「無名作家のメモ」、「無名作家のつぶやき」とでもいうべき欄です。
このHPの中で、管理人が、最も気楽に書いている部分です。内容は、やはり「文芸について」です。
ということでありましたが、評の類はどうにも苦手であるということがわかりました。
2010年2月からは、「小説に至るメモ」の場として、この欄を使いたいと思います。乱雑なメモ、の類に終止するかもしれません。
私生活については原則として触れないことにいたします。同人誌等の関係者の記述をする場合にあっても、出来得る限り御迷惑にならないように心掛けるつもりでおります。 |
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読む書く1231(2013.12.31)
読むこと、書くことのいずれにあっても、我が力不足ということがようよう分かりました。もっと、地に足の着いたものでなければなりません。お茶濁しや付け焼き刃では、先がありません。芸術、とりわけ文芸というものは奥の深いものです。
まず入口を今一度入念に探し、地道に歩み、一つの山に登らねばなりません。
それを課して行かないことには、駄文をこね回し、麓のあたりをぐるぐる回るだけで終わってしまうことになるでしょう。
急がず、揺るがせにせず、ゆっくりもせず、歩みたいものです。今はまだ、山の姿を捉えるところにも至っておりません。
読む書く1230(2013.12.30)
書き・読む、読む・書くという流れを掴まねばなりません。ようやく、読むことのリズムのいくばくかに触れてきたのかな、という思いは持っています。
何を、何のために、どう読むか、というあたりに絞り込んでいけたらいいな、と思っているところです。しかし、まず乱読。目の前にあるものから読み込んでいきたいと思います。これって50年遅いのでは、という感がありますが、遅いも何も、ここに至ったということが大切だし、いつもスタート地点にある、というのは我がモットーでもあります。
読む書く1229(2013.12.29)
全作家掌編小説の続きです。全部で51篇の作品が寄せられていますから、壮観です。3人に1人といえば、物足りない気もしますが。
51の作品を読むことは、たいへん骨の折れることです。中でも、5篇に1篇くらいの割合で、納得の作品に出会います。いい作品に出会うということは、嬉しいことです。普段、世の外れ者といった扱いを受けている身だけに、同病相憐れむの気持に浸り、ホッとします。セカチュウの片山氏も、ものを書くのは「ビョーキだから」と言われました。
オヤここにも、同病の輩がいたんだ、という安堵となります。
読む書く1228(2013.12.28)
全作家第92号が届けられました。掌編小説特集です。最初の数編を読み始めましたが、よくぞこのレベルに、この筆致にと、今更の如く唸っています。
どうして、このような知的、情的、芸術的な域にまで至ることが出来るのだろうと。ということは、私がこれまで何も見えていなかった、という反省になります。
海の作品、とりわけ我が作品の浅さ、というものが気になり始めました。そこで、これも届いたばかりの「構想」をめくってみると、違う。レベルが違うのです。
我が浅さ、未熟さこそに気が付くものの、一点を深めていくという努力に欠けていますし、何を訴えるかという魅力に欠けています。球を投げ、行く先は球に聞いてくれの姿勢、とでも言うべきでしょうか。知ったかぶりは、禁物ですね。
というより、努力が足りません。もっともっと、勉強を重ねねばなりません。
読む書く1227(2013.12.27)
求めていた本を読むぞ、という気持です。この際に書き溜めるということもしなければなりませんが、本の山がまず待っています。
深沢七郎、西村賢太、村田喜代子、その他諸々と、寄贈いただいた同人誌等です。読み、書くということをどういう手順で行うか、それは流れ次第です。
読む書く1226(2013.12.26)
恵贈いただいた本や資料に目を通し、お礼をしたためました。いずこも、工夫され、努力されているのですね。
その過程がすばらしいし、呻吟の果てに生み出されたものだと思われます。その結果、評価したりされたりですが、その内容はいいではないですか。
芸術には評価というものが付きまといますが、そこはそこ。良ければ喜び、その中に次なるものを見い出し、芳しくなくとも次に踏み出そうとする気持が湧いてくれば、よいではないですか。要は、何かに向かって歩き続ける元気を得ることでしょう。
読む書く1225(2013.12.25)
海のことは今日は忘れようとしていましたら、「毎日新聞」が送られてきました。
同人誌季評に高岡氏の紹介があります。となると、海のHPの書き換えとなります。とにもかくにもタイトルだけでも紹介されるということは、素晴らしいことだと最近は思えるようになりました。以前は、内容に首を傾げたりしていたことが多くありましたが。
夕方、全作家のHPを見ると、文芸時評がアップされています。高岡氏と私の作品が紹介されています。望みは大きく持つことだとは思いますが、この助走の部分があった方が多分いいことだろうと考えます。HPの再書き換えを行いました。
読む書く1224(2013.12.24)
海の原稿を、印刷所(花書院)に入稿しました。この年末の多忙期で、仲西氏には会えずじまいでした。
とにもかくにも、手元から離れてくれました。しばらく、息が出来ます。
原稿を抱え込んでいる時間というのは、何とも焦ってしまうものです。原稿締め切り前後からこの方の約2週間、他に何も手に付きません。
次は印刷所での校正と、発送作業、会計報告が残っています。
読む書く1223(2013.12.23)
海の校正に掛かり切りです。印刷所持ち込みの原稿を、早く仕上げたいものです。最後に全てを読み、全てのデータ修正をします。
最後の大仕事です。今までは、こんなに大仰な気持にはならなかったのに、表紙、目次、頁付け、ヘッダー、あとがき等々、何度も確かめました。
読む書く1222(2013.12.22)
海の校正の一部がきましたので、また校正をやっています。
最終的には、プリントアウトした原稿が戻ってきて、それを読みながらやりたいところです。PC画面で見るのと、紙上で見るのとはやはり受ける感じが違いますから。
最近、連休がやけに多いな、なんて思うのはリタイア組故なのでしょうか。 (付記)
文学街314号、315号が送られてくる。
読む書く1221(2013.12.21)
委員に校正刷りを送ったままなので、いったん校正を中断しました。
年賀状の宛名を書き、西村賢太を読みました。何で西村賢太にはまっているのかこれと言った理由はないのですが、陽羅氏の絶対文感の中に取り上げられている深沢七郎を読み込んだのがきっかけで、絶対文感に掲載の作家(没者のみ)でもない西村賢太作品に移ったのは、もともと興味があったからではありますが、AMAZONの「この作品を読んだ人は、こんな本も読んでいます」という紹介の方に釣られたのだった? か、どうだったかです。しかし、私自身に求めて行こうという気があり、実際「当たりだ」という思いを日々抱いているところです。
読む書く1220(2013.12.20)
海の校正に入りました。このあたりの作業も、たいへんです。一定の時間内での作業ですから、どうしても気が急きます。
芥川賞、直木賞候補の発表がなされましたが、やはりというか、当然というか、同人誌関係からのノミネートはありません。いつもどおり、既定文芸誌からのノミネートということで、何が変わったわけでもないようです。
読む書く1219(2013.12.19)
海は忙しい。というか、なかなか暇を与えてくれません。
校正を依頼していた1人から、早速「校正一覧データ」が届きました。ということで、私も修正などします。私の一存ではいかないものもあったりしますので、再度本人に確認の依頼をしたりします。つまり、文章を書くということは杓子定規ではいかず、必要に応じて動かねばならないということです。このあたりで、私の言っていたことと異なる「時間差」が生じたりするのが、何とも悩ましいことになりますが。
舞台裏のドタバタ劇、結構悩ませてくれます。
読む書く1218(2013.12.18)
海の原稿をとりまとめ、1冊の形態にし、校正担当の委員に委ねる段取りにまで至りました。これまでの道程の遠さは、何度経験しても同じです。
1冊にまとめるということの難しさはどの冊子にでもある筈ですが、他の担当の方々で、手際よくやられている方が、本当にあったら教えを請いたいものです。
西村賢太を読んでいますが、「氏の創作」を特徴付けるものは、「文学に向かう姿勢の必死さ、懸命さ。プライドの裏返しのコンプレックス。ナイーブな神経」だと思います。ド派手な遊びや、喧嘩や、退廃的とも思える生活習慣や、動物的な本能のままに生きる逞しさなどもありますが、こういう氏が藤澤清造という氏にとっての先駆者を知り、没後弟子とまで自ら名乗り、行く先々で近代文学に関する本を集め、読み込むという「確かな目」を持ち、恐らく誰にも負けない「文学魂」を持っている点だと思います。
氏の表面的なものだけしか見ていなかったことに、おおいに恥じ入る次第ですし、氏ほどの求道者はいないのではなかろうかと思います。文学を行うために、筆舌に尽くしがたいハンディが与えられ、それに真っ向から向かうという姿勢を持つ氏には、「文学の中に肉弾となって切り込み、屹立する人間たる巨人」の苛烈さを見るものです。
氏の存在を知ることにより、これまで私自身が遠回りに、また、及び腰に避けてきた、人間の営みの真摯さと卑猥さ、神性と獣性の入り交じった人間という存在の血生臭さに今一度呼び戻されたということです。
人間という我から逃げ出すことなく、氏に負けないくらいの熱情と根性で、「人間に立ち戻り」、「人間に分け入って」みたいという、興味を思い起こすに至りました。
読む書く1217(2013.12.17)
これはどういうこと? ということが、海の締切にはよくあります。
原稿を受領し、数時間をかけて割り付け案を作り、送付します。すると、それからが長いのですね。自身の原稿ですから、どう考えても3時間もあれば校正は可能と踏んでいるわけですが、どうもそうではないらしいのです。「訂正などない段階まで煮詰めた原稿」の提出を求めており、その「原稿がきちんと校正ズリに反映されているかどうかの確認・チェック」を求めているのですから‥‥これから先に多くの作業を抱えている身にとっては、たいへんな仕儀です。
うーん、これは我が身も含め、考えを改めねばなりません。
読む書く1216(2013.12.16)
海第11号(通巻第78号)の原稿を締め切りました。前号からあまり間がなかったことなどから、約126頁(予定)はかなりの健闘の部だと思います。
締め切り日の設定にも問題ありでしたが、昨日から今日にかけてのあわただしさ、それはたいへんでした。原稿がまともに集まるということ自体、甘く見てはいけないのですが、1月前からいつでも出せるという話が、「ん? 出ない」となると、急に慌てざるを得ません。この世界、やはり常識が通用しないものと見えますから、杓子定規に考えていると、驚きの事態になりかねません。
第一、自分の1同人時代は、誰がどこで何をしてるんだろう、というぐらいの程度でしたから、無理もありません。しかし、15日前には提出していたな、という自負はあります。担当(どうしても1人に集中するのですが)以外に、何をしているかを知らない、いや説明しても理解など出来ない、ということなのですね。
まあ、こういうふうにして、1号を刻んで行く訳です。他誌の恵贈を受けますが、他誌はどうされているのだろう、とそんなことばかりを考えます。
とまれ、原稿を確認・修正し、完全に近い原稿を年末に印刷所に持ち込み、印刷所での校正を経、1月中旬には発送に出向きます。その後、決算報告とあいなります。
読む書く1215(2013.12.15)
海の原稿締め切り日です。こういうローカル誌にも締め切り日はあり、極めて厳格に運営されてきたものです。
海の締め切り日も話題が尽きません。ずい分以前からいつでも出せるという話が、日が近付いても出ない。もう1日待つ。やはり、出ない。何かトラブルでも。
というときには、案の定どこかで事情が発生した模様です。あるいは、もう出したつもりになっていたなども…・
数人のグループであっても、十人のグループであっても、数十人のグループであっても、このトラブルは免れ得ないことのようです。今回も何やかやとありましたが、後2編ほど、無事に出てくれればいいのですが。
読む書く1214(2013.12.14)
後1日作品の到着を待つことになります。締め切り日として設定しているのですから、当然ではありますが。ただ、待つのみです。
西村賢太を読みました。きちんと文章が繋がっています。と言うのは当然のことですが。心理、情景を、丁寧に追っています。何より、偉ぶらないところに好感が持てるのです。もっとも、それが売りであるのかも知れませんが。目線の低さが抜群です。
読む書く1213(2013.12.13)
海の編集作業に当たりました。締め切り2日前ですから、後は待つのみです。パソコンを利用しての校正の場合はまだいいのですが、郵送だとそれから数日を要します。
ここで、あせらないこと、と言い聞かせます。作業が多く待っているのですが、全部の原稿が揃わないことには頁付けに取り掛かる訳にもいきません。要は急がないことですし、空白の待ち時間は読書に充てましょう。
読む書く1212(2013.12.12)
海の作品の形が、かなり見えてきました。後、3編ほどでしょうか。
原稿が到着したら、すぐに割り付けを行い、作者に校正依頼をします。これが、急ぎますので最優先事項にしています。
せっかくの原稿を、十二分に生かしていただこうという趣旨からです。
読む書く1211(2013.12.11)
西村賢太を読みます。改めて、上手いな、と思いました。
この現実味あふれる文章は、とても分かりやすく好ましいものです。浮いたところがありません。かといって、黒い絵の具を塗りたくっているという訳でもありません。場面も、心理も、よく書けています。
もっと逆上したり、文章に破綻があったりするのではないか、と思っていましたが、そうではない方に裏切られました。この作家は、根が真正直なのでしょう。
読む書く1210(2013.12.10)
海の作品についての問い合わせなど、心当たりに声を掛けました。
深沢氏が、安楽死や間引きを書いたことで、自分に十分な説明が出来ないということで、川端賞を辞退したということを知りました。
作品を書くことは、自らの覚悟を書くことなのだと思いました。決してスターを目指したり、ましてや政治家を目指したりするということなど、あり得ませんね。
読む書く1209(2013.12.09)
海の作業に没頭です。高岡氏の受賞、新規入会者の紹介などを行いました。
深沢氏の作品が次々と届きます。「ちくま日本文学全集」「夢辞典」「ちょっと一服、冥土の道草。」「余録の人生」です。後、2作ほどあります。
合計で15、16冊ほどになります。一気に、小川洋子、陽羅義光、村田喜代氏らと並んでしまいました。
読む書く1208(2013.12.08)
海の作業に没頭です。
深沢七郎の「極楽まくらおとし図」が届きました。カバーも箱もあり、綺麗なものです。「庶民烈伝」もよかったです。「烈伝」と銘打たれた「庶民」の、したたかな生き様が書かれています。読ませる作家ですね。
読む書く1207(2013.12.07)
海の原稿が入りはじめました。なかなかのレベルです。
しばらく、事務方に徹することになります。
読む書く1206(2013.12.06)
なかなか書くには至らないものです。「ある空気」にあたりが変わり、しばらくそれが続き、ふうっと気が流れ始めたとき、ようやく書けるようになります。
ぼんやりした時間が多いのは、もったいない気がしますが、どうしたら「ある空気」に早くなれるかを会得しないといけません。
読む書く1205(2013.12.05)
さらに、深沢七郎の6冊を注文しました。最初、そこいらのオジサンだとたかをくくっていたのですが、「ただ者ではない」という思いが強くなりました。
日記などのかなりズレた話があったり、トンチンカンな話があったり、吹き出しそうになってしまったりするのですが、作品の冴えは息を飲むほどのものがあります。「楢山節考」「みちのくの人形たち」だけではなく、「十五のポルカ」など気楽に書いたという作品の中に、心を捕らえて放さない技があります。時代ものでも、古典でも、勿論音楽(ミュージック)でも何でも深くものにしているのですね。
読む書く1204(2013.12.04)
深沢七郎、西村賢太の作品が到着しました。こうして、当地では入手しにくい作品が手に入るということは有り難いことです。
読みたいと思い購入した作品は、積ん読ではなく、何故かとにかく読む気になるから不思議です。丁寧な包装、梱包で届くことと関係があるのでしょうか。
村田喜代子、陽羅義光ほかの作品も、出来るだけ読み込みたいと思います。
文壇の動向とか、文学史がどうだとかもさることながら、いま読み込みたいと興味を持った作家の作品を、読み深めてみたいと思います。
読む書く1203(2013.12.03)
深沢七郎の本が届き始めました。パラパラと繰っただけですが、「言わなければよかったのに日記」の冒頭に、師の正宗白鳥と散歩する場面が出て来ます。
白鳥氏が、文壇の様子や、作家や批評家や編集者などの名前をどんどん喋ります。文壇の裏話だとか、外国の作家の名前や作品名が次々に登場します。
深沢氏は、話に出て来る人の名や、作品の名を知らないのです。「記憶力の悪いボクはボーッとなっているうちに話はどんどん進んでしまう。それに、外国の作家の名と作品の名との違いもわからないときがあるのだ。だから、心細くなってしまって、そのたびに(ボクは作家になどなれる資格がないのだ)と思うのだ。」と書きます。
私の場合も、今同じことを考えています。よくわかる場面です。
村田喜代子の今朝のエッセイ「この世ランドの眺め」に、痛く感じ入りました。「人間が死んで火葬したら、体だけでなく、原子みたいなものも煙になって、消えてなくなるんですか?」と知り合いの量子物理学者に尋ねたというものです。
この問いこそが、私がいつも言う「宇宙を内包している」と考えるもので、芯から興味を持っているものです。
それが、文壇の大御所や大作家と言われる方々は、こういう問いかけをするという考えをもっておられるのか、疑問に思うのです。浅学の私の言うことではないかもしれませんが、文壇の大御所や大作家には「人間の営みの偽善とか偽悪」とか、「誰それはこういうふうな表現をする」とか、「こう解釈すべき」だとか、「こういう美醜が云々」とかいう話は多く出て来るのですが、根源的な「宇宙観−その中の人間−人間から飛び出した時空」などにはあまり触れず、処世の是非や権威の度合いなどに多く触れておられるように考えてしまうのは、やはり私がバカなせいなのでしょうか。
読む書く1202(2013.12.02)
海の原稿が出始めました。受領したら直ちに割り付けを行い、一通り目を通した後、執筆者に校正依頼をします。これが始まると、結構神経を使います。
しかし、原稿が出て来るということは嬉しいことです。
次号の冊子の形が見えてくるということですから、ありがたいことで、私自身もしゃんと背筋が伸びる思いがします。
読む書く1201(2013.12.01)
深沢七郎が面白いので、さらに5冊注文しました。西村賢太も2冊注文しました。気が付いてみると、明治以降の文学の主流を率いてきた、いわゆるエリートの作品より、落伍者と言えば語弊がありますが、東大、早大、慶大といった閥に属しない作家の作品の方に惹かれるのは否めないのかもしれません。
閥の方々の作品について、深い、高い、という評価を多く聞くのですが、私の知りたい「宙空間」にまで踏み込んだ作品にはあまりお目に掛かれません。もっとも、宙空間にまで踏み込むことは、邪道だと言われることかもしれませんが。
結局、実際、東大閥などの作家の作品に気持が靡いていかないものですから、嘘はつけません。真逆を行こうというつもりなど何もないのですが、彼らの作品には官制の臭いというか、上から目線の臭いが強くて、よく理解出来ないのかもしれませんが、あまり響いてきません。気が付けば、真逆の作品を追っているという状況です。
北日本文学賞の1次選考は過去数度通過したものですが(最高は4次通過まであり)、今の私には1次通過というだけでとても嬉しい気持ちになれます。
読み書き1130(2013.11.30)
壱岐行きの疲れで頭がまわらないまま、深沢七郎を読み、海の校正原稿が届いたので原文の修正などをしました。
読むことの合間には、書くことも始めなければと思います。
読み書き1129(2013.11.29)
船中では、なかなか読書は進みません。大時化でもあり、本を読んでると気分が悪くなります。玄界灘、ここは難所ですね。
穏やかなときというのは、年のうちのどのくらいでしょうか。
全作家にも行けず、こちらの方ばかり向いています。理解など得られません。
読み書き1128(2013.11.28)
深沢七郎「みちのくの人形たち」には、衝撃を受けました。「みやまもみずり」の話からはじまり、「旦那様」→「何故旦那様と言うか」→「逆さ屏風」→「罪深いこと」と話は続いていきます。「いろは送り」という、幼い子の亡骸に焼香する語りというのには、言葉をなくしてしまいました。
深沢作品の中に、よくはわからない、何か不思議なものを感じます。
読み書き1127(2013.11.27)
深沢七郎「人間滅亡の唄」は、ラブミー牧場が舞台です。都会を捨て、農業に就く(といっても純農家ではなく)という人がいるのですね。
確かに、人口密度の高い都会から田舎に行くと、見晴らしがいいでしょう。しかし、人間関係は逆に深くなる傾向がありますね。
深沢氏のように、農業が好きで、芸術家としての認知もなされ、芸術のことで姿を眩ます必要があり、自然の中に紛れ暮らすというのはよいかも知れませんね。
氏は、本当に花や野菜を育てるのが好きで、少人数で喋るのが好きなようです。が、30人とかの大勢の中に囲まれると窮屈な質とみえます。
読み書き1126(2013.11.26)
深沢七郎を読んでいます。「楢山節考」、「白鳥の死」、「月のアペニン山」、「東京のプリンスたち」、「人間滅亡の唄」という具合です。
「楢山節考」は何度目かですが、「白鳥の死」には作者の人生観がくっきり描かれ、「月のアペニン山」には妖気漂うほどの印象的な作品が、平静に描かれます。「人間滅亡の唄」はまだ途中ですが、深沢七郎という作家が何者であるのかが、エッセイ風に描かれます。「みちのくの人形たち」、「生きているのはひまつぶし」、「笛吹川」と作品が残っていますが、実に興味深い作家に出会ったものです。
ただ、貧困の中に育った作家かと思っていましたら、結構裕福で自由な育ちで、ギターリストでもあるという異能の持主のようです。
読み書き1125(2013.11.25)
同人誌関係にハガキなどを書き、送りました。
海のHPの整理などをし、深沢七郎を読んでいます。一挙に5冊入ったので、楽しみです。山崎豊子はその後になります。
海の原稿に少し手を入れました。見れば、必ず手が入ります。
読み書き1124(2013.11.24)
いただいたままの同人誌に目を通しました。最近の同人誌の内容は、活発になった感があります。日本文学振興会関連の影響もあるのでしょうか。
アマゾンの発注は「ベター」とばかり思っていましたが、中にはそうでもないものがあるのですね。「良い」という申告でしたが、これでは? というものでした。
海に対していただいた意見を整理、HPに掲載しました。
読み書き1123(2013.11.23)
陽羅氏筆「絶対文感」を読み通しました。以前は気になるところだけを読んでいたのですが、今回は全てを読みました。読み終えた概略は漠然とはつかめるのですが、詳細に理解するまでにはとても至りません。
1度だけというせいかもしれません。しかし、膨大過ぎて、中身もやはり難しくて、とても読んだという域には達していません。
意識化、徹底化、異化、変容、通天捨私、未使用十箇条等々、実に精力的に、懇切に、熱心に説いておられるのですが、私には準備が出来ていないのでしょうか。何度か読み返さないと数分の一も分かっていないものと思われます。
なにしろ、100人を越える作家、その個々の評価、経歴、付随した多くの人物について、さらにその背景について語られるのですから、頭が回りません。1人、1人で引っかかり、藻掻きながらようやく読み通したという訳です。
文学、ここでは日本文学の、生存していない男性作家についてという限定がなされているのですが、言うならば100人の一生を見ていくわけですから、ことは容易ではありません。こう文学というものに限っても、何という難しいことなのでしょう。
いよいよ深みに嵌まり込んだのかもしれない、という思いが残ります。
読み書き1121(2013.11.22)
1,000円カットに行き、ついでにTSUTAYAに寄りました。出会いを求めてというか、掘り出しものを探すのです。なかなか出会わないのですが、ほう、というものに1冊ぐらいは出会います。文芸関係ばかりではありません。「ナース裏物語」など、普通は見ることはないでしょう。「楢山節考」はアマゾンに注文したばかりですが、何故か手放せず、買ってしまいました。糸山秋子、井上荒野、西村賢太、野中柊、平野啓一郎、藤沢周平、坂口安吾等々です。
山崎豊子の「花のれん」「大地の子(1)〜(4)」がメインだったのですが、20冊を越えることになりました。
読み書き1120(2013.11.21)
海への入会希望、との問い合わせがあったので、関係の資料を作り送りました。
海の構成員は、10人前後で推移しています。第一期の30人前後にはなかなか辿り着けないものですね。
深沢七郎と藤沢清造の本を、アマゾンで頼みました。明日は、TSUTAYAに寄れると思うのですが、中身が充実していないので、どうしても必要な場合は、ネット注文ということになってしまいます。ネットでの方が、選択の範囲が広く、本も綺麗だということが言えますね。
読み書き1120(2013.11.20)
昨夜、寝しなにNHKのクローズアップ現代で山崎豊子の「大地の子」の紹介をやっているのを見て寝たところ、眠れませんでした。
「残留孤児ではなく、戦争孤児だ」と言う山崎氏の声は、怒りに震え、涙ぐんでいました。「自分がどこの誰ともわからず、教育も授けられず、牛や馬のようにこき使われたということを、殆どの(日本の)人は知らない
」と、「自分の文学が何と言われてもいい。そのことを伝えることが使命だ」という覚悟を語っています。
文学とはこのようにも激しく、打ち込んでいけるものか、と昨日読んだ絶対文感に登場する作家と対比し、我が身とも対比してみました。
文学は、つてや、学歴でばかりまかなえるものではない、という感を強くしましたが、それを発表する場がやはり必要です。海の如き同人誌は、世間では歯牙にもかけられない存在ですが、必然を得て立ち上がれば、発表の場として機能し得るものだと思います。昨日の、(1)にも(2)にも属しない作家でも、中身次第では発表の場に十分ふさわしいものだと思います。
要は「(1)、(2)でなくてはならない」と己を閉ざしてしまわないことだ、と思います。
読み書き1119(2013.11.19)
絶対文感を今日も30人読みました。これから、20人ほど読むつもりです。
文学の王道から眺めて行くと、殆どが(1)幼い頃から文学・芸術に親しめる環境に育ち、(2)早大、東大、慶大など東京の大学に席を置いた超エリートで占められています。興味を抱くのは、(2)は置くとしても運命的な出会いにより、(1)に触れて来得た人物によって文学世界は構成されている、と言っても過言ではないようです。
ならば、(1)にも(2)にも当たらない者など、どう位置付けられるのだろうか、と考え込んでしまいます。
ここに名を連ねているのは、育ちに恵まれ、学歴に恵まれ、故に人間関係を上手に構築し得た人物で彩られるという、つまり現実世界の写しそのものです。勿論、彼らは選ばれたがための、運命的な苦悩の道を生きているという訳であるのでしょうが。
いま私が思うのは、「彼らの如き王道のうちには属せずとも、この道に出入り出来得るものであるのか、などと考えている我、はや老年なり」ということなのです。
なれど、ここにこそ、実に新たな入口が待っているかもしれぬという奇跡があるやもしれないのです。考えることと言えば、その1点のみです。
読み書き1118(2013.11.18)
梶井基次郎を読んでいたら、心底から落ち込んでしまいました。何故なんでしょう。こうなったらと、感傷ばかりに陥らずに、陽羅氏の絶対文感を読み込んでみようと思い立ちました。これまで、要点読みで終わっていましたから。
今日は30人の作家のところで、止めました。陽羅氏の数十年にわたる読破量のすごさと、そこからくる表現のところどころで立ち止まるのですから、多くは読めません。また、理解も出来ていないのだろうと思います。読んだ途端に忘れてしまう、という頭の悪さもあります。感性の悪さもあります。
しかし、感情過多に陥ってばかりいる悲観型の私には、30人の作家がこの数十年を極めて真面目に、前向きに生きてきたのだな、という安心の方が強く印象に残ります。勿論、彼らは文学という文化を、先頭を切って担ってきた人ばかりですから当然そうなのでしょうが、出任せの感傷表現に溺れている私には、強い支えとなってもらえそうです。
読み書き1117(2013.11.17)
陽羅氏「絶対文感」を読み直し中です。氏は、実に多くの作者の多くの作品を、複数回読まれています。そこでもう圧倒されてしまいますが、私が理解出来なくても、この道を通っていかねばならないのだ、と思います。
一番遠い道かもしれませんが、努力して100分の1でも残るならやるよりほかありません。私には、この基礎の部分が欠落しているのです。もう、失うものなどないのですから、前を向くほかありません。
梶井基次郎などを読みました。
読み書き1116(2013.11.16)
海の原稿の一つが到着しました。「詩と画」です。
画はそれぞれをスキャンして、詩の中にコピー&貼り付け。これが、以外と時間を食うのです。6編6画なので、半日近くかかりました。
内容は、楽しいものです。楽しいものもいいものです。
古典など読み、文芸福岡を読んでいたら、少々辛くなりかけていましたから。
読み書き1115(2013.11.15)
海のわが作品がひと息ついたので、村田喜代子作品を読み始めました。氏の作品は、目の付けどころに感心させられますし、ストーリーにも多く学ぶものがあります。
芭蕉の「おくのほそ道」も平行して読んでいます。
文芸福岡第2号が届きました。
読み書き1114(2013.11.14)
今日も本棚の修理です。昨日うまく補強出来なかったため、木材を使って補強しました。これも十分だとは言えませんが、当面落ちる心配だけはなさそうです。
詩などを書いてみました。村田喜代子の作品も読みかけたままです。日本霊異記ほか、取り寄せた本にも手を着けていません。
最近、とみに人前に出ることが少なくなりました。これは前進であるのか、後退であるのか、わからずにいます。
読み書き1113(2013.11.13)
本棚の修理をしてみました。いったん傾きかけた棚の本を下ろし、接着剤を用いてやってみようとしたのですが、金具を介在させずに、木を用いればよかったかもしれないと思います。一応の処置は、小さなブックエンドをネジで固定することで凌ぎましたが。十分な強度には仕上がっていないかもしれません。
本の重量とは、すごいものです。1つの棚からいったん出した本の数の多さと、重さといったらかなりのものです。これだったら、棚だって悲鳴をあげることでしょう。
読み書き1112(2013.11.12)
そろそろ海の原稿が入ってくることでしょう。
その前に、自分の原稿に目安をつけておかないといけません。ということで、読み返せば返しただけ修正が生まれます。これまで、こんなに文章に拘ったことはなかったのですが、どうしたことでしょう。
てにをは、オノマトペ、接続詞、会話、字使いなどの技術的なことに目が行きます。さらに、テーマの是非、他の目に耐え得るか、きちんと表現出来ているか、などにも思いをいたさねばなりません。芸術には、終わりはないようです。
と言うより先に、芸術として始まっているのか、から掛かる必要がありそうです。
読み書き1111(2013.11.11)
日本文藝家協会から照会のあった、例の「文藝年鑑」用の「同人雑誌」欄確認の往復ハガキが来ましたので、回答しました。今回は1冊購入してみようかと思います。
詩を書き、小説原稿の手直しをしました。見直す度に、修正があるものです。まだ字句の修正の途上なのですが、本来は「どう読んでいただくか」のあたりにも踏み込まねばならないのでした。
読み書き1110(2013.11.10)
ワードの使い方を調べたりしました。一太郎と違い、ワードの方は使用経験が浅く、なかなか使いこなせないのが残念です。しかし、WEB上での原稿受付、割り付け、校正を行うということになれば、ワードの方が利用人口が多いということから、やむなくワード使用ということにしています。
ワードには特有の癖があり、日本語作成にはあまり適しないと思うのですが、そこはそこワードにチャレンジするということも、創作の過程ですから大切です。
読み書き1109(2013.11.09)
詩、俳句、小説と順次見直して行きます。この段階でも、完成ではありません。
ワードの使い方に大分慣れてきました。ルビの打ち方や、傍点、タテセンなど、何とか自前でやって行けそうです。
11号は10号からの間が短いため、どのくらいの原稿が集まるかが気になります。苦しみながらでも表して行こうとしなければ、何も後にないわけです。一点に気持を据え、気長に時が至るのを待ち、足を踏み出すことが大切だと思います。
読み書き1108(2013.11.08)
海の原稿をほぼ終えたと思っていたら、ニュースに「レンタルビデオ店減少。最盛時の4分の1に落ち込む」とあります。
なんと、私の肌感覚とまるで違うではありませんか。小説作品の内容を、この逆の現象として書いていた訳で、冷や汗が出たというか、助かったというか、自分の思い込みだけで書いてはダメだ、と痛切に知らされました。
読み書き1107(2013.11.07)
海の作品に対し、きちんとした感想や評価をいただきますので、自分なりに真剣に取り組まねばならないと言い聞かせております。
これまでは、書いたので掲載すると、いう気楽さで行っていたのですが、何を伝えるためにどう書くか、というところまで考えます。もっとも、それでも自分の思い込みというものはなかなか脱し得ず、これからも恥をかきながら書く、ということあたりで進みそうです。しかし、同人各位の姿勢が真剣になってきたことは間違いありません。
書いて、読んで、発表して、ということの絶え間ない繰り返しが大切ですね。
読み書き1106(2013.11.06)
掌編を書き始めましたが、リズムに乗れません。
夜半になって、やっと気分が一点に定まりました。ああ、私の作品の書き出しにはこういう気分が必要なのです。気分が定まると、情景が現れ、言葉が動き出します。
しかし、放っておくと細かな描写になります。一行が、次の一行を呼ぶのです。
待て待て今は掌編なんだ、と言い聞かせながら、しばらく言葉の走りに任せます。ものを書いたり、ものを作ったりするには、自分なりの気分やスタイルがあります。独特の気分です。一点、一行に自分が入り込み、あたりの情景が立ち上がり、登場人物に血の気が通い、実在の人物に似たものになります。
気障なことを言えば、私が作っていくのではなく、湧いてくるものを写し取って行く、という行為かもしれません。こう書いてしまえば、嫌みでしょうか。
邪道の姿勢なのかもしれませんが。
読み書き1105(2013.11.05)
自転車で少し遠出をしてきました。勿論、食料品等の買い出しにです。
午前中は、海に掲載予定の小説の粗方を仕上げました。少し間を開けた方がよいので、敢えて不断行かない場所まで自転車を走らせました。わが自転車は、何年活躍してるでしょう。恐らく5年は下らないと思います。
錆びが車体を被い、白っぽい車体の色はかなり茶色に染みています。ライトが点かなくなり1度交換しましたが、今また点かなくなりました。なにしろ、元の値段が7,800円だった代物ですから、タイヤの方も中身がはみ出しそうになっています。
24インチのママチャリですから、移動するのにかなりの労力を要します。しかし、これがいい運動にもなります。神経が煮詰まったときには、ガタピシとペダルを漕ぐのも悪くありません。
少なくとも、あと詩の1,2編は載せるつもりでいます。
読み書き1104(2013.11.04)
文章は難しいものです。1日休めば、感覚を失います。
海の原稿を見直せば見直す度に、修正があります。文章に終わりはありません。何度推敲しても、次に見直せば修正点が出てきます。
てにをはの問題一つゆるがせには出来ませんし、言葉一つ一つの吟味が必要です。最も大切なのは、気が付かないままの思い込みです。嘘があってはなりません。まず、文章をしっかり書き、言葉一つ一つに責任が持てるまで、推敲が必要です。
読み書き1103(2013.11.03)
海同人への、恒例の「締め切り連絡」と「寄せられた意見や記事」を送付しました。これらの貴重な意見をもとに、気持を新たにして一歩を進めたいと思います。
私自身の作品への腰も据わってきました。「何を、何のために、どう伝えるのか」ということを意識し、取り組みたいと考えます。
読み書き1102(2013.11.02)
海の原稿にかかっています。よいものをと目指そうとすれば、なかなか大変だということがわかってきました。これまで、本当に書きとばしていたのだな、と反省しきりです。次号の原稿、1字1句に気を遣いながら進めています。
今後、核になるものを定め、その核から派生する形で書けていければと思いながら、今は目先の1作にこだわることになります。
読み書き1101(2013.11.01)
海の第79号からの同人費を決め、連絡しました。消費税の増ということでの、やむを得ない措置です。同時に冊子送付先の精選も行い、経費節減に努めるつもりです。
アマゾンから、村田喜代子氏の本8冊に続き、日本霊異記3冊、今昔物語、宇治拾遺物語を購入しました。これからは、資料もじっくり読み込んでいきたいと思います。何の資料が必要かは、進めていくうちに見えてくるものと思うものです。
書く読む1031(2013.10.31)
海の原稿に少し腰を入れ始めました。義母(和田)の遺稿を選りながら、パソコンに打ち込みます。私の経験したことのない海外旅行の話、この素材は強いですね。面白いことをいくつも書いていますが、中途で途切れたものなども多く、残念でもあります。
私の方も、少ない素材を何とか工夫し、攻めていきたいと思います。
書く読む1030(2013.10.30)
西日本文学展望は、予想どおりの記事となりました。改作作品を発表するということには、後ろめたいものがありましたが、やはりそこを指摘されました。
どうして改作作品を発表することになったのかについては「理由」があってのことでしたが、それを披瀝することは潔しとしません。何か、ルール違反をしたかのような後味の悪さが残ります。心したいと思います。
村田氏の作品が私にとって強烈なインパクトを持つものだけに、癒やしがたい宙ぶらりんな気持の落ち込みでもあります。
書く読む1029(2013.10.29)
村田喜代子「盟友」「熱愛」を読みました。
私は、村田氏の作品は目の前の空中 にあるものをひょいと取り寄せ、活字にしたという何気なさに、さりげなさに、縦横への気配りの確かさに、足すことも引くことも必要がない表現の完成度の高さに、今更のごとく驚いています。
村田氏は、「そこにそのままあるものを書いただけ」とでも言わんばかりのひょうひょうとした書きっぷりで、余すところなく、くどくもなく、ドラマを目の当たりにするように、軽々と表現しておられます。
村田氏はきっと、異次元の世界からひょいと手を差し入れることの出来る、特別な能力を持っておられる方なのでしょう。
書く読む1028(2013.10.28)
村田喜代子「鍋の中」「水中の声」「白い山」「鋼索電車」「空中区」「昼の夢」「寒い日」「百のトイレ」を読みました。絵となり、風景となって見えます。唸りました。
どこからこんなイメージが湧き、文となるのか。これまでたいていの作者の作品には意図を感じていましたが、村田作品には余計な意図や力みが感じられません。
元から宙にあるものを掴み取った、とでも言うべきでしょうか。
村田作品には以前から触れていた筈なのに、これほどのものだとは理解が出来ていませんでした。自分が凡庸と言われればそのとおりですが、今村田作品に唸るということは、幸せなことだと感じます。
書く読む1027(2013.10.27)
村田喜代子の「白い山」ほかを読みます。身近な周囲がバックに描かれているのですが、印象に残る1点が必ずあります。作家の目というべきでしょうが、日常の些細なことの中に目が行き届いていて、村田作品は何度読み返しても飽きません。
不思議な作家です。読後に、心温まる作家です。
書く読む1026(2013.10.26)
陽羅氏とのメール交換をしていると、短歌や俳句に懸命だった頃のことを思い出しました。特に俳句は、芭蕉を始めとする正統な作品に向き合えていたものでした。
自由律に移った事情は思い出せません。多分、「層雲」が投稿作品を掲載してくれたからだったとの思いが少し残っています。層雲に1年しかお世話にならなかったのは、定型俳句非難の姿勢と、投稿句に勝手に手を加えられ掲載されることでした。
定型句にも入会していたのですが、「福岡文芸教室」というのが出来、たまたま新聞の呼び掛け記事を見たのがきっかけでした。微妙な偶然(or必然)が、私の身にも作用し、小説を始めたことにより偏屈を強めて行ったのでした。
書く読む1025(2013.10.25)
アマゾンに注文した本のうち、4冊が届きました。中古などというなかれ。新品同様です。TSUTAYAはおいて、BOOK OFFなどより丁寧で、綺麗です。
村田氏の本、読み応えがありそうです。
書く読む1024(2013.10.24)
高樹のぶ子の「光抱く友よ」「揺れる髪」を読み返しました。文章がきびきびして輝いていますね。きちんと主人公の心情を追い、書かれています。読ませてもらえば、いかにも当然のことと思われますが。これを本格的な作品というのでしょうか。
私など、1編も本格的な作品が書けていません。書こうとしてこなかったのかも知れません。「光抱く友よ」では、星を望遠鏡(双眼鏡)で見たり、室内に天文写真が貼り巡らされていたり、顕微鏡で細胞を覗くという部分もあります。
こういう用い方なら、抽象的なものにはならないのだ、と納得しました。
書く読む1023(2013.10.23)
不断の努力に尽きる、ということです。迷いことばかり並べず、1歩1歩でいいから、書く・読むを続けることしか方法はないと思われます。
書く読む1022(2013.10.22)
思い付いて、アマゾンに村田喜代子の本8冊を注文しました。村田氏の本は、ジュンク堂などでもなかなか探せず、TSUTAYAなどにもありません。こういうときは、どうしても全国の古書店に頼らざるを得なくなります。
古い本、新しい本とりまぜて、取り敢えず8冊ということにしました。
そうですね、評論などもアマゾンがあったのですね。次回に検索してみます。
書く読む1021(2013.10.21)
久しぶりにTSUTAYAを訪ねました。小1時間ほどの間に、20冊を選びましたがひどく疲れるものです。それでもやはり、自室に籠もってばかりではいけません。
ジュンク堂や金文堂にも寄ってみましたが、ジュンク堂の配架は分かり難く、見上げるうちに気分が萎えてきます。出版社別の配架の場合、求める作者の作品がどこの出版社から出されているのかから調べ、幾つもの棚を巡ることになります。それに、少し時期が古くなると棚から引き上げられるというのも困りものです。
海のわが作品は、しばらく時間を置いてみることにします。
書く読む1020(2013.10.20)
仕方がない、これで行こうということにしました。約3頁削除しました。自分らしくない作品であるかもしれません。それに、何を伝えようとするのか。
考えれば、なかなか活字には出来ません。考えねば、余計に出来ません。
作品を掲載することが、だんだん難しくなってきました。
書く読む1019(2013.10.19)
昨日の延長のところをやっています。一応、一通りを終えました。しかし、細かく見直す必要があります。この内容を載せるべきかどうか、の判断も必要です。
書く読む1018(2013.10.18)
昨日の延長のところをやっています。かなり間延びしております。
書く読む1017(2013.10.17)
小なる説なのだと腹をくくり、未発表の100枚に手を入れています。この作品の発表にはかなり戸惑いもあるのですが、まあこれもわが作品。恥をかくことにしましょう。
中編にも未発表作品が数点あるのですが、こちらは次々号以降にとしました。
新たな構想に取り組まねばなりません。浮気はせず、自分の持てる範囲で工夫してみることにします。他の作品を読み過ぎるのも考えものかも知れません。
書く読む1016(2013.10.16)
海の懸案事項2点についてまとめ、照会しました。
消費税が8%になった場合の同人費と、冊子送付先を精選することの必要からです。後者の場合も、経費との関係が多くあります。
安く参加出来て、中身の濃い冊子作りを行うのが理想です。まず、経費です。
次には何といっても中身です。これが、肝心の問題です。多く読み過ぎても、読まないままというのもいけません。努力が必要です。
書く読む1015(2013.10.15)
南風など他誌の作品を読みました。いずれも苦心し、生み出された作品です。
私たちも、心して掛からねばなりません。別に、他誌との競争をするつもりはありませんが、やはり真剣に取り組んで行く必要があります。
文芸作品が右から左に書けるという訳もないでしょうが、今出来ることを、今精一杯にやって行きたいものです。
書く読む1014(2013.10.14)
森様あてにお礼をしたため、投函しました。壱岐という島を舞台に、こういう作品が書けるという見本です。
私など、どれだけの伝記や風景を並べても、こうは書けないでしょう。心憎いばかりの料理法です。私も舞台をいささか知っているばかりに、お手上げです。
書く読む1013(2013.10.13)
森様からお電話をいただきました。「壱岐の墓守」はお手元にはなく、知人のつてをたより、わざわざお取り寄せくださったとのこと。本当に恐縮しました。
これほど一気に読んだ本もありません。壱岐を、すごく肯定的に書かれていることも、逆に驚きです。天の邪鬼の私に、これは何かのメッセージなのでしょうか。
書く読む1012(2013.10.12)
森様から御恵贈いただいた「壱岐の墓守」を一気に読みました。当初、壱岐の民話や伝記を書かれたのだろうと思っていましたが、民話や伝記を用いて「小説」に仕上げられています。それも、恋愛小説です。
驚きました。この本が出版されたのは丁度10年前ですから、かなりのお歳の筈。それが、こんな瑞々しい小説作品を。驚きです。
10月末の富士正晴フェスティバルにも、11月の全作家の合評会にも出れずじまいで、今年はキャンセルのオンパレードになりました。文学、文芸についての私の考えが揺らいでいるということもありますが、身内の諸々で機会が得られませんでした。
文学、文芸は人間を書く、という一点に拘っています。18歳時に幽体離脱をして感じたものは、宇宙観でしたし、そこには人間だけが住んでいるのではないのでした。ここで、また天の邪鬼をやらかしているようでは…?
(付記)
文学街313号が届けられた。
書く読む1011(2013.10.11)
「ざいん」、「四人」の2誌を読み、感想を送りました。この2誌は、手に取って読むうち思わず引き込まれてしまいました。
新鮮さもうまさもある「ざいん」、大人の風格の「四人」という感です。こうして読み比べると、どの誌も一定のレベルにあり、工夫がなされているということがわかります。わが誌のみに籠もるなかれ、ということかと思いました。
書く読む1010(2013.10.10
ノーベル文学賞に、カナダの女性作家アリス・マンロー氏が選ばれました。下馬評(というのが何かよくわかりませんが)で1番人気の村上春樹氏は選外だったということです。そもそも、「ノーベル文学賞はノーベル賞6部門のうちの1つ。文学の分野において理念をもって創作し、最も傑出した作品を創作した人物に授与される。(ウィキペディアから)」とされており、過去には人道主義的な作家、理想主義的な作家、体制批判的な作家、前衛的な作家というふうに傾向が変わってきているとのことですが、やはり「文豪」と呼ばれる作家に与えられるというもののようです。
カナダ女性作家にノーベル文学賞=村上春樹氏、今年も逃す
時事通信 10月10日(木)20時4分配信
【ロンドン時事】スウェーデン・アカデミーは10日、2013年のノーベル文学賞をカナダの女性作家アリス・マンローに授与すると発表した。授賞理由では「現代短編小説の旗手」と評価した。期待された村上春樹氏の受賞は、今年も成らなかった。
書く読む1009(2013.10.09)
最近文芸をやっていることで、寝覚めが悪いことが続きました。これは、ひとえに自分の内部の問題なのですが、「文芸なんかをやってていいのだろうか」という自分への問い掛けに端を発しています。
文芸の何たるかをよく知らないままの自分には、どうかした拍子に罪悪感が顔を出します。現職の頃の夢に魘され、子供の頃の夢に魘されたりします。
文芸をやっていくことで社会に繋がるということは、素晴らしいことですし、積極的に行うべきことだと思います。要は内容ですね、自分の場合は。自虐でもなく、自慢でもなく、全力をあげ、時間を掛け、芸術作品を作るということ。これに尽きます。
書く読む1008(2013.10.08)
全作家に出す掌編作品の輪郭がほぼ決まりました。何を訴えようとするのか、というあたりになると今一つですが、最近恨みの籠もった作品になると体に堪えます。
やはり、ベースに愛情がないことには、やりきれません。仄めかすだけでもいいから、そう務めたいと思います。恨みを晴らすためや、向こう受けを狙って書いている訳ではありませんし、訓戒を垂れるつもりもありません。
他の誌の作品も、とても参考になります。自分の卑屈な作品が小さく思えます。
書く読む1007(2013.10.07)
全作家に出す掌編作品を整理しています。掌編といえども、難しいもの。まず技術、さらに訴えかける中身、と考えると決して容易ではありません。
こうやって並ぶ、ということを想定してみたとき、何だったら抜け出ることが出来るのだろうと考えさせられるものです。やはり、それは「才能」なのでしょうか。
書く読む1006(2013.10.06)
全作家短編集から、心に残る作品3点を選ぶようにということで、全編を読みました。こうしてそれぞれの作品を読み比べてみると、良さも見えてきますが、その反対も見えますね。わが作品も、それなりに推敲したつもりだったのですが、不満が残ります。こういうふうに、読み比べてみると、多少の欠点はあれども、やはり自分の心に響く作品に投票することになるから不思議です。
3点といわず、せめてあと2点ぐらい加えたいところでした。
書く読む1005(2013.10.05)
全作家短編集の中の、お気に入りの作品を3編選ばねばなりません。
全作家に掌編を送らねばなりません。両方に取り掛かることにしました。
書く読む1004(2013.10.04)
同人誌2誌と文芸思潮第52号が送られて来ました。
書く読む1003(2013.10.03
全作家協会から91号が届きました。短編集の作品を選ぶ必要もあります。
本気で向かわねばなりません。
書く読む1002(2013.10.02)
熱が続いているためか、PCの画面を見るのが辛いです。頭の芯に痛みが走ります。点滴を受けてきた後でもあり、メールを一つ返信し横になりました。
こんなときに限って、余計神経が冴え、眠れないのです。
書く読む1001(2013.10.01)
山崎豊子さんが亡くなりました。88歳でした。
戦争を憎悪し、反権力として全身全霊をかけて小説と取り組まれました。確かに、これが一人の作家による仕事なのだろうか、という壮大でリアルな作品の数々です。
作品をよく知りもしないのに発言することはいかがなものか、と自らも思うのですが、これほどまでに人間に寄り添うものが小説である(それが定義だと思われる)のなら、自分には小説は書けないし、書こうともしないだろうとも考えます。
私のテーマは、人間の存在が何故のものであるか、それがいかほどの功罪をもたらすものであるか、というあたりにあります…。
書く読む930(2013.09.30)
数件の海についてのメール等をいただき、ありがたく思います。
真摯に問題点を指摘していただいた内容には、真剣にお答えした上で、今後の作品に生かさせていただきたいと思います。
また、私生活を思わせる同人誌作品を読むのが辛く、次号からの送付を止めてほしいという申し出もあります。同人誌は相手の顔まで見える作品であるので、読む側には辛くなるということもよくわかります。それら交々の気持もあります。
こういう状況の中、書き継いで行くということはなかなか難しいものがあります。決して自慢でもなく、自虐でもなく、芸術作品にして行こうという考えを遂行するには、地道な努力を重ね、大きな目で眺め、焦ることなく進めて行く必要がありそうです。
書く読む929(2013.09.29)
シンプル・イズ・ベストだとの基本的な考えは、抜けません。自分の作品がシンプルであるのかとなると、汗顔の至りですが。
横文字や、多くの難解なカタカナや、学術用語で固められた評論などを読むと、自分の力不足は棚に上げ、もう少しわかり易く書けないものだろうか、と固まります。
わかり難いことを有り難がる風潮は、今もあるのかもしれません。
作品も、1頁すら読めずに積み上げたままのものが多くあります。わが教養のなさ故、ということは自覚していますが、難解でなければならないといった作品には近付けないままでいます。その反対に、ルビを多用したり、!や?などを多用する作品にも、最近は近付けないでいます。
書く読む928(2013.09.28)
一冊の発表誌に、詩や俳句や小説などを併せて掲載することはいかがなものか、という御意見をいただきました。小説を2編も掲載するなど、もってのほかという御意見も。そうだろうと思いますが、海の成り立ちからして、「発表の場」というとらえ方で長年やって来ましたので、止むに止まれぬ気持から出た作品を受け止めて行きたいという意見も多くあるやに思われます。
確かに、小説を2編もというのは好ましくないかもしれませんし、甘いと言われればそれまでですが、自分たちの発表の場、という線は崩れそうにありません。少数で運営する地方の誌、ということに尽きるのでしょうか。
書く読む927(2013.09.27)
海以外に掲載された作品の冊子が溜まりましたので、いつもの箇所に送付しました。こうしないと積み上げたままということで終わるのですが、一応図書館等ですから、無用の場合のお願いも兼ねています。その場合は、たいへん申し訳ないことですが。
どうも、書く読むの方から気が散ってしまいます。年がら年中集中できないところが、素人の悲しさです。雑事にかまけ過ぎています。
書く読む926(2013.09.26)
今は、俳句をやっています。呻吟です。この短い句が、難しいのです。
書く読む925(2013.09.25)
海第10号に対し、いただいたハガキやメールに対応しています。
第11号の依頼も終わりましたから、これからは自身の中身の方に係らねばなりません。俳句を久しぶりにやろうとしましたが、これはすっかりその気にならないと出来ないものですね。詩もそうです。
遊び感覚で出来るものなど、何一つありません。文芸も本気が必要です。
書く読む924(2013.09.24)
今日も家事従事人でした。こんなときは、本も読めないのだな、と複雑です。幼時を思い起こしました。やはり、生活と時間にゆとりがないと、文芸にはなかなかたどり着けないのだな、という思いです。
戦後のどさくさの時の農家には、働くことしか皆の頭にはなかったのでしょう。
書く読む923(2013.09.23)
書かず、読まない日でした。何一つ読んでいないという訳ではありませんが、トータルで見ればそういう状態です。
18歳までは、こういう毎日を過ごしてきました。本や、電波や、文化というものに触れてはならない、という躾を守らざるを得ませんでした。家業に差し支えるからです。しかし、家を脱出した後、この空白を埋めなかった責任は自分にあります。
今、この基礎の欠落にひどく苦しんでいます。
書く読む922(2013.09.22)
海ホームページの整理などをしました。いくつかの掲示板などで取り上げていただき、有り難く感謝申し上げるところです。
それが酷評であれ何であれ、次なる作品に生かさせていただきたいと思います。
書く読む921(2013.09.21)
次なる作品に気持を切り替えましょう。済んだことは済んだことですから。
もっと集中しなければなりません。きちんとした作品は、読む人の気持ちを動かします。可能性を信じ、表現に努めたいと思います。
書く読む、これがその方法だと信じます。
書く読む920(2013.09.20)
海第10号について、格別なお言葉をいただいたり、きっちりと厳しく指摘いただいたりと、反応を示していただくということは有り難いことです。
紀伊國屋書店では、4冊の予約が入っていたとか。
これらを総括し、反省すべきは反省し、粛々と次の作品に当たらねばなりません。
表現し、発表したことについて、反響があったということほど嬉しいことはありません。次も、次の次も、一つ一つ真剣に発表していきたいと思います。
書く読む919(2013.09.19)
海の経費を支払い、会計報告を作り、送付しました。ここまでが、第10号の流れの中にあります。出すことが出来たので、後はままよという気分です。
1号を出すということは、たいへんなことです。自分たちの誌だからという思い入れもあり、楽しみも、苦労もあります。苦労ばかりかもしれません。
だからこそ、油断したりします。他誌に寄稿するより気分が楽ですから、ミスも多くやらかしてしまいます。次に繋げねばなりません。1)安易な表現をしないこと、2)真剣に取り組むこと、は実行せねばなりません。
書く読む918(2013.09.18)
海についての感想などを多くいただき、有り難いことです。返事など書き、お礼を述べてはおりますが。なかなか十分な対応が出来ているかは、不明ですが。
こうして、この狭い空間から出た冊子が、多くの皆様のところに届いているということが不思議な気がいたします。
後は会計報告です。今回は随分と必要になりましょう…。
書く読む917(2013.09.17)
海第10号について、数件のメールをいただきました。有り難いことと感謝申し上げます。特に、辛口の意見には教えられることが多いものです。今後の方向を修正すべき御指摘をいただいた場合は、特に大切に心したいと思います。
が、いちどきには変わり得ないのも素人の伎倆です。時間をかけ、一歩一歩の変化を目指したいと考えるものです。
書く読む916(2013.09.16)
台風の中心配していましたが、北海道や信州の方から、海が届いたとの連絡を受け、被害のことは気に掛かりつつも、一つ安堵しました。
ここから先は流れゆくままに、ということになりますので、定めのままに流れてほしいと祈るのみです。
たかが同人誌、されど同人誌などと生意気なことを言いますが、売れ行きのことなど何の心配もせず(実際、毎号どうなっているのか知りません)、届くべきところに届けばそれでよし、ということにしています。
書く読む915(2013.09.15)
ホームページの小説の整理などをしました。風邪具合が思わしくなく、創作するには体調が今一つです。
休養も作業のうちと心得、自重することにします。
書く読む914(2013.09.14)
海のホームページの更新をしました。更新は必要の都度行っているのですが、今回の場合は第10号の作品公開ですから、少々手間取りました。
第9号のページをコピーし、それを貼り付けて第10号のページの準備をします。あらかじめ、個々の作品をPDF化しておき、第10号の目次に合わせ作品区分、タイトル、作者名などを書き換え、PDF化した作品をリンクします。
これにも、やはり3時間近くを要します。ホームページでは、予期しないズレが生じたりしますので、ズレ難いように第9号からは表組みの形に変えました。
書く読む913(2013.09.13)
海第10号(通巻第77号)の発送作業をしました。約110の宛先に、165冊ほどを送付するのです。宛名シールを貼り、差し出し人(私)のスタンプを押し、送り状を添え、封入します。封を閉じ、メール便のシールを貼りと、結構な作業量です。
福岡圏内に同人がいないので、一人での作業です。3時間かかりました。
この発送作業が最後の大きな作業になり、後は会計報告となります。
書く読む912(2013.09.12)
明日の海発送の準備をしました。一般あてと同人あての送り状の印刷、宛名シールの印刷、同人の関係者(郵送分)あての原稿作成要領の印刷、スタンプ等の準備、という具合です。校正のときに気になった、冊子のルビの部分がうまく出来ていればいいのですが。印刷所に資料を持参して約2週間、これが遅いと言うべきか、否かです。
発送までの作業が終わらないことには、他の作業が手に付かないのは毎回のことです。同人誌、たかが同人誌、されど同人誌です。
こうやって、身銭を切ってまでやるということが何なのか、と問われますが明快に答えることが出来ません。やらないと修まらないからやる、というのが事実を最も素直に語っているのだと思いますが、私にはそれ以上の答えは出せそうにありません。
書く読む911(2013.09.11)
同人誌掲載のいくつかの作品を読ませていただきました。メールの交換もしました。私の書くもの、何でもですが、誤字や見落としが多くて気になります。
もっとも、メールとなると二回ほど読んで送信するのですが、その直後にとんでもない誤字や脱落を発見することが多く、これは癖なのでしょうか。
書く読む910(2013.09.10)
かなりサボっています。陽羅氏のヒラリズム論を読んで、その気にならねばならないところ、小休止気味です。
しかし、また始めたいと思います。いくつかの時評を読んでも、今気持に入ってきません。音楽に例えれば、優れた演奏家になるより、下手でもいいから作曲家を目指したいと思います。勿論、すべき準備は怠らずに、ということでですが。
書く読む909(2013.09.09)
この3日間、書くことから遠ざかっています。9.13の海発送までは、気が乗りません。というより、発送準備などをしなければなりません。
蟋蟀を始めとする秋の虫が、大きな声で鳴いています。昨日のことになりますが、草を取っている頭上に止まった法師蝉が、この夏の終わりに初めてで最後の? という懸命さで、5度ほどしっかりと鳴いてくれました。
書く読む908(2013.09.08)
ルビ、傍点、タテセンなどのプロとしての扱いを、印刷会社に教えてもらうよう要望しておりますが、どうなりますか。
ワードというソフトは、英文用に開発されたものだからか、日本語の入力にいくつもの難があります。私が調べた限りでは、「ワードは原稿のやりとりをするソフトとしては完全ではない」ということらしく、タテセンがズレたり、記号が半角になったりするようで、実際9.6の校正時にも妙な表記になったりしているものがありました。
校正では全てに目を通すわけにはいきませんから、原稿段階で誤りがないものが「変わっていたりする」ところまでは発見できません。後は幸運を祈るのみです。
やはり、今回のように「行を固定してからルビを打つ」という手順は、何度もウェブ等で検索してみたのですが、思い付かない方法でした。
書く読む907(2013.09.07)
昨日の校正で、ルビ、傍点、線において、課題が残りました。行を崩さないようにルビや傍点を打つというのは、かなり技術を要します。今はまだ、「行の崩れを防ぐことと、何ポイントでルビや傍点を打つか」が疑問のままです。
実地訓練を初めて受けたのですが、「これは大変だ」というのが偽らざる感じです。原稿づくり、それに割り付け原稿確認の時点で、きちんと処理をしないといけないのですが、「−」などはこちらでプリントアウトした段階でもわからず、「ズレ」が生じますので、この3つが現場でおおいに苦慮することになっています。
書く読む906(2013.09.06)
海第10号の校正に出向きました。190ページというのは、かなりのボリュームを実感しました。エッセイ、詩の方も、大分趣向が変わって面白みがあります。
小説も増えました。内容もかなり、というところでしょうか。
後は、論文等の充実ですね。
ルビの付け方の実地指導を受け、とても参考になりました。
書く読む905(2013.09.05)
風邪具合が今一つ改善しないことを理由に、【海掲示板】を設けてみました。海では全員がパソコン利用という状況にないのですが、HPも設けて作品の公開を行っていることですし、掲示板機能も備えたいとかねがね思っていました。
現在は一部の同人にしか用をなさないのですが、準備しておくにこしたことはありません。少なくとも、連絡やお願いの重要資料を置く場所にはなり得ますので、半歩前進ということでしょうか。
読む方では、矢作直樹の「魂と肉体のゆくへ」、「命には続きがある」を読んでいます。科学者がここまで書くことは、数年前までは考えられないことでした。
書く読む904(2013.09.04)
海発行の宛先などの、雑務をしました。
海の掲示板作りを試してみましたが、IT利用者が少ないことと、利用できない者が0にはならないことを考えると、これまでどおりのメールと、郵送が現状に合っているのではないかと、思い直しました。
HPも持っておりますし、当分は現方式で行く方が混乱が少ないことでしょう。
書く読む903(2013.09.03
矢作直樹著「人は死なない」を読んでいます。人とは何か、生とは何か、死とは何か、宇宙とは何か、空間とは何か、時間とは何か、魂とは何か、霊性とは何か、スピリチュアルとは何か等々、私がかねがね問い掛け、疑問に思うことを、科学者(東大大学院教授、東大病院救急部・集中治療部部長)である矢作氏が追求します。
その意味がよく分かります。「どうして人間は」「どうして今は」「どうしてこのような仕組みが」「どうして広大な宇宙が」などと考えてきたことばかりです。
在職時、公開講座などを担当してきましたが、文献学には興味が湧かず、自然科学の先に垣間見えるものを追ってきたように思います。専門的なことは何一つわかりませんが、こうやって感じることも大事ではないかな、と考えます。
書く読む902(2013.09.02)
自作のエキスとなる小作品を小冊子にまとめ、寸評を加えて販売しよう(あるいは広めよう)という動きがあるようで、私の方にも数度にわたって案内がありました。
私の主義として、文章を売ったり、宣伝したりするのは「いたさない」というものですので、とうとうお断りの意見を送りました。
この考えは、新聞等のコラムについても同じです。
自費出版などもしておりますが、当然のことながらというべきか、1冊の対価も受け取っておりません。もし手に取って見てくださる方があるとしたら、ありがたく献本させていただくつもりでいます。ですが、自費出版本も数年経つと、私自身が内容に納得出来なくなり、他人様にお送りするのも気が進まなくなります。
もうしばらくしたら、自作の山は「ゴミ焼却処分」となる予定です。
書く読む901(2013.09.01)
原稿を持ち込んだせいか、ずい分気分が落ち着きました。いくつか溜まっていた恵贈誌などにも目を通します。気のせいか、どこの誌も本気度が上がっているかに見えます。書きたい数人が集う誌に、意欲的な作品が目立ちます。
大規模な誌のよさはいうまでもないことですが、なかなか掲載の順が回ってこないとも聞きます。小規模な誌である海も、大規模な誌が持つ伝統や厚みには劣るのですが、はたしてどうなりゆくでしょうか。
読む書く831(2013.08.31)
海の原稿、資料を印刷所に持ち込みました。予定より2日早めました。合計190頁となりました。これだけの頁数は初めてで、仕上げもたいへんでした。
ペーパーでの原稿を読んでみると、内容はなかなかいい線をいっているのではないだろうか、と思われます。
原稿を持ち込んだという安心からか、眠気が襲ってきます。
読む書く830(2013.08.30)
海の校正が寄せられたので、自分も1冊分全てを読み、修正すべきは修正しました。なかなか理解が得られない場合もあり、最後まで問い合わせが必要になってきます。
激しい雷雨の中でしたので、パソコンを閉じたり、開いたり、かなりイラつきながらやっていました。首尾良く行けば、明日にでも印刷所に持ち込もうと思っていましたが、あまり無理は出来ないことのようです。
読む書く829(2013.08.29)
海の構成員は、集まれる範囲にではなく広い範囲に住まっていますから、せめてネットでの意見交換を行おうと、メールでの交換をすることにしました。
作った後で、やはりブログでの方がいいのかなと考えましたが、HPは作っても、ブログとなると? ということで、当分メールにしました。
同人諸氏もITには悩まされているのかもしれませんが、スピードをもって対応しなければなりませんね。便利さを求める余り、1点しかものを見なくなる癖がついてしまいそうです。心すべきことのようです。
読む書く828(2013.08.28)
海の資料を担当者に送付したので、HPの方の整理をしました。風邪気味の中、気分がよろしくなく、肩も凝っています。
資料が戻ってくるまでの束の間に、風邪を治さねばなりません。
読む書く827(2013.08.27)
海第10号は、188頁となりました。校正担当委員に資料を送付するため、それこそ大車輪の働きでした。
原稿の整理、並べ、目次作成、頁付け、プリントアウト、付箋付け等々です。1人でやるのは全体が見渡せるという長所はありますが、それは辛いものです。
しかし、もっと理解を得るための努力が必要なようです。勿論、自作をキチンと書きながらの話です。1人よがりになってはいけない、ということです。
読む書く826(2013.08.26)
海第10号の原稿を締め切りました。184頁を数えることになりそうです。
委員担当者による校正を8月31日までに済ませ、9月1日には最終的に資料、データを整備し、9月2日に印刷所に持参する予定で動いております。
やはり忙しいこの1週間でしたが、発行に漕ぎ着けられるのを嬉しく思います。
読む書く825(2013.08.25)
海の締め切り日です。最後の作品とおぼしきものが送られて来、だいたいの頁数と頁組のイメージが出来ました。
9月15日の発行を目指し、これから本格的な作業に入ります。
読む書く824(2013.08.24)
海の作品が入ってきます。割り付けをし、読んで、早めに作者に確認、校正をお願いします。流し読みをするのにも、結構時間がかかります。
読む書く823(2013.08.23)
海の作品を眺めていると、また気掛かりになり、少し手直しをしています。
全体の頁数を予想すれば、180頁を越えるのではなかろうかと思えます。
読む書く822(2013.08.22)
海の作品も少し手直しをしました。創作の方は半分近くまで進みました。
見返せば見返すだけ、中身が変わることになります。ということは、終わりはないということになります。しかし、終わらせる勇気も必要で、芸術とは誠に奥の深いものです。阿修羅の如くに作品を突き詰めた「地獄変」の意味が、分かる気がします。
読む書く821(2013.08.21)
海の方の締切を睨みながら、創作を1本続けています。なかなか思い通りにいかないのが悩ましいところですが、続けることが大切と言い聞かせています。
感想文も連絡文も同じ日本語を用いるのですが、創りながら書くということは難しいものです。このベースになるのが、教養であり、知識であり、経験であるのでしょうが、創るという域に入ると能力とセンスいうものが顔を出します。技術でどうにでもなるという説もありますが、何がベースになるものであろうと、この長い時間を書き続けるという力と意欲が、何よりも問われることになろうと思われます。
読む書く820(2013.08.20)
海の方の締切を睨みながら、創作を1本続けています。文学街311号が届きましたが、内容が充実していますね。
どんなときにでも、頑張る人は頑張るのですね。この愚直に進むという姿勢が、一事をなしていくのでしょう。目の前のことにひねくれ、手を拱いていると何事もなし得ません。人の前には、同じ時間が流れているのですが。
読む書く819(2013.08.19)
以前片山恭一氏が「書くのは病気だからです」と言われていたのを、そのとおりだろうなと思い起こしました。
ものを作り出す作業。これがどんなに辛く苦しく、孤独なものであるかを多少はわかる気がしています。本当にこんなヤクザなことなど辞めてしまえば、どれだけ気が休まることでしょうか。しかし、病気の身には、これを辞めることは死刑を宣告されるに等しい苦しみを味わうことになると思えるから、不思議なことです。
重ねて言いますが、書く作業は「自慢だとかにまるで関係ないことで」、書きたいという病気(遺伝病かもしれない)に罹患しているからです。
読む書く818(2013.08.18)
海原稿の締め切り日が近付いた今、新たな作品を書こうとしています。海に掲載する予定のものは準備していますので、新たな作品です。
少し自分の殻を破ってみたいと思います。持ち合わせのない教養でも知識でもない、自分にしか書けない作品を目指してみたいと思います。丸山健二氏が発起された丸山健二賞の趣旨に賛同するものですから、旧来の価値や教養などを打ち破る作品を模索してみたいと思います。そうでもしないと、何も変わりません。
(参考:丸山健二氏の弁)
ちなみに、言葉の発信者としての自身の腕が現在どのレベルに達しているのかを、さらには、ナルシシズムに溺れることなく人間という存在の核心のどこまで肉薄しているかを、客観的に認識し、正しく把握している書き手こそが真の才能の持ち主である。
読む書く817(2013.08.17)
読み書きに殆ど身が入らず、あれこれを漁り散らした格好になっています。
100枚の方、まだ入れずにいます。イメージが高まってくるまでは、情けない格好になります。読むでもなく、書くでもなく、という状態です。
ただ、書きたい気分の方が少し強いように思います。
海の原稿にも気を配ったりしています。
読む書く816(2013.08.16)
今日も海の原稿が入りました。海は、自身の表現を積極的に行うための場ですから、どんどん書き、発表してほしいと思います。
漱石と柳田国男を読んでいますが、なかなか進まないのが難です。
読む書く815(2013.08.15)
文藝軌道の黒羽氏から、「文藝軌道・短編小説集」と「詩と随筆と評論」という2冊の恵与を受けました。
文藝軌道はとても活気のある集まりのようです。文藝学校の教員と生徒という構成になっているのでしょうか。熟達した書き手あり、若々しい書き手ありの、エネルギー溢れる内容で、いつも楽しませてもらえます。力を与えてももらえます。
装丁もスッキリし、内容も揺らぎがなく、面白いのが印象に残ります。
さっそく、大急ぎでお礼を述べ、感想を書いて送付しました。
読む書く814(2013.08.14)
海の全体的な資料作成です。表紙、海の理念、受贈誌等、次号について、あとがきなどの準備です。原稿が出揃わないとページ組みは出来ませんので、来るまで待とう、の気持です。今回は新規の方がおられるので、問い合わせがかなりあります。
1冊を作るというのはやはり難しいもので、何度やっても快調に行く、ということはないようです。生みの苦しみというのは、やはりついてきます。
9月中旬に出せるか、というところです。
読む書く813(2013.08.13)
海の全体的な資料作りなどの作業をしています。この暑い中、細かい作業をしていると気分が悪くなってきます。一人で囲い込み過ぎるという懸念もありますが。
いろいろと言われますが、まあここで抗っても何の意味もありません。継続して発行するということの方を、まず優先せねばなりません。
(付記)
評論家 松原新一(塩野実)氏逝去
読む書く812(2013.08.12)
海掲載予定の、わが作品の点検に入りました。何といってもこの暑さです。途中で気分が悪くなってきます。
足腰が弱らないように、ヨガみたいな運動を行っています。戸外に出ようにも、出れないという猛暑が続いています。
読む書く811(2013.08.11)
海の発行準備に入りました。10号記念ですから、過去の掲載作品一覧などを作り始めたものの、これがなかなか手強いのです。おまけにこの暑さですから、気分は悪くなるし、イライラするばかりで時間が過ぎます。
編集人は、すべきことがあり過ぎ、の感があります。
企画、協力依頼、周知、原稿受付、割り付け、データ修正、その間の問題受付、打ち出し、校正、印刷所持ち込み、ゲラ校正、宛先作り、発送準備、発送、会費徴収、決算報告、対外的なやり取り…と書き出したら切りがありません。
在職中より忙しいと、自信を持って言えます。自分の創作が別にあります。これは、机に10時間座っていればいいというものではありません。本当に奥の深い世界です。
読む書く810(2013.08.10)
60枚の方にもGOサインを出しました。
30枚、60枚と一口に言いますが、これまでの中身とは密度が異なります。
読んで、分かってもらえる原稿にしたいと願っています。これまでの作品を思うに、作者の一人よがりだったのだなあ、と思うばかりです。
もちろん今も、途上人であるのですが。
読む書く809(2013.08.09)
海第77号に寄せられた原稿への対応で、結構懸命になりました。この時期に相次いで寄せられたため、割り付けをし、校正依頼をするという手順です。
ワードの扱いが難しいため、ワード対応の作業も含まれます。全てが一局に集中するという現システムがよいとは思えないのですが、今はこの局面を乗り切るよりほかないでしょう。少し人が増えれば、もう少し別のやり方もあり得る筈ですが。
読む書く808(2013.08.08)
30枚をプリントアウトし、GOサインを出しました。
プリンタのインクを求めに、山田電機まで自転車で行きました。アスファルトの熱のすごさの方は言っても仕方ありませんが、プリンタの方が古くなってくると、インクまで除かれてしまうようで、いつまでインクが手に入ることやら心配です。
プリンタそのものは今が絶頂期かと思えるのですが、IT業界は突然古い機種を使えなくさせてしまうという挙に出ます。パソコンだって勝手にOSを変えたり、古いOSにはサポートしないという手できます。
経済が主人公の世の中。魅力のある主人公ではありませんね。
読む書く807(2013.08.07)
海の原稿が結構束になって入ってきましたので、まず割付をし、作者に送付の上校正を依頼しました。この場合パソコンが使える方にはメールの添付で行うのですが、それ以外の方は郵送になります。
その合間に、30枚と60枚を見返しています。見れば見るだけ直しがありますから、創作というものはなかなか「これでOK」とはなりません。やればやるほど難しさを覚えますし、それだけにやり甲斐がある、と思うものです。
読む書く806(2013.08.06)
「阿弥陀堂だより」のDVDを観ても、わが作品に直接重ねることは出来ませんでした。「阿弥陀堂だより」の、現実とあの世とを結びゆく世界が好きです。
もっとも、作者は医師ですから、極めて現実に即した表現を用いながら、しかし、あの世とこの世の境へと踏み込んで行きます。
生きながら、立ち止まらずにはいられない、考えざるを得ない、内省的な作品であり、美しい自然の営みが息づいている大きな作品です。
読む書く805(2013.08.05)
海の原稿が届き始めました。10日ほど後に送付してほしいというお願いも、関係ないことのようです。とにかく、原稿が届けられるということは嬉しいことです。
その前に、30枚と60枚を片付けねばなりません。夜はパソコンを落とし、今書いていることに大きく関わる「阿弥陀堂だより」の原作を読み、明日はDVDを観ることにしています。
読む書く804(2013.08.04)
30枚の方を仕上げました。次の60枚が終わったら、海の掲載作品になり、その次は100枚に取り掛かりたいと思います。
仮のタイトルは「白痴」としています。
(付記)
文学街文庫[8]が送られてきた。
読む書く803(2013.08.03)
60枚の方のあらすじを書きました。あらすじというのは、たいへん難しいものです。いただいたメールに、返信メールなどをしていると、時間が過ぎゆきます。
読む方では、WEB上の作品を読みました。
読む書く802(2013.08.02)
この間に、多くの著書等をご恵贈いただいております。たまたま家庭の事情や、自分の体調管理の必要もあって、まだ中身に入り得ていないことをお許し願います。
まずやらねばならないことは、60枚、30枚の完成です。その目鼻が付くと、海への掲載作品の最終点検です。各位からの原稿受付がそれに続きます。
ありがたいことに、広くご交誼をいただき、資料や作品のやり取りをさせていただいていますので、皆様には失礼にならないように努めたいと思います。
今日、文芸思潮の今後の購読料を送ってきました。
読む書く801(2013.08.01)
30枚の方もプリントアウトしました。30枚であれ、60枚であれ、100枚であれ難しさに変わりはないようです。
これを早めに片付け、海の方の分の見直しをせねばなりません。海の方にも、出来れば2編といきたいところです。
読む書く731(2013.07.31)
60枚の書き直しというか、微修正をしています。少し間を置き、きちんとやらねばなりません。創作というものの、醍醐味と苦しさを味わえるのは今のときです。
自分が作り、自分に結果が来る。これが創作でしょう。
感想文なども簡単には書けませんが、作るという作業には別ものがあります。
(付記)
文芸思潮第51号が送られてきた。
読む書く730(2013.07.30)
60枚の通し読みをしています。2度、3度とやるつもりです。
30枚も完成させなければなりません。
8.25は海の締切ですから、前段のものは8.15あたりまでに片付けねばなりません。海の作品も、見返す必要があります。場合によっては、2作を考えたいと思います。
読む書く729(2013.07.29)
背中に傷を持つ身です。こうなったら、余計に覚悟が出来ます。何があろうと、今動けないのですから、出来ることは、かろうじて作品にかかわることだけです。
田舎から何を言ってこようと、駄目なもの駄目ですから、性根が座ります。
今の時間を無駄にしたくないと思います。
読む書く728(2013.07.28)
本来なら、全作家の日です。残念、無念です。
書きかけの中編、中途で「何書いてるのだろう」という気になってきます。しかし、ともかく書き上げ、先に進む必要があります。
「中核VS革マル」を読んでいると、おぞましさに気分が落ち込みます。こういう思考回路が有りなのか、と脱力感に陥ります。確かに、戦争には戦争の、セクトにはセクトの理屈があるのでしょうが、どうにもついて行けそうにありません。
読む書く727(2013.07.27)
書きかけの中編に向かっていますが、自分でも「これが切実なテーマであるのか」と考えてしまいます。今、頭でっかちになっているのか、自分の作品を以前より客観的に見ることは出来ますが、その分の内容が伴わないことで、意気消沈気味です。
なにより、大きなテーマを抱えることが出来ていない(頭でっかちになる過程で、自分の抱いてきたものとのズレが生じた)ことで、焦りがあります。
いったい何に向かって書くのか、という根本の部分の練り直しが必要です。
読む書く726(2013.07.26)
中編よ、中編よと思うばかりで、からまわりします。今過渡期にあり、冒険が出来ないという気持ちの縮みもあります。それより、「教養、知識、センス」というフレーズを考え過ぎるせいなのかも知れません。
1点にこだわることで、全体が滞っていますが、この霧の晴れるときを想定して準備を進めないといけません。
読む書く725(2013.07.25)
中編の整理にとりかかりました。どこにも発表していない分です。
立花隆「中核VS革マル」を読んでいます。忘れかけていた70年代が、少し蘇ってきました。私の場合は、ファッションとして覗いていただけですが。
アメイジング・グレイスを何度も聞きながら。
読む書く724(2013.07.24)
WIN7を再インストールしたPCの使い勝手がよいので、海のHPを中心としたマシンに切り替えようと思います。
中編か短編に取り組んでみようと思います。
読む書く723(2013.07.23)
他事にかまけねばならない日でした。そうです、日常の大事です。
WIN7に再インストールしたPCが、どうやら使えそうな目処が立ってきました。これを海のHPを中心にしたマシンとして、今少し整備し、使いたいと思います。
WINXPの使い心地のよさは別として、いつもCドライブの空き状況に神経を使っていたのですが、初期化するとCドライブのみになってしまいましたから、ドライブの空き状況にあまり気を遣うことなく使えるのは、ありがたいです。
読む書く722(2013.07.22)
読む書くに取り組めない日でした。こういうときは、会話の中や、会話の表情の中に、観察眼を向けていたいと思います。
それに、自分の心の動き、これも大切です。無駄に過ぎる時間はありません。
読む書く721(2013.07.21)
PC作業の傍ら、「彼女たちの連合赤軍」という本を読んでいます。かなり哲学的な内容で、時代に先駆けてフェミニズムに走ったつもりの彼女らが、十分な自立というところまで行き着かなかったがための殺戮、というふうに読んでいます。
戦後憲法のこと、戦後は押しつけられた憲法のもとにあることなどが、江藤淳らの説を踏まえ説明されます。
参議院議員選挙は、与党の圧勝で、ねじれがなくなることになります。経済優先と与党自民党は言っていますが、戦後憲法改正に踏み込むのかどうかが大きな問題として、現実味を帯びた問題点になりました。
読む書く720(2013.07.20)
本の整理をしました。PCの再インストール作業の傍らというつもりで始めたのですが、本箱一個分が全部終わりませんでした。猛烈な埃と汚れで、体中にダニを塗りつけたかのようです。本というものは、古くなると黄ばみ、湿気を吸って、すごい様相を帯びるものですね。特にわが部屋は北向きですから、換気がよくありません。
ダニに襲われたのも宜なるかな、と思いました。
それにしても、意外な本を持っているもので、その内容が全く頭に入っていないということが、今日の自分を作っているのだと思った次第です。
読む書く719(2013.07.19)
芥川賞、直木賞の選評を読んでいると、「知識、教養、センス」という言葉がよく使われていることに気付きました。当然と言えば当然の表現ですが、ここには排他的な臭いがしないではありません。
もっとも、知識、教養、センスのない身に、芸術がこなせるわけもない、と我が身にひき比べて思うのですが。ここに、学歴と書かれなかったことに、一縷の安堵をみてはいます。知識、教養を身に付けるようになるためには、学歴はほどほどにしても、それを開かせる環境(文化に触れる機会、書物や書画などに触れる機会、自らが愛情に深くくるまれているという体験や環境など)に恵まれることが必要だと、強く思うものです。
私的には、否定的な環境の中で育ってきましたので、これから何をどうつないで行くべきか、と考えます。恨みや復讐を芯にもつ作品が、人々の心に語りかけるものではないということは、ようやく理解出来るようにはなりました。
やはり、どんな否定的な内容の作品を手掛けるにしろ、芸術的な手法での、感動、救い、希望が芯になければならないと思います。
読む書く718(2013.07.18)
気が付かないうちに、芥川賞、直木賞が決まっているのでした。
異を唱えるわけではありませんが、最近になってようやく人間の行動というものが理解出来た感があります。
現実へのこだわり、これでしょうか。わが国にも、露わにではないですが、出自の壁、出自による格差というものがあるのだな、ということが見えてきました。あ、これは芥川賞・直木賞とは切り離した話です。
人はパンで生きる。パンのみでは生きれない。人にはパンさえも与えられない場合が多くある。何だろう、何だろう、この息苦しさは。ここに、文学・文芸などの入り込むべきところだと思うのですが。‥勘違いなのでしょうか。
読む書く717(2013.07.17)
ようやく短編を書き上げました。中身がどうかは、わかりません。今は、いえ今も、書けたことにほっとしてしまうという体たらくです。
母の騒動で、7.28をキャンセルせざるを得なくなりました。本当に、何か前に進もうとすれば、必ずこの手の話がきます。もう、やんぬるかな、です。
読む書く716(2013.07.16)
日本ペンの会費を振り込みました。
3枚程度は書けました。やはり、自分の場合は、書きながら進まないと始まらないようです。このやり方には、無駄な時間が多く必要です。
しかし、この無駄と思えるときを過ごすことで、前に進むことが何とか出来るのですから、よほどの転換でもない限りいたしかたないのかな、と思っています。3枚を365日続ければ、1,000枚になるのですから、こんなものかも知れません。
読む書く715(2013.07.15)
海第10号(通巻第77号)の直前の原稿提出案内を、メールとメールを使われない方には封書で送りました。提出締切は、8月25日(日)です。
資料づくりが急遽入ったため、作品の方はストップしています。
テーマは何で、何故そういう話になるのかというあたりを詰めねばなりません。
読む書く714(2013.07.14)
書き始めましたが、最近のわが作品には「結局それがどうしたの」という内容のものに終始していることが多く感じられます。
掌編や短編を多く手がけていることからくる、と言えば言い過ぎですが、「何のためにこの作品を書くのか」「何が言いたいのか」「焦らず、落ち着いて構えて、じっくりテーマを追求していくという粘りに欠けている」ということでしょうか。
これらは、書くという根元をなすものですから。
うまい、とか下手だとかの域に留まっていては作品の世界は始まりはしても、目的地には向かいません。瑞々しい、緻密な「思いのたけ」の筆が必要です。
たまたま、「コンドルは飛んでいく」を聞いてみたら、「ローズ」のジャニスジョップリンや「アメイジンググレース」やカーペンターズにはまり、映画も1本観てしまいました。音楽、映画などにも多く触れないといけないと思いました。
読む書く713(2013.07.13)
文学街310号が送られてきました。「交差点」というわが作品も載っています。森氏は、毎月刊行をきちんと続けておられます。たいへんなことだと思われます。
日本ペンの会費納入依頼もきました。
かなり多くの方々が、文学に取り組んでおられるのだな、という意を強くしました。同人誌は同人誌なりに、商業誌は商業誌なりに多くの人が動いているようです。
読む書く712(2013.07.12)
今日は書くことばかりです。といっても、60行ぐらいでしょうか。
もうちょっと読む書くの効率をよくしないと、もったいない気がします。
読む書く711(2013.07.11)
先日の続きですが、内容はともかく、何とか100行近くは書けたのではないでしょうか。こうやって書いたり消したりしながら、いつか勢いがついて、一気に100枚を書くというのがわが作法でした。
そのリズムに乗れることを信じ、こつこつと始めます。
読む書く710(2013.07.10)
今日は、昨日の10行の続きを書こうとしていましたら、海の寄稿原稿が届いたので、割り付けてみました。6つの詩に6つのイラスト入りという初めてのものであったため、最初イラストは除こうとしてみましたが、「自身の表現を」と謳っていることでもあり、従来の「詩」とは分け、「詩と画」というジャンルにしてみました。
イラストをスキャンして貼り付ける作業に手間取りましたが、何とか進んでみました。自分の作品を書くより、他の方の原稿を見ることの方が気分が充実します。
読む書く709(2013.07.09)
10行も書けたでしょうか。なかなかうまくいきません。しかし、10行でも書けた日は、どこかに充足感が芽生えてくるから不思議です。次に繋がってきそうだ、という希望を持つことが出来るから不思議です。
1日に10行でしかないのですが。
読む書く708(2013.07.08)
評価のことを気にしすぎると、書けないものだと思います。まず、書きたいことを書きたいように書き始める、ということでしかわが作品は生まれません。
文学だの、文芸だのという枠をも越え、とにかく書いてみる。無心になって、2〜30枚ぐらい書いたところから、作品が始まる。というわけです。
良いとか悪いとかではなく、何かのインスピレーションにより、1行を書き始める。その2〜30枚をもとに、消したり、加えたり。要するに、バーチャルな土台を1つ作る。そこからしか始まらないのが、わが作品でした。とにかく、1行を書いてみる。次に2行目を書いてみる。こういう愚かな道を辿らないことには、何も生まれないということです。世の作家諸氏のように、今度は◯◯を書く、というやり方が出来ないのが情けないところです。とにかく、真白の気分にならないと、始まらないというのは治りません。
読む書く707(2013.07.07)
なかなか、次が書き進めないでいます。30代の頃は、書きたいことが沸き上がり、それに充てる時間のないことが悩みでした。
そこそこの書き込みは出来るのですが、これだという鉱脈に未だ至っていない感があります。今の悩みは以前とは異なった質のものです。
いいものを、とあまりにも考えすぎるのかもしれません。恥を書くという以前のやり方の方が、やはり自分には合っているのかもしれないと思ったりします。
読む書く706(2013.07.06)
全作家第90号が送られてきました。まだ目を通していないのですが、わが作品「菩提樹の花の下で」と、ひろば「愚家族」もあります。この冊子に掲載されることは、たいへんなことだとようやくわかりました。
全作家文学賞の発表もあります。これも、なかなかたいへんなことのようで、最終選考に残ったからといっても、厳しい評が続きます。選ぶ側も、選ばれる側も、魂が揺さぶられ、切り結ぶほどのものを、ということでしょうか。
読む書く705(2013.07.05)
まず足下を固めねばということで、福岡文化連盟に掌編8枚を提出しました。
締め切り日をうっかり勘違いして、OUTになった銀華文学賞のこともあり、出来るときに出来ることをすることにしました。
それから、次作にかかります。
読む書く704(2013.07.04)
以前買っていた「壱岐の歴史と風土」なる本を探し出し、読みかけてみました。しかし、何度試みても、先に進みません。
今回は、資料なのだからよ言い聞かせて、読んでいます。
芥川賞、直木賞の候補作が出揃いました。同人誌の「ど」の字も出て来ないというのに、思わず笑ってしまいました。
読む書く703(2013.07.03)
村田氏の蕨野行を読み返しています。すばらしい作品に出会うと、2度は読むようにしています。
自分自身も、この作品を読んだことで、最近拠り所を失った気持ちでいたところ、いくらか救われた気がしました。
読む書く702(2013.07.02)
海入会者の対応や、77号のことに気持ちを奪われていました。
文芸思潮のHPを見て、銀華文学賞の募集要項を確かめてみれば、6月30日締切でOUTということです。残念と言うより、縁がなかったのだと思い直しました。
今年は、読むことに力を傾けているのですから、いたし方ないでしょう。村田喜代子氏のように、もっと腰の据わった作品を書くことを目指したいものです。
読む書く701(2013.07.01)
村田喜代子「蕨野行」を読み終えました。農家の老人は60歳になると、里を離れ蕨野に赴かねばなりません。蕨野衆ことワラビは、里人と一切交わらないという訳ではありません。日々の食を得るため、昼間は里に下りて農作業の手伝いをし、報酬としてその日の食物の粟や稗を与えられ、野に帰ります。
野では、かつての里での地位や身分に関わりなく破れ小屋に住み、報酬の食物を分けて食します。ワラビが足腰が立たなくなれば、終わりを意味します。里の作物の出来不出来も、ワラビの食に直に響きます。
野草を摘み、木の実を集め、ウサギや山鳥を捕まえて食します。川魚を掴み取り、稲ワラでさえ食します。
里の実りがなければ、秋風が吹いても里には戻れません。里でさえ、食料がなく、子は間引かれてしまいます。やがて、雪が舞い、野は氷り付きます。
ワラビたちは、視力を失い、気が触れ、1人また1人と次の世へと渡ります。
異界に足を踏み込んだワラビは、古びた体を脱ぎ捨て墓地に向かう者もあれば、里の嫁の腹に入り込み、また里に生まれ出ようとする者もあります。
あらすじはこのようですが、里と野と異界との境があいまい混然となり、人も魂魄も、風の間に間に漂う浮き雲のようです。
これほど苛烈に人というものを見つめた作品を、知りません。音のない影絵を息もせずに眺めているという、激しい緊迫感の中にいるというのに、村田氏独特のジョークを聞かされているようでもあります。
読む書く30(2013.06.30)
村田喜代子「蕨野行」を読んでいます。農家の老人が、60歳になったら山に入らねばならないという話です。楢山節考とは異なります。村田氏は、すごいです。
1度ならず何度かお会いしたことがありますが、このようなスケールの大きい話がどこから出てくるのでしょう。
かれこれ25年ほど前、大学の文化講演会にお招きしたことがありました。芥川賞をとられたばかり。失礼ながら経歴から、大学関係者はそれほどの期待はしていなかった筈でした。しかし、話は大学教員の腰の引けたものとは違い、満員の聴衆を十分納得させるものでした。村田文学は奥深く、温かく、本格的に読み込んでみたいと思います。この読む書くという途上に出会った、極めて大きな作家であるとの思いを新たにしました。
何がすごいのかまでを含め、改めて考えてみたいと思います。
読む書く29(2013.06.29)
新規入会予定の方2名あてに、資料を作成送付しました。
首尾よく入会くださるとして、福岡圏の方はいよいよ少なく、海はますます表現の場という色彩を濃くしていくようです。
昨晩は、村田喜代子「あなたとともに逝きましょう」を読了するまで読みましたから、1時過ぎになりました。読後感は、どうしたらこんなに重層的で奥の深い作品が書けるのだろう、という思いばかりです。
読む書く28(2013.06.28)
海入会希望の方2名からの資料が届きました。なかなかの方々のようです。
一応編集委員に諮るため、メールを送信しました。
全作家の新委員の方からも、問い合わせのメールをいただきました。別の方からは、詩の感想も同時に届きました。
混み合うときは、一挙に来るものです。
読む書く27(2013.06.27)
壱岐行きとなりましたので、村田喜代子「あなたとともに逝きましょう」を携え、半分ほど読みました。村田氏の作品にはいつもつき動かされるものを感じます。
それが何か、は明確には言えずにいますが、とにかく村田ワールドに引き込まれるということだけは言えます。
村田ワールドを一言で言えば、「人間の心と体の奥深く分け入る謎のごときもの」とでも、今は呼ばせていただきましょうか。
読む書く26(2013.06.26)
壱岐行きが急遽中止になったため、昨日4枚書いた続きにチャレンジします。
「構想第54号」の陽羅氏の北上行山論、何度読んでも実在の人物としか思えません。小説とはここまで書けるのか、と驚かされます。
読む書く25(2013.06.25)
スムーズに筆が運ばない、というのが今日のコメントになります。
4枚しか書けなかった、というのも情けない限りです。
読む書く24(2013.06.24)
刀の届けなどで警察に出向いたりしたため、読む書くには至っておりませんが、日本刀(軍刀)というものを「持ち、抜き身を見る」という貴重な経験をしました。
警察署の狭い取調室での届け出作業でしたが、日本刀というものの緊張感が十分に伝わって来ました。錆びて、刃毀れが数カ所ありましたが、当初はさぞ見事なものであったろうと推測出来るものでした。
「構想第54号」をいただいたので、これから読ませていただきます。
読む書く23(2013.06.23)
モードは書く方に入っています。ただ、何だかんだとヤブ用が多く、没入など出来ていないのが残念です。空き家の押入から日本刀が出てくるなんて、ちょっとドラマチックではあります。明日は、警察に連絡するわけですから、かなりの用になりそうです。
多分軍刀のようで、錆びているのか抜けません。どういう展開になるのやら。
読む書く22(2013.06.22)
掌編小説に挑んでいます。最近しばらく書く方を離れていたことで、なかなか筆が進みません。まてよ、こんな単語があったかなとか、言い回しは一つだけではないぞ、という初歩的なことに頭を捻ります。
方向はこうだと見えていてさえ、文章は難しいのですから、行方のわからない普通の小説になると、「人に読んで貰える作品を」という目標が、何とも難し過ぎることだと今頃になって気付いたというお粗末であります。
読む書く21(2013.06.21)
雨降り止まぬ中、書くことに浸ってみました。長くても短くても、文章を書くことは難しいものだ、と改めて思いました。
付け刃の知識や方法を学んでも、いざ書く段になると、やはり自分の呼吸に頼らざるを得なくなってしまいます。これらの成果を自分のものに出来るのは、いつのことになるのでしょうか。それでも、学びの姿勢を捨ててはいけないと、私の場合は考えます。
書くこと、やはりこの時間と空気に浸っているときが、一番です。迷いながら、唸りながら書き込んで行くと、一定のところまで来ると、自分が自分ではない気になります。この酔いの気分(?)を知ると、虜になってしまいます。
どう評されるかとか、どう人に読んでもらうのか、という気分さえも消えてしまうのは、決して褒められたことではないのですが。
読む書く20(2013.06.20)
先日海を送付した方から電話がありました。かなり、研究論文などを書かれているとのことで、それを読みやすくしたものを載せたいということでした。
やはり、パソコンが問題点になるようで、ワープロだと何とか…という返事をしましたが、わが年代にはパソコンは重たいのでしょうか。
楽しみながらやると、パソコンもとても面白いのですが。
読む書く19(2013.06.19)
海77号の原稿を見直しています。新たな作品は、やはり先送りになりそうです。書いて、半年、1年は熟成させる期間が必要だからです。
少し精神面での圧迫が減った感がありますので、気持ちを切り替えていきます。
読む書く18(2013.06.18)
ずい分長い間なかった海についての問い合わせが2件ありました。
1件は、海の過去号のエッセイを読まれて、その詳しい話が聞きたいとのことでしたので、旧同人である作者の連絡先を教えました。
もう1件は、海の最新号が見たいというもので、冊子を送付するに当たり、改めて同人雑誌の現状や海の現状を書いて同封しました。興味を抱いていただき、海の構成員になっていただければ嬉しいのですが。
読む書く17(2013.06.17)
陽羅氏のヒラリズムを読んでいましたが、昼間の疲れで朦朧となり、とうとう眠り込んでしまいました。
読む書くから、最近ずい分遠ざかっています。
読む書く16(2013.06.16)
さんざん考えた挙げ句、自分には自分のテーマがあるのだから、媚びることはない、という考えに至りました。
その中にあって、本気度を上げて行く。これでしょうか。
奇跡の林檎も、愚直なまでに自分のテーマに向かって行ったが故に、とんでもない悲惨なことに直面しますが、答えが見えたのです。いつも足下の小銭を拾うような作品ばかり書いていたのでは、自分を見失ってしまうことになります。
読む書く15(2013.06.15)
海の原稿を準備しています。自分流の表現をするということの中に、読んでもらえるような工夫もする、という項目も加えて行きたいと思います。
自分のだらだらした独白や、日記の類いだけでは、表現にはなりませんから。と言って、決して受け狙いをするということではありません。
読む書く14(2013.06.14)
読む書くにはちょっと遠い日でした。
富士正晴同人雑誌賞への応募資料を作成し、送付しました。海二期の説明とPRが主なことなのですが、改めて書くとなると慎重にならざるを得ません。
あまり気分が乗らなくて、2週間ほど時間を置いていましたが、締切が近くなってきたこともあり、処理したという感じです。
読む書く13(2013.06.13)
他の方々から恵与いただいた作品を読んでは感心しますが、いざ自分自身が書く段になると、それらの残像が強く残っているため、余計に書けなくなります。
このあたりの訓練をこなし、何とか我が作品にも手法を生かそうと思っても、簡単にいかないものです。
我が作品になると、なかなか見通せなくなってしまいます。今は耐えどきかと思いながらも、焦る気持ちは募るばかりです。生みの苦しみとはよく言ったものです。
読む書く12(2013.06.12)
海9号が、あまりにも取り上げられないのが不思議ではあります。
評に上がらないからといって一喜一憂すべきことでもないのですが、奇妙に反響がありません。何だろう、と気にならないといったら嘘になります。
出したら出したで、気になるのが同人誌というものでしょう。
読む書く11(2013.06.11)
朝から毛虫の消毒に追われ、読む書くはこれからになります。全作家短編小説集第12巻を読んでみようと思います。
読む書く10(2013.06.10)
文学街309号が送られてきました。
陽羅義光氏の「幕末の上野介」、これは作家とはかくあるべし、という内容のものだと読ませていただきました。例えは悪いのですが、登場人物のそれぞれの顔付きや、胸の奥底までを、映画でも観るが如くに見せてもらえます。筆捌きの確かさ、鮮やかさに感服しました。それより、氏の参考文献等を読みこなされる姿勢に頭が下がります。
長月遊氏の「家へ、帰らない。」は、氏の繊細さと、ユーモアと、サービス精神が多く出て、心安らがせてもらえる作品です。何気ない表現で心理を描き、場面を展開させ、さらりと交わすという巧みさがうまいと思いました。
読む書く9(2013.06.09)
全作家のゲラ「菩提樹の花の下で」を、5度見直し、修正、送付しました。
原稿が手を離れたときは、誤字も言い回しの不適切な部分もないと思っていたのですが、3月以上経って眺めてみると、とんでもない誤字だらけだし、言い回しもうまくいっていなかったりと、さんざんです。
思い込みというのは怖いものだ、と改めて思った次第です。それに何より、文章で伝えるということは、何とも難しいことだと再認識いたしました。
読む書く8(2013.06.08)
全作家のゲラ「菩提樹の花の下で」が送られてきたので、一度目の校正を終えました。もう少し、丹念に読み込んで作業をし、早めに送りたいと思います。
改めて思うことですが、提出した原稿にミスの多いことです。そのときは、何度も読み返し、ミスなどないと思っていたのですが、ダメですね。
少し時間を置いて見ると、意味がよく通じない箇所があったりします。作品の長短にかかわらず、これはどうにもクリアできないものですね。
読む書く7(2013.06.07)
これから読むことになります。村上和雄「生命の暗号」です。2日間というものそれどころではなく、またいつ「そのとき」が来るかわからないので、片方で準備を怠らず、読める分だけ読んでいきたいと思います。
読む書く6(2013.06.06)
それどころではなく、過ごしました。それどころではないことがあると、結局第一番目に影響を受けるのが文芸なのだなあ、と思いました。
(追記)
全作家短編小説集第12巻が届けられた。
読む書く5(2013.06.05)
村上和雄「生命の暗号」を中途まで読みました。
夕方母の容態急変の連絡が入ってきたため、急遽田舎に行くことになりました。
読む書く4(2013.06.04)
「能力の必要性」。もっとも、それは普通に言う幸福に繋がるものではないでしょう。しかし、芸術には能力が必要です。能力なくして努力で行く、ということは芸術には無縁です。芸術とは、「屹立した何か」です。「狂」の部類なのかもしれません。
良く書けているとか、道徳に叶うとか、理に叶う、とかではない何かです。
読む書く3(2013.06.03)
身辺に起きる事柄から考えさせられるのは、(自らを筆頭とした)人間というものの身勝手さ加減です。今の時期、なにやら線路をはみ出して走っている感もあります。
「宗教というものの本質は、じつに反社会的なものである」
「小説家になるためには、虚構を紡ぎ出すという高次の能力が必要だ」
「努力とは敗者の免罪符だ」
花村萬月の言葉ですが、あながち当たっていないとも限らないと思うのです。
読む書く2(2013.06.02)
「愚家族」感想を修正し、送付しました。何日を費やしたことでしょう。
最近、人の業があちらでもこちらでも強くなっているように感じるのは、私だけでしょうか。終末論を持ち出すつもりはありませんが、私も含めて、人間が良くなっていないのは頷けることです。格差社会、不安定な社会…というのは随分言われています。
賢くもあり、愚かしくもあり、愛らしくもあり。
人間というものを、改めて観察してみたいと思うものです。もちろん、愚かな自分を棚に上げることなく、です。
読む書く1(2013.06.01)
書くと言っても、最近の身近な出来事のメモを書くことにしています。これは、何を約束したか、何をするように依頼されたか、何を頼んだか、どう了解を得たかなど、三日もすれば順番さえ危うくなりますから、覚えのためにまとめています。
これを、何に使おうという意図などないのですが…。
経験し、通ってきたことなのに、後で思い出そうとしても、何のきっかけで、どういうふうになったかなど、見事に忘れてしまっているものです。高校の授業料がどのくらいだったか、何回に分けて納入するのだったか等々、つい最近思い出そうとしてみたのですが、まるで思い出せません。
こちらの方は、ものを書くため、当時の値段の見当がつかないため、「戦後値段史年表」なるものをネットで購入しました。ネットは面白いもので、どうかすると1円とか、あるいは原価より高いものまでありますが、新刊書が廃刊になっていたり、古書店もない田舎に住んでいると、結構面白く、興味をそそられるものに出会えたりします。
読む読む31(2013.05.31)
「愚家族」の感想の書き直しを終えました。近いうちに送付したいと思います。
花村萬月の「父の文章教室」を読んでいます。 「学歴とは潰しのきかないその他大勢をすくいあげる手立てにすぎない。つまり駄目な者ほど高学歴が必須なんだよ」とは、氏の言葉ではなく伝聞だそうですが、そこまで言い切れない私自身が「駄目」ですね。
確かに、「異常なほど、学歴に怯えてきた」事実を思い起こします。
読む読む30(2013.05.30)
読み書きには全く無縁の日でした。いただいたメールに返信を一通したのみです。
読む読む29(2013.05.29)
「愚家族」の感想の書き直しはまだ終わっていません。2,000字を600字以内にまとめることは、相当難度が高いことです。
我が作品を書いたり、直したりしながら、感想の方に顔を出しています。
読む読む28(2013.05.28)
昨日に同じです。というだけでは、何のことやらわかりませんね。
「愚家族」の感想の書き直しを、ということです。1/3に縮める作業です。悩ましいですね。何が原因なのでしょう。などと言うのは10年早い、ことです。
600字でエキスを書き出す、というのは私にはかなり難度が高いです。
読む読む27(2013.05.27)
読み書きを行う筈のところ、家の問題等々でこちらに向き合えずにいます。
読む読む26(2013.05.26)
文芸とは無関係の日でした。性根抜きの後仏壇を撤去、般若心経を貰ってきました。般若心経は毎日何度となく口ずさみます。
実に実に、奥の深いことですね。
読む読む25(2013.05.25)
読むというより、文学街作品「交差点」の校正をしました。半年以上時間を置いて読むと、いろんな不備が見付かるものです。
これでよい、ということにはなかなかなりません。
それより、もっと根や幹の部分を見なければならないのでしょうね。
読む読む24(2013.05.24)
作業に時間をとられ、読むことや書くことにはなかなか時間をさけませんが、花村萬月氏の「父の文章教室」に移りました。
文学街からのゲラ刷りがきましたので、一度流し読みしました。きちんと腰を据えて行う必要があります。
読む読む23(2013.05.23)
書く方に大方の向きを変えました。やはり、書かねば始まりません。表現すること、これが海の第一義ですから。そのために、読むというのがわがスタンスです。
読み、書き、読み、書きという順番にはこだわりませんが、書くために読み、考えることを忘れないようにしたいと思っています。
読む読む22(2013.05.22)
文芸に向かうということが、生活という点から考えると、異端者のレッテルを貼られるのは、以前から変わらないことのようです。カフカも、実務家の父から「駄目な男」というレッテルを貼られ、対立があったとのことです。
私たちも、多かれ少なかれ、家で、社会で、こういう目に遭っています。たいした作品も書けないのに、と言われることが殆どですし、実際そうなっていますから、これはどうしたらいいのでしょうか。だからといって、ベクトルの向きを変えることも出来ませんし、変えたいとも考えないのですが。
ひたすら、行方などしれないまま、書くのみです。
読む読む21(2013.05.21)
阿刀田高編は少しずつ読むので、なかなか終わりません。O・ヘンリー、スレッサー、メリメ、カフカ、ヘミングウェイ、ラヒリときます。
何かこれまでに見たことのない、謎解きを読んでいる感があります。
なにせ、あらすじの紹介が巧みなものですから、この本自体が面白いのです。カフカの場合、生前に発表されたのはほんの一部だけで、しかも自分の作品を全て焼き捨てるように頼んで死んだのですね。
この伝でいけば、「カフカは発見されたけれど、歴史の中には埋まったまま発見されず、消えてしまった才能も、たくさんあったのではないか」という氏の述懐に興味を惹かれるものです。
読む読む20(2013.05.20)
気持ちがいま一つですが、阿刀田高の本をめくってみます。
モーパッサン、モーム、チェーホフときました。氏のいう「レシピ」という尺度での物語のとらえ方も面白いと思えます。作者の背景、筋書き、心理のとらえ方は、純文学系のものとかなり異なっているのが、興味をそそられます。
小説といえども、いろんな方向から見れるものですね。
読む読む19(2013.05.19)
書くことの方に、矢印を向けています。
ただ、ときおり阿刀田高の 「海外短編のテクニック」をめくってみますが、純文学系の文章作法と随分違うことに驚いています。というより、私には新鮮です。
どう読まれるか、どう読ませるかについての工夫や、日常からの注意や努力の仕方は見習わねばならない、と思います。
読む読む18(2013.05.18)
先日TSUTAYAで手に入れていた、阿刀田高「海外短編のテクニック」を少し読んでみました。こちらは、やはりストーリー構成のことがメインに書かれているようです。
意外さ、面白さ、どんでん返し、といったところで、これも無視する訳にはいきません。こうしてみると、「小説作品」と一口には言えないものですね。
そろそろ、書く方にも気持ちを向けています。
読む読む17(2013.05.17)
文学関係の本を離れ、丹波哲郎の「どう生きたらよいか」というものを本箱の隅から探し出し、読んでみました。1960年の刊ですから、50年以上前の本です。
いわゆる霊界ものですが、私が読んでいたのは文学書の類ではなく、スエーデン・ボルグだの、チベット死者の書だの、インディアンの霊の書などでした。
シャーリー・マクレーンだったり、高橋信次だったり、大川髢@だったり、これらは一通り読んだのですが、それが作品を書いたり読んだりすることに、どういう影響を与えているのか、難しいことになってきています。
アインシュタインやホーキング博士などの科学ものもかなり読んだのですが、よく理解出来ているのかどうかわかりません。
どうも、人間の日々の営みからはかけ離れた類いのものばかりですし、文学書を克明に読んだものではありませんので、このあたりが今アキレス腱になっています。
(付記)
文学街308号が届けられた。
読む読む16(2013.05.16)
今日は作業日になりましたので、本に目を通せずにいます。
文学全集の太宰の分を引っ張り出してきていましたので、読もうと思います。詩の興が湧いたら、やってみたいと思います。
小説の場面がなかなか決まらずにいます。
読む読む15(2013.05.15)
黒羽英二氏から恵与いただいた「文藝軌道第18号」を読みました。文藝学校の指導をされている方を中心にした誌のようで、レベルの高い作品が並んでいます。
黒羽氏の鉄道図を用いた作品は、戦中、戦後の物語で、氏の思い出に残る方々は今は殆どなく、当時の思いや印象や背景を丁寧に書いておられます。
その他の作品はとても読みおおせる分量ではないので、出だしだけを読んで見たのですが、さすがに出だしから引き込まれます。
とても参考になる誌ですので、おおいに活用させていただきたいと思います。
読む読む14(2013.05.14)
石川友也氏から恵与いただいた「空のある詩」を読み、優しい気持ちになりました。現代詩が、このようにわかりやすく、しかも胸にズンと響いてくるということは、有り難いことだと思い、その詩魂に感動しました。
決して気取らず、背伸びせず、やさしく、それでいて本質に迫るという、氏の姿勢におおいに共感いたしました。その中から、一作についてだけ書きます。
「緑の中のクリーニング店」
最初は乾いた土塊だった地に、小さな緑が萌え出、愛情を込めて育てていくうちに、幹も太く葉もどっさり茂り、途中大きな嵐に遭うこともなく、日々緑の恩恵を与えてもらい、何とか無事にやってこれた。と、家族の生活を、そのような例えで表現されます。
45年前は、「空はどこまでも青いが、灰色の雲が重くのしかかる荒野」だった場所に、微かに伸び出た緑の木(お店)は、家族のみなさんが健やかに育ち、伸びていくのをやさしく見守ってきたのでしょう。
「大きな野心など持ちません」というところは、とても素直に読めます。
それでも、いつか「緑の葉が一斉に舞い落ち、私たちを埋め尽くす」日がくるのだろうということですが、このさりげない言葉で語られる一生(家族の、緑の木=お店の)は、なんともゆかしいものに思え、清々しい思いで胸が溢れます。
読む読む13(2013.05.13)
陽羅氏の「太宰治新論」を読了しました。太宰の作品を何度も何十度も読み、太宰を知って30年の時間をおいての評論です。
太宰の作品の一つ一つには、多くの関係者によって幾多の論が書かれているのですが、それらを受けての論です。太宰の人間としての優しさ、心配りにまで、作品から説き進めておられるのですから、見事だと思います。
私など、太宰がこうだった、志賀がこうだった、川端がこうだったなどと、考えることもなくきたのですが、我が浅はかさを恥じるばかりです。
陽羅氏のような目を持ち、読むと、作品の一つ一つが書かれた目的、書かれた背景に意味があり、将棋でも指すかの如くに筋が読めるのですね。
読む読む12(2013.05.12)
空き家の書棚を片付けました。義母の集めた美術関係の本、旅行関係の本など立派な本が多くあるのですが、持ち帰れそうにありません。本棚4つ分の本、このまま処分することになるのでしょうか。
我が家では、日本文学全集を棚から10冊ほど出していたのですが、青空文庫でほぼ内容を読むことが出来ることを確認し、また、もとの棚に戻しました。平積みしている本だけで通路がなくなってしまうので、電子書籍の方を利用したいと考えました。
同人誌を恵与いただいた分も置かねばなりませんので、スペースを確保しなければなりません。みなさんの保管法などを教えていただき、参考にしたいものです。
海の原稿3(2013.05.11)
手書き原稿の打ち込みにかかりました。出来ることから、早めにしておこうということです。エッセイの方の一つを仕上げました。
外枠など、こちらも出来るものはやっていくつもりです。
青空文庫を覗いたりもしています。多くの作品が読めるのでgooですね。
海の原稿2(2013.05.10)
詩、俳句、特集分はおおまかな準備をしました。要は小説です。
書いて、大恥を書いて、というぐらいの気概が必要です。我が作品に欠けている、人の心に染み込んで行く作品が書けたら、といつも思うのですが。
心して取り組んでみましょう。出来合いの作品を順番に載せていくといういつものやり方を辞めて、チャレンジしてみましょう。
海の原稿(2013.05.09)
読む読むの方を一時中断し、海の原稿の方に入ってみました。
詩、俳句、特集、漫遊記、和田の原稿起こしと、小説の前にこれらがあります。掌編小説もとなると、なかなか小説に行き着きません。
少しはましな小説をと考えると、今号はかなり大変になりそうです。構想はなくもないのですが、それにするか、出来上がりの作品(100枚)にするかで、迷いそうです。
読む読む11(2013.05.08)
ネットの青空文庫で、太宰の作品を読みました。この青空文庫、「日本国内において著作権が消滅した文学作品、あるいは 著作権は消滅していないものの著作権者が当該サイトにおける送信可能化を許諾した文学作品を収集・公開しているインターネット上の電子図書館」であるとのことで、たくさんの名作を読むことが出来ます。
太宰の「魚服記」は、なかなかですね。陽羅氏が薦められるように、実に興味深い作品です。スワが滝に飛び込んで鮒になるというところに目を奪われますが、この背景と語りに惹かれます。最初の植物採集の学生の死と、貧しい東北の山地の寒村と、きこりの兄弟の話と、近親相姦とが見えない糸で結ばれている、という作りのうまさに感嘆します。
読む読む10(2013.05.07)
陽羅氏の作品は一通り読み終えました。一度では足りませんので、少し時間を置いて、また読ませてもらいます。
文芸軌道が送られてきたので、頁を開きかけました。が、昨日の疲れが残っていて、頭が働きません。日を改めようと思います。
読む読む9(2013.05.06)
壱岐行きの船の中で、陽羅氏の「素敵な人びと」を読了しました。船の中でも、結構読めるものだと思いました。
内容は、氏の掌編となっていますが、うまいというか、サービス精神豊かというか、たいへん面白く、糧になる作品でした。
読む読む8(2013.05.05)
陽羅氏「四角い宇宙」ほかを読みました。明日の壱岐行きには、「素敵な人びと」を持参しようと思います。
文学街の森氏ほかあてに、手紙を書きました。「同人誌に明日はあるか」に答えるには、日本文学振興会との折衝が大きな道を切り開くことになるであろう、ということについてです。その実、我が海でも、取り組みが前向きになるものと思われます。
読む読む7(2013.05.04)
近松秋江を読んでいましたが、KORNが届いたのでそちらを覗いてみました。
納富泰子氏「蛇苺の紅−愛しい人たち−」は、200枚の力作。田舎の理不尽なしきたりに翻弄される義母たちや、夫である息子たちの生き方を渦中にあって眺めながら、主人公である嫁の目で話は進められます。
全くの田舎にしか通じない思惑や偏見などに苦しみながら、義母たちの老いを見送って行くわけですが、「この世に異常でないことなどあろうか。異常が日常ではないか。正常とは何なのだ。この世は『何でもあり』なのだ。境界線が人によって違うだけだ」という一節には、唸りました。阿鼻叫喚とでもいうべき事柄が続く中で、主人公が(作者)が酔っていない、懐が深く落ち着いている、という点に高い点をつけました。
読む読む6(2013.05.03)
葛西善蔵を呼んでいます。これまで読んだことのない作家です。私小説を代表する作家の一人だとのことです。近松秋江も読んでみたいと思います。
明示の末に生まれ、大正末期から、昭和の始めに活躍した作家の作品が、どこも古びていないことが不思議です。最近の作家の作品の方が、10年もすればセピア色がするのに比べ、どうしたことなのでしょうか。考えさせられます。
読む読む5(2013.05.02)
陽羅氏の「太宰治再考」に紹介されている、嘉村磯多の作品「業苦」「崖の下」「途上」などを読みました。読んだことのない嘉村の作品でしたが、言われるように「私小説」とはこのようなものか、という思いでした。
この作品を現代の作品として読んでも、なんの違和感もないのではないでしょうか。情景描写、心理描写、悩み、堕落、葛藤云々です。なんとも人間臭い話です。しかし、よくわかります。人間は人間の生活をし、人間の話を書く。当たり前のことでしょうが、これがブンガクなのでしょう。
自然や宇宙を語る、などということはここからは読み取れませんでしたが。
読む読む4(2013.05.01)
今日も、陽羅氏の「私の文芸論」のうちの「太宰治再考」を読みました。
太宰は読んではいましたが、私淑するというほど心に染みてくるという訳でもなかったのですが、氏の解説によると、優しすぎるほど気遣いのある作家であり、芸術昇華への類い希な能力と、美意識の持ち主ならではの作風を持つ作家であるのですね。
太宰の作品の最後には「救い」があるという説明ですが、注意してみるとそうですね。陽羅氏自身の作品にも、鬱屈した中に美を見、救いを見出しますが、氏が太宰治を好み、深く研究されるという意味がわかるような気がします。
読む読む3(2013.04.30)
陽羅氏の「水恋譚」を読みました。これが陽羅氏の、本物の「母物語」ではないだろうかと思いました。
主人公は妻なのですが、夫がエリート銀行員でありながら、変な人なのです。家庭生活はいたって普通なのですが、優しすぎるのです。
夫は娘が通うことになる小学校のプールに出向きます。子供たちと一緒に泳ぐというのではなく、水に顔を沈めることによって、水底に20年前に自殺した母の姿を発見します。
「ごぶさたしました」
「約束どおり、来てくれたのね」
二人の間に、多くの会話が交わされます。母は美人です。夫は、母をみえっぱりの無教養人と決め付け、口にも出して言い続けたことで、母の死の遠因になったのではないかという思いがあるのでしょうか。実は、母に対し最も多く抱いていたものは恋慕の感情の変形したものであり、甘えがあったのです。
「美しいお母さん」ということばが、口元まで出かかります。
母は、「おまえは、子どもの頃から、正直で素直でした。正直で素直な人間は、自殺なんかしたりしません。わたしは、曲がって歪んだ人間だったのですよ」と言いますが、「そんなことは、ない。母さんはいつも透きとおったひとでしたよ。ぼくが母さんから逃げたかったのは、あの男の存在のせいではありません。いま思えば、母さんの従順でしかも一途なところが、怖かったからです」というやり取りになります。
あの男(詩人で、後にノーベル賞を得る)や父との関係のことなどは置いて、夫がいかに母を慕い、かつ煙たがり、嫌悪し、自殺という結果に罪を感じ、慟哭し止まないかという心情が随所に語られます。
話の作りは単純ではありません。夫の心情、母の心情、妻の心情の曲折が巧みに語られ、話はスピーディに進みながら、やはり母への思いが迸って出ます。
夫の夢見である「黒い巨大な渦巻きが、丸いちいさな地球をのみ込むのを見た。あとには、ブラックホールしか残らなかった。それは自然現象、いや宇宙現象とでもいうべきものであった」とあり、「暗黒の未来しか残されていない人間が、どうして子を産み、育てることができるのだろう」というくだりには、私も物語を離れて納得しました。
最後の詰めも見事です。ノーベル賞詩人の作は全てが盗作で、その詩は20歳で詩を捨てた夫の作になるものだったということです。この結末で、夫が母を失ったということがいかなる意味を持つものか、というさらに強いインパクトが加えられます。
(夫の詩)
こころが透明になるときがある/一ト月に一度いや一年に一度/そんなとき死にそこなって/二十歳になった。
読む読む2(2013.04.29)
久しぶりにTSUTAYAに寄りました。まだ読んでいない分がたくさんあるので、できるだけ見ない、買わないと心を決め、10分で店を出ました。
それでも、4冊買ってしまいました。
海のHPの若干の修正を行い、説明を現況に合うように改めました。
読む読む(2013.04.28)
陽羅氏作「霧物語」は数日前に読み、間に恵与いただいた同人誌を読み、また陽羅氏作「最後の神話」を読みました。陽羅氏の作品は、奇想天外というか、非常にサービス精神に富んでいて、(語弊がありましょうが)実に面白いのです。
哭きながら書く、といわれている陽羅氏の作品を面白いとは何事かということになりますが、氏のサービス精神が随所にちりばめられていて、哭くことは忘れて、「うまい」とか「面白い」と思わず叫んでしまうのは、氏の力量が優れているからだと思います。こんなに物語に有無を言わさず引きずり込み、読む者の心を捕らえて放さない氏の力と、開けっぴろげな三枚目役をかって出るサービス精神に、とても慰められます。
文学振興会2(2013.04.27)
文学街主宰の森様からお電話をいただきました。文学振興会との折衝に、約3か月を要したとのこと。「鋭意推薦願いたい」とのことで、とてもお元気そうでした。
海同人からも、少なからぬ意見が寄せられています。今回のツールがどのように扱われるのかは未定の域ではありますが、一つの形が作られたということに変わりはありません。私たちも、より真剣に書くということが必要になります。
最近、北海道の同人誌数誌を恵与いただきました。この交流はとても嬉しいことです。特に、北海道贔屓の私としては。
文学振興会(2013.04.26)
いやあ、驚きました。日本文学振興会から作品推薦依頼の書状が届きました。
こんなことだったのか、と唖然とします。勿論、これがどう扱われるのかはわかりませんが、一つの筋道が出来たということになります。
同人誌の作品も、心して書く必要があるのです。
文学街の森様の力には、驚かされました。
第10号へ(2013.04.25)
気持ちは第10号の方に飛んでいます。
第10号特集を組むことにし、原稿・冊子作成要領なるものを作成、各同人にメールで送付し、メールを使わない同人には会計報告とともに郵送しました。
難波田さんには、「雨のオクターブ・サンデー」ほかの感想を書き、送りました。ずい分遅れてしまったことになりますが。
会計報告(2013.04.24)
海第9号の会計報告を行いました。ここまでが、1号分の作業です。
結構神経を使うたいへんな作業です。お金のことですから、ゆるがせに出来ません。終わったと思えば、次の号の準備にかからねばなりません。
第10号の準備は、明日に回します。
読む2(2013.04.23)
ずい分長い間書いていません。読むことを課しているからです。
考えて見れば、読書という習慣が出来ていません。調べるという習慣も出来ていません。これらの土台の分を作ろうとしていますが、一朝一夕には出来ないことのようです。
焦らずに、耕していくより他ないのでしょう。石の上にも三年。このことばが、今更のごとくに前を過ぎります。
読む(2013.04.22)
読む要領が悪いのか、なかなか進みません。他の方と比べる必要はないのですが、頭が固くなっているせいか、とんでもない遅さです。
それでも、読みます。読む訓練を、と思って読みます。
メール・手紙(2013.04.21)
海の作品についての感想を、メールや手紙でいただきます。本当に有り難いことです。内容は、ツボを押さえておられるものが多く、なるほどと思うことが多いものです。それだけ、ポイントを押さえて助言をしてくださるということは、当方の「表現」することの今後に、おおいに役立つものだと思われます。
自分たちでは気付かない点、そこを言っていただくことは発行した甲斐があったというものでしょう。「そうなんだ、そうなんだ」「そこが不足していたのだ」などと、独りごちながら、皆様との繋がりを温かく感じております。
メール(2013.04.20)
海の感想をメールでいただきます。ありがたいことです。
メールでお礼を返します。手軽で便利です。しかし、つい筆が滑ってしまうことがないではありません。手紙の方がベターに決まっていますが、その時の感情のままにお礼を言ったり、意見の交換をするのにはメールは欠かせません。
せっかちになってしまっている自分を、傍目で見ると滑稽なのかもしれませんが。
不義理(2013.04.19)
たくさんの著書や同人誌を恵与いただいているのですが、海の編集発行や、PCの買い換え・セットアップなどで、読めずにいます。
良い作品を読み終えていないのが残念ですが、せっかくの御好意に背くことのないよう、遅ればせながらでも読んでいきたいと思っています。
あたかも、読むことに気持を傾注することにしたばかりですから。
読まねば(2013.04.18)
今までは、常に書かねばということできました。しかし、全作家にお世話になってから、自分は何という文学オンチであろう、と身に染みて感じました。
読んで、読んで、読んで…とにかく、文学のイロハを体得しないことには始まりません。陽羅氏などの読書量の膨大さの前に、頭を垂れます。それまでは、四の五のなど、何も言えません。とにかく、努力が必要です。
感想など2(2013.04.17)
感想などが、ハガキやメールで寄せられ有り難く思います。
メールの分にはすぐに返事が書けるのですが、ハガキや手紙でとなると日をまたいだりしますので、御容赦いただきたいと思います。
その他、多くの著作や同人誌を恵与いただいておりますが、なかなかお礼状にまで回っていかないままで、たいへん申し訳なく思っております。
感想など(2013.04.16)
海への感想などが届きます。有り難いことです。
お礼状などを書き、送りました。
また、この間に届いた他誌へのお礼状も書いて、送りました。
追加送付(2013.04.15)
追加送付が必要なところがあると思えば、「不要です」との連絡も受けます。
注文していた陽羅氏の本も、届き始めました。
メール受信(2013.04.14)
海第9号が届いたとのメールが数件入ってきました。メールはありがたいもので、手軽に情報の伝達が出来ますから、助かります。
よくも悪くも、手紙、ハガキを書くことが億劫になってしまいます。
これを退化ととらえる人々もおられるようですし、それは正論かもしれませんが、ありがたい手段ではあると思います。
海の印刷関係経費を振り込み、文学街文庫[8]分の校正を終え、送付しました。
陽羅氏著書(2013.04.13)
陽羅氏の著書7点を注文しました。「私の文芸論」「太宰治新論」「世紀末の虎」「水恋譚」ほかです。現在手元に6冊ありますから。
海の発送を終えたら、雑用が待っていました。2日連続です。
文学街分の校正をしなければならないので、今日はなんとかしたいです。
海HP(2013.04.12)
海HPを更新しました。海では、全作品を公開しているので、それらもひととおり行いました。やれやれです。
私の性分として、出来上がってしまえば、もう過去のものになります。
次の作品にかからねばなりません。いえ、本を読まねばなりません。
今年の目標は、少しでも多く読むことです。書くのはその後、というつもりです。これまで疎かにしていた文学を、少しでも自分のものにしなければなりません。
海発送(2013.04.11)
海の発送を終えました。3時間の作業でした。
これから、HPを整理し、更新しなければなりません。
荷物が無事に届いて、会計報告をするまでがこの号の仕事です。
海送付へ(2013.04.10)
明日の海送付に向け、準備完了です。
パソコンを替えたため、宛先データの確認などを改めて行いました。
いつもの書状を付け、住所の表示をし、封詰めをし、メールのシールを貼り、送り出します。約3時間の作業になります。
文学街の方では、同人誌作品を日本文学振興会に送付(芥川賞・直木賞のノミネートの対象)するという話が進んでいます。こういうことは、やはり首都圏の同人誌を主宰される方でないと、なし得ぬことですね。
陽羅氏の作品「SAIGO」のことも書かねばなりません。かつて、これほどまでに西郷に成り切った方がおられたでしょうか。作品の内容を知れば知るほど、勝手流の自分の作品が情けなくなります。最も注目すべき作家だと思います。
メール(2013.04.09)
メールを数件いただいたので、その処理にかなり時間を使いました。最近、手紙やハガキとなると億劫になるのですが、メールだと用件が早く済ませられますので、どうしてもメールでの連絡の方を先にしてしまいます。
手紙も書かねばならないのですが、PC設定が手間取ったため、延ばし延ばしにしているものがあります。失礼になっているものも幾つかあるようです。
原稿もパソコンで書くのに慣れたためか、手書きになると逆にうまくいきません。もっとも、作品は必ずプリントアウトしてチエックするように心掛けております。
(付記)
文学街第307号が送られてきた。
読書量(2013.04.08)
陽羅氏の読書量を見ると、気が遠くなりそうです。この経験なくして次もなかろうと思うものです。どうしたら、こう多く、深く読むことが出来るのか。
私も、他人のせいにすることなく、地道に取り組まねばなりません。
山勘だけでやっていくには、文学・文芸の道は険しいものがあります。音楽にしろ、絵画にしろ、積み重ねられた基礎の上にこそ花が咲くものです。
SAIGO(2013.04.07)
道元の風を読み終えました。細かく章立てがなされ、とても読みやすく描かれています。道元、禅、という難しい素材を、陽羅氏ならではの「十二分に消化し尽くした上での作品」に仕立ててあります。
参考文献、引用文献の多さに驚かされましたが、「現在の人物や風景を描く」という氏の手法は際だっていると思います。
今度は、やはり陽羅氏の「SAIGO」に移りました。
道元の風(2013.04.06)
PCのセットアップに手間取り、1週間を浪費しました。
周囲に積み上げている本が多くあるのですが、「道元の風」を読み始めました。さすがに、陽羅氏の作。一気に読めそうです。
PCは、私にとっては原稿用紙ですし、同人誌の割り付けやHP作成に欠かせませんから、いい加減には済まされません。
しばらく、本に触れていませんでした。PCで悩んでいるより、何十倍も落ち着きます。
海の校正(2013.04.05)
印刷所に出向き、海の校正をしてきました。実質2時間というところです。
表紙は春の色、コバルトブルーです。
丹念に見てきましたから、完璧にといきたいところですが、100%の線にはなかなかいかないところがこの世界です。作品以外の頁も少し内容を変えましたので、どんなふうに仕上がるかというところです。
順調にいけば、発送は10日あたりになる予定です。
(付記)
全作家第89号が届きました。
PCに悩む7(2013.04.04)
IE(インターネットエクスプローラ)の状態が今一つなので、Firefoxに切り替えてみました。すると、かなり安定した状態になり、メールもHPもそれなりに動くようになりました。それにしても、何という時間を要したことか。
1週間というもの、不安定なPCに悩まされながら、イライラを募らせていました。最初にIE10にグレードアップしたことが躓きの始まりだったようで、その不安定な状態を何とかしようとしているうちに、Reg clean proとかAdvanced Systemとかが勝手に入り込んできて、レジストリーの書き換えをやらかしたもので、システムの復元を4回もやる羽目になりました。
最も、一番最初の躓きはメールの接続が出来ないということで、これが全てを狂わせたようです。結局、メールは古いデータを引き継ぐこと叶わず、今後に向けて設定をしただけという形になりました。
IEの調子が今一つの状態は変わらず、特に海のHPを拒否するので、スクリプトやactivexコントロールを修正しているうち、IEでは海のHPを表示出来なくなってしまいました。これは、未だに解決しておりません。
それに、今朝1時過ぎにPCが3度にわたり画面が消えたので、その原因チエックなどをしてみましたが、その原因はわかりません。ひょっとしてOさんが、別れの挨拶に見えたのかもしれないなと考えたりしています。
PCに悩む6(2013.04.03)
まだPCに悩んでいます。今朝になって、メールが突然使えるようになりました。
何がどうなっているのか、もうわかりません。
本当に、この作業から手を引きたいです。
延ばしていた全作家短編集の校正を終え、送付しました。気持ちが入り込んでいないせいか、どこか上の空の体です。
PCに悩む5(2013.04.02)
今日も引き続き、PCとの格闘です。
レジストリーが何とかで、システムの復元というのを3回もやりました。今思うに、XP時代の何と長閑だったことか。メールもHPもすいすい出来ていましたから。
この難しさでは、歳がいくと対応出来ない人が多くいるのではないでしょうか。まだワープロを使われる人もいますが、店頭には見ることのないワープロ、どうやって手に入れておられるのでしょうか。
最近の特徴として、何もかもの変化があまりにも早く感じられてなりません。
イラストの付け方だけは、少しわかった気がします。
PCに悩む4(2013.04.01)
延々とPCに悩まされています。
XP時代の常識らしきものが、通用しません。とにかく、セキュリティでがんじがらめのようです。メールのセットアップが終わったと思ったら、突然受信が出来ないときました。何かをさわると、すぐに思わぬところに影響が出ます。
とにかく、悩まされています。
PCに悩む3(2013.03.31)
気が付けば3月も末日です。PCで、2日は余分に取られたことになります。
メールでトラブルとは思いもしなかったことです。しかし、考えてみれば、私たちの文芸はメールでやり取りするのですから、メールの比重は70%とも、80%とも言っても過言ではありません。
本格的な解決には至っていませんが、YAHOOなどのフリーメールを使った方が賢い選択であるのかも知れません。設定で悩むことはないし、使い続ける限り、メールが消去されることも考えられないことですから。
今が潮時なのかもしれません。
PCに悩む2(2013.03.30)
何もかも打ち捨てて、PCのセットアップに励んでいます。セットアップそのものは、ものの1時間足らずで終えたのであるが、HPの更新に1日を費やし、後は予想だにしなかったメールの設定に難渋することになりました。
WIN7は、よほど特別な作りであるかのようで、今XP上でサクサク動いているメールデータなど諸々が取り込めません。手を替え品を替えというふうに、いろいろアイデアを出してみます。しかし、この世界はアイデアなどでは動きません。
マニュアルに沿ってやってもうまくいかないのだから、お手上げです。マイクロソフト製品は人見知りが激しく、少しだけ顔を覗いてみたソフトは、本格的に入ろうとするともう入居済みという対応ですから、全身を入れることが叶いません。
あれやこれやで、中途で投げた格好のままです。
PCに悩む(2013.03.29)
これまで何台ものPCをセットアップしてきたのでしたが、その度に難渋したことは忘れ去っています。
おまけに、今回はOSが大幅に異なるWIN7ときていますから、気を遣うこと遣うこと。いやあ、疲れるものです。反面楽しさもありますが。
いうならば、作品を生み出すということですから、書くときの気分に似てはいますね。それにしても、なかなか思い通りに動いてくれません。かと思えば、「WIN7非対応」の筈が、すんなりと動くのですから、わからないものです。
海の原稿2(2013.03.28)
印刷所に約束した午後2時に間に合うよう、ぎりぎりまで見直しを行い、無事に届けてきました。初稿は4月5日になります。
帰りに、電機店でPCのリカバリーに使うDVDなど揃えてきました。
(付記)
文芸思潮第50号が送られてきた。
海の原稿(2013.03.27)
構成担当者から、1日早めに原稿(1冊分)が戻ってきたので、最後の読み込みを行い、データの修正を行います。
124頁分ですから、夜1時過ぎまでかかり、明日印刷所に持ち込むという手筈にしました。今回は、隅々まで読んだのですが、どうなりますか。
飼育(2013.03.26)
今日は長時間外出しておりましたので、作品には殆ど触れておりません。殆どが、電機店にいたのですが、15分ばかりTSUTAYAを覗き、目に付いた宮沢賢治の文庫本5冊ほかを買うことが出来ました。なかなかこれだけまとまって宮沢賢治の本を手にすることが出来ないので、これも出会いだったのかと思います。
車中の往復は、飼育を読みました。こんなリアルな内容だったのか、とすごく参考になりました。捕虜の黒人に対する気持の変遷、生半可なことではこうは書けません。
死者の奢り(2013.03.25)
大江健三郎の「死者の奢り」「他人の足」を読みました。この作品は、以前にも読んだことがあり、多少の記憶が残っていましたが、今読み返してみて、ストーリーも文体もしっかりしており、これら初期の作品からして完成度が高かったのだ、と改めてそう感じました。登場人物の心理描写や動きもありきたりではなく、やはり優れた資質がそこここに顔を出しているのだと、感じるものがありました。
大江作品というだけで、引き気味であった私ですが、ナイーブな心理描写、ナイーブな神経の持ち主も登場し、いつか引き込まれていきました。
外狩氏との交信(2013.03.24)
相模文芸を切り盛りしておられる外狩氏と、何度かメール交信しました。
外狩氏は自費出版本の利活用のことをアクティブに考えておられる、誠に精力的で意欲的な方のようです。
片や私は、「同人誌に何ができるのか?」ということに対する「同人誌文学賞の創設」という提言を恐る恐るしたばかりに、「結社誌を50〜100募り、互いに誌をやり取りし、精読して優れた作品を年に2回選ぶ」という具体案に、「これだと、100という誌のやり取りをし、精読しなければならないとすると」と考え、その物量と、さかねばならないエネルギーの大きさに、パニックになっています。
この話がどうなり行くか、かなり大きな話であるだけに心配です。
ふたりの感想(2013.03.23)
白石すみほさんが発行されている「ふたり」の感想を書き送りました。
ふたりという誌は、いつも手にしただけで和まされる誌で、横尾和博氏の寄稿文に和まされ、藤田愛子氏の慧眼に納得させられました。
白石さんの「アイスピック」という作品は、まず文章がしっかりして乱れることなく、細やかな心理描写も「うまい」としか言いようのない筆致で書かれています。
作品の内容のよさもさることながら、最近はよい文章に惹かれるものですから、横尾氏の言われるごとく、希有の書き手だと首肯しました。
海の編集7(2013.03.22)
データの打ち出しを行い、紙校正担当者にレターパックで送付しました。
今日の時評によると、「フツーにやる」という御意見のようですが、「フツー」も様々にあると思うのですが、いかがなりましょうか。
音楽や絵画や文学が、戦争や窮乏や飢えなどで大変な時期には「やらない」という御意見も、様々に分かれるのではないでしょうか。
私ごとき者には、音楽や絵画や文学が、人間だけの特権であり、それも「フツー」を満喫しているときに行う、ということからしてわからずにおります。
主張のない作品が、ということのようですが、異なる意見もあるかもしれません。
何か、次元の違う話が一緒くたに語られているような気がします。
もっとも、私の場合は、文学という定義すらよくわからない者ですし、理論も持ち合わせません。その妄言に過ぎない、と理解していただければと思うものです。
海の編集6(2013.03.21)
締め切りの原稿が出揃っていない分に連絡し、全体分が揃いました。
奇数頁、偶数頁の出方、作者の並びなどを考え、頁付けをし、計124頁を仕上げました。早速、WEB校正担当者にメールで依頼し、紙校正担当者には明日送付することにしました。それらが出揃うと、当方で総合的な読み込みを行い、データを修正し、資料とともに印刷所に持ち込むことになります。
今号も、まずまずの中身が出揃ったことに、感謝しております。
海の編集5(2013.03.20)
今日が原稿の締め切り日です。まだ、いくらか届けられていない原稿があるようですので、全体が見えていません。120頁前後、というところでしょうか。
自分の作品を見直した後、受贈誌の書き出し、お知らせなどの作成、あとがきなどと、周辺の作業を先回りして行いました。
これらも結構気を使う作業になります。
海の編集4(2013.03.19)
あまり気にしないようにと自らに言い聞かせても、深みに嵌まります。
ものを生み出す、創り出すということは、中身が何であれ難しいことです。生半可な知識が入ったりすると、余計に混乱します。
複雑にではなく、シンプルにという心掛けではおりますが、作品がそう書けるまでになるには、脂汗を流し続けねばならないということのようです。
海の編集3(2013.03.18)
よく夢に魘されます。それは、かつての仕事を目の前にして立ち竦んでいる、という情景です。これが何を意味することかはよくわかりませんが、膨大な作業量を前に気を揉み、脂汗を流しているというものです。
海の編集作業も、慣れてくるにつれ、これまで気付かなかったところにまで気を回すようになってきました。作品の内容に関して、また、作品とは離れた部分について、という具合です。出来るだけ良くしよう、ということでなのですが。
しかし、荒っぽく言えば、作品が勝負なのですから、これらを気にし過ぎても仕方がない、と自分に言い聞かせることにしております。
AMAZONで、大江健三郎の「死者の奢り、飼育」ほか3冊を求めました。
海の編集2(2013.03.17)
海の編集作業を行っています。作品の全体像が見えない今、作品以外の部分のことを準備しています。冊子としての姿勢であったり、外枠であったりします。
その間、作品が来れば割付作業をして作者に校正を依頼します。
海の編集(2013.03.16)
本格的に海の編集作業を始めました。今回は新規の入会者があり、期待して作業を進めております。
当分、この作業に没頭することになります。
真理、哲学(2013.03.15)
文学書、特に評論の類を読んでも、なかなかすんなり入ってきません。
やはり、私には真理追究、哲学的考究の方が、素直になれるようです。
人間の業、醜さ、我が儘などといった面に、あまり興味がないということは間違いないことです。かと言って、文学に全く共感できないかといえば、そうでもありません。人間探求、自然探求、といった面を含んだ作品にはおおいに惹かれます。
学問としての文学、文学のための文学、探偵ものや推理ものといったジャンルになると、鳥肌が立ったりもします。橋田壽賀子ドラマなどは、最も苦手な部類です。
今日も読む(2013.03.14)
書き出すには気力が整わず、あたりに積み上げた中から南木佳士の「ダイヤモンドダスト」ほかを取り出し、読んでいます。南木氏の「阿弥陀堂だより」は、気持が折れたときに読むことにしています。
三浦綾子祈念文学館から、賛助経費の依頼が来ています。
アマゾン(2013.03.13)
TSUTAYAやBOOK OFFでは手に入らない、大江健三郎「万延元年のフットボール」と中上健次「枯木灘」をジュンク堂で買ってきてもらいました。
夜アマゾンを覗いたら、早まったなと思いましたが、こんなことに拘っても仕方がありません。大江健三郎の「芽むしり仔撃ち」ほか4点を注文しました。
愚家族の著者の陽羅氏に、家族のことで多くのアドバイスをいただきました。
郵便局等(2013.03.12)
全作家の会費を納入しました。同人誌関係2箇所にハガキを出しました。
というふうに、郵便局がとても身近になっています。会費納入、郵便物を送ること、受けることなど、様々な場面で利用させてもらいます。
郵便局のほかに、ヤマトのメール便にも多くお世話になります。
読むこと3(2013.03.11)
離島までですから、船で行きます。昨日の強風の余韻が残り、結構波がありました。本を3冊持って行きましたが、揺れのため読めず、結局2〜3頁を繰っただけでした。帰りに、TSUTAYAとBOOK
OFFに寄って見ましたが、収穫はありませんでした。
かなり空しい日になりました。
読むこと2(2013.0310)
次々に用が入り、読むことを休止しました。
身内がガタガタすると、本を読むことも出来なくなります。
読むこと(2013.03.09)
最近は書くことを置いて、読むことを主にしています。陽羅義光氏、三田誠広氏の読書歴に刺激を受け、片山恭一氏にも刺激を受けました。
片山氏は、文学は大学(理系)に入ってから始められたそうで、文学の何たるかを知るために、文学全集から始めて体系的に文学作品を読まれたそうです。
読んで、学んだことは、無形の財産となって氏を現在立たしめています。
この世界も、努力こそが結果を生む、ということが言えるのですね。
罪と罰(2013.03.08)
罪と罰の上巻をようやく読み終えました。途中で人間関係がわからなくなり、2回読んだことになります。
この歳になると、なかなか頭に入りません。もともと入らないのかも知れませんが。本ではなく、10代の頃は、歌を1度聞くとメロディだけは覚えたものでした。
現在のこの能率の上がらない中にあって、「忘れたら読み返すさ」の気合いで読んでいくことにしたいと思います。
海の編集2(2013.03.07)
自分の原稿も何度か見直しています。自分だけしか見ないのですから、大きな変更はどうしても避け、小さな修正のみで終えてしまいます。
多少浮き足だった気分の中、出来るだけ落ち着くようにと言い聞かせていますが、作品が飛躍的に向上する筈もなく、今出来得るところに落ち着きそうです。
読書量は少しずつ増えてはいます。ただ、やはり飲み込みが悪く、読んだ片端からザルの如く抜け落ちて行きます。
海の編集(2013.03.06)
わが海の方も原稿が届きだし、今日はワープロ原稿だったので、購入したばかりのリッチ・テキストコンバータを試してみました。なかなか、gooでした。
という訳で、ほぼ1日をこの作品のために使い、割付案を作者あてに今投函して来ました。当初の、ネットで編集という線にはとても遠く、手書き原稿が2人、ワープロ原稿が1人と、ちょっと鼻白ぐところですが、この時期の集中がとても大切です。
読みかけの本も、書きかけの自分の原稿も後回しで、しかし、これが自分のなによりの栄養になるのですから、ボランティアはするものだと思います。
照葉樹(2013.03.05)
福岡市の照葉樹という同人誌の充実ぶりが、目に付きます。
第二期第3号が送られてきたばかりですが、100頁近い冊子に変貌。詩、俳句、短歌、エッセイ、紀行文、小説と、量も内容もかなりアップしました。
同人も6人、特別参加2人、広告なども入って、かなりの線ですね。
(付記)
文学街306号が送られて来る。
書く前に3(2013.03.04)
探しものをし出したら、本棚の整理をせざるを得なくなりました。
どうかしたら30年もそのままにしていた本棚ですから、奥の方には何の本があるのかわからなくなっていましたが、埃と汚れを掻き分け取り出しました。
埃を払い1冊1冊取り上げて見ると、かなりの範囲の本を持っていたのです。読んでいないのが多く、読んでいてもたいていが内容を覚えていません。
これが全体本棚の1/4の量に当たる分ですから、全部を総点検したら、もっと良かったのでしょうが、大体の傾向は掴めました。
人前で、系統立てて喋るほどの頭の整理がなされていません。それもあって、本もバラバラのまま本棚に突っ込み、頭の中はまさに漠然としたままなのですが、これが自分の姿であるし、能力なのであろうからと前向きにとらえ、今後はより良く分類し、記録にも、記憶にもきちんと留めることの必要性を強く感じたものでした。
書く前に、自分に与えてきた影響のほどを整理し、今一度明瞭なものにするため必要な読み返しをし、プラスの方向に生かして行きたいと思ったものです。
書く前に2(2013.03.03)
「深くておいしい小説の書き方」(三田誠広)を読みました。読んで、すぐに小説が書けるというものではありませんが、冒頭に「小説を書く人=変態〜変人か?」とあり、そうでない人は「普通の人」とあるのを見て、ニヤリとしました。
文学部の中でも、教育系、心理系の人は後者であり、法学部などは典型的な後者ということのようです。小説を書く人は、「就職に不利」ということもあります。
三田誠広氏のことを、正直これほど文学に深く分け入った人だとは思っていませんでしたので、驚きでした。氏の語る文学論は、広くて、深くて、実に面白いものです。分かり易くもあるのですが、私の能力の故もあり、かなり易しそうに見えて、実は難解なものです。氏が語るドストエフスキー、トルストイの作品説明の鮮やかさ、埴谷雄高、大江健三郎、中上健次の作品に見る「実存」と「構造」の必要性・違い。作品には、「ポリフォニー」(2つ以上の旋律があること)があって、「深み」が増すということ。「文学は哲学よりも深い」ということ等々、よく飲み込めた訳ではありませんが、自分の内に、ぼんやりとした指標が立ち上がってきたのを感じます。
しかし、やはり「文章技術の大切さ」「人物に厚みを持たせる」「先人の作品を読む」「読み、自分流にアレンジし、工夫する」ということの大事さを知りました。
何か、これまで「遊び事をしている」と言われ、負い目を感じてきたことから、「前を向き、徹底的な変人になる」ことが、真当で希有なことに思えてきました。
何より、「自画自賛で行こう」という締めがすばらしいと思いました。
実存と構造が詰まった作品であると氏が言う、ドストエフスキー「罪と罰」、ガルシア・マルケス「百年の孤独」、大江健三郎「万延元年のフットボール」、中上健次「枯木灘」、埴谷雄高「死霊」などの作品は、是非読んでみたいと思います。
書く前に(2013.03.02)
「書く前に読もう超明解文学史」(三田誠広・早稲田大学講義録)を読みました。本当は、「深くておいしい小説の書き方」を先に読まねばなえあないと思っていたのですが、文学史の方を先に読みたくて、No3のこちらの方が先になりました。
文学にまともに取り組んだことのない私ですから、まず大掴みに文学というものをを知る必要があって読んだ訳です。
言われていることは、「人間を離れたところに小説が成立するということは、あり得ないのです。書くのも人間、読むのも人間。それが小説です。もっと大胆に言いきってしまえば、書き手の『私』と、読み手の『私』の出会いを実現するのが小説なのです。ですから、テーマとかモティーフだとかを、ことさらに探す必要はないのです。『私』からメッセージを発信する。誰だって『私』というものをもっています。あなた自身の目で自分を見詰め、また社会の現象を見詰めてください」ということのようです。
また、「私と社会、実存と構造、幻想とリアリズム、スタイルと中身、これらは決して対立するものではないのです。むしろこの対立を乗り越える時に、『新しい小説』が創造されるのです。社会的視野をもった私小説、あるいは私小説の切実さをもった社会小説、神話的構造の中に置かれた一回きりの人生、幻想の中のリアリズム、現実を直視することによって生まれる幻想、中身をもった新たなスタイル、切実さをともなった方法論の模索‥‥」とあります。
「写実、自然、人間」をどう書くか。「文学は深くなければ意味がない」「なおかつ時代というものと真正面からぶつかっていくその先に、時代を画するような、新たな文学が誕生します」「あなたが努力し、自分の資質を見極め、また社会の動きを読んで、すごい作品を書く」とあります。そしてなによりも、「競い合い、闘うことです」と結んであります。
やはり、「人間を書くこと。切実に方法論を見詰めること。競争であること。いや闘いであること」と、読ませてもらいました。
勿論、文学史としての作家の位置付け、意味付け、流れ、読むべき作品等々が、具体的に書かれていますが、まずは大掴みに文学の骨格というものを一読しました。
ということですが、書くことは平行してやるべき、ということでもあります。
青空文庫(2013.03.01)
文学全集を読み調べものをしていたら、ひょんなことから「青空文庫」のことを知りました。青空文庫=電子図書館です。
なんと、過去の名作がきちんと読めるではないですか。これは、驚きです。
鴎外も、漱石も、芥川も、啄木も、朔太郎も‥‥こんなことがあってよいのだろうか、と考えました。インターネットで、しかも無料で読めるのです。
感激しました。感謝です。リンクも自由ということです。
文芸考5(2013.02.28) | | |