり、活字にするものですから、慎重になります。号を重ねる毎に、慎重になるのですから、不思議です。これまで、書きっ放しで掲載してきた感がありますが、活字になるものは真剣に扱わないと、と最近は特に思うようになりました。編集作業の都合で、最後はかなり強引に仕上げてしまうことになりますが、このあたりの運びはいつも難しいものです。


 
書くこと0404(2015.04.04)
 海掲載予定作品の見直しをしています。なんだかんだ言っても、続けることですから。書く。発表する。あるいは投稿する。後のことは関知しない。
 次を書く。発表する。あるいは投稿する。と、こういう感じで続けたいものです。とにかく書く。書くための材料を調べる。人間ドラマを書く。発表する。
 それを、出来れば100ほど続ける。こういう感じです。ただ、書く。一字、一句を書く。それさえ出来れば嬉しいですね。何故、何、の答えは出ずとも。
 

 
書くこと0403(2015.04.03)
 何故、何、を言い出したら少しも始まりませんから、次に進みます。
 この道より我を…ではありませんが、評したり、徒党を組んだりということが苦手ですので、ただ「書くのみ」に徹したいと思います。
 余計なことが起きても、「この道より我を…」の前に塞がるものを抜けて行くだけです。それが「意識化」ではないにしろ、意識して「問題を大きくせず、ことを荒げることなく、自分なりの力にそって、姿勢は高きを見上げ」つつ、行きたいと思います。
 脇道に手を取られることが、今一番辛いことですから、前方にある灯を見失うことなく、チャレンジを続けていくつもりです。一字、一句を書く、これだけです。


 
書くこと0402(2015.04.02)
 何故書くのか、何のために書くのか、が最近のわが内なる問いになってきましたが、答えの出ようもありません。どなたかへの助け、人生訓、知識のお披露目…などという類については、能力の欠片もありませんし、そういう識見など持ち合わせません。
 でも、何故書くのか、と問われたことがあります。それだけはあり得ませんよと自信を持って言えるのは、「それ、自慢ですか」という問いに対してです。しかし、当人がそうは思っていなくても、感情のかけ違いとしてでしたら、(間違って)受け取られる可能性がないでもありません。書き継ぐということのほかには何もないものだとは思うのですが、書いていく環境がある、というだけでもかけ違いが起こり得そうなことですから、そのあたりはどうにも説明が出来ないことになります…。
 ともかく、わが目標は「生き恥を書く」「愚直に書く」ということだけを目指しているところです。それだけしか言うべきこともありませんが、その過程さえも問題である…ということでしたら、お許し願います。
 また、過程にあって、「高い」と思った山には教えを請い、高い山を眺めさせていただきたいと思うものですが、それ以外の他の意図があって眺める訳ではありません。どんな道でも、学びの心を失えばその道は途絶えてしまいますから、気高い山がある限りその山の麓に足を運び、山容の神々しさ、見事さに打たれ、自分なりに探求するということは、わが修行と心得、課し、欠かさないことを務めとしたいと思っています。
 さて、海次号(第14号)の原稿が集まり始めます。6月まで、掛かり切りになります。
 

 
書くこと0401(2015.04.01)
 昨日までの作業の切れ間ということで、今日は書くことをせず、受贈した同人誌への礼状を書くことに費やしました。
 考えてみれば、これだけの作品が発表されている訳です。
 今、賞の数は相当数あると言われますが、書き手の数からすると、やはり砂浜で幾つかの砂粒を拾うに似たものであろうことには変わりません。
 それにしても、入賞、いやそれ以前の選考がどのように行われているのかを、考えてみることがあります。下読みの段階で降り落とされるもの、一段階は掬い取られたものなど、そこらの流れは見えないものです。
 過程のことは見えないようになっているからこそいいもので、全部がガラス張りになっていたら、それは堪らないことになるでしょう。


 
書くこと0331(2015.03.31)
 文学街掲載予定のゲラ刷りの校正をようやく終え、発送しました。約90枚で、これまでどこにも掲載し得なかった作品です。どうなるやら、という心配もありますが、森氏から何かないかという問いがあり、昨年12月に送付していたものです。
 昨日までは156枚の新規の作品に取り組んでいましたので、3月末の忙しさ(それって、何なのと言われるほどのものかもしれない内容)は、かなりのものでした。
 こういうヤクザ稼業(これによって生活していないので、本当は何と言うべきか)に従事していると、世の中の常識というものから大きくズレてきますので、発言もほどのよいところで切り上げますが、本心は「新たなものを創る」というところにあります。


 
書くこと0330(2015.03.30)
 156枚をもって、一幕の終わりにしました。放っておくと、着地点が見付からないまま200枚でも、300枚にでも迫りそうな勢いですが、自分の呼吸に合っていません。
 強引に落としどころを設け、終わりにしました。しかし、やや寝覚めがよろしくありません。枚数に捕らわれることなく、500枚でも1,000枚でも書けるようになりたいし、10枚未満でも満足のいく作品が書けるよう、努力したいと思います。
 今日のところは156枚で一応のケリをつけましたが、長短に関わりなく、メリハリのある内容で、次の作品を書きたいと思います。書き終えたものは、一応どこぞに投稿することから始めます。この方法は、作品を書くために締め切りを設けるというだけの意味に置いても、私には欠かせないものとなっています。
 ココロは、挑戦、また挑戦というところです。  


 
書くこと0329(2015.03.29)
 苦しいときです。140枚でダウンです。何も伸ばさねばならない訳でもなく、物語を終了させたいのですが、上手い着地が出来ずにいます。
 やはり、100枚前後が自分の呼吸に合っているのかも知れません。


 
書くこと0328(2015.03.28)
 書き掛けの原稿の整理に追われています。
 文学街に提出していた作品の校正ゲラが届きました。すぐに取り掛からねばならないのですが、書き掛けの方を終わらせてからにしたいと思います。
 思い掛けず、忙しい年度末になりました。


 
書くこと0327(2015.03.27)
 書き掛けの原稿は今120枚です。150枚程度まで書き、一段落にしたいと思います。最後の締めが難しいところです。後、3日ぐらいを要する予定です。


 
書くこと0326(2015.03.26)
 昨日「響第21号」を受贈しました。そこで、早速高岡啓次郎氏の「ドグラマズラの呪縛」を読ませてもらいました。くどくどした感想は述べ得ませんし、1回だけしか読んでいませんので、読み違いもあるかもしれませんが。
 この作品から感じたのは「天才現る」という言葉でした。この作品がどう作られたものか知らない内の感想ですが、「これほどの奇想天外」な話を「同人誌に書くとは」「天才か、魔神か」という(作品内容の表現に従うものではありませんが)、一種異様な境地ですね。そう感じました。小説の良い悪いは評論家諸氏にお任せするとしても、これほど興味を惹かれ、速く頁を繰った作品はありません。驚きです。


 
書くこと0325(2015.03.25)
 昨日「文学街329号」が届き、今日は「ちば文学第14号」と「響第21号」が届きました。どの誌も、これから読ませてもらいますが、文学街には井本氏がエッセイ「美しい色」を、響には高岡氏が小説「ドグラマズラの呪縛」を書いておられます。
 海の同人が、他誌でも活躍されることは嬉しいものです。


 
書くこと0324(2015.03.24)
 牧草氏と、市民図書館で1時間以上喋りました。原稿が出来次第送ってもらえば対応すること、パソコンの諸々について、野菜による健康維持について等々です。
 高岡氏から、関東文芸同人誌交流会掲示板に、立川文学賞についての書き込みがあったので、海の連絡掲示板にも転載させてもらいました。
 森田雄蔵賞から海に進呈される金額について、同連絡掲示板に掲載しました。
 このように、同時期に2つの賞についての掲載が出来ることは、めったにないことだと思われます。同人各位の熱意に繋がっていけば、有り難いなと思います。


 
書くこと0323(2015.03.23)
 また、書き掛けの作品に掛かります。何とかしたい、の心境です。
 第二ターミナルで高岡氏に会えたのは、とてもよいことでした。

 
書くこと0322(2015.03.22)
 北トピアでの、小説と詩と評論の合評。手堅い作品ばかりですし、意見がよく出ます。
 とても参考になる会でした。
 

 
書くこと0321(2015.03.21)
 小説と詩と評論第334号を、再度読み返しています。1度だけでは微かにしか掴めていなかったようです。やはり、頭の固い自分には努力を課すしかないですね。
 時間があれば、進行中の作品にも少しでもいいから触れて置きたいと思います。書かないことには、展開のしようもありませんし、書く中で拾える場面や言葉があります。あれこれ先に思案するより、愚直に進むほかありません。


 
書くこと0320(2015.03.20)
 また、妙なことを書くことになりましょうか。
 文芸と言っても範囲が広過ぎるので、この際「小説」というジャンルの、それも私の見知っている範囲の、卑近な例で書くことにしましょう。
 最近「何のために書くのか」という問いを繰り返していまして、何の答えも見出せずにいますが、私が書く場合「感動とか美談」にはなかなかならず、よって「自慢になるなどとんでもない、真反対」のことを対象にしてしまいます。
 かつて、たまたま地域興しの試みで文学賞が創設され、応募したところ、何の偶然でか当選したことがありました。そこで、地域興しの委員に自動的に選ばれ、地域の熱心な会合に何度か出席したことがありましたが、だんだん熱意を帯びてくる人々の具体的なビジョンと、私の作品とがあまりにも相反するものであったため、意見を求められたときに「このような熱心な地域興しの機運に、水を差す作品であった」ということを述べたことがあります。その瞬間に、妙な反応があったのを記憶しています。
 小説は、私の作品の如く非現実的・悲観的な作品だけではないことはわかりますが、その地域興しのシンボルとして「文学賞」が設けられていただけに、言わずもがなのことを白状せずにはいられませんでした。
 その私の発言が重く受け止められたのか、「文学賞」はその1回限りで中止され、私も委員を下ろされ、その後は多分街の景観の見直しだとか、地域を活性化させるための交流だとかの方向に進んだものと思っています。
 私の発言が適切だったのかどうか、今でも判断出来ないところですが、私の場合の小説は、「未来を切り開くもの」「地域の健全な発展に資するもの」といった地域のテーマとはズレがあり、やむなくの発言となったのですが、そのことが良かったのか良くなかったのか、今でも私に問いを投げます。小説には、地域興しに相応しい作品も出ることだろうし、正直に自分の作品の「底にあるもの」を伝えるべきであったのかどうかと。
 極言すれば、「小説とは、人間の悪を書く」という説もあるくらいですし、迷い込んでしまった私が抜き差し出来ないままに言ったことが、地域の人々に冷や水を掛けてしまったことは否めません。
 以後、私はモノ書きという自分を正面から正当化することが出来ず、かと言ってモノ書きを推し進めたいという二つのベクトルを同時に持つことになっています。
 40年間、生業のため働いてきた自分への切りをつけるつもりで作った著書も、今では差し上げる勇気も持てなくなっています。「何が面白いのですか」「自慢なのですか」などと、当時何度も言われた言葉の数々が、今になって強く思われるのです。
 自慢だとか、偉いだの偉くないだのという気持の一切れも持ち合わせがないことが、かえって問題になるのかもしれません。最近になって、「何のために書くのだ」という、たいへん初歩的な問題に絡め取られています。


 
書くこと0319(2015.03.19)
 中途で止まっていた100枚の続きを書き始めました。今のあたりが、丁度書きやすいところです。人物が動き始め、ものを考え、喋りはじめます。
 どういうふうな方向に進むのか、やってみないと分かりません。こういうふうに、目標を明確に定めずに進めるのですから、邪道なのかもしれません。
 いろんな書き方を試みましたが、結局はこの方法に落ち着きます。ええ、真剣です。全力をあげて向かいます。中途の今ほどのあたりが、最も気持の張りがあります。


 
書くこと0318(2015.03.18)
 何を置いても「小説と詩と評論」第334号を読まねばなりません。合評ですから、責任を果たさねばなりません。
 ということで、書き掛けの約100枚を置いて、「小説と詩と評論」誌を読み始めました。全体で60頁の冊子だからと少し甘く見ていたところでしたが、中身はどっこい濃いのです。作者がそうそうたるメンバーですから、ヤワではありません。
 後2回は読まねば、というところです。


 
書くこと0317(2015.03.17)
 まだ途中ですが、根保氏の文章は真っ直ぐに入ってきますね。文章が洗練され、余分な形容もなく、完成度の高い文体だからでしょう。
 こういう文章を読むのは気持がいいものです。1行1行から、こういうふうに書けばいい、とでもいうふうな刺激を得ます。
 何を書くかということも大事ですが、まず文章に切れがあるということで和まされます。また、「良い文章を書く」ということが何と大切なことか、と知らされます。
(付記)
 3月23日は高岡氏と会い、時間が許す30分程度でもお話ししたいと思います。


 
書くこと0316(2015.03.16)
 根保氏から、「コブタン」第39号を恵与いただきました。根保氏は文芸評論の外、短歌、時事評論をメインにされるのかと思っていましたら、この号には「野を翔る声」という小説(後編の部・約100枚)が掲載されています。届いたばかりですので内容はこれから読ませていただきますが、コメントがありましたのでそれを記させていただきます。
(根保氏のコメント)
「(前略)ご活躍ですね。高岡さんも負けじと張り合って頑張ってます。互いに刺激しあって、佳き作品を書かれんこと願ってます。(中略)同人雑誌を抜きん出て(後略)」
(有森:注)
 根保氏には、関東文芸同人誌交流掲示板等で、海作品に対し、いつも的確でかつ熱い御助言御指導をいただいています。上記コメントは、海の同人に対するさらなる激励だと感謝しております。


 
書くこと0315(2015.03.15)
 先日来の「何のために書くのか」「何故書くのか」という自らの問いに対し、明確に答えることは出来ません。しかし、その「ココロ」を言うならば、

 
この道より我を生かす道なしこの道を歩く  武者小路實篤

 ということになるのでしょうか。勿論何の答えにもなっていません。「我を生かす」ことになっているのかさえも分かりません。ということは、やはり答えが出ないということに他なりません。九州文学の編集後記にも書かれていましたが、「病気」であるという方がまだ近いのかもしれません。それも心の病気です。
 文芸〜芸術という厄介なもの、これは生活手段を生み出すということとは逆向きに作用することが多いようです。


 
書くこと0314(2015.03.14)
 今日受贈した「なんじゃもんじゃ」第19号によると、次号は転居される高知からの発行になるとのことです。前号に、今後の継続は考えていないというような記述があり、案じていたのですが、継続されるということで安堵いたしました。
 経緯については冊子に詳細に書かれているようです。ともあれ、これからも変わらず指標となるような冊子を読ませていただきたいと願うものです。
 私の方は、今80枚あたりを彷徨っています。どう転がりゆくか、さっぱり前が見えません。200枚で収まるものか、も見当がつかない状態です。ともあれ、書いている途中が気持の面では一番充実しています。今日中に100枚まで、が理想です。


 
書くこと0313(2015.03.13)
 今日受贈した「ふたり」第13号の中の、陽羅義光氏の自伝と称する「なぜ私は書いてきたのか」を読み、いよいよ唸りました。「モノを書くために生活するのだ」とあります。氏のモノを書く姿勢には日頃から強く打たれるものがあるのですが、こうまでに書くことに命を燃やしている人を知りません。
「何故書くのか」という問いなどを突き抜け、「書くために生きる」という訳です。この言葉はオーバーでも、嘘でもありません。学生時代に結核を患って以降、頭の先から足の爪の先まで病気があり、昨年末にも大きな手術をされました。さらに、地下鉄サリン事件の被害者でもあるということです。
 氏の読書量の凄まじさは常人の域になく、執筆量も常人のそれを越えています。演劇も、映画も、詩も、評論も、エッセイも、作詞も、コピーも、およそ芸術と名のつくものは何でもこなし、これが同じ人間の業か、と思わせられるばかりです。
 氏の書く姿勢は真剣そのもので、「遺書を書くつもりで一作に向かう」とあります。陽羅氏を知り、偽りのない「巨大な山」を見上げるということを実感しています。
 私ごときが弱音を吐くのは、全くのお門違いというものですね。


 
書くこと0312(2015.03.12)
 最近、何故書くのだろうという問いを発し、自分自身が答えることが出来ずにおりました。「何のために、どうして書くのだろう」という問いは以前から身の内にありましたし、いろいろな場所で問われてもきました。
「何が面白いのですか。自慢でもしたいのですか(自慢などになる訳はないですが)」
「気持悪くないですか(周囲は気持がよくない…のですよね)」
「まだやってるのか。いつまでやるつもりか(これは身内から。嫌なのでしょう)」
 と書いてみても、どうにもすっきりしません。「そこにあるから」というのも弱いし、「遊びではないか」と言われれば、「真剣です。遊びではない」と言うしかないし、結局「何でだろう」と考え込むばかりです。
 陽羅氏の新ヒラリズムによると、何と「文学の役目は〈悪〉を書くことである」と喝破されます。ウム、と唸り、刮目しました。最近、ようやく綺麗事の「嘘さ加減」を見る工夫をするようになりましたが、「そもそも何故書くか」という自分自身の問いとは、多少違っているのかもしれません。ですが、これが答えであるのかもしれません。


 
書くこと0311(2015.03.11)
 東日本大震災から4年を迎えたことになります。もう4年というべきか、まだ4年というべきか。私も1度だけでしかありませんが、宮城県多賀城市を訪れ、被災の跡を目の当たりにしてきましたから、思いには一入のものがあります。
 しかし、被災地の方々の思いにいったいどれだけ寄り添っていけているのか、自信はありません。2011年に出した詩集「カオス(混沌)」は、果たしてあれでよかったのか、あんな安直なものでよかったのかと考えさせられます。


 
書くこと0310(2015.03.10)
 書くことに専念しようと構えていましたが、なかなか進みません。一挙に走り出す切っ掛けが掴めれば、そうなる気配もあるのですが。
 谷川俊太郎と川島小鳥の〈タマシヒ〉の世界を旅する展覧会という広告が、新聞に出ていました。そこで目に止まった詩の一部を。とても惹かれた言葉です。

 
この世での故郷の先に
 あの世での故郷が
 あるのではないか
 タマシヒは多分
 それを知っている



 
書くこと0309(2015.03.09)
 関東文芸同人誌交流会掲示板に、笹原由理の詩の評が細部にわたって具体的に書かれ、紹介されています。この掲示板にはいつも海の作品について評や紹介を載せていただいていますが、笹原の詩を取り上げていただいたのはありがたいことです。
 笹原は、海の詩の旗手とも言うべき書き手です。確か、彼女は中学生の頃から関節リウマチのため寝たきりの状態で、そのハンディ故か、「優しい言葉で、行間に気持を放つ」という明瞭で繊細な作品を得意にしています。
 文字数も少なく、行数も4〜5行あたりと少なく、福岡あたりでは今一つ評価が小さいようですが、2回もNHKのハート展に入選するなど、実績を積んでいます。
 関東文芸同人誌交流会掲示板の評には、このあたりにも目を止めていただき、とても温かいものをキャッチできました。


 
書くこと0308(2015.03.08)
 面白い本から読んでいるので、(文芸書だとこうはいかないのですが)1日で2冊読みました。眺めただけなのかも知れませんが。全国の名字の区分とかは興味を引かれますから、ついその気になって。読んでどうなるというものではないのですが。
 ちょっと目線を逸らしてみると、普段文芸書でお目に掛かっている「深刻で暗い」ものから離れるのですが、そのことがどういう意味を持つのやら、と考えます。
 長年身近に接してきた学者の目から見ると(というかよく聞いた話ですが)、小説などというジャンルが意味をなさない、という見方です。「結局フィクション、それがどうなるの」というあしらわれ方をして来た感があります。なにしろ、「研究論文第一」であり、科学書や資料の類は可、せめてノンフィクションまで、という具合でした。
 短歌や俳句や詩あたりまでは文化として関わってもいいが、小説となると自分の論文の質まで疑われるしね、というところでした。
「わざわざ、何で作り話を書くの。周囲の目は気にならないの」という類の話を、何度も聞かされました。分かる気もするのですが、いざ私が書こうとすると、「文芸、それも小説」の類になります。そもそも「小説」という名称は誰が用いたのでしょう。俯瞰してみると、コミックというジャンルに一番近いのかも知れません。それをまたひっくり返して見ると、「小説やコミックの方が人間の真の姿に最も迫る」ということになり、書架を巡ると考えさせられることがいろいろありますね。 


 
書くこと0307(2015.03.07)
 1,000円カットのため天神に出たついでに、久しぶりにTSUTAYAに寄ってみました。何を目的とするでもなくフロアに立つと、一気に20冊を求めてしまいました。
 最近は小説作品そのものをというより、資料になりそうな内容のものに興味があります。ですから、空想科学読本だとか、ユダヤ人の知恵だとか、歴史の名場面だとか、人たらしの心理だとか、空海の謎だとかの、全くの「出逢い」という類のものを手にします。これらが108円(それ以上のものも取り混ぜ)で買えるとなれば、有り難いことです。
 アマゾンもよく利用するのですが、送料が掛かるのとタイトルだけで判断するため、どうしても蛮勇を奮うまでには至りません。
 問題は、「積んどく」にならないよう、利用することです。


 
書くこと0306(2015.03.06)
 40枚を書きかけ中の作品に、挑むことにしました。ところが、なかなか調子は上がりません。書けない時はまるでダメだったり、興が乗ってくると20枚ぐらい書けたりと、バラつきは直りません。これが素人だからいいようなものの、職業にしている方はさぞや大変なことでしょうね。
 作品があって批評をやるなどというものではなく、創り出すという作業は、内容がどうであれ、生みの苦しみを伴うものです。
 創作とはよく言ったもので、創るということは生半可な気持では出来ません。


 
書くこと0305(2015.03.05)
 素晴らしいですね。高岡氏の小説「恥じらう月」(104枚)が、立川市文学賞佳作と立川市文学賞市長特別賞を同時に受賞とのことです。氏の受賞は毎年で、コンスタントに評価を受けています。こういう安定度が、将来の飛躍を期待させるところです。
 この少ない海の構成員で、過去に受賞の経験のある同人は相当の数になり、非常に高い割合にあると思います。何も賞取り競争を勧める訳ではありませんが、評価されたという体験がさらに高みを目指すことになりますから、励みになります。
 やむにやまれぬところを表現する→評価を得る→さらに前を向き取り組む、というのが海のスタンスでもありますから、とても嬉しく、有り難いニュースです。


 
書くこと0304(2015.03.04)
 風邪なのか、パソコンに向かうだけで頭がボンヤリするので、打ち込みは辞め、読みかけの上野千鶴子氏の本に向かいました。
 活字が、またボンヤリするので、半分眠りこけた感じで、何とか一冊を読み上げました。「身の下相談」というタイトルですが、内容は「身の上相談」であって、悩みを抱えているのは自分だけではないのだな、とココだけは嫌にはっきり理解出来ました。
 これまで手を付けることのなかった社会学分野の本は、結構切実な生活の悩みに満ちていて、宙空を眺めるスタイルよりは、地に足が着く感じがします。


 
書くこと0303(2015.03.03)
 今一つ焦点が定まりません。昨日読んだ作品に、煽られてしまったのかも知れません。しかし、考えてみれば、読んですぐ忘れるという作品ではなく、好悪の感情は別にして、骨格を覚えさせるという作品であったということは言え、であるのならば作品としてのあり方には、何か気持を引かせるという特別な力があるのかも知れません。
 ひどく平板な作品であったのですが、それがかえって特徴をなしているのかも知れません。熱しないから冷めない、という類のものなのでしょうか。
 私的には、「祈り」「そこはかとなく射す光」というものにまず感応するのですが、この作品の祈りにはどこにも感応し得た訳ではないのですが。


 
書くこと0302(2015.03.02)
 今回の芥川賞受賞作品「九年前の祈り」を、一度だけ読み終えました。何度も放り投げてしまおうとしたのですが、我慢して読みました。
 一言で言って、「何も響いてこない」からです。勿論、私のアンテナが悪いと言われればそれまでですが、佐伯という特殊な舞台(作者の故郷のようですが)を用い、わざとらしい方言を用い、その道具立てだけでもう嫌気が襲ってきました。それにカナダという組合せの不自然さ…嫌らしさと言った方がよいでしょう。
 分からないでもない子供の泣き叫ぶ様を「引きちぎられるミミズ」と表現したり、カナダツアー旅行がふいに登場したり、「何が言いたいのだ」と怒りが込み上げてきました。抽象的な「九年前の祈り」が、「引きちぎられるミミズ」と関係があるのだといいますが。よく分からない、分からないことが分からない。要するに読み続ける気が起きない作品、としか私には表現のしようがありません。これだけのことを書くのに、150枚以上の紙幅を費やしていますが、「わーわー、ぎゃーぎゃー」の文体には閉口しました。理屈っぽいのにも閉口です。本人の兄さんの鎮魂、ですか。じゃあ、この泣きわめく子は何です…。
 もう一度確かめたいのは、結局何が言いたいのだろう、です。そんなものは、ないのかもしれませんが。こんな小手先作りの退屈な作品が何故に…と思うばかりです。
 久しぶりの東大卒、だからでしょうか。天分、本当にあるのでしょうか、この方。


 
書くこと0301(2015.03.01)
 さて、と思いましたが生憎結婚式のため壱岐行きでした。
 そろそろ文字にしなければ、と思っています。


 
書くのみ0228(2015.02.28)
 2月は新たなものを生み出すには至りませんでしたが、よい資料に巡り会いました。これまで資料を参考にするという手法をとったことはなかったので、この方法が新たなものの糸口になってくれればと思います。
 思い付いて、小説と詩と評論を関係箇所に送付しました。
 イメージが発酵し始めたら、一気に書くのだと決めてはいますが。大風呂敷を広げてみたいと思います。他の方にも同じことを言った手前、自分も実行せねばなりません。それは、「長短とりまぜて、まず100の作品を書く」ということです。
 過去30年の間でさえ、100作に届いていないのですが、過大な目標であれ、持たなければ枯れてしまいます。やれるところまで、やってみたいものです。
 

 
書くのみ0227(2015.02.27)
 海の作品として書いた小説を、間をかなり開けて読んでみました。思いの外、直しは出てきませんでした。ただ、中身がよく読めていないのかもしれません。
 6月の初めには確定しなければなりませんので、これから何度も読み返すことになります。問題点を整理し、細かく読んで行くことになります。
 最近資料を読むことの方に時間を裂き、書かないでいると不安に見舞われます。ここらも慣れの問題だと思われます。人それぞれでしょうが、書くという行為を数行でもいいから持つことは、大切だと思われます。頭の中だけでイメージが出来ても、いざ文字に置き換えてみて初めてイメージが定着するということになります。
 勿論、一作が一応成ってからでも、自分の書き連ねた文字を確かめるということが必要になります。そういう意味でも、やはり実際に書いて、ある程度のボリュームを持たせないことには作品というものは成り立たないようです。


 
書くのみ0226(2015.02.26)
 資料を読みふけっていたら、40枚で止まっている作品が動きません。出来れば、3月末までに200枚程度のものに仕上げたいのですが。
 しかし、興味を得ることの出来る資料を疎かにすることもよしとしません。
 両方やればいいのです。と書いて、「気持はそう目指すのだから」と心の中で反芻します。両方やらねばなりません。と言いつつ、昨日資料の追加3冊を発注しました。アマゾンというのは実物は置いて、資料だけでの比較検討をするので、当たり外れはあるのですが、TSUTAYAなどではお目に掛かれない資料を発見できるのが有り難いです。
 とはいえ、私の基本はアナログ式ですから、たまには機会を設けてでもTSUTAYAに出掛け、実物との不思議な出逢いをしたいと願うものです。
 近くの市民図書館を利用するのが本来最もよい方法でしょうが、何故か運命的な出逢いをしたという経験がなく、貸出期間のリミットに気分が焦ることの方が辛く、リラックスして読めないという妙な性癖があり、こちらは最小限の利用に留めています。


 
書くのみ0225(2015.02.25)
 人生は一度きりだから、と通常言われます。それは間違いのないことだからです。加えて間違いのないこととして、人は必ず死にます。例外はありません。
 ここまでは、文脈には何の問題もないことだと思われます。
 ただ、人生一度きりだ、の解釈には別れる問題があるのではないかと思われます。この今の人生は一度きりでしょう。が、他生があるとしたら、話は変わります。
 一度きりで終わり、という方が説得力があるでしょう。しかし、このとりまく世界は何のためにあるのでしょう。少なくとも何千万年、何億年と連綿と続く入れ物があります。川の水は同じ(に見える)流れが、これまた続きます。もっとも、世界も環境も、いずれかの時期には姿を変え、消滅することも度々あることでしょうが。
 これらの背景が千年、万年、億年、それ以上…と配置されるのに比し、人生はたかだか80年です。双方を比べたとき、あまりのアンバランスに疑問を抱いたりしませんか。
 最近いただいた「ぶんげい學校」という誌(編集責任:八覚正大氏)のあとがきに、「人間にとってもっとも共通する平等なことは、〈いまここでしか生きていない〉ということと、〈この人生はたった一回だということ〉〈たとえ輪廻転生があったにしろ〉です。今、これを読んでくださっている「あなた」こそ次の号の書き手です。あなたが書かないでどうする。あなたがこの場で鍛錬しないで、いったいこの世のどこに鍛錬の場があるのでしょう」と書かれてあり、私は「全く同感だ」と叫んだものです。
 ここに書かれている都合のいい部分を摘まんで言っていることになるのかも知れませんが、「今の人生は一回きり」「多分、他生があるに違いない」と短絡的に解釈するのもいかがかと思われましょうが、私にはこの世界の有り様から見て、存在にも、きっとバランスのとれた設計がなされているに違いない、と思わざるを得ません。
 そうでないことには、「心ならずも戦果に散る」「栄耀栄華を極める」「極貧に甘んじる」「差別され、弄ばれ、虐殺される」「病魔に苦しむ」等々の一回きりの人生が、一度だけで終わっていい筈がありません。全くのアンバランスのままです。
 たいした経験ではありませんが、臨死体験に近い状態にあったとき、私は途方もない何者かの力を感じたことでした。だからと言って、それが何だ、ではありましょうが。そのときに感じたことは、「死は救いなのかもしれない」「生は苦しみなのかもしれない」という倒錯した考えでした。「どっこい、一回きりの人生だなどと言って、自分を甘やかすんじゃない」という声を聞いた気がしました。


 
書くのみ0224(2015.02.24)
 ときに、作品の中などでいつも引っかかる言葉「永遠」ということですが、みなさんどういう意味で使っておられるのでしょうか。
 辞書を引けば「時間を超越して、無限に続くこと」とあり、では「無限」とは「その物事の数量・程度などについて、限度が有ると認めることが出来ない様子」とありますから、人知を越えた永続性のことだろうと理解します。
 よく故人のことを、「私の心の中で永遠に生き続ける」などと表しますが、いつも「何だろう」と思うのです。「私の心の中で永遠に」とはいったいどういうことだろうと。まあ、そこを厳密に追求せずとも、「私」というものが無限の存在であれば、故人とて無限の存在でありましょうから、「私の中で」という限定が分からないものになります。では、「私」が有限のものだとしたら、そもそも「私の心の中で永遠に」ということ自体が意味をなさないことになります。
 永遠というのは「(この場合)それだけ大切に思う」ということの比喩であるのでしょうか。それとも、永遠という事実はやはり現に存在するのでしょうか。
 一つの言葉をとってみただけで、これだけ理解することが難解なのですから、言葉で表現する文芸作品というものの難しさが知れようというものです。


 
書くのみ0223(2015.02.23)
 どこかに何度か書いているかもしれませんが、「何故世間に恥を晒してまで、モノを書くのですか」という問いには、今もうまく答えられません。実際、そういう聞かれ方を何度も経験しましたし、奇異な目で見られました…。
 答えは見付からないのですが、少なくとも「目立とう」だとか「自慢したい」などという気は全くありません。第一「自慢するためのものではない」ことですから。
 一番自分の気持ちに添うのは、「自分探し」「人間探求」「真実探求」「生き方探求」「死に方探求」等々をしているというものです。何しろ、分からないことだらけですから、少年の頃から「何だろう」と追い掛けてきたことが、たまたま文芸になっているということなのです。(我流ですが)。ですから、楽器などがあったら音楽だったかもしれないし、最初美術全集に出逢っていたのだったら、絵を描いているかもしれません。
 ところで、「自分探し」ごときのために、「世間を騒がすな」と近親者からは苦情が降ってきますが、幸い「世間一般を騒がすほどの上等の身ではない」ため、かろうじて小さな煙を燻ぼらせたままでいます。
 文芸は「綺麗事で終わらない」「人間の悪まで書く」「人間の汚いところまで書く」「暗部までも書く」ということが極めて大切ですが、もともとここに「近親者とのトラブル」の芽があり、根がありますね。そうまでやるのだったら、腰を据え「世間を騒がす」ほどの問題作を書かねば収まりがつかないではないか、と思考はグルグル回ります。
 心得としては、「他を貶めない」という気持だけは貫いています。


 
書くのみ0222(2015.02.22)
 資料を読んで思うことは、母親から幼時にどのような扱いを受けたかで、生き様が大きく変わるというか、そこを脱出して一人の力で生きていくということが多いのですね。まさに、「必要とされたのか、そうでないのか」ということが大きな分岐点になっているようです。「いらなかったのに」と言われ、思われた子は、惨です。
 愛情を受けることなく育つと、自分の力で愛情を勝ち得ようというか、その裏返しの生き様となり、よくも悪くも「社会の表舞台には立てない」仕組みのようです。
 また、愛情に飢えているくせに、何かの拍子で「気持を寄せてもらったりしても、その経験がないだけに、かえって不安を招く(精神のどこかが怯えている、あるいは信じることが出来ない)」といったふうに気持が動きますから、真直ぐに歩くことが難しいようです。
 母のあり方一つで、子を「鬼にも、仏にもする」とよく言われることです。


 
書くのみ0220(2015.02.20)
 資料を読み始めたら、止まらなくなりました。追加分だけで8冊ありますから、当分そちらに掛かることになります。これまで、資料として読むということをしたことがなかったため、新たな経験です。
 肝心の作品は、40枚ぐらいで止まっています。


 
書くのみ0219(2015.02.19)
 確定申告の待ち時間に読もうと、民俗誌の資料を持っていったのですが、うまく時間を作れず、本を開くことにもなりませんでした。


 
書くのみ0217(2015.02.17)
 民俗学書の1冊を読み終えました。手元に後2冊あります。
 わが抽象的、観念的、空想的という悪癖を打ち破ってくれそうな、確かな感触があります。そう、人間生活という「歴史には描かれていないしたたかなもの」があったのだ、と初めて気付かされた思いです。と同時に、「文学、文芸」というのは上流層のものだな、としみじみと感じました。庶民たちのしたたかな生き様のことは、なかなか学者の手になる民俗学研究書や、文学としては掬い取られてこなかったであろうし、彼らはそういう偉いセンセイやモノ書きとは、交わることもなかったのでしょう。
 興味が湧いてきましたので、さらに5冊を注文しました。


 
書くのみ0216(2015.02.16)
 ひょんなことから、民俗誌をよむことになりました。驚いたことは、大正、昭和の戦中、戦後のことですが、現在の私たちが考えているような「忠君。忠孝。家制度に縛られた不自由で、上意下達だけがまかり通った時代」であったと思い込まされていたのですが、民俗誌の書き方によるものであろうとはいえ、「庶民の生き様はしぶとく」て、「美しい建前が並べられた歴史であり、生活である」ということだけではなかったという内容に触れ、心底驚いています。「お上の拵えた歴史や規範」からもかなり離れた自由な生き方が、高名な学者の説には盛り込まれていない、というものです。
 教育勅語、家制度、一夫一婦制度など嗤い飛ばしたくなるほどのしたたかさで、泣き、笑いしながら生きてきた、というのですから吃驚です。特に「誰のタネか知らないが子供はムラの子」として、普通に育ってきたというあたりに、目を奪われました。
 子供は「国のための子」「家のための子」親のための子」として、厳し過ぎるほどに鞭打たれ、モノとして育てられてきましたから、考えさせられます。子供にも、農民や商人にも感情があり、情けがあり、欲があり、知恵がありますから、「スローガンだけを並べただけの教条的な教え」や「美談ばかりをよしとする支配層、学会の主張」のレールの上ばかりを生きてきてはいない筈です。現在読んでいる民俗誌が異端視されているという話は聞きますが、後者を是としたい思いです。


 
書くのみ0215(2015.02.15)
 宗像大社に詣でる途上、民族誌を読みました。


 
書くのみ0213(2015.02.13)
 調べる、ということをしています。
 その前に、島永氏の「碧く輝く村の奥へ」の作品を整理することにしました。氏がどうしてインドネシアについて、こうも拘られるのかよく分からないままですが、作品から推察すると、肉親がインドネシアにかつて渡られ活躍されていたこと、その地を訪れたいという一途な思いからであること、また大戦での加害意識からくるものかとも…。そんな想像を膨らませるのですが、それらをフィクションとして読む習いからすれば、これらの思いが渾然となり、かの地に向かわせていると読むことが自然なのでしょうか。
 芥川賞作品「九年前の祈り」を買ってきましたが、まだ手を付けていません。


 
書くのみ0212(2015.02.12)
 調べる、ということをしています。


 
書くのみ0211(2015.02.11)
 アマゾンに昨日注文した民族誌のうちの1冊が、もう今日届きました。「お急ぎ便」を始めたという案内があり、「試しにどうぞ」ということだったのでサイトの案内のままに申し込みましたら、翌日配送とは。たいへんな仕事になったものだ、と驚くやら感心するやらです。あまり便利になり過ぎる気がしないではありません。
 書く前に読もうという予定にしたため、しばらくその流れでいきます。


 
書くのみ0210(2015.02.10)
 書きかけたまま、この百年ほどの農村の移り変わりを民俗学の資料で確かめてみたいと思い、アマゾンに注文しました。これまで殆ど参考文献なしに書いてきたのですが、記憶も朧になり、農村から遠ざかっていることもあり、かなりピントがボケています。これまでTSUTAYA外の古書店に行くことが多かったのですが、こうしたネットでの検索・購入が出来るということを知って、かなりお世話になっています。
 最近ではチケットなども、ネットで注文することが多くなりました。便利になったことは喜ばしいですが、古書店でワクワクしながら棚を見上げる楽しみの方も、とっておきたいものだと思います。


 
書くのみ0209(2015.02.09)
 はてさて次作は、となるとなかなか滑り出せないものです。
 書きかけてはみたものの、今いち加速がつきません。まあ、自分の力量から言えば当然のことではありますが。気と期が至るのを待つ、ということになります。
 書けないときは、1行すらも書けません。
 ひたすら、待ちます。詩文など、何かが落ちてくるまで待つことになります。
 プロットがこうで、登場人物がこうで、というやり方に慣れていませんし、理詰めの作業に弱いものですから、何かがふっと過ぎるのを待ちます。


 
書くのみ0208(2015.02.08)
 1,000円カットのために天神に出たついでに、公募ガイドを買いました。ついでに、文芸誌の中で新潮を求めようと思ったのですが、見掛けませんでした。
 同人誌のコーナーには、ちゃんと海第13号も並んでいました。「店にはない」という話がよくあるのですが、こうして店頭には並んでいますし、注文すれば手に入る体勢にはなっているな、と確認し、安心しました。きっと、店頭に出る前など、時期を焦って探されたりしたのではないでしょうか。


 
書くのみ0207(2015.02.07)
 新しい作品を目指して少々始めましたが、「歌」の方に気を取られて進みませんでした。同じ芸術分野でも、音楽は言葉なしに入り込めますから、いいですね。絵画もいいですが、やはり音楽がどうしても先にきます。
 そもそも、音楽の方が好きでもありますので、こうなる傾向にあります。
 今日は、偶然に「May.Jvsサラ・オレイン〜アナと雪の女王LET IT GO【歌姫対決】」というyoutubeに出逢い、昨年の夏の放映ですが、感動しました。
 両者ともすばらしいのですが、サラ・オレインは「絶対音感の持ち主。3オクターブの音域を持つ、シドニー大学卒で東大にも留学したという才媛」。天は二物も三物も与えるという素晴らしさです。勿論、May.Jも素晴らしいですよ。


 
書くのみ0206(2015.02.06)
 全作家短編集への投稿を終えました。一つの関門を越えましたから、少しだけ安心しました。さて、次なるはということになりますが。どういうふうに走り出せるか、これがたいへん難しいのです。
 島永氏から受贈した「碧く輝く村の奥へ」の一作目、「祈りの日」を読ませてもらいました。インドネシアという(珍しい)舞台を背景にした、当地の女性と日本人駐在員との愛の物語ですが、生活習慣も宗教なども違うなかにあって、愛の成就とまでは行かないのですが、胸に染みる結末が待っていて、感動を呼びます。
 高く評価される作者ならではの、筆力だと思いました。


 
書くのみ0205(2015.02.05)
 投稿予定の「火影」は、このあたりでと考えます。特に目新しいことも浮かばねば、反省事項も浮かばなくなりました。
 これがOKサインだと、本人は勝手に思いますが、さて。
 なにか200枚ぐらいの作品に取り組めないか。と、思いは次に走ります。性格がガサツなもので、そう考えると気持はもはや切り替わっています。「何にするか」ということを数日悩まねばなりません。…誰か、アイデアを持ってきてくれないかな…。


 
書くのみ0204(2015.02.04)
 全作家短編集は「火影」で、ということで見直しをしています。後2〜3度は必要でしょうか。プリントアウトして読んでみる必要もあります。
 短編集に収めるものですから、それなりのものをと思うものです。
 とは言え、肩に力が入るのが一番いけませんから、ココというあたりで止めねばなりません。


 
書くのみ0203(2015.02.03)
 まず、全作家の短編集を、ということで「火影」に掛かりました。何度も読んで、手直ししてきたものですが、新たな気分になります。
 こうやって、作品を生み出してきたのだった、と思い出しながら。
 全作家の方々の話を聞くと、上手ければ良いとか、ポイントが決まっていれば良い、というものではなく、芸術作品として他の胸に飛び込んで行く、他の胸にさざ波を立てる、という方向を目指すこと、と自分なりに解釈しました。
 要するに、読んでもらえる作品にする、読んでもらえたら感じてもらえる作品にする、ということを目指すものだと感じ、正面を向くことにしました。
 やはり、書く側の才能(センス、奥行きの深さ)と、他の方の胸に飛び入る工夫、その技量のたゆまない開発、開拓が必要である。と、自分に言い聞かせます。


 
書くのみ0202(2015.02.02)
 課題を抱いて、また始めて行くことにします。
 文芸は「遊びなどというヤワなものではない」ということです。
 陽羅氏が黒田如水の言葉として紹介されている「上に立とうとする者が文道を好むというのは(中略)まことの道を求め、諸事についてよく吟味工夫をし、節目を違えず、まちがったことのないようにして、善悪を糺し、賞罰をはっきりし、慎み深くすることをいうのだ」という、実に大切なことに触れようとするためでもあります。
 もう「遊びだ」という非難に動じないように、したいものです。


 
書くのみ0201(2015.02.01)
 45の掌編が並ぶというのは、すごいですね。それぞれに個性があり、それぞれに問題もあり、よいことですね。
 並べて見たとき、何を書こうとしているか、どう書こうとしているか、初めて見えるものがあります。作者本人までが顔を出します。
 文芸作品は、「これだ」という一つの定規に嵌まるものではなく、うまい作品が絶対に良いとは限らないし、要は読み手の胸にどう深く伝えるかになるのでしょうか。


 
書くのみ0131(2015.01.31)
 少し整理の時間を設けました。次へのよいステップとなればよいのですが。
 メールの交換もしました。使い慣れると、メールはほぼ自分の考えがまとめられ、受けた内容も細かい点まで理解出来るので、有り難いですね。
 そのせいか、郵便を用いることが億劫になりました。意思の伝達に時間が掛かる、と思えてくるのです。メールなどを使い出すと、この鷹揚さがなくなり、気が短くなってきた感もあり、反省事項です。
 世の中、そんなに急いでどこに行く。ではありませんが、情報が瞬時に伝わる今日、じっくりとパソコンなどに向き合い、長い時間かけて物語を紡ぐという我慢がやや苦痛に感じられますが、「創る」ということの苦しみと、その完成に向けて全身全霊を傾けるという作業は、一度味わうと忘れられない甘美なものに変わります。


 
書くのみ0130(2015.01.30)
 全作家掌編小説特集を読み終えました。途中で他の用を行ったりしながらですが、4日を費やしたことになります。
 海第13号は、西日本文学展望や西日本詩時評にも紹介いただき、有り難いことです。こういう過程を経て、同人諸氏がさらなるやる気を持ってくれれば、技術作業人としてはその甲斐があったというものです。
 より高いレベルを目指し、海を発行出来ればと思うものです。
 少し浮かないのは、メール便(ヤマト)が3月で廃止されるということです。となれば、直ちに送料に影響が出ます。どの程度の負担増になるものかと、心配です。


 
書くのみ0129(2015.01.29)
 昨日も書こうと思えば、書けたのですが、全作家掌編集(45編)を読まねばならないため、まあ取り立てて書くまでもなかろうとスルーしました。
 文学街も送ってきていたので、森主宰に文学振興会のことで電話を入れたりしましたが、今日は同誌327号の「討ち入り始末」(陽羅氏)を読ませてもらいました。詳細な資料調査に基づき、「歴史小説」と銘打った作品(忠臣蔵)で、出来はすばらいいものです。素人として、「仇討ち」をすれば連鎖となり、その仇討ちが発生すれば麻の如く乱れることになるのではなかろうか、という疑問に、作品の最後で答えておられます。
 仇討ちの連鎖をなくすため、本願成就の暁には、仇討ちをした者全員が「腹を切る」、つまり生きていてはいけないという「武士道」の姿が描かれています。
 現在の世界の乱れが「仇討ちの仇討ち」で、収拾がつかなくなる様に乱れているのを見るに付け、「なさねばならない仇討ちであるのなら、恨みを残さない方法はあり得ないのだろうか」と思わないではいられません。


 
書くのみ0127(2015.01.27)
 全作家の掌編を読みます。45人の作品だから、読み応えがあります。掌編も立派な作品だと思います。というより、掌編だからこその難しさがあります。
 5人や10人ではなく、45人というところがいいのです。比較することが出来ます。比較されます。そういう読み方には、醍醐味を感じます。誰もが持ちページは2ページです。この中に、どんな物語を入れ、どんな情感を、どんな哲学を込めているかです。


 
書くのみ0126(2015.01.26)
 詩11編を掲載対象と決め、一応手始めの修正・確認をしました。要するに、ようやく準備が出来たということです。小説から詩に移ることは、簡単ではありません。結構時間も掛かりますし、詩のことをもっと真剣に学びたいと思います。
 農民文学賞の最終候補になったということです。作品は「白い翳」です。2008年にもなったことがあります。このときは「波の歌が聞こえる」でした。


 
書くのみ0125(2015.01.25)
 詩5〜6編を掲載予定で、準備を進めています。
 須永氏から懇切な感想が届けられ、ありがたいことです。


 
書くのみ0124(2015.01.24)
 詩の整理で終わりました。


 
書くのみ0123(2015.01.23)
 詩の整理をしてみました。書きっぱなしで置いたままですので、これまで用いた分とそうでない分とに別けました。
 疲れるもので、約350編の作品を仕分けしました。最初は毎日書いていましたから、数だけは結構ありますね。最近サボっていますが、また始めたいと思います。


 
書くのみ0122(2015.01.22)
 俳句を終え、詩に掛かりました。最近書いた作品を探していると、整理の仕方が悪くインデックスを付けたがよいだろうと、まず整理から始めました。
 内容の良し悪しは問わず、1年ほど前までの約5〜6年の間に、どうしてこんなに作れたのだろうというくらい、毎日作っています。その勢いで詩集に入れ込んでしまったりしていますので、それらを選り分ける作業です。
 整理が終わると、海の分は大丈夫だろうと思っています。
 掌編小説も最初の部分を書いたまま、しばらく泳がせておきます。そうしているうち、目鼻がはっきりし、呼吸が感じられだしたら一気に進めます。


 
書くのみ0121(2015.01.21)
 詩、俳句、掌編小説の方に当面のバランスを置きます。
 詩文は、言葉を絞り込まねばならないので、その方向で努力します。


 
書くのみ0120(2015.01.20)
 詩の方に掛かろうと思っています。しかし、散文から韻文にはすぐには掛かれないのが悩ましいところです。荒々とはやってみていますが。
 詩にも、気持を打ち込めるトキがあります。その気分のトキを逃さないようにしたいと思います。本当は、詩の方が苦手(好きではありますが)ですので。


 
書くのみ0119(2015.01.19)
 1度見直しをし、修正をしました。これからは、少し時間を空け、見直しをします。約90枚ですから、時間を要します。
 その間、他の作業にも掛かります。多くの時間が必要です。
 受贈いただいた他誌にも目を通さねばなりません。数冊を溜めています。
(Topics:芥川賞・直木賞 「土地」の存在感光る 選考過程を振り返る)
(毎日新聞 2015年01月19日 東京夕刊)
 第152回芥川・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が15日あった。芥川賞に小野正嗣(まさつぐ)さん(44)の「九年前の祈り」(『群像』9月号、単行本が講談社から刊行済み)、直木賞には西加奈子さん(37)の『サラバ!』(小学館)が決まった。両作とも、人を包み込む「土地」が存在感を放つ。選考過程を振り返る。
◇簡潔で抑制された筆致??芥川賞・小野さん
 芥川賞は選考委員の小川洋子さんが記者会見した。候補5作について、最初の投票で小野作品▽上田岳弘さん「惑星」(『新潮』8月号)▽高橋弘希さん「指の骨」(『新潮』11月号)??の3作に絞られた。
 小野作品は、コミュニケーションをとれない息子を連れ、東京から大分県南部の海辺の集落へ帰郷したシングルマザーの苦悩と救いを見つめる。「主人公と息子の存在を丸ごと包み込む『土地の力』が小説として結実した」「9年前のカナダ旅行の何気ない体験が彼女にとって光となり、記憶が最後に一つの像を結ぶのが見事」「簡潔で抑制された筆致に好感をもつ」と高評価が相次ぎ、すんなり受賞が決まった。
 最も評価が割れたのは、難解かつ壮大な上田作品。「万物が宇宙に浮遊する様や、人間でなく人類を描く観念的SFとして面白い」という意見に対し、「全く陳腐で、よくあるイメージのつなぎ合わせだ」との声があったという。
 若い世代が太平洋戦争の戦場を正面から描いたとして話題になった高橋作品は「描写力や言葉の選び方などの文学的センス」が推される一方、「書く動機が見えない」「あの時代を現代に架橋する必要があるはずだ」と強い否定意見が出された。
 小谷野敦さん「ヌエのいた家」(『文学界』9月号)は「語り手のアンバランスさへの書き手の意識が足りない」、高尾長良さん「影媛(かげひめ)」(『新潮』12月号)は、文体の冒険を評価しつつも「読む快楽が欲しい」と指摘されたという。【鶴谷真】
 ◇背中を押された才気??直木賞・西さん
 選考委員の林真理子さんによると、直木賞は最初の投票で、西作品▽青山文平さんの『鬼はもとより』(徳間書店)▽木下昌輝さんの『宇喜多の捨て嫁』(文芸春秋)??の3作が残った。木下作品の評価は高かったが、デビュー作での候補だったため「もう1作みたい」との意見が出て選外へ。残り2作で議論が白熱したという。
 そして「西さんのスケールの大きさ、才能の豊かさ、日本人離れした一つの言葉が別の世界に広がっていく独特な世界観が、青山さんのオーソドックスを上回った」と説明。言葉や展開上の欠点もあったというが、それを上回る才能を評価した。「若い人に読んでほしい。旬の作家が、受賞によってもっとブレークするのではないかと楽しみ」
 西作品はイラン・テヘランで生まれ、エジプト・カイロと大阪で育った男の半生を描いた。イケメンで女性にモテモテ。うまく立ち回ってきたはずが、30歳になって髪が抜け始めると共にうまくいかなくなる。いわば現代人の甘えた悩みを扱いながら、イラン、エジプト、大阪という強烈な匂いのある土地柄と、他の個性的な登場人物たちの魅力によって大きな骨格を持つ物語になった。
 『サラバ!』は、昨年のデビュー10年を記念した作品。主人公の生育歴は自身に重なる大事な小説だった。しかし、執筆を終えてみると「今までのような、書きたい書きたいという気持ちだけではもう書けないとわかった」と西さん。そんな転機の時に、背中を押された受賞となった。【内藤麻里子】


 
書くのみ0118(2015.01.18)
 ようやく1つの作品をまとめました。と言っても、これから何度も読み返さねばなりません。何度も、何十度もです。
 ともあれ、1つの作品としてまとめられたことは嬉しいことです。
 いつも、1つの作品が成れば、もう次には書けないのではないだろうかと思うものです。無為な時間を空費し、それでも何も出てこない。そんな日を送ります。
 自分としては、百も、二百も、切っ掛けになりそうな話題を集め、5枚〜20枚程度の書き掛けをいくつも持ってはいるのですが、20枚からなかなか動き出してくれません。創作とは空(くう)と向かい合うと同じですから、ひたすら空と会話し、祈るよりほかありません。
 ただ、今回も私小説風の作品となったので、本当の「作り話」「創り話」が書けるよう工夫をしなければいけないと思っています。


 
書くのみ0117(2015.01.17)
 朝6時から取り掛かりましたが、80枚では終わりません。少しは時代背景も入れた方がいいようで、周辺の調べの方をしていました。
 何にしても、容易くは進まないところが素人の甘さでしょう。
 書いて家族や世間から疎まれないように、という命題がありますが、これがまた難しいのです。善男善女、ハッピーエンドというふうには運ばないので、なかなか説明がし難いことです。血縁関係者が、最も理解してくれないということは宿命でしょうか。


 
書くのみ0116(2015.01.16)
 海のフォーマットで書いています。今朝5時から書いていますが、なかなか結末に至りません。75枚ぐらいになっている筈です。
 残り5枚をどう締めるか、というところです。
 芥川賞、直木賞が決まったとのことです。
(西日本新聞) 
 第152回芥川、直木賞(日本文学振興会主催)の選考会は15日、東京・築地の料亭「新喜楽」で行われ、芥川賞は小野正嗣さん(44)=大分県佐伯市出身=の「九年前の祈り」(群像9月号)に決まった。大分県出身者の芥川賞は1951年の石川利光さん以来。直木賞は西加奈子さん(37)の「サラバ!」(小学館)が選ばれた。
 小野さんは東大大学院、パリ第8大学などを経て、立教大准教授を務める。2001年「水に埋もれる墓」で朝日新人文学賞。02年「にぎやかな湾に背負われた船」で三島由紀夫賞を受け、芥川賞は4度目の候補だった。受賞作は、佐伯市の海辺の集落を思わせる古里に帰ってきたシングルマザーのさなえが家族を見つめ直す物語。選考委員の小川洋子さんは「鮮明な記憶と曖昧な記憶が平等に意味を持ってつながる最後が、芥川賞作品としてさすがだった」と評価した。
 直木賞の西さんはイラン・テヘランで生まれ、大阪、カイロなどで育った。関西大学卒業。受賞作は、テヘラン、カイロなど各地に移り住み、親友や恋人との出会いと別れ、自我の崩壊などを経験した主人公の半生を追った長編。
 贈呈式は2月中旬に東京都内である。賞金は各100万円。
=2015/01/16付 西日本新聞朝刊=


 
書くのみ0115(2015.01.15)
 今は、海のフォーマットで書いています。
 西日本新聞の14日の夕刊は、「芥川賞は『お祭り』?」という記事が1面にきています。この何かが切迫した感のある時期に、「何で芥川賞」なんだという思いです。
 売らんかなの商売の後押し記事など書いて、何だろう。というのが偽らざる気持ちです。文芸誌は2,000〜3,000部しか売れない。しかし、こうやって話題をつくることで10倍は売れるようになるということが、何ですかと聞きたいものです。まるで風俗記事の類です。「芥川賞とは作られたもの」という意味なら分からなくもないですが。
 これらは、知っている話題に過ぎませんが。それとも、「芥川賞など廃止しよう」という趣旨なら、まだしもな記事だと思われますが。
 そもそも『「新しい文学「示せるか」』とは、どう繋がって行く文脈でしょう。どういう作品が出をまっているのかではなく、「出版社はどれだけの話題を作れる作品を発掘できるか」ということなのですか。当落を選考委員の問題にしていますが、選考委員の前に候補作を並べるのは出版社の「売らんかな」意識なのでしょう。そうも書かれてはいますが。


 
書くのみ0114(2015.01.14)
 海のフォーマットに移し、書いています。こうすることが、作品に入り込み、感覚を切らさないためには必要ですね。
 普通のフォーマットに書いているときと違い、格段に真剣になれますから。


 
書くのみ0113(2015.01.13)
 書くのは難しいです。生きるのも難しいです。信じるのも難しいです。何も分からない。分かっちゃいない。だから、極めて難しいです。
 誰が敵なのか。誰が敵でないのか。そんなこと、分かりはしません。
 例えばテロです。どちらが正しいのか。いや、どちらがまともなのか。
 分からない。分からない。分からない。分からないものをどう生きようとするのか。どの方向に行けばよいか。どう裁き、どう動こうとするのか。
 感動でさえも、仕組まれてしまいます。仕組まれた中で、感動の態度を示さねばなりません。分からないのです。欺かれているのか、本気で厚意を示されているのか。
 だから、書くのは難しいのです。自分の心の中さえ分からないのに、他人の心の中など分かる筈もありません。難しいです。書くのは。生きるのは。
 分からないのです。何が真実なのか。何が美しいのか。ましてや、誰が正しいかなど。雲の中にいるようです。靄の中、霧の中にいるようです。


 書くのみ0112(2015.01.12)
 何をどう書くか。これが私の今年の課題です。私が私ではない、という方向に道筋を付けたいのです。最初、身辺雑記の類は書いていなかったのですが、最近妙に身辺の出来事を参考にした作品ばかりを手掛けて、何となく固まっています。
 しかし、作品であるなら、「虚構」でなくてはならないのだ、と思います。虚構という表現がよくないなら、「創作」です。
 創作への道筋を探る、ということになります。 
 

 
書くのみ0111(2015.01.11)
 何だそんなことが契機で書いているのか、と。
 モノを書いている人には、何か「傷」を抱えていることが多いのではないかと思います。そうでないと、何度もこの欄に書いているような「どうして身内の不幸を晒して面白いんですか」という問いには、答えられないでしょう。
 何かを抱えている、何か切実なものを持ちきたった、という者にしか「文芸」など、バカバカしいし、恥さらしな破廉恥行為でしかないでしょう。反面、そういった質問をする人は、「悩みなど抱えたこともない」のでしょう。
 でなくても、傷口に塩を擦り込むような文芸というものに関わっている人の全てが「傷」を抱えているとは限りません。自分の自慢のために書くという人もいますから、ことは単純ではありません。


 
書くのみ0110(2015.01.10)
 今朝も魘されました。「文芸という遊びなんぞにうつつを抜かしおって」
 それでひどく苦しい気分に覆われてしまったのですが、みんな旅行に出掛けたり、絵を描いたり、歌声サークルに行ったりで、文芸の何が悪いのでしょう。
 軟弱なところは認めますが、確かに「世間に恥ずかしい(ことを書く)」という面はあり、ここが他のこととは違いますね。「こんな恥ずかしいことを書いて、何が面白いのですか(正気ですか)」と、世間からも言われるぐらいですから、身内からとなると、気が気でならないのでしょう。そこは私たちも感じるところです。
 しかし、世間に恥ずかしいことの何が悪いのか、となると考えが異なります。だいたい、世間に「自慢しよう」、「負けないようにしよう」という意識は、私たちには持ち合わせがないものです。だからと言って、「露悪趣味」を目指すつもりもありません。
 作品として、人間の「どうしようもないところ」「弱さであったり、恥ずかしさであったりというふうな点を、結局描くことになるのですが」、そこを描こうとする「芸術の道」と世間並みを外れたくないとする「見栄の道」とが、交差するのですね。(このあたりは、理解が極端に別れますから、難儀ですね)
 常々思うのですが、「芸術の道」は何と「やくざな道」であり、「軟弱な道」であり、「始末に負えない道」であるかということを。ですから、これをやるからには、「とことん芸術一路で行く」という決心をするしかないようですね。
 芸術という分野ほど、回りを苦しめるやっかいなものはないかも知れません。


 
書くのみ0109(2015.01.09)
 書くことは、書きながらでしか出来ないようですね。私の場合ですけれど。
 漠然とした靄状のものを掴まえ、ノートに箇条書きをしながらという正統のやり方では、昔から書けないのです。以前(30年以上前)は、大学ノートに最初から最後までという手順で、とにかく鉛筆で一気に書き込んでいたものでした。
 当時は、それが一番の身に合った方法でした。ところが、ワープロが登場します。確か文豪という機種(約30年前。結構高かったのです)を手に入れ、使い方を覚えると、縦書きの小説作品などはこれに限ると決め、ノートが完全にワープロにとって替わり、文章の移動も、削除も、書き足しも自在に出来ることから、ワープロを我が手代わりに用いたものでした。ところが、数年後にパソコンが登場します。
 この初期の、パソコンという代物の使い難いことといったらありませんでした。多様な用途があるものの、ワープロ機能はワープロ専用機に劣っていましたから、当時の職場で「文書はワープロの方が絶対に勝っている」と主張したものです。しかし、20年ほど前から、ワープロは姿を消し始めました。一方、不安定極まりないと思っていたパソコンの機能が一気に向上し、ワープロはおろか、メール、ホームページというものが手軽に使えるようになり、私もワープロ有利の旗を降ろさざるを得なくなりました。
 五十歳前後になっていましたから、職場でもパソコンについて行けないという職員も多く、このあたりで「パソコン容認派とパソコン否定派」とに別れた気がします。なにしろ末端の職員でしたから、有無も言えずパソコンの何たるかなどは置いて、「使いながら覚える」という日々を過ごすうち、文章もパソコンで書いているという状態になりました。ホームページの検索機能も発達し、書物を無用のものとしてしまいました。
 約10年前の定年間際には、図書館が図書を購入せず、データでサービスを提供するということで、定期刊行物の購入必要度調べがあったのを覚えています。
 パソコンはそれほど急速に私たちの生活の中に入り込んで来たため、当然その流れに添えない人たちが出てきます。今の私たちはそういう状況の中にいますが、定年で職場を後にして数年、もっと事情は変わっているのかも知れません。
 とにもかくにも、第二期海は当初WEBで発信しようとの考えさえ持っていましたから、パソコンを用いての原稿作成、割付修正というふうに用いていますが、やはりパソコンが使えないという同人もいて、悩ましいところではあります。
 ところが、こういうスピードでパソコンやこういう通信方法が高度化するにつれ、どこでどう情報が使われるのか理解出来ないようになり、先行きの不安というものも頭をもたげてきました。情報化の進展というものに、漠とした不安や危険さえ感じるものです。


 
書くのみ0108(2015.01.08)
 新たな原稿に掛かっています。なかなか進まないのですが、約60枚ほどになりました。経験上このあたりまできたら、完結にまで持っていける筈です。
 やはり50枚、60枚までやってくることが私には大切です。この付近で読み返し、一気にまとめにまで進みます。80枚くらいを目指したいと思います。


 
書くのみ0107(2015.01.07)
 書いてはみるのですが、シャキッとしません。力が入りません。
 このところの寒さと、その弛みとで、もともと引いていた風邪が表面に出て来たのでしょう。昨日はずっと、寒くて仕方がなかったからですねえ。
 無理はやめておきましょう。


 
書くのみ0106(2015.01.06)
 1,000円カットに行ったついでに、本屋に立ち寄り新潮1月号を探しましたが、さすがにありません。くだんの話題作「指の骨」(高橋弘希)を読もうと思ったのですが、動きが遅すぎますよね。本屋ではなく、図書館で探してみましょう。
 ちなみに、こういう月刊誌が売り切れたらどうするのでしょう。単行本ならともかく、増刷はないのではないでしょうか。ちょうど、海の部数が足りないという場合のことを考えていましたので、興味ある話です。
 もっとも、月刊誌で話題を呼ぶと、その作家の単行本が出されるという方法がありますね。ですから、月刊誌は定期に印刷販売されて終わりかなと思えます。
 海冊子も売ることを主たる目的にはしていませんから、物には限度があるということなのでしょう。


 
書くのみ0105(2015.01.05)
 海は1月1日の発行ですが、今回の第13号は殊の外申し込みが多く、手元には我が保管分を残すだけ、という有様です。
 メディア、図書館、交流のある同人誌、評論家、海第一期時代からの懇意な方等に現在110部を送り、残り90部を同人向けと予備にしておりますが、これを増減すると同人費増に関係してきますので、なかなか動き辛いところです。
 冊子の作品は、海のホームページの「海第二期の作品(公開)」というところを開いていただければ、見る(同人の個人情報の部分=「同人一覧」を除く)ことが出来るようにしています。冊子が手に入らない場合など、利用していただければと思います。
 今日早速、「作品へのリンク」の依頼がありましたので、作者に意向を尋ね、返事をしました。聞くところでは、書店でもなかなか手に入り難いと聞きました。作る側としては、喜ぶべきことだろうと思います。


 
書くのみ0104(2015.01.04)
 これまで何を書いてきたのだろう。何も書いてなどいやしない。と、考えるまでもなくそう思うのです。いつもそう思うのです。
 過去のものを、現在のものを、未来のものを、そんなものを書きたいと思って来ました。しかし、どこにもまだ焦点を絞るに至っておりません。
 手を拱いているのでもなく、考えたり調べたりはするのですが、コレダというまでには至っていません。至るのかどうかもわかりませんが。
 書こう。一作でよいから納得のいくものを書こう。という、焦りに日々苛まれています。現在まがりなりにも書いているものは、それらの何なのか。どこに位置するものか。という原っぱを行くがごとき焦りがあります。一作でよいから、一作を書きたいから、駄作を日々並べているというのが実情です。袋小路に入っているのでしょう。
 東西南北、過去現在未来、上下左右。道筋が幾百、幾千、幾兆と引かれます。
 その旅をしています。距離や方向だけではなく、時間を過去から未来にかけて走り抜けようとしています。その過程で、現在を表現します。
 容易な道ではありません。一作を書かせてもらえるのかどうかは、無のサムシングからビッグバンが起きるという事象にも似ています。
 答えは、巡り巡って、「今」にあるのではないか、という「仮説」がないではないのですが。幾百、幾千、幾兆の道筋を辿った後での「今」なのだと思うのです。
 

 
書くのみ0103(2015.01.03)
 寒くて(のせいにばかりしてはいけませんが)、なかなか進みません。
 中途で辞め、HPや掲示板の方に気を向け、紛らしています。この急激な寒さは、身体の芯まで冷やしてくれます。
 うむ、仕方ないか、と呟くのが落ちです。


 
書くのみ0102(2015.01.02)
 取り掛かってみましたが、夕方から出掛けなければなりません。
 生活の中にあって書くということは、なかなか難しいことですね。しかし、その生活を抜きにしては、また書けないのですが。
 生きて、生活して、人間をやって、これが作品に繋がるということなんですね。人が踏み入れていないところからは、文芸というものは生まれ得ないと言うべきなんでしょうね。このあたりを、勘違いしそうになります。
 しかれども、あこがれや思考や予測などは人のいないところにも及ぶのですから。要するに、このあたりは作品の内容や質の如何による、ということになりましょうか。


 
書くのみ0101(2015.01.01)
 本当に腰を入れて、書かねばなりません。初心に戻らねばなりません。
 全国の同人誌の空気は、老いの慰めにということでやっておられる方が多いということで、一方で全てを傾けてやっておられる方も何%かはおられるでしょう。
 海は「年齢制限なし、生涯現役で」ということと、「表現し、年に2回世に問う」ということにしていますから、書いて、恥をかいて覚えていく、というものです。
 やはり一番大切なことは、実際に活字になり、出版されるということですから、これが一番の教師になり、方向舵になるものだと、自らの体験からそう思います。
 書いたことで口惜しい思いをするということが、自身をその道に向かわせるのか、リングを降りるのかの見極めをつけるに最も適切な方法だと信じています。教室などで、どれだけ推敲を重ね、時を待っても、まずリングに上がるという道が閉ざされていれば、花も実も実りませんから。例え、どんなにつらいラウンドであれ、身体でパンチを受け覚えるということは、全てにまさる荒行だと思います。
 海というところは、荒れ狂うのが常ですから。いつまでも凪を待って、ということであるなら浅瀬にも、大海にも漕ぎ出せないでしょう。
 何年経とうと、ゴールなどありはしません。次の道、次の角、が行けども行けども待ち構えていることでしょう。

 
 

 
 索 引


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