コーヒータイム


「無名作家のメモ」、「無名作家のつぶやき」とでもいうべき欄です。
このHPの中で、管理人が、最も気楽に書いている部分です。内容は、やはり「文芸について」です。


ということでありましたが、評の類はどうにも苦手であるということがわかりました。
2010年2月からは、「小説に至るメモ」の場として、この欄を使いたいと思います。乱雑なメモ、の類
に終止するかもしれません。

私生活については原則として触れないことにいたします。同人誌等の関係者の記述をする場合に
あっても、出来得る限り御迷惑にならないように心掛けるつもりでおります。


2012年03月までの分は→ NO3へ
 2011年06月までの分は→ NO2へ
2009年12月までの分は→ NO1へ

 


 読む、書く(2012.12.31)
 いくつかの作品を見直しています。見直せば見直すほど、修正箇所が出てきます。当然でしょう。1つの方向からしか見えていなかったものが、次には違う角度から、違う思いで見えるのですから、終わりはありません。
 そういう中で作品を仕上げるというのは、本当に難しいものです。流れ、変化してやまないことがらを、1つの作品として選び出すということの困難さと、醍醐味を同時に感じられるのも、文学、文芸に係わっているからです。
 この一見、日常生活には無意味に見えたりするといわれる文学、文芸に命を吹き込むのも、人生を語らせるのも、喜びや悲しみを語らせるのも、係わっている私たちに鍵が預けられているのです。そのためには、読む、書くという基本的なことに、謙虚に取り組むことの大切さを強く考えさせられる昨今です。


 
見直し(2012.12.30)
 2作品の見直しをしました。見直しは、制作当初より疲れるものですね。
 新たな作品の芽が出始めるまで、見直し作業に励んでいいとも考えます。
 新たに創ることの楽しさ、難しさを、今になって知ることになりました。文章に破綻がなく、内容に陳腐さがなく、自分らしい表現が出来ること。
 目指すはこれです。言うには優しいのですが、創り出すには、たいへんな力と技と根気が必要になります。
 芸術とは、新たなものを感じ取り、新たなものを創り出す、つまり生み出す作業です。創られたものを鑑賞することも大切ですが、私たちは生む方の側にあります。


 
無駄でなく(2012.12.29)
 何度となく自作を見返しますが、一度として無駄だと感じたことはありません。それより、もっと多く読み、もっと多く書いた方がよいのだとは思いますが、自分の文章を見返し、自覚せずに犯した間違いや、陥りやすい言葉癖に気付き、ハッと立ち止まることも悪いことではないような気がします。
 自分のことは、自分が一番見えず、嫌な癖にも気付かないのだな、と作品化して20年も30年も経って、初めてわかるものもあります。
 文章道でも、一歩進んで二歩下がる、ということが必要なのかも知れません。


 
やはり文章(2012.12.28)
 どんなに素晴らしいことを表現しようとしても、やはり文章がしっかりしていないことには先に進めません。
 自分の最近の作品を読み返してみて、あちらもこちらも、という具合に文章の手直しが必要だな、と思い至りました。
 書いたときは、その雰囲気を背負ったままなので、思い込みのままに通過していた部分が、時間を空けてみると、意味が繋がらなかったり、まるで反対に解釈されるようだったり、形容詞等の多用で、甘ったるい文脈になっていたりで、相当の手直しが必要のようです。字句の間違い、「ように」の多用等、恥ずかしくなってきます。
 書いても書いても、難しいのが文章であり、作品です。慢心することなどある筈もないのですが、書きっ放しのままだと、本当に困ったことになります。


 
作品(2012.12.27)
 作品を書くにあたり、足元がしっかりしません。
 2012年問題で多くのことを考えさせられ、そのことと現実のこととがかなり乖離しています。皆様には、何のことかおわかりいただけないかと思われます。
 ここがふらつくと、困ります。 しばし、時間が必要になりそうです。


 
評あれこれ(2012.12.26)
 毎日新聞が届いたので、何だろうと思いました。同人誌評でした。
 評者が異なれば問題にされる作品も異なります。海の作品は、最後に和田のエッセイと、有森の小説が拾われています。ありがたく思います。
 この評は、中心に取り上げられる作品が的確で、その作品をよく把握され、かつ、その他の全体の作品をも上手に整理された、好ましいものだと思われました。


 
やはり読書(2012.12.25)
 年賀状を書き終えたら、ひたむきに読書をしてみようと思います。
 幼時の躾で、読書は遊びだ、などとインプットされていますが、そのマインドコントロールは解かねばなりません。
 自分をより耕し、他を知ること。これが何故に遊びであるのでしょう。いえ、子供に遊びをさせないということであっても、内容によるものだと思われます。
 人は、遊びを通じてしかわからない大切なことも多くあるのです。
 家に大事があればやらない訳はないのに、読書を遊びだとして禁ずるなどということは、人を生かそうとしないということと同義だと思うのです。


 
全作家(2012.12.24)
 全作家第88号が届きました。掌編小説特集号で、48人の作品が並んでいます。
 文芸時評では、「読むことの大切さ」が力説されています。私の最大のウィークポイントを、ずばりと突かれました。
 つまり、読んで、読み解いて、その力を蓄えておかないと、書く方でボロが出るということになりましょうか。やはり、文学、文芸の場合は読むこと、それも徹底的に読みこなすことが、なによりの訓練であり、地力に繋がるということでしょうか。


 
次作を(2012.12.23)
 次作をと考えているのですが、うまく集中出来ません。
 どういう柱で、どういうスタンスで‥‥うまくまとまりません。
 理系の本を読むことが多くなりました。その方が、素直になれます。文系の本は、今ちょっと苦手です。
 なぜだかわかりませんが、詩が読めない状態です。


 
この間(2012.12.22)
 この間、いろいろの本を読んでいます。勿論、文学、文芸の本然りです。
 同人誌も何冊か読んでいます。やはり、経験することも大事ですが、読むことで奥行きが広がるのを実感します。
 ただ、BOOK OFFの値札シールの処理が難しいことがあり、TSUTAYAにずい分出向くようになりました。105円の本でも、TSUTAYAではしっかり管理がなされ、レシートに書名まで印字されてくるのは、本の扱い方として好ましく思います。


 
神と文学(2012.12.21)
 神と文学を同じ土俵で述べると難しいことになりそうですし、私には説明することも、反論することも出来ませんが、敢えて一言だけ書きます。
 これは、文学の中で神がどう扱われているのかということではありませんし、私の経験した範囲のことですので、おおいに異論はあろうかと思われます。
 私の言う神は宗教ではありません。私たちを包む環境、命、時空全てを司る存在の仮称です。村上和雄氏とは異なりますが、サムシンググレイトと呼びたいと思います。
 サムシンググレイトは、人間が創ったものではありません。私たちを包む環境、命、時空全てを創造し、司る存在です。
 文学・文芸を扱うこのサイトでサムシンググレイトの話をすること自体、場違いなことになりましょうか。


 
文化欄3(2012.12.20)
 これは文化欄だけに限ったことではないのですが、人物を紹介するとき、一定の大学卒業(中退)だと学歴としてそれが書かれるのに、一定のレベルに充たない(というのでしょうか)大学等以下ですと、本人がOKしても書かれません。
 これは、ずっと不思議なことに思っていましたが、何故なのでしょうか。
 紹介される人物は、学歴あり、学歴なし、という不思議な具合です。あたかも、学歴なしの場合は「その学歴では、この欄が信用されない」とでも言っているように思えてなりません。せっかく同等の仕事をしているのに、新聞紙上(メディア紙上)で差別を助長しているかのように思えてならないのですが。
 長年、学歴がものをいう職場にいましたので、その意図するところがわからないではありませんが、このような差別をすることは、何を意味するのでしょうか。
 まあ、これが浮き世の習いというものかも知れませんが。


 
文化欄2(2012.12.19)
 文化欄には、地方の賞を受けたぐらいでは掲載されません。どういう決めごとがあるのか知りませんが、なかなか敷居が高い場所のようです。
 九州には、文學界が後援する九州芸術祭文学賞というものがあるのですが、各県と政令指定都市から地区優秀作が選出され、その中から最も優れた作品が九州芸術祭文学賞に選ばれ、文學界に掲載されるということになっています。
 確か、九州芸術祭文学賞受賞者クラスからは文化欄に相手にしてもらえるということだったでしょうか。通常は、芥川賞、直木賞レベル(九州の関係者がメイン)の作家が何度となく登場する場、という印象を受けます。
 後は、言うまでもなく大学教員ですね。
 その他、多少の例外はあるのかも知れませんが、商業雑誌が行うのと似た選別がなされているようです。


 
文化欄(2012.12.18)
 地方新聞になると、その地方の文化欄というものがあります。
 同人誌発行状況について紹介されるのは短歌、俳句誌に限られているようです。
 紹介される作家・研究者や、執筆を依頼される人物は、これは中央の著名な文学賞を受賞した人、あるいは大学教員あたりと相場が決まっているようです。
 短歌、俳句、詩、小説には、月1回の同人誌評が載せられます。九州以外では、同人誌評があるのかどうか知りませんが、同人誌関係の記事が掲載されるのは、このコラムのみです。まあ、九州は恵まれている方だとの話も聞きます。


 
文明の危機(2012.12.17)
 現在が文明の危機に直面しているということを思えば、文芸作品を生み出すことにどう意味を見出していけばよいのか、考えざるを得ません。
 古典や近代文学などが、いったいどこまで確立された芸術作品と言えるのかどうか。諸説あるところだろうと思われますが、例えば近付きつつある時の足音を感じて作品にするということがあっても、悪いことではないだろうと思われます。
 まあ、どんな時が来ようとも、前者の例も、後者の例もあってよいのではないか、と以前からそう考えているものです。
 時代は、いつの時も、激しく動いているのだと思います。


 
古典など(2012.12.16)
 古典と言われる文学作品や、近代文学と言われる作品から、しばし遠ざかりたいと思います。現実と、100年、1000年前の状況が異なるかも知れないからです。
 古典や近代文学のことを、放擲するという意味ではありません。
 現実のことから、目を離さないでいようと思います。ひょっとしたら、文学、文芸からも距離を置くべきかもしれません。観察が必要です。


 
淋しい時代(2012.12.15)
 淋しい時期であり、時代であることは否めません。グローバル化という方向で地球住民は、およそ20年ぐらい前から走り始めたのではないでしょうか。
 我が国では、高齢化が進み、過疎化が進んでいるようです。多分、首都圏以外ではこの傾向が加速度的に進んでいるのではないでしょうか。
 当地のアーケード街も無残な具合に閉ざされ、内外から建築の槌音も途絶え、空き家が目立ち、まるで隙間風が吹き抜けているかのようです。
 文芸の対象や内容も、老、病、死が大半です。このおよそ10年、同人誌は、老人誌と揶揄されて久しくなります。
 私が同人誌に最初に加わった約30年前は、活気にあふれ、皆が若く、本当に輝いているようでした。当時の作品内容は、燃え上がる恋だの、派手な喧嘩(全学連など)だの、大戦後の総括などで占められ、文章に力強さがあったように思います。
 同人誌も、今の空気を嫌でも映さざるを得ないのでしょう。一部の誌を除き、構成員も大きく減っているものと思われます。
 同人誌の世界も、現在の政治に例えるならば、1つか2つの大政党(大人数を要する誌)と、10人未満とか2〜3人という小政党(小誌)に大きく分かれ、離合集散し合いながら、時代を進んでいます。
 同人誌に高齢化と少子化の波が影響を落としてくる状況を見越し、商業誌の方では(こちらは経済の原理に左右されますから)若手を育成し、商品にするという方向が取られはじめて、これも久しくなります。
 もっとも、情報化の影響で本というアナログ商品自体、電子化という波にさらされ、この業界も安閑としてはいられないようです。
 こう書いていると、私はいつかマイナス思考にはまり込んでいる自分を発見し、我が身と心に言い聞かせ、次の一歩を懸命に探します。ただ、隣の芝生は青い、という言葉だけは発することなく。今の自分は、どうあがこうとも、非強制的にではあれ、己の所行が現在の自分に及んでいるのだろう、ということを考えながら。


 
海の口座(2012.12.14)
 希望の多かった海の口座を「郵貯の口座」に代えることを終え、第8号の繰り越し額を同口座に移し替えてきました。
 口座開設には、規約という関門があり、ちょっと骨が折れましたが、何とか新規口座を作ることが出来、ホットしております。
 これには銀行より少し厳しい手続きが必要ですので、今後の参考にしたいと思います。これも、整理整頓の一環かも知れません。


 
他誌など(2012.12.13)
 他誌を真剣に読むことはあまりしなかったのですが、手にしたら話せなくなった誌がありました。執筆者の筆の行き届いたメリハリのきいた作品を読むうち、こう書けばいいのだな、などと妙に納得させられました。
 一部に、我が作の欠点をズバリ見せてくれる作品もありまして、我が作品に重ね過ぎたためもありますが、作者の書きたいこと云々の前に、1)作者が感情的にならないこと、2)作者が感傷的にならないこと、3)他次元や異界に触れる場合は、細心の注意を払うべきこと。特に、他の読者のことをも考えるべきで、そうなると作者の一人合点では済まないこと、ということを自分に言い聞かせるように読んだため、少々辛い点を付けてしまったきらいがあります。
 それより、表現するにあたっては、1)過剰な形容をしない、2)オノマトペなどに気を付ける、つまり、まずきちんとした日本語を書く、ということがいかに大事であるかということに思いをいたしました。
 また、作者があまり自作に酔わないこと、というのも感じました。勿論、我が作に対し強く言うつもりで、という意です。


 
詩人会(2012.12.12)
 自己流詩集と銘打って「零地点」「カオス(混沌)」を出した経緯で、思いもよらず福岡県詩人会からお誘いを受け、1年半前に入会させていただきました。
 そこで、これは何も先方の問題ではなく、私が「場違いのところに迷い込んだ」とかねがね感じているところであり、会の皆様にも何のお役にも立てそうにないであろうということから、この際「異質の者がいるのもよくはなかろう」と思い、会を去らせていただくことにいたしました。
 私は、世間を騒がすことのない程度に詩文の方は続けるつもりではありますが、詩文の不得手な私は、こちらも得意ではない散文の方で、呻吟を続けていきたいと考えます。皆様、なにとぞよろしくお願い申し上げます。


 
読書2作(2012.12.11)
 美倉健治氏著「崩れた墓標」を読みました。人間、どうしてこのような厳しい泥沼にあらねばならないのでしょう。「畜生」「悪魔」「絶望」という、内容は著作に出て来るこれらの言葉そのもので、何度痛ましさに本を置こうとしたか知れません。
 感動、などという言葉では言いあらわせません。「痛い」のです。そうとしか言い得ない感動があります。本来の文学とは、こういうもののことでしょうか。
 もう1作、照井良平氏著「ガレキのことばで語れ」を読みかけては置き、読了したとまで言い切れませんが、前著同様これほど心を揺さぶられた書はありません。
 しかし、前日の某掲示板にある定義には当てはまりません。詩にも、例外があるのでしょうか。それとも、定義を越える詩だってあり得るのでしょうか。
 そうと言える場合もあり、そうでもない場合もあるのではないでしょうか。


 
文芸人ではない(2012.12.10)
 昨日のように書いたところ、「言葉は詩人のものである。神のものでもなければ、民衆のものでもないし、無論、特定の選ばれた選民のためのものでもない。詩は詩人の心にあり、詩人の魂にある。」というような意見を某掲示板で読みました。
 この書き込みが私のためになされたのではないとして、かねてから気になっていることがあります。それは、私が15歳までは本という本を読める環境になく、天空ばかりを仰いでいたため、それ以降、文学の本を読んでも、真っ直ぐ胸に入ってこないのです。
 ドストエフスキーが何とか、夏目漱石が何とか、などと言われる度に感じるのですが、私のピントが合わないのです。そのことは、私にとって何とも悲しいことでした。
 文章教室でも、人間(自分など)を主人公にして、現実の、その心の機微を書くのだ、と口酸っぱく言われたものです。
 私もそうしてきたつもりでしたし、今もそうしているつもりです。
 しかし、私の現実には、はるか遠い昔の思いや、姿があったり、はるか彼方の思いや、姿があるのも事実です。特に、幽体離脱ということを経験してから、現実という区切りの範囲が、広く(あるいは曖昧に)なってきた感がないではありません。
 ですから、実際には数百年後のことを、自分の今の気持ちとして書いてしまい、まずかったかなあ、と思ったりもするのです。
 しかし、私にとっては、いずれも今現実の切実なことなのです。(これらの作品に対しては、読み手のことを考えていない、といつもグサリと言われてしまうのですが。)
 ということは、私は文芸人ではない、ということなのかもしれません。


 
時間・空間(2012.12.09)
 幼時に、大破壊と思われるDVを経験していると、ものごとをつい捻って見ているのかも知れません。何でもないことが、奇怪な意味を持ったりするのです。
 我が作品の多くはそのことに由来していますから、(どうしても)感動物語にはなりません。やはり、本音をどこかに出しています。
 書くことは喜びであった時期もあり、感動であった時期もありました。今、それがないわけではありませんが、「真理の探究」により重きを置くようになりました。
 何故か、何故か、何故か‥‥幼時に、この言葉ばかりを発していました。
 時間が(私の場合は)自在に進み、空間が複雑に階層をなしていました。そのことを、詩集では書いてきたため、理解が得られないのでしょうか。


 
次の作品(2012.12.08)
 などと書くと、気取っているようですね。次の作品などどこからも注文などないのに、次にかからねば落ち着きません。
 調査したり、準備したりで一定の時間は必要なのですが、実際何に取り掛かるかの目安がないと不安になります。これを生活のタネにしているのではなくとも、同人誌を出している以上は、次の作品が気になります。それも、少しでもよりよい作品をと目指すわけですから、落ち着いている暇がないわけです。
 どこに出すということではなくとも、常々作品のことが頭を離れません。また、そうしないと作品を書き続けられません。アマチュアであれども、因果なものです。


 
郵貯の通帳(2012.12.07)
 海の同人費の納入先を、銀行口座から郵貯の口座に移し換えた方がいいだろうということで、郵貯窓口を訪ねましたが、こういう任意団体の口座を設けるとなると、たいへんなことなのですね。架空口座の防止という狙いがあるのでしょうか。
 規約が必要ですし、規約の内容が先方の項目要件を満たしていなければならないらしく、幾つかの質問事項に答え、求められるままに規約を書き直して出直さねばならないということで、ほぼ1日を費やしてしまいました。
 お役所仕事は、やはりたいへんです。2年前までの自分を思い出し、気分を悪くしてしまいました。しかし、やはり野放しに口座を作るという訳にはいかないでしょうから。ここは理解しないといけないことですね。


 
作品を戴く(2012.12.06)
 多くの作品を御恵与いただきます。これはどうしたことだろうと、申し訳なくも、たいへん有り難いものです。今日も、藤田愛子さんから2冊目の御著書「地下の寝台」を戴きました。本当にありがとうございます。
 昨日は外狩雅巳さんから、以前には美倉健治さんや、石川友也さんほかから沢山の御著書を戴いています。その度にこの欄で書けばよかったのですが、「海のホームページ」の方に書かせていただいております。(「受贈誌等」の欄へ)
 皆様には、心から感謝申し上げる次第です。


 
詩集を読む2(2012.12.05)
 いただいた詩集「ガレキのことばで語れ」(照井良平著)が読めないでいます。照井氏は、国民文化祭京都2011現代詩部門の最高賞を受けられた方です。
 中身がまずいから読めないではなく、切なすぎて読めないのです。3作、5作と読んでいると、いたたまれなくなります。そうです、東日本大震災の被害者であられます。これを、平常心で読むことが出来ないのです。
 最近、本当に多くの同人誌や著作を恵与していただいています。それぞれがすばらしいので、余計に読み進めずにいます。小説の方は何とか読み、感想も書けるのですが、詩になると、私には言葉が浮かんできません。詩に籠められた思いに同調したり、理屈ではわかっても、お返しする言葉が私には足りません。
 お許しいただきたいと思います。
(付記)
 文学街303号が送られて来ました。同人誌についての第2の提言まで掲載していただきましたが、同人誌文学賞(賞金なしですが)の創設というのは、現状に馴染まないかも知れません。そもそも、同人誌に賞はいらない、という主張もあります。一方で、商業誌から締め出されたままの同人誌というかたちでもあり、難しいところです。


 
詩集を読む(2012.12.04)
 石川氏から寄贈していただいた詩集を読み、感想を書きました。30年の中途空白があることでもあり、詩は難しいですね。
 散文と違い、言葉が凝縮されているところにどう気分を絡ませていけるのか、ということですが、これは素人の考えなのかも知れません。感想の書き方も、詩の読み方もよくわかっていないのですが、前に進みながら考えたいと思います。
 嬉しいことがあります。海への加入希望の方がありました。北海道の方は確定しました。それに、夕方兵庫の方からお1人、問合せ電話が入りました。


 
書くこと(2012.12.03)
 書くには、やはり姿勢を決める必要があります。私たち、売るという点は全く考慮しなくて済みますから、幾つかの立ち姿ぐらいは決めておいた方がよさそうです。
 思い付いたものをそのまま、というのも悪くはありませんが、内容についての責任は持たねばなりません。
 そうした上で、次は素材です。ここはそれぞれが工夫していると思いますが、どうすれば素材について取材することが出来るか、これが課題です。
 その前には、何をテーマにするか、何故書くのか、ということでしょう。


 
合評会(2012.12.02)
 少人数の合評会。しかし、実の多い話が行われました。
 少人数の合評会故の充実もあります。技術論などを通り越した、胸を開いての話も出来ます。これも一つの合評会のあり方でしょう。
 淋しいなどとは言いません。これが今日の合評会。今だからこそ出来得る、合評会の理想のかたちなのかも知れません。


 
読む(2012.12.01)
 今日は、徹底して読む日に充てました。
 そして、明日は海の合評会です。

 
五木寛之(2012.11.30)
 五木寛之という作家は偉大である。と、再認識しています。
 これまで、あまり身近におられるものだから、書架で名前だけ眺めて通り過ぎていましたが、「親鸞」を読んだのが切っ掛けになりました。
 勿論、五木作品は何冊も持っているのですが、親鸞ほどには胸に響いてきませんでした。それからというもの、手当たり次第に買い漁り、今日も5冊買い込んできました。
 TSUTAYAでですが。TSUTAYAはBOOK OFFよりは高めですが、商品の管理がかなりよく、乱暴には扱われていません。値札ラベルも剥がしやすいし、これこそ新品同様と言ってもいいですね。
 五木作品の中身のことですが、「この世は地獄に等しい」「絆などと言うけれど、血の関係の重さ、締め付けの酷さを考えると、喜ばしいばかりのものではない」「地震などで、この世の生活がどう変わるかもしれず、核の制御が効かなくなったときのことを想像すべきである」「戦中までの家制度が、今は個というものに移行しており、この移行してきた状態の中に、無理矢理家などという考えを捩り込むから無理が生じる」等々、これらが20年前に書かれているのです。今の世情をピタリと言い当てて。
 けだし、人間は火の上で踊っているに等しい(ここは私の感じです)のではないか、と思うばかりです。


 
全作家(2012.11.29)
 結局、100枚の作品を60枚に書き直して送り込みました。
 後、短編小説集の30枚があります。こちらは、きちんと製本されるので、それなりの作品を出したいという気持があります。
 創作という類のことは、一定のスピードで一定量を、というわけにもいかず、(勿論、私だけのことでしょうが)素材の選び方、運び方、生かし方等々、工夫が必要になりますから、常に新たな気持でいます。
 どうしたらわかっていただけるか、どうしたら読んでいただけるか、これらも無視することなく、気を付けていきたいといきたいと思います。


 
文芸思潮(2012.11.28)
 文芸思潮48号が届きました。まほろば賞の選考経緯、現代詩賞の結果、銀華文学賞の3次予選通過者等が掲載されています。
 こうして見ると、同人誌の動きがよく見えますし、優れた作品がここからも出て行くのだなと、筋書きがよくわかるように作られています。
 これらを見ていると、闘志が湧いてきます。生半可な作品制作では、同人誌の世界も通用しないのだなと思い至りました。


 
新入会者(2012.11.27)
 新規の入会の方に、ようやく巡りあえたようです。それも、新規などとは言い難いレベルの高い方です。何はともあれ、有り難いことです。
 西日本詩時評では、月岡氏が写真入りで掲載されました。月岡氏は第5号のときもそうでした。海は、もともと詩や評論を主にして来たのですから、継続している甲斐があろうかというものです。
 小説では、これまで何度か西日本文学展望に牧草氏らが掲載されてきました。今回の入会者には、可能性をおおいに膨らませていただけるものと期待します。


 
小説は難しい(2012.11.26)
 100枚でも、50枚でも、5枚でも、書くことは難しいものです。
 1点に拘りだしたら、1行を書くことに何日も費やしてしまいます。迷いだしたら、なおさら迷ってしまいます。
 今、大きな壁に向いているのかも知れません。他の作者は他の作者です。それより、自分との対決です。
 上手く行こうが、そうでなかろうが、自分の力をどう引き出すかです。


 
時代小説(2012.11.25)
 私を中心とした作品ではない作品(例えば、時代小説)にも、以前から興味があり、何とかならないものかと考えてはきました。
 ということでアドバイスをいただいてみたものの、主人公を誰にするか、時代は、時代考証は、その背景は等々、当然のことながら、たいへんな調査が必要だということです。それはそうでしょう。主人公が決まり、そのキャラも決まり、その取り巻きも決まり、とこう順調にきたとして、当時の生活ぶりがどんなか、どんな物を身に付け、何を食べ、それらの価格がどのくらいで‥‥等々を明らかにしなければなりません。
 ストーリーや性格付けはある程度出来たとしても、背景の部分の嘘は書けません。となると、どんな準備をしなければならないのか。気が遠くなります。
 何しろ、10年前の総理が誰かからして、わからないくらいですから。


 
昔の作品(2012.11.24)
 昔の作品に手を加えてみています。この作業はなかなか難しいもので、自分がかつて書いた筈なのに、遠い隔たりを感じてしまうのは何故でしょう。
 言えるのは、今が当時より増しな腕前になっているとは限らないということです。むしろ、手が落ちているのかも知れません。
 よくぞこんなことを思い付いたものだ、と中身に感心したりすることもあります。ということは、今になっても、何も進歩していないというのが正解でしょうか。



 何故?(2012.11.23)

 船上で五木寛之の本は読み終えたのに、ドストエフスキーはなかなか読めません。皆さんが、最も影響を受けた作家としてドストエフスキーを多くあげられるのに、私の場合は、作品がちっとも先に進みません。
 理解出来ないのは、勿論私の至らぬところですが、何故なのでしょう。何度かチャレンジしてみるのですが、今回も中途で止まったままです。
 私には、文学というものがわかっていないせいなのでしょう。落ち込んでしまいます。何で入っていけないのだろうか、と頭を抱えています。



 チャレンジ2(2012.11.22)

 東京方面でお世話になっている方に、著書を送りました。
 送るということが、果たして最良の道であるかどうかは、わかりません。
 余計な負担を強いてしまうのかも知れません。それでも、大切な方々に、レターパックの送付をしました。
 ドラマが生まれます。ここには、必ずドラマが生まれます。人間のガチンコの勝負が、ここにはあります。
 芸術はドラマであり、ドラマは芸術でありますから。


 
チャレンジ(2012.11.21)
 チャレンジは忘れておりません。努力で成ることなら、厭いません。
 文芸等芸術の道は、努力だけでは説明できないものが多くあります。だからといって、地道に積み上げたことはいつの日かは、形になります。
 1行も、1字さえも進まないこともありますが、ここで諦めないことでしょう。チャレンジの気持が萎えたときには、道は開けることはないでしょう。


 
外作業中は(2012.11.20)
 外での作業中は、文芸から遠のいています。こうやって、敢えて遠ざかる時間も必要なのかも知れません。
 戻ると、新鮮な気持ちになります。
 これから始めればよい。というファイトが湧きます。文芸は、やはり他がどう読むのか、という視点も大切にしなければ浮いてしまうことになります。
 純文学にしても、これは外せないでしょう。


 
校正など(2012.11.19)
 全作家掌編小説特集のゲラが来ましたので、校正しました。
 12月の応募分の方は、極めて難渋しています。読んでいただけるような作品に仕上げる、というのが目標です。
 今は、小さな目標を1つずつクリアし、積み上げて行きたいと思います。
 山は高く、はるかにあるようです。


 
昨日の今日(2012.11.17)
 相変わらず、100枚を60枚程度に縮める作業をやっています。
 こんな作業をしながら気付いたのですが、直せば直すほどその箇所は増えて行き、際限もなく広がるということです。
 1から作った方が、早いという場合があるだろうということにも気付きました。


 
再起(2012.11.16)
 というほどの大袈裟なことではなく、取り組まねばならないことを始めねばなりません。1つ、1つ、やって行きます。
 今を確かめながら、1つ、1つずつです。足元を見詰め、1つ、1つずつです。文芸は、それほどやりがいのあることです。


 
体調維持(2012.11.15)
 体調維持のため、パソコンも、読書も辞めてみました。
 そうすることも、あまり効果があるとは思えませんが。


 
言葉(2012.11.14)
 朝に礼拝
 昼は汗
 夜は感謝で眠りましょう

 何の不足も今日一日は
 私は笑顔で今日一日は
 誰に向かうも今日一日は
 私は笑顔で親切に

 これは詩人の詩ではではありません。今日、IHを取り付けに来ていただいた電器屋さん(いつもお世話になっている)の言葉です。幼い頃に、いつもお婆さんから聞かされてきて、今もこれに従って生きている、と言われます。
 これほどの深みのある1日を、私たちは送っているだろうかと、真から考えさせられました。今が、宇宙の存在の全てなのですね。


 
経験は大事(2012.11.13)
 経験は大事ですね。特に、モノを書こうという身には。
 大腸ファイバーがこんなにして行われ、こんなに辛いものであるのだということが、初めてわかりました。人それぞれでしょうが、私は胃カメラの方は比較的すんなり済みます。これこそ、20回になんなんとする経験の賜です。
 大腸ファイバーは、10年ほど前に違うかたちで受けたことがありますが、今回は、前夜から具合が悪く、当日の腸洗浄剤の効き目が強烈で、22時になっても元に戻りません。それに、45年前の盲腸の手術(癒着していて4時間かかった)の跡が相当奇妙な具合になっているようで、そこをファイバーが探るのにめちゃくちゃ時間を要しました。いやはや、この検査を受けることの方が体に響きそうです。
 それに、80歳ぐらいの女性が、受付で1時間近くも勝手な思い込みをもとに看護師を怒鳴り付けるものですから、これだけで気分が悪くなりました。医師の方も、看護師の方もたいへんな重労働をこなされているのですね。


 
芸の域2(2012.11.12)
 批評と小説等の作品について、どちらが上だとか下だとかの議論がなされておりますが、これには上下などないのが本当でしょう。
 また、小説等は勿論、批評においても表現力が必要だとか必要でないとかの意見がありますが、これはいずれにも卓越した表現力が必要でしょう。
 いずれも「芸」を標榜するものですから、表現力がないことには話になりません。具体的な例は、批評の文章があまり優れていないようだ、ということからことは始まった感がありますが、これは「読めていないのではないか→書けていないのではないか→的が外れているのではないか」という内容から来たのではないかと思われます。
 権威者の如く、頭ごなしにものを言う方が多くいらっしゃるのかも知れませんが、それらも決して適切ではないでしょう。
 私事ですが、作品をずばり読み取り、的を射てくださる方がおられるなら、下手な書き手としては、少々手厳しい内容であれ、そのことに十分首肯し、納得し、教えを請うた気持になります。そのいずれの方の指摘が正しいのかは、直ちにはわからないことかもしれませんが、書く側にも勘所はありますから。
 反対に、あまりに的外れな内容ですと、気にも留めないことでしょう。
 表面的に、あの方は誠実だから、などという話まで出て来ると、ますます的が外れて行ってしまいますね。


 
芸の域(2012.11.11)
 今回は、海についての御意見を多くいただきます。とてもありがたいことです。そのまとめたエキスを、海HPに載せております。
 文芸は、勿論才能や努力や工夫や人間関係の助けが必要ですが、何を置いても、書き継ぐことが必要だと思われます。少ない労力で大きな的を射る、という論法もありましょうが、やはり多く努力し、工夫して、自分の芸域を開拓するということが、何より大切でしょう。いくら文豪や大家の息遣いばかりを追っても、それらを基礎にした、自分の芸を確立することがなければ大きく育ちません。
 ということを胸に秘め、自らの作品を芸の域にまで高めるため、愚直でもいいから、普段の磨きを絶やすことなく続けたいと思います。


 
またも(2012.11.10)
 またも懲りず、100枚の作品を50枚前後に縮めることをしています。他に手掛けることもあるのですが、何故かこちらにも食指が向いてしまいました。
 というか、書き直してみたいとかねがね思っていた作品ですから、その延長にあります。できたら、50枚ぐらいの新規の作品を2つぐらいは完成させたいと思うのですが、これらの順番は出来次第ということになりましょう。
 短編、掌編にも取り組まねばなりませんし、100枚程度の作品はコンスタントに手掛けたいと思います。それに詩ですね。こちらは、興が乗ってきたら一挙に5作ぐらいまとめて書くという、これまでの方法で当分行くつもりです。


 
作品の話(2012.11.09)
 病院の帰りに、金文堂書店を覗いてみました。
 すると、発刊されたばかりの文芸福岡が平積みされているではありませんか。山の如く‥‥と言えば大袈裟ですが、やはり地元なのですね。
 ついでに、海も、カオス(混沌)も並べられていました。これも地元故、なのですね。地元に認められることは、やはり大切なことなのですね。
 今日のように気が弱ったときには、とても勇気付けられる風景でした。


 
文学街へ(2012.11.08)
 文学街に提出すべき2編を出し終えました。今日は30枚の短編です。これは、読者賞の副賞の1作掲載というものに当たるものです。5,6度見終え、見切り発車しました。完璧に、とはいかないでしょうが次に進むため、終了しました。
 2日前は、文庫[8]の原稿です。これも、これまでとかなり趣が異なるものですから、何度も見直しましたが思い切りました。


 
短編(2012.11.07)
 あれやこれやと神経が休まらない中、以前書いていた短編の仕上げにかかりました。短編、掌編と、これまであまり力を入れてこなかった部分ですが、いずれも難しいものです。30枚を緊張を切らさずに書ききれれば、本物なのかもしれません。
 芸術ということをしばらく忘れていましたが、書き始めると雑念を払うことが出来ますね。こういうものがあって良かった、とつくづく思います。
 何々のため、などではなく作品そのものへの移入です。


 
文学・文芸(2012.11.06)
 果たして文学・文芸を追求して行って、何に辿り着こうとするのでしょう。
 昔の文士は特権階級だから、相当のめちゃくちゃは当たり前のようだったとのことです。という文士の書いた作品が、金となり、権威となり、学問にもなっています。
 この後を継ごうとよく見たら、奇人、変人、野蛮人の類ばかり。故に、波長の合う連中がより集まって、作らせて、書かせて、売る、ときたようなものです。
 文学・文芸の神髄や、真理というものが果たしてあるのでしょうか。確かに、幼児期、青年期などを熱気に包んでくれた作品が、です。
 そんな気の利いたものなどない、とどこかで言われているみたいな気もします。目立ちたがり屋の、金持ちの、キザで我が儘なお坊ちゃん、お嬢ちゃんたちの遊び道具に過ぎなかった、と言うのが現実の大半なのかもしれません。
 ミュージシャンも、アーティストも、同じように。


 
福岡(2012.11.05)
 文芸福岡創刊号なるものが送ってきました。福岡文化連盟の事業ということですが、作品を列挙しただけ。何か気が抜けます。
 中身に不満もあります。俳句のやたら多さ、五行歌っていったい何もの。それに、この二種の活字のバカでかさ。
 プロフィールぐらいはきちんと書いてほしいものです。それぞれの思い入れがあって申告しているのに。宣伝というわけではなく、その反対の意味でですが。


 
罪と罰(2012.11.04)
 いつも埃をかぶったままの、罪と罰。
 一念発起、読んでみることにしました。過去にも読んではいるのですが、詳細は殆ど覚えていません。
 こういう本がどれだけあるだろうと思います。今こそ、読み返したい本がたくさんあります。内容を噛み締めながら。


 
わが作品(2012.11.03)
 わが作品に取り掛かりました。なかなか、おいそれとはいかないのが作品です。
 掌編が1、30枚が2、50枚が1というのが、当面の目標です。体調を整え、工夫しながらやっていければ、と思います。
 創り出すということは、難しいものです。しかし、それを選んだ以上、逃げは打たないことにしたいと思います。


 
会計報告(2012.11.02)
 同人誌発行の最後の1つ手前の仕事「会計報告」を作成し、送付しました。こういう事務的な仕事には長年かかわってきたので、それほど苦にはなりませんが、かなりの時間をとられることが悩みです。最後の仕事は合評会ということになりますが、参加者が多ければありがたいところです。
 ついでにではありませんが、同時に次号の「原稿作成要領」も作成し、送付しました。
 2013年が到来し、次号がスムーズに作成出来ることになるよう、今から祈るものです。それに、若干でも入会者があれば有り難いのですが。


 
受贈作品3(2012.11.01)
 気に掛けていた受贈作品をほぼ読み終え、お礼のコメントなど送付しました。
 今回はたくさん戴いたこともあり、少し時間がかかりましたが、嬉しい悲鳴と言うべきでしょう。みなさん、それぞれに工夫されておられますね。
 海の方も、そろそろ会計報告が出来る頃ですので、次号の原稿作成要領とともに、決算資料の作成、送付と運ばねばなりません。
 全て手作りの同人誌ですから、手はかかりますが、1号を終える毎に輪が広がって行くのが実感となり、嬉しく思います。


 
受贈作品2(2012.10.31)
 受贈作品を今日こそ読み切ろうと、考えます。
 しかし、風邪薬を飲んだら、ひどい眠気です。これをやり過ごしてから、取り組みたいと思います。
 BOOK OFFの方の本や作業もありますが、今は辞めておこうと折り合いをつけました。とにかく、勉強や調査などを怠って平気という悪い癖から、早く脱却しなければなりません。


 
海の送付等(2012.10.30)
 海、文学街文庫[6]の発送にかなり時間を費やしました。
 海の方は、本当に意欲ある方が現れてくれないものか、と願うものです。現状は現状で何とかやっていますが、1人が複数ジャンルに手を広げ過ぎているきらいがないではありません。年齢の上下はそれほど問題ではなく、やはり意欲です。
 自分の世界を作ってみようというほどの人がおられたら、海の門を叩いてみてほしいものです。是非、自らの表現を試みてほしいものです。
(付記)
 文学街302号送られて来る。


 
受贈作品(2012.10.29)
 受贈作品が増えてきました。まず、読むということが何より大切ですから、(私は特に)ひたすら読まねばならない、と考えます。
 出来れば、どういう意図のもとに、どういう素材を用い、どのように工夫し、どう料理がなされているのかというあたりに興味と意識を持ち、読みたいものだと思います。人々の工夫と知恵をいただくつもりで、読ませていただきます。


 
合評会(2012.10.28)
 極めて有意義な全作家の合評会でした。メンバーが強力だと、問題とする点や指摘事項も的確で鋭いものです。やはり、いい加減な気分で書いてはいけないのだ、と思いました。そして、間違いはもっての外、ということになります。
 筆の勢いに任せたり、滑らせたままだったり、調べ方が杜撰だったり、チェックが不十分だと作品全体が死ぬということになります。
 ものを書くことは命がけだ、ということも納得させられました。文学・文芸とは「遊びじゃないか」と揶揄されたりすることもありますが、己の全存在を賭けて書いている人々が多く存在するという事実も知りました。
 文学・文芸、それが前者の場合は置くとして、後者の場合は哲学であり、人生の全てであり、総決算でもある、という意味においてです。


 
黒羽作品(2012.10.27)
 黒羽作品を読ませていただきました。技術的なことは置いて、「息を継ぐ間もなく作品が巧みに展開」します。この情熱は何だろう、と考えているうちにあっという間に20頁ほどが終わっているのです。
 文字通り、息をも継がせぬ、という作品です。
 知識が何だとか、技量が何だとか(とにかく、技量が優れているからこうなるのでしょうが)いう前に、目の前に覆い被さってくる熱いもの。これは私には出来ないことでしょうが、ほしいものはこんなダイナミックさなのです。


 
親鸞(2012.10.26)
 久しぶりに親鸞(五木寛之著)を読んでみました。
 文句なしに感動しました。売れる、売れない云々のことは度外視して、良いものは良いのだ、とつくずく思いました。
 文学・文芸論ではなく、親鸞そのものについて興味があるのです。とにかく、私が文化から遠ざけられていたとき、奇跡的に出会ったのは「明治の文学全集」であり、生死にかかる存在の問題でした。
 よく、文学・文芸に宗教はいらない、と言われたりしますが、人間(その他の生命体やこの環境を形作るもの全て)を考えるとき、宗教による人間(同)の追求の内容を全く無視しては語れないであろう、というのが私の持論です。
 同人雑誌に特定の宗教の宣伝をすることは望みませんが、その根本を考えるという点においては宗教において大であり、文学・文芸において小であると思うものです。
 人間(同)の存在のことを問うものが文学・文芸である限り、私は宗教や科学を遠ざけてはならないものだと考えます。


 
御意見4(2012.10.25)
 今回は本当にたくさんの御意見をいただきます。
 海が人数的に足りない状況でありながら、工夫を凝らしているからと言えるのでしょうか。現在が、煮詰まったほどの状況ではないことは確かですが、あと数人の参加が得られればより良いのだろうと、考えております。
 ただ、人数が少ないが故に、多くのジャンルに作品のチャレンジが出来る、というプラスの面もあります。発表してみて、自身の意外な面に気付かされたりするというのも、少人数の海ならではのことであります。


 
御意見3(2012.10.24)
 海の発行での御意見を多く戴きます。第二期第8号といえば、まだまだ始まったばかりですが、多くの方々から目に止めていただけるようになり、嬉しく思います。メールでの御意見が増えたのも、最近にないことです。
 号を重ねるに従い、御交誼をいただける方も多くなってきました。これまで触れ合うこともなかった方々から、思いもかけず御意見をいただいたりします。それはすなわち、これまでに思いもしなかった意見であったり、指摘であったりします。
 自らの作品を表現し、発表することで、多くの方々と繋がり会えるのだな、と深く感じ入っている次第です。


 
御意見2(2012.10.23)
 海関係のメールが、今回は多いように思えます。たいへん有り難いことです。
 御意見を間近にいただけるので、当方もホットな気分でお返事等が出来、いろいろと気付かされることが多いものです。
 手紙のやり取りも、これはこれでいいのですが、どうしても一方通行になってしまいます。双方向のやり取りや、ホットな気持のやり取りが出来るネットは、とても有り難いものに思えます。
 五木寛之の作品も、久しぶりに読むといいですね。ジワジワと感動が高まって来るという、これがやはりプロの作風なのでしょう。


 
御意見(2012.10.22)
 海への御意見のいくつかが、メールで送られてきました。有り難いことです。今回は、私も少し感情的な部分を書き込んだのでしたから、気に掛かります。
 最近、本当に多くの貴重な御意見をいただくようになり、感謝に堪えません。私如きにお気遣いいただき、お心が胸に染みます。
 発行して良かったんだ、と感じるひとときでもあります。


 
糊剥がし(2012.10.21)
 樋の交換などの段取りをつけ、その合間に、剥がしスプレーでBOOK OFFの値札の跡の拭き取りをしましたが、敵もさるもの、生半可なことでは拭き取れません。重ねて置いている本は、表紙と表紙がくっつき、破れるという有様。
 確かに有り難いBOOK OFFではありますが、この値札の糊は頭にきます。考えようによっては、商品に傷を付けている、と難癖を付けたくもなります。
 大切な本が、強力過ぎる糊で互いにくっつき合い、値札を力任せに付けるのか、表紙が窪んでいたりします。やっぱり、大切なものは新刊本として購入すべきなのでしょう。それにしても、あわれな本の姿に、せっかくの「素晴らしいアイデア」が悲しくなってきます。これも、経済の論理がもたらす歪みの表れかもしれません。


 
海発送後(2012.10.20)
 海発送後の倦怠にあります。それほどでもないと思っていましたが、やはり疲れはしっかり残っているようです。
 こういうときは、黒煎り玄米を煎じて飲むことにしています。
 勿論、風邪薬も手放せませんが。
 親鸞が読みたくなって、久しぶりに五木寛之の本を読んでいます。


 
海HP(2012.10.19)
 海のHP(特に作品公開のため)を新めました。
 毎号発行する度の作業ですが、これが結構手がかかります。あらかじめPDFに変換していた各作品を、それぞれの箇所にリンクするのです。
 海第二期の作品は、全てHPで公開しておりますので、御覧いただければと思います。また、HPにも書いておりますが、作品の発表の場を探しておられる方で、興味をお持ちの場合は、海の場を利用いただければ、幸いです。


 
海発送(2012.10.18)
 海の発送作業を終えました。約2時間半の作業、1人でです。ラベル貼り付け、発信者(私)のゴム印押し。送付状と冊子の封入、封筒閉じ。メール便のラベル貼り、とこういう作業です。
 100通を越すと、やはり時間がかかるものです。夢中で作業し、帰りには1,000円カット、BOOK OFFと回りました。最近気が滅入ることが多く、かつて親しんだ親鸞の本を、五木寛之さん作の分を読んでみたいと思ったのです。
 BOOK OFFでは、探し求めていたドストエフスキーの本と、これまた五木さんの本を6冊求めました。BOOK OFFで求めた本は、値段札を剥がすと強力な糊が取れず、困っていましたので、これを取る方法を教えてもらいましたが、試してみてもそう簡単にはいかないようです。


 
短編集(2012.10.17)
 全作家短編集の作品を読む。25の作品を読み、ベスト3を報告しなければなりません。読んでみると、それぞれの考え方の違い、境遇の違いなどが読み取れて、参考にもなる代わりに、自分の作品の甘さが見えて悲しくなってきました。
 自分以上の苦難に出会ったとみられる作品や、偽善を排した作品に出会うと、自分の内面の曖昧さを考えさせられます。
 考えて見れば、五木寛之氏の言葉のように「この世は地獄」に違いない、と思えてきます。騙し騙され、命など幾つあっても足りないという現実があります。これを肯定する訳ではありませんが、善なるものに近付こうなど、笑止、とも思えるのが人間の有り体ではないですか。という煩悶をしなければならないほど、「現実は苦に満ちている」のだ、と改めて考えた次第です。


 
エッセイ(2012.10.16)
 文芸思潮から寄贈いただいた「エッセイ宇宙4」という冊子をめくってみると、素晴らしい作品の連続です。これで入賞に至らなかった(入賞作品の紹介もありますが)となると、文芸作品として入賞したり、当選したりというのがどれだけ希有なことであるか、考えさせられます。実際、それらの違いがわかりません。
 もともと、賞に権威付けをすることに疑問をもっていますので、当選作品となったからといって、特別扱いする現今の風潮にはなじめないものがあります。


 
お礼状など(2012.10.15)
 2誌にお礼状を出しました。まだ、数誌が残っています。
 海の発送の準備もしました。海作品のHP掲載準備もしました。こうやっていると、なかなか自由な時間が持てません。
 もっとも、これが遊びであろうとしか言われないところが残念ですが。


 
受贈誌等(2012.10.14)
 受贈誌がたまり、読み込めず、お礼状も出せていません。
 良い誌を贈っていただいているので、早めに目を通し、感想なりを述べたいものです。他誌の作品を読むことは、自誌の作成や自分の作品を書く上での貴重な資料になるので、是非とも実行を続けたいと思います。
 が、わが作品を書く必要もあり、なかなか厳しい状況にあります。


 
作品は(2012.10.13)
 文学街の10枚をようやく粗書きしましたが、全作家の方には50枚だけではなく、さらに30枚のノルマがありました。
 作品は、とにもかくにも実際に書かないと終わらないものです。今持てる全ての力を出し、作品に向かうのですから、どうしても他のことが疎かになってしまいます。別に、作品を書くことで生活している訳ではありませんが。


 
人生論(2012.10.12)
 文芸は人生論であっていいわけですよね。人間の人間臭さを文章で伝える、この姿勢でいい筈ですよね。
 私の作品には、ともすれば人間がいなくなってしまいがちになります。やはり、人間が人間のことを描くのが芸術であり、文芸であるのです。当然のことですが。
 しかし、ともすれば、私の作品から人間が消えてしまうときがあります。人間のいなくなった時空を、呆然と眺める自分が佇んでいたりします。
 これも、人生論のうちだと言えるのでしょうか。


 
海校正(2012.10.11)
 大切な作業である印刷所での校正を、2時間ほどかけて終えました。
 発送は18日を予定していますので、これから送付文書作り、ラベル印刷などの諸準備にかかります。
 なかなか自作の方に切り替えられないのが難ではあります。


 
不調のとき(2012.10.10)
 とうとう抗生物質のお世話になり、何とか風邪に耐えています。
 不調のときは書くこともダメで、結局方針を決めただけで時間が過ぎゆきます。もっとも、私ごときのレベルですから、高望みしても無理なことは無理ですが。
 こう‥‥何か閃いてくれれば、筆が滑り始めるのですが。で、ひたすらその兆しを待つということになります。


 
作品を(2012.10.09)
 とにかく作品を書かねばなりません。全作家50枚、文学街10枚、30枚、勿論海の方にも100枚というのが直近のノルマです。
 このように、自分の役割があるというのは、嬉しいことです。作品を書くには大変な苦痛も伴いますが、充実感も伴います。しなければならないことが多くあるということ、大変ありがたいと思います。


 
同人誌文学(2012.10.08)
 世の中では、文学と同人誌文学とは区別されているようです。その経緯や実態のほどはあまりわかりませんが、かなり深い一線が画されているようです。
 私などは、後者に属しているわけですが、「同人誌に明日はあるのか」という問題が突き付けられていることは確かです。
 後者は、乱暴な言葉を用いれば、確かにガラクタの集合体です。光るのも、光らないものも多くあります。前者は、謂わば洗練されたものの集まりのようです。このようです、というところに敢えて留めさせていただきます。
 数で言えば、圧倒的に多い後者の同人誌文学。光らせようによっては、光る道がある筈です。芥川賞にも直木賞にも劣らないという認知を与えてやることと、責任とを与えてやるのです。そうすることで、いや、そうしさえすれば光り始める筈です。それほどに、後者には必ず輝き始める光の子が多く沈んでいます。
 もっとも、気楽に好きなことを書いておれればいい、という向きも後者の大きな特徴と言えるのかもしれませんが。


 
文学街2(2012.10.05)
 文学街の続きです。かねて同人誌評によく出てくる方々の作品は、さすがに読ませます。まず、文章に破綻がありません。これらの作品が並ぶというのは、心地よいものです。10枚程度の掌編ですが、力量や個性というものがよくわかります。
 文章に破綻がなくなって、以降が「表現」です。短い作品であるからこそ、力量が試されます。作品を読むことで、作者自身と出会ったかのように思えてしまえるから、不思議です。掌編、あだや疎かには書けません。


 
文学街(2012.10.04)
 文学街の文庫本【6】と、10号分ほどに目を通しました。
 文庫本の方は、かなりよく出来ていて、各作者の持ち味がとても生かされている本だなと思いました。こういうふうに、作者を比べながら読むというのは面白いものだな、と個々が抱いている問題のそれぞれに感心しました。
 同人誌に明日はあるか、という問い掛けにも、いろいろな応答があり、どこも似たような問題を抱えているのだな、と思った次第です。


 
読まねば(2012.10.03)
 編集作業にしばらく時間を費やしたため、読まねばならないものが多くあります。読む時間が出来たということは嬉しいことです。
 書く時間の方は、半端なものではありません。こちらは、1日に何枚だとかコンスタントにカウントし難いところに、悩みがあります。1枚も書けないかと思うと、30枚も書けたりします。素人は素人なりに、やりたいと思います。
(付記)
 文学街301号が送られて来る。


 
印刷発注(2012.10.02)
 予定どおり、原稿を持ち込み発注を終えました。午後3時までのぎりぎりの時間まで、読み直し、データの修正を行いました。
 順調に行けば、11日校正、18日発送という手順で進みます。


 
原稿持ち込み(2012.10.01)
 海原稿を明日持ち込む予定ですので、最初から最後まで目を通してみました。1字1字確かめながら読むというのは、かなり大変です。
 小さなミスを発見したら、データを修正。こうやって、プリントアウトした原稿と、データとを印刷の方に持参します。


 
同人誌作品(2012.09.30)
 最近同人誌作品、特に他誌の作品を読むことが多いのですが、商業誌の作品に比べ決してひけをとらない、と真剣に思います。
 と言うより、後者の作品の方に内容の豊かさと自由さ、それに上手さを感じます。違うのは、多分「売れるか売れないか」という点だけではないかと感じています。後者の作品が何故商業誌に載らないかと言うのは、作者が商業誌の編集子等の注文を「なるほど」と受け入れるか、受け入れる作者であるのか(これは、商業誌側から見た直感であるのでしょうが)というところの問題ではなかろうかと思うものです。


 
海校了(2012.09.29)
 海の校正原稿が戻って来ました。私の方で今一度目を通し、修正等し、近いうちに印刷所持ち込みとなる予定です。
 文学街がらみの作品や資料も読みました。


 
全作家(2012.09.28)
 全作家第87号が送られてきました。今号は、全作家文学賞(該当作なし:佳作2編)の掲載と、小説作品3編とで骨格が形成されています。
 内容はまだ読みこなしていないのですが、全作家文学賞の選評で、横尾和博氏が「賞は権威ではない」と述べられています。然り、と思うものです。
 賞が人物を評価するとか、賞が人物そのものをランク付けするかのように受け取る向きがあるようですが、私は「作品が一定レベルであったいう認知」に過ぎないと思うものです。ですから、賞を得た者が、途端に「自分は他とは違う」というふうな態度をとる風潮もあるかのように聞き及びますが、こうなると賞も落ちたものです。
 賞とは、いろんな角度から見て「一定の評価を得た」のであり、ここには次作、次次作以降に期待する。より上質の作品を書き続けてほしい、という意味が込められているのだろうと思います。すなわち、本人への励ましであり、これからもこの道を追求して行くことを一応認める、という起点になるものであろうと考えます。


 
文芸思潮(2012.09.27)
 文芸思潮第47号が送られてきました。今号は、文芸思潮エッセイ賞の発表と、アウシュビッツ特集が骨格のようです。
 エッセイ賞は、賞の上下に関わらず、それぞれの方々が精魂込めて書かれた内容であり、精一杯生きてこられた人生を学ばせてもらえます。こういう発表の場が提供されることは、他に例を見ないものだと思います。文芸思潮が、多くの人々に広く門戸を開放されていることに敬意を表します。
 アウシュビッツ特集の方は、写真を眺めるだに息苦しくなります。内容はこれから読ませていただきますが、よくぞこのような資料を提供くださったと、これにも敬意を表します。


 
全作家評(2012.09.26)
 全作家の評(「地鳴り」に対する)をHPで閲覧し、審査員各位がとても適切にアドバイスを送ってくださっていることを知りました。とても有り難いことです。やはり、日本語としてもっと完成度を上げること、人物をきっちり書き上げること、善人の域で止まらないこと(人間は、もともと天使の使徒のような綺麗な存在ではないのだから)について、掘り下げる必要がありそうです。
 これらの評の内容を出来るだけ多く、深く自分の糧にすべく努力し、今後頑張って行きたいと思うものです。


 
図書館(2012.09.25)
 必要があり、太宰府の市民図書館に行くのですが、やはり資料が少ないですね。まるでないではないのですが、質が淋しいです。
 もっとも、まだテーマに辿り着けずにおりますので、今は浅く浅く眺めているところです。それより、目的のものではなく、ひょっこりと他の本に惹かれたりすることがありますので、開架式ならではの楽しみはありますが。


 
励ましの言葉(2012.09.24)
 少し日がずれますが、全作家のHPにおいて、陽羅様から温かい励ましの言葉を頂戴しております。翌日、少しとまどい気味のメールを出しました。
 励ましを受けることなど殆どないことでしたので、どぎまぎしてしまったのは確かです。しかし、身に余ることで、本当に有り難いことです。感謝するとともに、心して頑張りたいと思うものです。


 
プリントアウト(2012.09.23)
 海の割付が終了し、それぞれ執筆者の確認を終えましたので、校正担当の方に送付します。そのためのプリントアウト(1冊分)を行いました。
 これを経て、発行の手順を一歩進めたいと思います。


 
作品へ(2012.09.22)
 作品の方に行こうと思うのですが、最近の現実のことの方がドラマチック過ぎて、文芸作品など嘘臭くて仕方がないではありませんか。
 とは言え、文芸と格闘すると決めたのですから、現実は現実として、作品の方にかからねばなりません。と言いつつ、文芸の世界にも、虚と実のことがくねくねと入り乱れているのではないかという感があるのですが。


 
海の編集2段(2012.09.21)
 海の編集のほぼ全てを終え、チェック担当者にデータを送りました。
 それにしても、ワードというソフトには悩まされています。一太郎が市民権を得ていないらしく、またメールを使っての編集としたため、担当者が細かいところをワードに振り回されるという変な巡り合わせになっています。
 日本語の縦書きの文章は、一太郎を使おう、というのはナショナリズムの一端になってしまうのでしょうか‥‥。


 
海の編集1段(2012.09.20)
 海の編集を終え、校正、チェックへと進みます。総頁122は、上出来ではないかと思われます。願わくば、小説の書き手が後3人はほしいところです。
 目を替えチェックを入れ、10月20日の発行を目指したいと思います。今回は、早くから割り付けなどを行い、深く読み込みました。もっとも、作品の善し悪しになると、時間があればよいというわけでもないのかもしれませんが。


 
文芸の今後(2012.09.19)
 海の今後については半年後ぐらいまでは見通せるのですが、その先にどんなかたちが待っているのかについては、残念ながら見えてくるものはありません。
 はたして、この世情の変化の中、文芸というものが残っていくものかどうか、わからないでいます。文化、文芸はたいへん重要なものではありますが、「遊び」だと揶揄されるように、実利的なものではありません。
 であるからこそ大切なものだと思うのですが、そのエネルギーが細くなって行くのが見えないではありません。それらは、ときが経過して行くのを待つという中からしか、真の行方は見えないのではないかと思われます。


 
海の編集?(2012.09.18)
 原稿の差し替えがあるとの連絡があり、作業を中断しています。
 今回思うことですが、やはり小説の書き手が後3人ほどは欲しい状況です。2人だけでは、どうしてもマンネリを打破出来ませんし、競争がないと緊張感が出てきません。仲間を集めきれない自分の資質が、反省事項にあがります。


 
海の編集(2012.09.17)
 ほぼ出揃ったと思える原稿を整理、全体の目次付け、レイアウトなどを行いました。予測どおり、120頁というところです。
 これからが編集の本番です。


 
海の原稿(2012.09.16)
 大方出尽くしたようです。約120頁になりそうです。
 これからは、目次作り→頁付け→資料作成→あとがき作成→最終校正→印刷依頼→ゲラ校正→発送といったおおまかなスケジュールになります。
 原稿を寄せてくれた同人諸氏に、感謝いたします。


 
変化(2012.09.15)
 棚田の話の続きというわけではありませんが、芸術も、文芸も、以前の美を称賛することに異議はないのですが、でなければならないとなると、話は別です。
 もちろん、文芸であるからには文章を疎かにするのは賛同しませんが、五七五でなければならないとかいう形式的なことは変化しても良い、と思います。早く言えば、変化しても、変化しなくても良いのです。要は中身でしょう。
 権威ある方たちが、ねばならないと言われるのは、本当に本当でしょうか。編集者とか、メディアの関係者が固執されるのは、本当に本当のことなのでしょうか。そうであるならば意見の出しようもないのですが、変化は起こり得る、変化せねばならない、と思うのですがいかがなものでしょうか。


 
他誌編(2012.09.14)
 送られてきた九州文学ほかを読ませてもらいました。多くの陣容を要しているだけに、(それだけが要件だとは言いませんが)余裕の編集であり、作品内容もゆとりを感じさせてくれます。
 海の場合は書き手が少ない故、内容がよければ大きく光ることになりましょうが、そうでない場合には、ゴミ箱行きになってしまうことでしょう。
 陣容の多寡については、今問題にしても仕方ありませんから、やはり作品内容で優れることでしょう。優れた書き手が真剣に取り組めば、3割方も、5割方も十分に伸ばしていけるものではないか、と考えます。


 
海編(2012.09.13)
 今号は、私が50頁ぐらいの原稿を提出、現在約100頁を数えるあたりです。
 多ければよいとは言えませんが、書き手が限られていますので、このあたりを推移するということでしょう。
 私の力では、なかなか人が増えるという気配がありません。
 ある意味では淋しいことですが、このようなマイナーなことですから、どなたにも無理に勧めるということにならないのが残念です。


 
掌編(2012.09.12)
 掌編をいくつか出さねばならないので、このところ数編に取り組んでいます。
 いきなり中心に入り込んで、少ない言葉で、深みのある作品を創るというのも、とてもやりがいがあります。難しい作品と言ってよいのかも知れません。
 当分掌編が続きそうですが、あくまで、100枚レベルの作品をコンスタントに書くことが出来る、というのが目標です。


 
小さな作品(2012.09.11)
 最近掌編作品が多く求められます。5枚だから、10枚だからと言って、決して優しいという訳ではありません。しかし、掌編を多く手掛けることは、物語のエッセンスに深く迫る経験をすることになり、とても良い課題練習になります。
 一方で、100枚、200枚という作品の構想をきちんと持ち得た上で、ということが望ましいことは言うまでもありません。


 
作品は(2012.09.10)
 作品は一朝一夕には成らず、の思い強しです。
 それでも、柱を立て、屋根の形あたりが見えてくると、勇気が出てくるのですが。図を書き、柱を立て‥‥のこの時期が、辛いです。
 3枚、5枚ときて、20枚あたりまでくれば、一挙に走り始めるのですが。


 
文芸作品(2012.09.09)
 文芸作品に夢中になっている場合ではないのかもしれませんが、これから他の分野を耕すのも気が進まないため、文芸作品に焦点を当てて行きたいと思います。
 文芸作品に焦点を当てる中、一点でもライフワークといえるものに出会えたらいいな、と考えます。もっとも、相当の精進を覚悟の上でのことですが。


 
海の作品(2012.09.08)
 海の作品を読み返したりしています。掌編も読み返しています。
 という作業をしながら、具体的な素材に沿って書く必要があるとの思いに至っています。いくつかを書き出し、まず図書館などで調べることから始めてみたいと思います。現在5つほどの柱を考えています。
 順調にいけば、いずれ海の作品にも登場する筈です。


 
海のHP(2012.09.07)
 海のHPの修正、整備などを行いました。
 見出しが見難かったのと、見出しを関連づけて整理しました。フロント面の文言の整理もしました。なかなか見てはもらえないHPのようですが。
 当方としては、資料替わりという意味もあります。当座のことは置いて、長い目で見て行きたいと思います。


 
同人誌なれど(2012.09.06)
 仲間内で発行する同人誌でも、いろいろドラマがあるのでしょう。
 人が出たり入ったりは、常のようです。同じ同人誌の中でも競争があるようで、なかなか作品化出来なかったり、問題はあるようです。
 メジャーな同人誌など、順番がなかなか回ってこなかったりと、メジャーであればそれなりの、海には海なりの問題があります。
 人間が創り出すものですから、やむを得ないのでしょうが。


 
同人誌でも(2012.09.05)
 同人誌も、発行に漕ぎ着けるのは難しいものです。
 次々に送られて来る同人誌をめくりながら、ここに至る間のドラマはなかったのだろうか、などと考えてしまいます。
 もっとも、考え込んでは何も始まりませんから、作業に打ち込んでいきますが‥‥だからこそ、冊子が成ったときは実に嬉しいものがあります。そこには、批評がどうのなどとは考えもしませんから、お目出度いのかも知れませんが。


 
入会問合せ(2012.09.04)
 この半年の間に、3件の入会問合せがありました。うち1件は、直接お願いし最初は断られたものの、3月ほど前に入会したいからとの連絡を受け、資料のやり取りをし、原稿60枚程度の作品を出す、というところまで話が進んだものです。同人諸氏にも事前了解を得、入会決定の連絡までして原稿の到着を待っていましたら、やはり書けない、入会もキャンセルにしたいとの要望があり、やむなく了承しました。
 こういう同人誌というものは、出入りが常に流動的で、マイナーな趣味(と言われる)の類なのでしょうから、無理な引き留めも出来ず、私の時代、人数が減りこそすれ、増えることはないのだ、と半ばあきらめかけています。
 同人誌のお世話は、外から考える以上に大変だということが、実際行ってみて初めてわかったのですが、その前に田舎からも遊びじゃないかとの強烈なパンチを見舞われたりで、なかなかうまくいかないものです。
 ただ、現同人諸氏は懸命に創作に励んでいますし、最近は、その原稿が送られてくることが奇跡のようにさえ思われてなりません。


 
海作品(2012.09.03)
 良い作品が寄せられつつあります。
 手書き原稿でしたが、打つ方もやり甲斐があるというものです。一定レベル以上の冊子の出来上がりを想像しつつ、励みます。


 
受贈誌(2012.09.02)
 受贈誌を読み終え、感想を送りました。
 永年短歌に関わってこられた方で、本当に深みのある内容の本でした。自費出版の自家版のようですが、こういう本こそ大切にすべきだと思います。
 新刊書の書架では求めることの出来ない、価値ある本です。


 
海編集作業(2012.09.01)
 海編集作業を開始しました。
 今回は、ワードの設定でトラブルがあり、早めに調整は行ったのですが、上手くいきますでしょうか。些細なことですが、多少気掛かりな点です。
 要は、作品の出です。私の分で50頁を予定していますから、100頁程度というところでしょうか。勿論、頁数だけの問題ではありません。


 
寄贈書5(2012.08.31)
 自費出版の本ですが、短歌に永年打ち込まれてきた方らしく、とても深く人間を見詰めておられます。生老病死、愛憎離苦に話は及び、それもしなやかな表現で、かつ古今のことに通じ、思いを馳せられます。
 この本などは、新刊書の棚を探しても見付けることの出来ない、感動を押し付けるようなものではなく、素直に胸に迫ってくる内容の本だと思います。


 
詩のリズム(2012.08.30)
 詩の方に向かおうとしているのですが、リズムに乗れません。
 散文と詩、詩と散文、この間の切り替えは、私には難しいものです。
 しばらく時間を要します。


 
寄贈書4(2012.08.29)
 約8割方の本を読み、感想などを送付しました。
 それぞれの方が、それぞれの工夫の元に書かれた本は、どこかに気付かされるものがあり、教えられるものがあります。
 同人雑誌作家といわれる私たちの仲間たちも、懸命の努力をしておられます。ここまで読むと、権威ある方々が「いわゆる同人雑誌の作品は」とか、「同人雑誌作家は」とか揶揄されることが、本気なのだろうかと思えてなりません。
 もちろんこれらは自費出版作品ですから、「自費出版作品など」と同じように揶揄されますが、これも本気なのだろうかと信じ難い気持です。
 話は変わりますが、研究者の出版など、税金でまかなわれる補助金の類が殆どですから、まだ自費出版の方が潔く思えてなりません。


 
寄贈書3(2012.08.28)
 今日は庭の作業に全力を注いだため、予定の本まで至りませんでした。
 寄贈書、たくさんいただいております。
 今から、また読むことの方に当たりたいと思います。


 
寄贈書2(2012.08.27)
 寄贈書の何冊かを読み、自分流の感想を書いて送りました。
 確かに、他の方の作品を読ませていただくということはとても刺激になり、自分の力になります。ただ、今は溜めすぎたきらいがあります。
 読むときはひたすら読みます。相手作者の懐に飛び込むつもりで、読みます。そうすれば、作者の息遣いなどが伝わってきます。ありがたいことです。


 
寄贈書(2012.08.26)
 寄贈いただいた本が多くたまってしまいました。時間を定めて、読ませていただきたいと思います。
 それぞれの方々が、精魂込めて書かれた本です。十分に味あわせていただき、私自身の今後の参考にさせていただきたいと思います。


 
同人誌作家(2012.08.25)
 昨日からのウィキペディアの続きですが、出版、WEB、メディア等々の常識では、同人誌作家や自費出版というものは、概してレベルの低いものとされていることのようです。
 賞暦や学歴のことでも、同じことが言えるでしょう。
 例えば「プロフィール」です。「A国立大学卒業」と賑々しく書いてあるかと思うと、本人が「B私立大学卒業」と申し出ているのに、これは一定レベルに至らない学校だなどという変な「常識」があるらしく、先方で気を利かせて学歴は空白になったりします。それは、本人だって学歴コンプレックスに悩んで来た経緯がないではないのですが、今に至ってはそんな常識を超越すべきだとの意味の申し出なのですが‥‥。
 特に学歴は、18歳頃の家庭状況や運不運等による結果であるし、たかだかこの100年に紆余曲折を経て定着した1つの基準に過ぎないのではないでしょうか。
 賞暦も似たようなものですが、そのあるなしで、しかもどのような賞であるのかで、態度が変わる作家もあれば、取材などする側でも対応が異なったり‥‥。
 話がずれましたが、作家と同人誌作家を分ける基準、それは受賞だの学歴だのと言った形式的なことではなく、実質的な作品の質においてどう区分するのか、ということを知りたいものです。まさか「売れるか売れないか」が基準になっているのだと仮定すれば、作家とは「編集者の思い通りになるロボット?」だということになりはしないでしょうか。世の中、金が支配しているのだとは言え、そうだとしたら「それらを度外視した大きな作品は、今の作家からは生まれ得ない」ということにもなりかねませんが。


 
同人誌等(2012.08.24)  
 同人誌や自費出版を見下す、という事件がありました。
 まあ、商業誌の態度はまさにそのとおりであり、メディアもその最たるものですが、ウィキペディアにおいて今回、それが発生しました。
 では、作家というものの定義は何でしょう。自社が開発した商品であり、うまく流通にはまり込んだロボット、とでも言うべきでしょうか。
 この世界、信じられない差別が横行しています。作家の中には、心ある方も多くあろうかと思われますが、「人を見下す」という態度を露わにする方々も多く、そういう御仁にはこの世界のことは何も見えてこないのではないでしょうか。
 「自分は違う」という意気は買うとして、世界の皮相しか見えていないのではないかということに、自問自答することなどないのでしょうか。
 その傲慢の元は、これまた世の中の上っ面しか見ない、いや見えない出版社や、メディアの方にありはしないか、と日頃思うのですが。


 
加入なし(2012.08.23)
 新規加入を承諾されていた方が、作品が書けないからという理由で、加入されないということになりました。
 こんな同人誌というマイナーなことより、オーソドックスな実生活の方を優先されるのでしょう。是非に是非に、と言えないもどかしさがあります。


 
レイアウト(2012.08.22)
 試みに、最近使っていないワードを用いて割付のレイアウトを試みてみました。ところが、ワードオプションのどこかを変更したのだったか、二段組みの字数が揃わないのです。突如、冷汗が吹き出しました。
 これが出来ないことには、割付が出来ません。ワードオプションを何度も調べ、原稿は一太郎に頼ることとして、字数、行数、ポイント等の全てを一太郎で整えた上で行うことにし、何度もテストを繰り返しました。
 ついでに、行末が揃っているかなども調べ、何とか先に進める状態になりました。もともと、ワードには抵抗があり、細かな設定が狂ったり、勝手に判断して段落をこしらえたりと難渋していましたので、その採用に不本意ながら踏み切ったのですが、PCにはワードが標準仕様だとかいうことで、ネットを用いての作業を行うには、多くの人が持っているワードを使わざるを得ないという事情が優先したということです。


 
わが作品(2012.08.21)
 海に掲載するわが作品を、確認整理しています。
 詩、俳句、エッセイ、小説と、約50頁分を予定しています。書き上げたばかりの作品があるにはあるのですが、どうしても旧の作品の方になってしまいます。
 どの作品がよいのか、自分でも見分けがつかない有様で、なかなか難渋します。私小説風の作品だと、とかくの問題がありそうですが‥‥。


 
作品群(2012.08.20)
 かろうじて作品を揃えつつあります。何と言おうと、自分の作品が一番進んでいないのですから、焦ります。地道にやるよりほかありません。
 同人誌向きのもの、そうでないものと、いろいろあります。数だけは多くあるのですが、やはり魂の籠もったものを発表する必要があります。
 この世界、入れ込んでいるのは当人だけで、力を込めていないものの方が良かったりします。選ぶということも、結構難しいものです。


 
中編(2012.08.19)
 書き放しにしていた中編をチェックしました。チェックという作業は、なかなか神経を使いますし、疲れます。醍醐味を感じるときでもあります。
 まだ、海への原稿が準備出来ていません。小説、詩、俳句、エッセイをと考えていますが、具体的な作業には入っておりません。
 手書き原稿の提出がそろそろ出てくる頃ですので、その対応もあります。意欲的な作品であれば、何事をも厭いません。


 
多忙(2012.08.18)
 1,000円カットに行ったついでに、BOOK OFFに寄りました。読みたい本が山ほどあるのに、今は書かねばなりません。
 このせめぎ合いです。書く方は、いくら時間があっても足りません。


 
集中集中(2012.08.17)
 熱い中ですが、乞われれば引き受けざるを得ない原稿に集中です。
 集中していると、曲がりなりにもやって行くことが出来るのがありがたいです。総力を挙げての作業ではありますが。
(付記)
文学街文庫「小・掌編作品選集」送られて来る。 


 
集中せねば(2012.08.16)
 期日がなくなり、焦っています。
 やらねばならないことが、山積みされています。期日がない‥‥これは怖いものです。ボランティアでさえこうですから、プロは如何に、と思えます。
 能力云々もさることながら、量をこなさねばなりません。周囲に迷惑をかけているのかもしれませんが、奮闘中です。


 
集中(2012.08.15)
 お盆期間、集中して作品のいくつかに当たりました。そうでもしないと、山積みになり、崩れてこないとも限りません。
 他の方々の作品、それぞれに工夫し、努力されたことがよくわかります。自分の感性に重なる作品に出会うと、掛け値のない喜びになります。
 そもそも作品を生み出すという、この創出するということに敬意を払うものです。何かを創出する、これは何事にも言えることでしょうが、一朝一夕にはいきません。創出しなくてはならない、創出しないではいられない、と場合はことによって異なるかもしれませんが、こうやって弛みない創出への努力があってこそ、車に乗り、電車に乗り、光を得、電話をし、コピーをし、美味しいものを食べ(例は挙げ尽くせません)‥‥のように、お陰をもって生かされているのでしょう。
 文芸の道も、創出の道です。厳しくもあり、楽しくもあります。


 
編集準備(2012.08.14)
 海の編集準備にかからねばなりません。
 今回は、手打ち原稿が3名分はある筈ですから、心してかからねばなりません。しかし、肝心なのは、わが作品です。どれを掲載するか、まだ決めていないのです。次々にいただく他誌への対応等で、自分の作品が一番後回しになります。
 全体の頁割りなども見て、自分の作品を足したり引いたりするのは、あまりよくない方法なのかもしれません。


 校正問合せ(2012.08.13
 全作家協会から電話があったので、びっくりしました。
 提出していた作品の校正のことでの問合せです。まさか、お盆期間はやっておられないのだろうと思っていましたが、そんなことではないようです。
 細かく読んでくださり、人名、表記の仕方等々でのお尋ねです。
 確か、ボランティアでやっていらっしゃる筈なのに、ここまでやっておられるんですね。親の心子知らず、とでもいうべく感動しました。
(付記)
文学街299号送られて来る。


 
受贈誌(2012.08.12)
 この数日、かなりの受贈誌があり、嬉しい悲鳴をあげています。
 それぞれの御厚志に、すぐに応えられないのが心苦しいところです。一応、受贈お礼のハガキを出し、HPに掲載し、感想を送る手筈にしてはおりますが‥‥。
 今、たくさんいただき過ぎて、最後の処理が進まないのが悩みです。
 こうやって、私宅へお送りいただいたお気持ちを無駄にすることなく、大きな励みとし、大切な資料として活用させていただくべく、努めております。


 
お盆(2012.08.11)
 戒壇院から尼僧に来てもらい、盂蘭盆会を行いました。
 心に残った言葉は、人は自分のうちに仏を宿している。仏とともに、生かされている生を懸命に生きましょう、ということでした。
 このお話は、まさに文芸の道に通じていると思いました。


 
校正(2012.08.10)
 校正依頼が送られてきて、予定を返上して作業に当たりました。
 校正作業は、とても疲れるものです。間違いがあれば発見し、修正しなければなりませんし、通し読みも必要になります。
 この確認の後に活字になってしまうのですから、神経を張り詰めねばなりません。たまたま、校正時用チェック項目なるものを作っていたのですが、役に立ったかどうか‥‥今後、慣れて行くことが必要なことのようです。


 
文芸考(2012.08.09)
 文芸が田舎に受け入れてもらえない、と「あんなことこんなこと」のどこかに書いたことでしたが、これは私個人の特殊事情によることかもしれません。
 街の多くの人々が、文芸に理解を持つのかと考えたとき、前段のような記述になってしまいました。文芸の類は、職場では禁句でしたから、ペンネームで書かざるを得ず、新聞に載ったりすることを極端に恐れたことがありました。それでも、小説を書いているなんて、なんと胡散臭い奴だという扱いを、始終受けて来たという思いがあります。これが、私の思い過ごしでなければ、ということですが。
 ですから、文芸に係わるということは、十字架を背負うような思いで歩くとでもいうべきことでした。身内からも、事実でもないことをそれらしく書かれれば嫌な思いをする、辞めてくれ、と言われ続けて来たことです。
 しかし、思うに、それらを過度に恐れながら続けていた自分がおかしかったのではないかと、最近思うようになりました。「よく見られようなんて思わない」「もっと、悪徳の部分まで掘り下げるべきだ」「人間とはどんな酷いことだってしでかしてしまう」と、これは作品の面であり、積極的に現実の悪に向かおうというわけではありませんが、「偽善者であるより、悪の方を望む。自分の心には、善も悪も同居して棲んでいるではないか」ということからです。もっとも、実生活の方はおくとして、作品内容としては、少なくともこの考えでいきたいと思うものです。


 
文芸(2012.08.08)
 昨日の話の中に、純文学の雑誌は2,000部も売れないのではないか、という話がありました。売れない→月刊が季刊になったりする→同人誌評がなくなるなど、文学全般へのカバーがおざなりになる→同人誌の面倒まで見ていられない→雑誌自体、出版社自体の経営が厳しくなる、等といった内容でした。
 いわゆる経済の論理で文芸のあり方も、評価の仕方も変わって行く、というのは頷けないわけではありません。
 こうなると、この経済の論理にあまりとらわれずに文芸を継続して行けるのは、自前で発表している同人誌になってくる、という話にもなりましょうか。
 世に作家といわれる方々の作品には触れつつも、同人誌の作者の作品にもハイレベルのものが多くある、というのはかなりの同人誌をいただいて、身近に感じることです。勿論、「いわゆる同人誌の作品」と揶揄されるものも、数的には多いものだとの自覚はあってのことですが。私なりにいわせていただければ、同人誌は玉石混淆の場であり、きちんとした認知をすれば、いわゆる作家や、評論家のレベルに達したり、あるいは越えたりする素材が埋もれている場だと思えてなりません。
 若者云々にしても、育てて売る必要がないのであれば、若者が居てもいなくてもそれほど関係ないのであり、あまりとらわれなくてもよいのではないでしょうか。


 
懇談会(2012.08.07)
 文芸思潮の五十嵐氏が来福されたのを期に懇談会が行われ、招いていただいたので出席しました。同人誌をどのようにもり立てていくかという内容であり、方法の一つとして、同人誌作品には「ハイレベル」のものがあるので、まほろば賞や銀華文学賞のように、同人誌作品を認知して行こう、という話には頷かされるものでした。
 それに先立ち、そもそも評価をどう行うか、どう行われるかが重要ではなのかという提議もなされました。
 若者をどう呼び込むかについては、入会者が多くあるというところを除き、努力をしているがなかなか思うにまかせない、というところが大勢のようでした。
 今回のように、コメンテーターの来福を得ての、同人誌の垣根を越えた懇談会というものは、とても有意義なものだと思われます。
 それにしても、五十嵐氏の精力的な御活動(昨日は広島の取材、9日は長崎の取材だということでした)には、いつも頭が下がるものです。


 
手書き原稿(2012.08.06)
 海の原稿締め切りについて、念のため案内状を送りました。
 寄せられる原稿には、3名の手書き原稿が含まれますので、その分をワープロ(ワード)入力しなければなりません。その他、旧ワープロ原稿の提出もありますから、いったんテキストファイルへ変換→ワードへ変換をし、それらの全てのデータ化が終われば割付をし、作者に校正依頼を行うというような手順で、編集作業を行います。
 他の方の原稿については、勝手に修正が行えませんから、付箋を付けたりして確認をお願いすることになります。結構手間のかかる作業ですが、役目上ベストを尽くさねばなりません。全国の同人誌の数十については、実物をいただきますので、それらから教えられることは多くあります。いうならば、果てのない作業です。


 
30枚(2012.08.05)
 ようやく、30枚の作品の完結をみました。20枚程度で放っていた書きかけのものを、少し補いまとめあげました。
 枚数はどうであれ、1つの作品が成るということは、喜びです。しばらくこのままで置き、日を開けて見直すことにする予定です。
 8月には、10枚と、100枚の作品を完成させたいと思っています。そう目的を明確にすることで、意識を整え、気持をコントロールします。


 
散文(2012.08.04)
 少しだけ散文の方のリズムに乗りかけています。
 しかし、まだ混沌としています。この文芸の世界は、単純な勝ち負けだけではないのだと思います。
 けれども、何をどう言おうと、作品を書かないことには始まりません。個の作業です。自分を一定のリズムに乗せ、書き継いでいかねばなりません。


 
詩人(2012.08.03)
 今日の西日本新聞の文化面「声を発した詩人たち」の記事には、頷かされました。「フクシマのあとに声を発しないことは野蛮である」ということです。
 文芸人、とりわけ詩人たる者についての記述、「四季の訪れや自然の変化を敏感に感ずる人間たちだ。その自然への鋭い観察能力はまた人類や地球の未来への危機や不安を直感してしまう予知能力でもある」は、まさに私のかねてから思う詩人像に重なるものです。詩人が、「人類や地球の未来への危機や不安を直感できないで何をする」というのは、私の拙い意見ですが。


 
停滞(2012.08.02)
 一つのリズムに入ろうとするとき、必ず停滞がやって来ます。
 これは、私の場合ですので、他の方々にはまるで当てはまらないことだろうと思われますが。私の場合、今、いつにない停滞状態にあります。
 最近「死の棘」を読んだのですが、ここには血の繋がりや家族故の苦しみがありますね。私の停滞も、内容こそ違え、血縁から来るものですから、厄介です。


 
愚人の心得(2012.08.01)
 愚人には近付かないこと、という賢明な策があります。
 では、愚人の方はどうすればいいのでしょうか。偽悪の勧め、悪の勧め、と尋常ではありませんが、これはあくまで「作品の上」での話です。しかし、悪を知るには、悪に染まらねば? などと、堂々巡りが始まります。
 ブンガクが、実際の人格の陶冶に参画するにはほど遠いものと理解しても、生々しい人間臭さを出す方向にはアジャストし得るものと思われます。これをどう考え、取り組むのかということでしょう。ブンガク、これはやはり厄介な存在のようです。


 
愚人(2012.07.31)
 ブンガクをやる者は「愚人」だと言われます。
 本人たちも、愚人の素質を大なり小なり持ち合わせていますので、その方向に行くことはあまり問題のないことだと思われますが、周囲がこの愚人を許さないという動きに出ることが考えられます。
 生まれ持った愚人の素質を、羽を毟るように押さえ込むこともありましょうし、愚人のなすままに踏みにじられるということもあり得ましょう。
 いずれにしても、ブンガクをやるなどと言う輩は、問題大のようです。こういう輩には、近付かないことが最良のことかと考えます。


 
書く5(2012.07.30)
 いま一つ、やはり人間を書くということを外してはならないのだと思われます。私の持論の中に、「生命とは、人間だけにあるものではなく、新羅万障全てにある」というものがあります。ですから、作品中にどうしてもその考えが顔を出し、ややもすると「人間否定」の表現をしてしまいがちですが、それはそれとして、人間である私が、人間であるがために侵さざるを得ない悪もある、といった考えを抱きながら、やはり「人間の作品」に向き合わなければならないのだ、と考えます。
 いくら、人間である自分を卑下し、否定してばかりいても、人間をやっている以上、「人間による、人間の作品」を書かねば始まりません。
 今に及び、とんでもない当たり前のことを書いてしまいました。


 
書く4(2012.07.29)
 作品は、善なるものばかりを用いるということでは、その深みが出ないということです。分かったような分からないような言いまわしですが、作品が道徳の域にはまったままではダメである、というのが創作の根源をなす要のようです。
 作品ですから、悪も、偽悪も当然の如くに用いないでは、その反対も浮き上がらないのだと言います。「死の棘」を読んで、ここまで深い傷を負わねば、魂を揺すぶられるような作品は生まれ得ないのか、と怖れ入ったことです。
 誰かが、文芸人のことを「愚民たれ」と言う言葉で表現されました。自らを正とし、善とし、高みから見下ろしているだけでは作品は成らず、そこには豊かに実るものは少ない、と言うことなのでしょうか。
 親鸞らが、俗に交わり、自らも俗人として生活して行く中で見えてきたもの、このあたりが文芸作品に通じる要点ではないでしょうか。


 
書く3(2012.07.28)
 文章を書くということの中身は、100人100様でありましょうが、やはり才能と、感性に優れた人たちがおられるのですね。その土台の上にあって、さらに努力、研鑽を積めば、その力はより傑出した結果を生み出すという訳でしょうか。
 そんな仕組みを知ってか知らずにか、そういう過程の中からよい作品は生まれるということのようです。文芸作品の場合は、実に孤独な、この「個」の作業の捏ね方、積み上げ方を泥にまみれ会得した上で、「さりげなく紬ぎ出す」1行1行が、膨大な作品の質、量を生み出す元になるのでしょうか。


 
書く2(2012.07.27)
 全作家の作品を読んでいると、よくも書ける人がいるものだと思います。技量を上げるには、やはり多くの目に晒されるという経験が必要なのでしょう。
 私も、海では大胆に表現できても、全国レベルでとなると、少し怖じ気が顔を覗かせます。この全国レベルに達するには、私の場合、もっともっと厳しい鍛錬が必要になってきそうです。その前に、「これを書くのだ」という芯なるものがあれば、なお良いのではないかと考えます。そして、「読んでもらうことを意識する」という、普段からの心構えが大事だと思われます。


 
書く1(2012.07.26)
 私の場合、書くモードに入るのに、かなりの日時を要します。
 在職時など、日曜日の21時過ぎぐらいからやっとその入口に入ることが出来ましたので、1週間のうち3時間程度しか許された時間がありませんでした。
 では今はというと、このモードがやって来るのは以前と変わりません。ただ、翌日が出勤日ではないという救いはありますが。
 材料があってもなくても、理屈で書くわけではありませんから、モードに入り、一定の持続が必要です。「創作」というものには、アマチュアの作品と見なされる私たちの作品の場合でも、身を削ぐような緊張と努力が必要です。


 
書く(2012.07.25)
 読むことも根気がいりますが、書くとなると別物です。
 下書きはあるのですが、気分が入って(乗って)くるまで、時間がかかります。こんなことなら読む方を続けておけばよかったと悔やむくらい、書けないときは全く書けないものです。もちろん、これは私だけの現象であるのかもしれませんが。
 昨日、同人誌の作品のことで手厳しいことを書いてしまった手前もあり、力んでしまえば尚更書けなくなります。
 私自身の書くことの方はしばし時間を置くとして、同人誌の作品も、当然のことながら気を抜くことなく、どこにでも通用するような作品に仕上げねばなりません。そこに至る過程は、生半可なものではないかもしれませんが、高いものを目指さねばならないと思います。何の作品であれ、作品は作品ですから。
(付記)
 文学街298号受領


 
読む9(2012.07.24)
 既成作家の作品を一時中断して、同人誌の作品に移ってみました。
 と、どうでしょう。これまで同人誌の作品だけしか見ていなかったため見えなかったのか、やはり巷間で言われるように、自分勝手流とでもいうのでしょうか、イライラが募ってきます。レベルが低いとは言わないまでも、商業誌のように多くの厳しい目が見詰めていないせいか、誤字、大仰な形容詞の多用、文章の弛み、切り口の甘さ、てにをはの誤りなど、初歩的なことで躓いてしまいます。
 これでは、どんなにすばらしい内容を持つ作品であっても、ページを繰る気持が萎えてくるのは否めません。同人誌作家も自分が自分を甘やかすことなく、プロ意識を持ち、相手によりよく伝えようとする十分な工夫の必要を感じました。
 同人誌作品がいかにも、というふうに見下されるのは、同人誌側にも原因を持たない訳ではないだろう、と思える次第です。


 
読む8(2012.07.23)
 I氏から恵贈を受けた「島尾敏雄」を読み終え、感想を書きました。
 文学とは、何故にここまで自分のことを赤裸々に書くのか、ということです。それが、島尾文学の場合、贖罪と妻の癒し(本人も含めて)を求めてということのようですから、あの鬱陶しい「死の棘」は成り立つのですね。
 それでは、夫婦の諍いに巻き込まれた子供はどうなる、と考えた場合、この作品はやはり酷なものではないでしょうか。
 同様のことに私たちも出逢うわけでしょうから、文学表現と、作者を取り巻く関係のことは、どうしても問題として残るように思います。作者が何を、どこまで表現出来るか、深く思いをいたさねばならないことのようです。


 
読む7(2012.07.22)
 I氏から恵与いただいた「島尾敏雄」を読んでいます。
 実に丹念に、島尾敏雄の「死の棘」やその背景について書いておられ、今日中に読了するつもりが、まだ半分というところです。
 それにしても、島尾敏雄の書くものは何と鬱陶しいものかと思っていました。しかし、そこには特攻隊長として華やかに死ぬ筈だった島尾の、そして村長の娘ミホの、死に遅れたという挫折が、黒雲の如き問題をもたらします。つまり、生き行かねばならなくなったための世俗的な生活の苦と、愛憎の入り交じった呪詛にも似た祈りとが、連綿と底に流れている故なのでしょうか。


 
読む6(2012.07.21)
 龍之介の、蜘蛛の糸、在阿呆の一生、侏儒の言葉、ときました。
 龍之介が生きた大正12年には関東大震災が起きており、地震や洪水などの頻発する様が描かれていますから、現代と変わらない混乱した世相にあったことは窺えますが、現在ほどの切迫感までは伝わってきません。
 それは、龍之介の知性によるものかも知れませんが、まだ原子力というような自らを滅ぼしかねない物騒なものは出来ていなかったからかも知れません。
 龍之介をよくよく読めば、宇宙の仕組みや、地球外にも生物生存の可能性があるのではないかとか、現在の私たちが直面していることを、ちゃんと考えているということを知り、とても近しい思いになりました。


 
読む5(2012.07.20)
 龍之介を読んでいます。これまでに、鼻、芋粥、トロッコ、舞踏会、蜜柑、河童、地獄変、羅生門、藪の中、奉教人の死、歯車ときています。
 納得しながら、読んでいます。読むにつけ、わが浅知恵が嘆かわしくなります。


 
読む4(2012.07.19)
 龍之介作品に集中しています。面白い発見だったのは、これは私の勝手な思い違いかもしれませんが、「全然」という言葉は、1)後に全否定の内容が続く、2)俗語として、後に否定の内容ではなく、肯定の内容がくることがある、ということは知っておりましたが、文章では1)は使われるが、2)はないのではないかと思っていましたら、龍之介の「芋粥」の一節に「彼等は、それを全然五位の悟性に、欠陥があるからだと思っているらしい。」という地の文があったので、驚きました。「羅生門」にも、「下人は‥‥老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているという事を意識した。」とあります。
 TV等で、「全然‥‥良い」という表現が、タレントなどにより発せられるのに違和感を抱いていましたが、龍之介まで使っているのだと、私だけの驚きかも知れませんが、発見がありました。


 
読む3(2012.07.18)
 読むことによる充実感を、かなり実感できるようになりました。
 もう教科書の字句の中に埋もれ去っていたと思い込んでいた作品が、血の通った、とてもよい作品であるということがわかりました。
 教科書には、その代表的な部分だけが抜粋して掲載されており、そこがまた試験問題としてよく用いられることで、先に敬遠してきた向きもあります。
 小説は小説。やはり、作品として通して読んでみることが大切ですね。


 
読む2(2012.07.17)
 懐古趣味にふけっているわけではありません。私の空虚な土台を、少しでもましなものに出来たらと、明治からの作品を読むことにしました。
 漱石、鴎外と読み進んでいますが、これらの作品がちっとも古くない、と思うのです。さすがに漱石、鴎外は権威があるなどとは言いませんが、その設定の巧みさ、人間描写の巧みさに、唸らされます。
 最近の受賞作品のわからなさ、というのが私にはあるからですが。


 
読む(2012.07.16)
 読む。黙って読む。つべこべ言わずに読む。これだけを課しています。
 どうなり行くか、などは後で考えることにします。


 
船中読書(2012.07.15)
 壱岐往復の船中も、生かしようによっては読書の場になります。時化であまり根を詰めるのが苦しいことと、人出の多さに多少気持を削がれながらですが。
 前日の島尾敏雄「死の棘」に続いて、松本清張の「在る『小倉日記』伝」(短編6編)を読みました。食わず嫌いだった清張作品ですが、キリリとしまった短編作品に、なぜ今まで触れなかったのだろう、と思ったことです。


 
山気(2012.07.14)
 海の作品の傾向ですが、かねてから思うことは山気が多いのかな、ということです。他誌に多い、日常を丁寧に観察し文章に連ねるということより、一人の人間として斯く表現したい、という姿勢を強く持つということです。
 それは誰が仕向けたのでもなく、自然と積み上げられた傾向だというほかはないのでしょうけれど。海が、かつて、強烈な意見の応酬の場であったことを知る同人も数少ないのですが、自然とその空気を感じ取るのでしょうか。
 海には、よくも悪くも、老人がいません。これは、実年齢のことではありません。荒木氏、柿添氏、山口氏、織坂氏など、そこらの若者よりも気合鋭く、異性好きでもあり、意欲満々の、まさに山気多い面々でした。
 他誌には、堅調な作風で高い評価を得ているところもありますが、海の場合、この自然に覚えた山気のため、評論家諸氏からは厳しい評価を得ている面もなきにしもあらずと考えています。かと言って、自分本位の作風に「堕して」しまってはいけないことですから、文芸作品としての中での表現という線を外してはならないものです。


 
読書メモ(2012.07.13)
 陽羅氏の「絶対文感」に触発され、とにかく自分の欠けているところはまず読書であろうとわかってきましたので、読書に最大の比重をかけることにしました。
 また、読んでもなかなか理解が出来ず、忘れることも早いため、備忘録としての個人読書メモをこしらえることにしました。
 とにかく、黙っていて何かが天から降ってくることはないと肝に銘じ、一番遠回りだと思われる読書に掛けてみたいと思います。


 
読みことを(2012.07.12)
 あまりにも欠落している読書量と内容。そのことに改めて感じ入る次第です。さてと、幾冊かの本を積み上げてみても、読むスピードの遅さ、時間の足りなさに、暗然としてしまいます。いったい、何十年を無駄にしてきたのか。
 島尾敏雄の「詩の棘」を図書館で借り、読み始めましたが、文庫本で500ページを越える作品。これまで読まず嫌いのまま済ませてきましたが、どっこいそうはいかないようです。今中途ですが、さすがに読み始めると素晴らしいの一言。
 基礎や土台がなくて、いくら新しいものを作ろうとしても、新しいものを生み出す力が出てこないのは当たり前で、当分読み込むことを専一にしないといけないようです。


 
読み書きの速さ(2012.07.11)
 陽羅氏の読書量、執筆量のあまりの膨大さに、つい、読書などには特別な秘訣でもあるのでしょうか、と間抜けな質問をしました。
 すると、「誰よりも読書時間、執筆時間を確保しているから」との返事をいただきました。私のような素人の読書、執筆とは質が違うのは当然かと思われますが、「誰よりも努力しているから」との言葉には頭が下がりました。
 そういえば、スポーツの世界でも、抜きんでた成績を上げている人は、他の誰よりも努力している人であるという話を聞いたことがあります。
 飛び抜けた能力がある→誰よりも練習をする→飛び抜けた結果を生む、という関係は文芸や芸術の世界でも生きているようです。陽羅氏を見る度に、そう思わないではいられません。私も、一歩、一歩を踏みしめて行きたいものです。


 
古本屋(2012.07.10)
 古本屋で、1冊80円の本を40冊近く買いました。
 夏目漱石、川端康成、谷崎潤一郎、坂口安吾、辺見庸、伊藤桂一、山本有三、松本清張、大岡昇平、吉岡忍、中島敦、梶井基次郎、石川達三、武者小路実篤らの、これまでに表紙だけは何度も眺めたことのある作品ばかりです。
 島尾敏雄らは探しきれなかったので、図書館の方にまわりました。
 こうして、深く読みもしなかった作品が、一挙に目の前に出てきました。陽羅氏の影響からですが、わが無知を今更のように思い知ったことです。


 
絶対文感(2012.07.09)
 絶対文感を絶対読むぞ、と腰を入れています。
 読んでいたら、古本屋にも行きたくなりました。1,000円カットにも行かねばならないので、ついでにBOOK OFFを覗きに行ってみようかな、と思います。そのための索引ノートも作りました。
 明治文学全集にかつて親しんだこともあったということが、少し意味をなしてきているのかも知れません。


 
読むには(2012.07.08)
 読むには指針があった方がいいわけで、陽羅氏の「絶対文感」を見返していたら、出てくること出てくること。書き出して、ノートに写しただけで、溜息が出ます。
 100人はゆうに越えています。これらの作品を読む? クラクラします。氏は、これらの作者の全作品を読み込んだ、ということです。それも漫然と読んだというわけではなく、徹底的に読み込んでおられる。どうしたら、ここに近付けるだろうと気が遠くなりそうです。氏は、年に1,000冊は読まれ、日本で1、2の読書量を誇るという方です。そして、書かれる量もハンパではないです!


 
読むこと(2012.07.07)
 読むことは大事と、漱石を中心に読んでいます。やはり、筆捌きが違いますね。100年前の情景や話とも思えない、近しさを覚えます。
 私には、読むことが情けないほど出来ていませんから、急いで取り込もうとしますが、一朝一夕に出来るものではないですね。幼時から19歳までの間、書物を遠ざけられたということを、どう打開していくか、大きな課題です。


 
僻まず(2012.07.06)
 何かを書けば、僻みごとのようになります。
 文芸は、自らが表現し、作品として作り上げていくものですから、本来評価など気にしていないものです。そのことを忘れていては、無か有を生み出すという神聖な仕事に加わることは出来ません。
 無から有を生むということ、この行程と結果をもって足りる、と言い切ってしまうべきことかも知れません。


 
文芸拾遺4(2012.07.05)
 若ければいいという風潮があるかと思えば、モノを言うのは?十年早い、とかいうことが文芸には混在しています。
 前者は、散文、詩などに多く、後者は伝統を重んじる俳句などに多いようです。作品の内容に年齢がなぜこう取り沙汰されるのか、私にはよくわかりませんが、前者の方は「売り出しのキャッチフレーズ」にでも用いられるのでしょうか。
 芸術は幼い頃から親しみ、磨く、ということは大事なことと思われますが、AKBのような新人発掘の要素が絡んでくることは、否めないもののようです。


 
文芸拾遺3(2012.07.04)
 狭い地域でのコンテストについて、以前から感じることがあります。
 それは、地域には地域の文壇らしきものがあり、そこでは応募者の顔や素性までわかってしまうことで、何かの拍子に、1度でも目を付けられたりすると、何があろうと浮かび上がれないという状況に陥ったりします。
 文芸にも政治力が、と思わないでもありません。
 文芸が、社会生活にいかほどの影響を与えるものかわかりませんが、この閉ざされた文芸の世界にも政治を持ち込む風潮があり、幅をきかせているのだと思わないではいられません。


 
文芸拾遺2(2012.07.03)
 メディアにおける文芸の扱いを眺めていると、ここにも賞歴と学歴が幅をきかせているのだ、と思わずにはいられません。
 高名な賞を得た作家にはどこまでも訪ねて行き、大きな記事になります。また本人紹介経歴に、特定大学以外は学歴を省略するという奇妙な約束があるようです。
 それらは著書にも言えることで、一定の賞歴や学歴がないことには、信用の問題にもなってくるのでしょうか。
 要はニュース性なのだろうと思いますが、メディアが先陣を切って差別を助長していることを、どれだけ理解してのことでしょうか。
 メディアが全ての生殺与奪の力を握っているのだとは考えませんが、この狭い文芸の世界にも連綿と引き継がれてきた格差と差別は、生きているようです。


 
文芸拾遺1(2012.07.02)
 N様が言われるように、世間に文芸の占める度合いや影響は、極めて少ないものだと思われます。私たちが、この狭い趣味的な世界にあって、「出来る、出来ない」、「分かる、分からない」などと言い合っていることも、人々の生活とはかけ離れているものでしょう。ここを押さえておかないと、どこにあっても(狭い地域にあっては特に)、小理屈の言い合いに終始するだけになりかねないでしょう。
 作品が素晴らしいとか不出来だとかを並べ立てても、その根本になる柱が屹立しているのならまだしも、あいまいなその場の雰囲気に引き摺られたり、勝手な好き嫌いを押し付けるという手合いの話では、始まるものも始まらないでしょう。
 文芸が文芸として機能し得るのは、文芸に係わる者の研ぎ澄まされた神経が、世界や周囲の何かの異変をキャッチしたり、何かを発見したりすることに、係われるかも知れない、という極めて限られた点にあるのだと思われます。
 芸術や、芸術家の役割とはそういう異能を発揮することがあり得る(かも知れない)、ということにかかっているのではないでしょうか。
 野や空が美しく、山や水が綺麗で涼やかだ、長閑だ、という向きもおおいにあり得るでしょう。しかし、今の世界は花鳥風月の世界に陶然と遊べるような、麗しい空気が漂っているユートピアには見えません。もちろん、私見ですが。


 
良い作品(2012.07.01)
 良い作品というものは、普通の人が読むことが出来、その中に「こんな発見があるんだ」とか、「こんな見方もあったんだ」とか、「こんな複雑なことを、こんなにシンプルに表現出来るんだ」というあたりにあると思います。
 反対に、「これ見よがしの作品」、「どうだ偉いだろう」的な作品には嫌味を感じこそすれ、感動はしません。
 このことは、私自身の作品にも言えることで、反省しつつ、一歩でも向上することが出来るように努めたいと思います。
(付記)
 全作家第86号送られてくる。


 
分かりやすい作品(2012.06.30)
 一晩考え、これからは、小説によらず、詩によらず、「分かりやすい作品」を心掛けることを目標にしようと思いました。
 分かりやすいと言っても、一から十までを書くのではなく、せめて七ぐらいで収め、読者に判断を委ねる、というあたりが芸というものではないかと思いました。全部が全部を言い尽くしてしまうということでは、論文になりますから。


 
海の理念(2012.06.29)
 海の考えは、極めてシンプルです。表現し、それを(現在)年に2回世に問うということと、うたっています。
 我が儘な作品、我が儘な表現だと見られる向きもありますが、右や左を気にしてばかりいては何も始まりません。
 前主宰の言にある、「自分が信念をもって書いたものが作品だ」という言葉は、けだし名言であります。このあたりが、海は我が儘だと、また言われる所以であるのですが。しかし、この信念は、海にはしっかり根付いています。


 
詩は(2012.06.28)
 詩は分からない。特に現代詩は分からない。(懐古趣味はありませんが。)
 書棚の作品集を読んでみても、さっぱり胸に響かない。(これは、純文学作品と呼ばれる小説作品にも言えることですが)こんなに分からない作品を並べてどうする、と言いたいところですが、「分からないのはお前だ」とくるのがオチでしょう。
 海には、分からない作品も、分かりやすい作品も、全部並べますから、こういう心配はせずともよいことです。
 まあ、文芸には文芸の表現方法や約束らしきものがあるので、分かる、分からない論はいたし方ないのでしょうが、「公序良俗に反する作品」、「特定の集団の宣伝に使おうとする作品」等以外は海には掲載しますので、深く考えないことにします。
 要は、「上手い、上手くない」ではなく、「心を打つか、打たないか」の方に重点を置くことではないでしょうか。無論、そこにも議論が発生しましょうが。


 
作品の書き方(2012.06.27)
 作品の書き方と一口に言っても、これほど難しいものはないでしょう。
 たまたま、「坊っちゃん文学賞を取る方法」というものを読んでいましたら、これだなあ、というものを見付けましたので、私の「文章あらかると」から見ることが出来るようにいたしました。「‥‥賞の取り方」ということだけに限らず、「作品の書き方」の事例として、とても参考になるものだと思われます。
 もっとも、「文章の書き方」については、多くの方々の「文章作法」が出されていますし、尊敬する陽羅氏の「絶対文感」もまさにそうなのですが、上記がコンパクトにまとめてあり、私自身頷くところが多でしたので、座右に置き、例示として読みながら、その意味を常に考えていきたいと思うものです。 


 
プリンタ(2012.06.26)
 作品を書いて修正する場合も、完成原稿を打ち出すときもプリンタが必要です。5,000円程度のプリンタを用いていますが、これがなかなかの優れものです。印字の質もよく、スピードも遅くない。カラー印刷も出来る。スキャナー取り込みもOKということですから、在職中に使用していた業務用に遜色ないものです。
 ただ、インクの消耗が早いのが難点ですが、カラープリンタ、なかなかですね。互換用インクというのも出ており、半値なのですが、まだ尻込みしています。


 
書き物(2012.06.25)
 書き物をしていると、調子が出てくるのが昼過ぎからになります。午前中は、思考がうまく定まりません。これでは時間が無駄ですので、昼間に医院に出掛けたり、雑用を済ませます。手紙を書くのも、この時間帯です。
 書き物も本当に調子が滑らかになるのは、夕方からになりますから、どうしても夜更かしが過ぎることになります。しかし、夜遅く書いた物には、感情がこもり過ぎる気がありますので、昼間の時間に必ず見直しを行う必要があります。
 見直しは、昼となく、夜となく、何度も何度も行い、文章を叩いていかねばなりません。書き物というものは、「たかが書き物、されど書き物」です。


 
全作家短編集(2012.06.24)
 全作家短編小説集第11巻が送られてきました。25編が収められています。
 各位の実力のほどは、先の掌編小説集でも十分知るところですので、読むのが楽しみです。5枚の掌編といい、30枚の短編といい、それぞれの高い能力と、上質の筆遣いは、やはり素晴らしいものです。
 海のHP、私のHPの微修正を行いました。できるだけわかりやすく、という観点からです。せっかく訪問していただいたとき、何がどこにあるのかわからない、ではよくないだろうと思ったことです。
 話は変わり、現代詩というものが何とも苦手です。暗喩だのなんだのの技巧かもしれませんが、何故に、「わざわざ分かり難く書くのかが‥‥わかったようでわからない」という、幼稚な疑問がいつも私の内を巡ります。
 だから、誌が書けないんだ、と言われればそれまでですが、このあたりは、「宙空のリズムがそうであるから」とか言うことであればわかりますが、「人間業でのヒネリ」過ぎというものであるなら、疑問符のままです。


 
海入会(2012.06.23)
 先日来やり取りをして来た方が、入会の意向を示されました。まあ、9月にならないと確定はしませんが、大歓迎するものです。
 小説も、詩も、エッセイも書ける方ですので、海のカンバスを用い、自由な絵(作品)を書いていただければ、と希望するものです。
 8月7日には、I氏を囲み、福岡地区の同人誌の方々との懇話会が開かれるとのことです。こういうふうに、横の連絡もしていけば、それぞれの誌を作る上で参考になり、全体のレベルアップにも繋がることだと思われます。


 
海のHP(2012.06.22)
 海のHPを少し修正しました。他の同人誌も、積極的にHPの作成、工夫をされているようです。
 これは同人誌のHPではありませんが、さる掲示板に「同人誌のものは書き物であって、作品になっていない」との書き込みがありました。そうなのかもしれませんが、では作品とはどんなもので、何を満たしていればよいのだろう、と思います。まさか、売れるとか、売れないとかいうことが問題であるのではないだろう、とは思うのですが。
 同人誌の作品には雑多な内容があり、よって高齢化だ、支持が得られていない等の指摘もあろうかとは思いますが、「売れる、売れない」が最大の問題だ、ということであるとすれば、授賞式でのあの傲慢な言い草が、空しいものに思えてなりません。


 
わが作品(2012.06.21)
 わが作品のどこに決定的な欠陥があるのか、近くわかりそうです。指摘いただけるということ、楽しみです。
 わが作品の見直しを行っていますが、上記の指摘を受け、そのポイントを知り得た上で行えれば、少しは良くなっていくかも知れません。


 
絶対文感(2012.06.20)
 この際、絶対文感を極めてみたい気がし始めました。と言っても、簡単なことではありません。まともに向かうと、数十年は必要でしょう。そこはそこ、エキスの部分は上手に手引き書として活用させていただいて、読み込むことに腰を入れてみたいと思うものです。ただでさえ独りよがりの、勝手な作り話に悦に入ってきたのですから、骨格の部分の立て直しに、是非とも必要だと思えるからです。
 これほどの宝の山を、遠くに眺めるだけではもったいなさ過ぎます。


 
漱石(2012.06.19)
 こころを読み終えました。うーん、これは名作ですね。心理描写が上手い。次のページを繰らせる楽しさがあります。こうでなくちゃいけませんね。
 それにしても、明治の末を書いているこの作品ですが、都会と田舎のことが書いてあって、都会の方は置くとして、田舎の人々の考え方にかなりふれてありますが、平成24年の今のわが田舎と、明治45年の田舎の考えが同じだということに驚きました。
 つまり、次のような台詞が語られます。
(1)田舎の人は世間が狭く、その地域での風評ばかりを気にする。
(2)広い世界を知らず、広い世界での生き方というものに無知である。
(3)学問をさせれば、子供は田舎には帰ってこないと嘆く。
(4)田舎の家は動かすことが出来ないもの、と当然のように思っている。
(5)学校を出れば、相当の地位が得られるものと思っている。
(6)少なくとも自立してほしい、と願っている。
(7)「昔の親は子に食わせてもらったのに、今の親は子に食われるだけだ」


 
こころ(2012.06.18)
 坊っちゃんに続いて、こころも読み出しました。こうやって読んでみると、漱石の筆致は現代にも通用し、私たちが文章を学ぶ上で無視出来ないと知りました。というのも、お粗末な話ですが、陽羅様の絶対文感にあまりにも多く漱石や鴎外等が登場するものですから、これを見過ごすことは出来ないな、というわけです。
 考えてみれば、私も明治の文学全集がはじまりのはじまりですから、この際、初心に返るべしというシグナルであるのかもしれないと、遅まきながら気付かされたというわけです。


 
坊っちゃん(2012.06.17)
 体が辛いので、読む方に専念しました。それも、漱石の坊っちゃんです。これまで、漱石の何を読んでも読み続ける気がしなかったのですが、久しぶりに読む坊っちゃんは良かったです。
 というより、これまで教科書で、最初の無鉄砲な場面ばかり読んで済ませていたのでしょう。漱石はやはり面白い、というのが月並みですが、感想です。


 
入会希望(2012.06.16)
 久しぶりに、本当に久しぶりに、海入会希望者がありました。
 入会の条件などまとめ、急いで書き送りました。もちろん、御本人の考え次第ですからこれがどうなるものでもありませんが、是非入会してほしいものです。
 HPの入会説明を作ったはいいものの、少々厳しすぎる文言になっているのかも知れず、それ以降全く希望者が現れないことに気を揉んでおりました。
 同人誌に人数が集まればいいというものではないのですが、どうしても一定の数がないと成り立ち難いのも確かです。レベルの高い同人を、とまではいかなくても、お互いが刺激し合える仲間がほしいということは、言うを待ちません。


 
絶対文感(2012.06.15)
 陽羅様の絶対文感を読み返しました。
 このように、文学について、熱っぽく、縦横無尽に語った文章は他に例をみないものと思われます。私はいつでも読めるから、と迂闊にしておりましたが、何度も何度も読み返すべき文章のようです。
 意識化、徹底化、異化の「小説三化」については、まだよく理解できておりませんが、四字熟語といい、陽羅様の「日本文学全集」といい、北上行山論といい、視点が豊富であり、自在であり、実に教えられることの多いものです。
 とにかく、50年の間、日欧を問わず、文学書を中心に、驚くほどの読書を重ねられ、映画や芸術一般にも通暁され、何よりも毎日書き続けられている(おそらく、数百編にのぼる小説作品や評論などを中心に)ということに、度肝を抜かれます。
 恐るべき方がおられるものです。


 
毒を(2012.06.14)
 以前、私の作品には毒がない、と言われたことがあります。
 確かに、相争うようなストーリーや、極端に質の悪い人物を登場させないように心掛けてきましたが、これがよくないのかもしれません。
 ペンを武器にしない、という方法も、この世界ではもの足りないのかもしれません。要は作品ですから、それほどまでに登場人物に拘らず、善も悪も、白も黒も、上手に用いることが不可欠なのかもしれません。
 これからの課題として、考えていきたいと思います。


 
2大同人誌(2012.06.13)
 今日は、全国で最も多い550人もの同人を要するといわれる東京の「文学街」と、九州で最も同人数の多い「九州文学」が届きました。
 それぞれが、特徴を生かした活発な活動をされており、文学街では文学街文庫なるものを発行し、読者賞なるものを設け、「同人誌に明日はあるのか」という企画で広く意見を問いかけておられます。
 九州文学の方は、九州各県を中心に100人を超える同人を要し、九州の先人の功績を称えながら、現構成員にあっては、全国にも影響を及ぼすべく、作品のレベルを上げようとの工夫がなされているようです。


 
続無沙汰(2012.06.12)
 体調が思わしくないと、書くことも、読むことも、うまく進められないのだなと思いました。喉が痛く、肩が凝り、倦怠感があり、胃腸が今一つとくると、といっても、これは私の慢性病なのですが‥‥漱石などを読んでいたら、眠くてたまりません。
 文学・文芸って、こんなに眠くなるようなものだったのかしらん、と自信喪失気味になり、とうとう風邪薬を飲みました。


 
御無沙汰(2012.06.11)
 最近、御無沙汰続きです。花逢忌、南風忌、文化協会、詩人会‥‥予定が組めない状態が続いていますので、申し訳ないことです。
 それでは、と作品にと気持を切り替えるのですが、そうそう右から左へと行かないのがこの世界です。
 外は雲が重く垂れ、ときおりパラパラときます。気も重く、体も重く、すっきりしません。しかし、芸事です。誰のせいにも出来ません。厳しい世界です。


 
文芸漫遊記(2012.06.10)
 文芸漫遊記の1話を終えました。
 今回のは緒論とも言うべきで、折りがあれば今少し突っ込んだものも書いてみたいと思いますが、あらすじだけは書いたつもりです。
 自分の恥曝しでもあり、損はあれこそ得には何もならない作品を何故こうも書き続けるのか。こうやって、整理してみなければ自分でもわからないことばかりです。
 もっともっと、多方面から書き込める気もしますので、その項の方は、いずれまたの機会に、とさせていただきたいと思います。
 この歳になって、学ぶべきことの多さにようやく気付かされたというところです。文芸も芸術ですから、芸術に終わりはない、というところでしょうか。


 
詩の寄稿(2012.06.09)
 昨日、福岡県詩人会の担当の方から、「釜山芸術祭」(韓・日・中による国際交流展)に提出する詩(20行以内)を寄稿してほしいとの依頼があり、早速送付いたしました。考えてみれば、この即断即決が私の悪い癖で、国際交流展とやらの内容もまるでわからないのに、よくも出せたものだと思います。
 と言って、数日を費やし、頭を捻ってみてもたいした前進もあり得ないだろうからと、厚顔無恥そのものです。いつも、そのときの「閃き」だけを頼りにしてきたのですが、今少し綿密に調査し、構想を練る、というのが今後の課題になりそうです。


 
次なる作(2012.06.08)
 無名作家といえど、スケジュールは立て込んでいます。ときどきは、外出もしなければなりません。
 それよりも、次なる作品です。書き放しの作品の推敲に当たるか、次なる作品にかかるか、積み上げた本を読むべきか。
 そのいずれも大事で、本当は、それらの時間区分を上手に分ける必要があるのですが、どうしても次なる作を追い掛け、時間をとられています。


 
投稿(2012.06.07)
 1つの作品を投稿しました。手を離れると、後は流れるがままです。
 こういう動機付けをしながら作品を書く、ということもあっていいことだと思います。そうすることで、作品を1つ1つ増やし、磨いて行きながら、少しでも高い地点に上る、という方法を取り入れたいと思っています。
 作品、それは山に登るが如きもの、です。


 
仕上げ2(2012.06.06)
 最後の仕上げにかかっています。何度見ても、これでOKということにはなりませんが。例えば、俳句の五七五がいかに難しいか、です。それが、散文となると、「てにをは」一つ、いつまでも気に掛かるものです。
 全作家文学賞佳作の連絡をいただきました。最近、トップに上ることの難しさを嫌というほど経験していますから、一定のレベルに至ったということで、とても有り難いものと感じるようになりました。
 同人誌に発表する姿勢も、20年前とは比べようもないほどに真剣なものになりました。陽羅様は、遺書を書くが如くに書く、と言われていたのではなかったでしょうか。また、九州地区の同人のどなたかは、命がけで書く、とも言われていました。
 文芸、たかが文芸ですが、この域にまで至ることが出来るのですね。


 
仕上げ(2012.06.05)
 作品の仕上げのためには、どこかで締め切りを設けねばなりませんが、これで完璧だ、という具合には行きません。1度だってそうはならないことでしょう。
 作品の長短に関わらず、表現するということは至難の業です。本来、芸術と言われることへの取り組みですから、どこから見ても隙だらけです。1週間経って見直せばバッサリと直したくなるほどですから、締め切りというのは、中途打ち切りの意味を多く持っています。大きな未練を残しながらの、一つの決断です。
 私たちの作品にも、終わりというものはないのですが、潔く手放すという試練に、繰り返しつつ慣れなければなりません。


 
読み込み(2012.06.04)
 やはり時間を置くことは必要です。よく考えてみると、作品の中の時制が微妙に合わないのではないかと気付きました。
 そうなると、骨組みまで変わってきたりします。季節、気候、年齢、人間関係の全てに及んできますから、ことは簡単ではありませんが。


 
読み捨て(2012.06.03)
 作品4~5編(1編50枚〜80枚程度)を読み捨て、放っています。
 時間を置いて、読み返すことが必要です。自分の思い違い、ごてごてした表現等に気が付くことが、おおいにあります。
 他の作品にもかかります。他の方の作品を読むこともします。無駄な時間のようですが、無名作家にあっても、これらが一番大切な時間だと思います。


 
タイトル(2012.06.02)
 作品を書いても、タイトルの付け方で悩んでしまいます。
 ずい分時間をかけて、ああでもないこうでもないと思案した挙げ句、結局平凡なものになってしまいます。
 タイトルの付け方のことを聞いても、いざその場面になると、やっぱり迷ってしまいます。タイトルこそ作品の顔、となるものですが‥‥。


 
健康寿命から(2012.06.01)
 健康寿命なるものを知り、いよいよライフワークの大切さを感じるものです。
 限られた数年を、自らが望む探求の方向に振り向けたい、と思わないではいられません。まだ、自らの鉱脈さえ掘り当てていないのですから、決して焦ることなく、しかし出来るだけ真直ぐに、目指すべき方向へ探求の舵を切りたいものです。
 男70歳。―これは一つの指標にすぎないものではありますが、このように道標を示されると、しっかりしたプランニングが出来るのではないかと思います。


 
校正(2012.05.31)
 最近書いていた作品の校正、というか読み直しをしています。
 4〜5編の作品のチェックです。通し読みを何度かし、修正を加え、今度はこれで何を伝えようとしているのだろう、と自問します。
 さらに、しばらく寝かせておいて読み返すと、また違う修正が必要になります。この行程に終わりというときはありませんが、自分の目で見たり、第三者の目で見たりと、素人の作品づくりも結構難しいものです。

 話は置いて、我が国を代表するというピアニストである室井摩耶子さんのことがTVで放映されていたのに釘付けになりました。91歳という年齢を感じさせない若々しさ、生涯現役という姿勢、音楽には常に新しい発見があるとされる姿勢に感服しました。
 現東京芸大を主席で卒業、'56年からヨーロッパに活動の場を広げ、世界13ヶ国で演奏を重ねる。ドイツで出版の『世界150人のピアニスト』に選ばれ、60歳で帰国。というすばらしいキャリアもさることながら、現在も1日4時間の厳しい練習を欠かさず、コンサート前は8時間の練習に自分を追い込む、とあります。
「穴があくほど楽譜を見つめて、考えて、弾いて弾いて弾いて、ようやく作曲家の言いたいことがわかってくるんです。その音色が出せたとき、モーツァルトがニコニコ笑っているのが見えるの。それが本当に嬉しくって!」
 と、いくら時間があっても足りないと言われる。
 2年前の89歳で家を建て、完全防音の音楽環境の中に身を置き、2階からの風景を眺めるのが楽しみだとか。85歳でパソコンに親しみ、ブログで近況を綴るという、パッションの激しさと、実に若々しい実像に脱帽です。
 芸術家を標榜する者は、こうでないといけませんね。


 
リズム(2012.05.30)
 生活に違うリズムが入ると、文章に向かい合うのに少し間が必要になります。
 しばらく辛抱しないといけません。
 芸術というのは、不思議なもののようです。理屈で語れない何かのそよぎだとか、何かの呼吸だとかを、直に感じることが多いものですから、傍で見ていると、奇人、変人(まさにその通りかも知れませんが)が、ダラリと怠けているだけのように思われるかも知れません。


 
読書(2012.05.29)
 船旅には読書でも、と2冊を持って行ったのですが、立花隆の科学書の難解な内容のものだったため、殆ど理解できないままでした。
 それにしても、新造船は腰高なため、少しの波にもかなり揺れるようになりました。最近までの、古い船の方が万においてよかったような気がします。


 
田舎と都会(2012.05.28)
 田舎を好まれる方には申し訳ありませんが。そして、何でもかでも「ふるさと」礼賛をされる向きにも申し訳ありませんが。個人的な感想として、田舎は鬱陶しいです。そして、この田舎風というのを、「日本の良さ」とされることが多いようですが、「お節介の焼き過ぎ」、空気に従わないと「笑い物にする」、「村八分にする」ということもおおいにあり得ます。この村制度は、確か為政者が「村人が逃げ出したりしないように目を光らせる」という目的のために設けた、ということではなかったでしょうか?
 都会の孤独死というのも非常に問題ですが、村での陰湿ないじめ、という側面があまり語られないのは、何かメディア側に目論見でもあるのでしょうか。


 
視野を広げる(2012.05.27)
 昨日の書き込みと同じことですが、視野を広げることの必要さを痛感しています。もちろん、日常の生活は地域や家庭を中心になされており、きちんと焦点を定めた対応をしなければならないかと思われます。
 そういった日常の生活を営みながらも、社会へ、国へ、世界へ、人類へ、宇宙へ、時空へというふうに視野を広げていくことが、大切だと思われます。私たちは、特定の親の子であったり、特定の家の子であったりするわけですが、視野を広く持った人類の子、宇宙の子たちも、多く生まれ、育っていく必要があるのだと思います。


 
視点を広く(2012.05.26)
 ノーベル賞受賞者の根岸氏、宇宙飛行士の毛利氏らが、若者へ向けてのメッセージとして、「チャレンジしなさい。世界に挑戦しなさい」という言葉をよく述べられますが、とても親しいものを感じます。視点が大きく、広いのです。
 これこそ、私たちが今、持つべき肝要な点ではないでしょうか。単に、家庭に恵まれた人の言うこと、などと切り捨てていないでしょうか。


 
原子力(2012.05.25)
 この世には、信念を持って、社会のために、国のために、人類のために、と考えて生きておられる方々が確かにおられます。
 チェルノブイリの話、福島の話‥‥九州には関係ない等と言う人々がおられ、まあそのせいで九州の経済も成り立っているのですが、本当に関係のないことでしょうか。原子力、原発、この無限大に増殖を繰り広げるものを、まだ利用すべきでしょうか。
 これをメディアの大騒ぎ、という表現で済ましていいのでしょうか。


 
こんな日も(2012.05.24)
 BOOK OFFで以前買っていた文庫本など取り出して読みますが、どれも中途で投げ出してしまいます。
 私に読む能力がないのか、ということになるのですね。


 
こんな日(2012.05.23)
 何もせず、という一行で終わりそうです。
 ふわふわとして、思考が定まりませんでした。
 外に出たついでに、図書館の本を返して来ました。


 
本から4(2012.05.22)
 熱と頭痛のため、本も読めずにいます。
 体調が良くないと、本も満足に読めないのかと残念です。
 ならば、これまでに読んだ般若心経の本を眺めることにしましょう。


 
本から3(2012.05.21)
 太陽についての本を借りてきました。金環日食のためばかりではなく、最近太陽フレアという言葉をよく聞きます。
 文芸書より先に、どうしてもこちらの方に気持が向いてしまいます。まだ、ページをめくったばかりですが。


 
本から2(2012.05.20)
 高井有一「夜の蟻」を読み終えました。どこが、とは言えないのに気になる作品でした。独特の文体があり、いつの間にか引き込まれてしまいます。
 私の傾向として、文芸書より科学書の方を好んで読みます。文芸とは、本来人間の生き様や、心の機微を描くべきものだと思います。
 しかし、どうしても未知の方向への興味の方が先に立ってしまいます。もともとは、理系人間だったのかも知れないと思ってみたりもします。
 ああ、なんと、今日は花逢忌の日でした‥‥。


 
本から(2012.05.19)
 勧められたこともあり、高井有一氏の作品を読んでいます。
 高井氏の作は、日常のさりげないことを描きながら、いつの間にか広い空間に誘う、という独特の手法のようです。
 一行、一行に力こぶが入っていないくせに、読み終わると氏の慧眼に気付かされます。私から見れば、唸るよりほかない力量の作家です。


 
本人2(2012.05.18)
 私個人から言わせていただければ、文芸というものに出会ったことを心から感謝しています。また、多くの知己を得たことを有り難く思います。
 時々刻々に想起してくる疑問や、謎を、文芸というかたちで表現し、その過程で多くを学ばせていただいていることを嬉しく思います。
 ただ、周囲への迷惑のことだけが気掛かりな点です。


 
本人(2012.05.17)
 考えてもみました。家庭に文芸人がいたとしたら、心配この上ないことでしょう。神経は細く、妙なことに拘り、時間も不規則です。何を考えているのかわからないし、何を書こうとするやらわかりません。
 気詰まりでしょう。もう少し世間に合った神経を持ち、行動をしてくれたら、と思われたりするかもしれません。
 こんな家人の心配を感じつつ、文芸人であらねばならないということは、まさに悩ましいものがあります。因果なことです。


 
肉親(2012.05.16)
 今日の文芸関係のブログに、「作家は、肉親や周囲から嫌われる」という趣旨の書き込みがありました。それはそうだろうと思います。ものを書くことで、「いらぬ恥を曝したり、何を書くかわからないという恐れを与える」という存在である身であれば、まさに双方がナイフで抉り合うようなものです。
 これらのこと、皆様はどのような折り合いをつけておられるのでしょうか。
 評論や時代物などはまだいいとして、私小説タイプの作者の場合、どういう折り合いをつければいいのでしょうか。それとも、無理なのでしょうか‥‥。
 世に、作家、詩人など多くおられるのですが‥‥。


 
アドバイス(2012.05.15)
 拙作「赤い陽」に対し、全国で御活躍のお二人の評論家の方からの、厳しくも温かいコメントをいただきました。
 この作品は、果たして世に問うてよいものかどうか迷った末に出したものでしたから、「人類完全否定」という色が濃いこともあり、本当に反省をしていたものでした。本来の文芸作品であれば、人間の感情の機微を書くべきところですが、今の混沌とした時期、どうしても発表せずにはいられない作品でした。
 コメントをいただきましたように、もう少し設定内容を深め、状況の内部にまで食い込んだ書き込みが必要であるということで、今後の課題にさせていただきたいと思います。また、もし震災被災地の方々に御不快の点がありましたら、心からお詫び申し上げます。と同時に、励ましをいただいたお二方に、深くお礼を申し上げます。


 
作品(2012.05.14)
 作品を生み出すということは、荒野を行くが如し、というのが私的な比喩になります。これは、それぞれの人で異なるでしょう。花畑を行くが如し、という人もありましょうし、雲海を突き進み行くが如し、宙空を旅する如し、という人もありましょう。
 日々の生活が作品だ、実生活を離れて何の作品ぞ、何気ない生活の一場面が作品だ、という人もありましょう。
 作品はいろいろのスタイルで、どのように生み出されてもいいのだと思います。そうやって生み出された作品のうち、素晴らしい作品には、必ず「感動や納得を呼び、誘う」波動のような、心の奥の深い層に届き来るもの、があります。


 
玄界灘(2012.05.13)
 玄界灘で生計をたて、周辺に住む人々には申し訳ないことですが、玄界灘という言葉の響きが好きではありません。歌謡や文芸で、怒濤逆巻くとか、男の海というような例え方をされますが、その偏った比喩もいかがかと思います。
 その所為でもないのでしょうが、能古島で行われる花逢忌に気分が向かないのは、檀さんの所為ではありません。


 
書かねば(2012.05.12)
 足腰に来ていますが、何とか書くことは出来ます。要は中身です。
 書きたいことはあります。しばらく、上手く書こうということで構えてしまっていましたが、目の前のものを書き継ぐことにしました。
 私が取り組むべきは、恐らく今手の中にあるものを中心に、1作、また1作と書いて行くということなのでしょう。
 明日は、海の合評会です。


 
書かない(2012.05.11)
 あまり身体が伸びた日は、書くのも止めにします。
 今日は無理をしないことにします。


 
書く(2012.05.10)
 書かねば始まりません。書いているときが、最も充実の時間です。
 草が伸びたら草を毟ります。どこかに不具合があると、修理もします。
 残念ながら、旅行には行くことが出来ません。何やかや差し障りがあり、自重しています。そのストレスを溜めないためにも、数行でも書く。書くことによって、悩みつつ癒されています。一日に必ず書く、これが私の証のようなものです。


 
外野席(2012.05.09)
 文芸を続けるには、身内の外野席の騒々しさが、最もたいへんです。
 身近に在るということは、よくも悪くも相手を見えなくさせることのようです。
 多くの皆様方は、どのようにされているのだろうか、とお尋ねしたい思いです。血というものの辛辣さ、わずらわしさ‥‥都会の雑踏に逃げ込んでしまいたい、などと以前からよく口にして来たことですが‥‥。


 
文芸漫遊(2012.05.08)
 管理人個人の文芸漫遊という雑記を始めました。
 何が飛び出すやら、です。私が語る文芸談義など、たいしたものはないのですが、忘れているものを思い出そうという狙いも込め、雑文を紡いでみたいと思います。
 私が、自分で何故「文学」という言葉を使い得ないのかという意味合いも、書くことができればと思ってはいます。


 
確認(2012.05.07)
 書きっ方しの作品1、2をプリントアウトし、確認してみました。
 最近の作品は、今一つ、二つ‥‥締まりがないようですので、そのあたりを考えて、というつもりではおります。
 能力の問題もありますが、山勘で作品を書く癖が出来ると、大幅な軌道修正をしなければならないのかも知れません。


 
遊びか(2012.05.06)
 遊びであってもいい、と思ってみることにしました。あ、文芸は、です。
 送られてくる文芸誌を読めば、どの誌も「命をかけて」やっておられるようです。これを遊びですか、とは言えないのですが、私に寄せられる言葉は「遊び」という判定です。私の取り組み方に問題があるのかも知れませんが、「遊び」でも「ライフワーク」でもいい、という心境です。
 他が何を言おうと、ここは自分の覚悟の問題です。それでいきたいと思います。
 今日の群系掲示板の根保氏の「人類は地球の癌細胞ではないか」に、おおいに賛同するものです。


 
会計報告(2012.05.05)
 海の会計報告を作成し、それぞれに送付しました。
 また、次号第8号の作成要領を作成し、併せて発送しました。ここまでが、1号にかかる仕事です。企画、編集、発行、発送、会計報告と、全て1人の手作りです。
 全て1人でやるのはいいのですが、特に、小説、評論に、あと数名がほしいところです。しかし、こればかりは待つよりほかありません。


 
文化面(2012.05.04)
 新聞の文化面ですが、予想どおり海の作品の扱いは小さいものです。
 実験作の部類の扱いは、そうだろうと思います。評にもいろいろな見方がありますから、何があっても驚かなくなりましたが。
 きちんと現実から目を逸らしては作品が成り立ちませんが、形だけでの判断‥‥いや、今回は全てを受け入れましょう。海は、大いなる実験の場でもあります。
(メモ)
 文学街295号、296号受領する。


 
信念(2012.05.03)
 文芸をやると言った以上、やります。最近、多くの優れた方々を知り、その方々の厚みを知るにつけ、だんだん焦りとなってきました。
 特別に目立つようなことを求めているわけではありませんが、私自身が浮き足立っていては話になりません。ただ、背伸びだけはするまいと思っています。


 
中編(2012.05.02)
 中編を書き終えたのですが、いつもどおりタイトルがうまくいきません。
 それよりなにより、80編を数えるところまできたことが嬉しいところです。後は、さらに作品数を増やすこと。かつ、核になる作品を軸に、トータルでの方向性を見付け、表現して行くことに次の目標を設定したいと思います。


 
六感(2012.05.01)
 第六感、これには妙な自信があったのですが、最近は薄れたかも知れません。
 昔は、山勘だけでやって来たと言っても過言ではありません。この山勘で感じ、故ない言動をしていた時期がありました。
 今にして思えば、こうなるようになっていたのでしょう。それこそ、山勘のいい加減さで動くものですから、確たる自分がありません。
 あわてて探そうとしますが、いい加減さが身に付いたままでは、確たるものはなかなか道を開いてはくれません。その方面を、課題にしています。


 
直感(2012.04.30)
 これは私の考えですが、文芸人に最も必要であるのは直感ではないかと思うものです。論理や理屈が必要なことは言うをまたないことですが、空気の流れを察知し、よく読み込んだ上でそれを提示する役割の重要さを感じます。
 それだけ、感じ、想像するという役割の大切さが文芸人には求められるのではないかと、思う今日です。


 読書(2012.04.29)
 今日は1日外出をしましたので、移動の時間を利用して読書のときとしました。読書も、このようなときに読むのは、かえって集中が出来てよいものです。
 限られた時間ではありましたが、文庫本2冊をバッグに入れ、普段より気楽に本を楽しむことが出来ました。このような小旅行も悪くはないですね。


 
投稿(2012.04.28)
 昨日は、全作家の「ひろば」へのコメントと、次号への詩を送りました。
 こういう場を設けていただいていることに感謝、です。小さな意見ですが、受け入れていただき、ありがたいと思います。
 赤い陽についての説明も、他から求められて書き、送りました。自分の作品について説明することなど、うまくはいきません。何とか理解が得られれば、と願うものです。


 
世界(2012.04.27)
 この文芸という虚構の世界に入り込んでくると、実際にかなわないことや、思いどおりに行かないことなどでも、かなえられたりします。
 もともと、この現世だって虚構なのかもしれません。
 色即是空、空即是色―般若心経にそう言うではありませんか。私たちは、絶体絶命などと言うピンチに遭ったりしますが、それも虚構なのかもしれません。
 何もかも虚構では実も蓋もありませんが、うまく思いを切り替えていけばよいのかも知れません。そんな訓練を、日々しているのですから。


 
次の作(2012.04.26)
 同人誌の作品を発表した後の全体のアフターケアーは大切ですが、気持はもう次の作品の方に切り替わっています。
 私のように、核になる素材をまだ掴んでいない以上、次をどうするかが大きな問題になります。そういう意味で、気持の80%は次の作品に移っています。
 もちろん、現作品の評等をおおいに参考にしながら、ということになりますが。いったん手元を離れた作品からは、意識的に遠ざかり、次にどんなイメージのものを持ってくるか、そのことで頭を満たします。
 次の冊子の表紙、組み方、色合い等々も含めてです。


 
苦情(2012.04.25)
 発表した作品に対し、苦言というより苦情というべき意見が寄せられます。
 それらについては、力が及ばなかった故のこともありますが、意見が違うというのもあります。いずれにせよ、意見をお寄せいただくことはありがたいことです。
 発表する側が高慢になったりするようでは話になりませんが、やはり世間を騒がせているように受け取られる場合もありますので、私たちは謙虚に基礎の部分を磨きたいと、いま一度反省するものです。


 
書く(2012.04.24)
 書くということは難しいものです。分かってもらえなくてもいいけれど、どうしても発表したいというものや、読者をきちんと意識して書くものがあります。
 どちらを取るか、などナンセンスなことで、後者の方がいいに決まっています。どうすれば作者の考えを、いや作品を、読者によりよい形で届けようかという配慮が、作者には不断になければならないでしょう。
 しかし、偶には、どうしても分かってもらい難いという作品もあります。勿論、上記の努力を十二分に行った上でのことです。しかし、これは、書きっ放しの勧めではないことを、自戒をも含め、付け加えたいと思います。


 
批評(2012.04.23)
 予想に違わず、厳しい評が寄せられ始めました。いろいろな見方があり、そうなのだと気付かされます。これも、発表をしてこそのことですから、ありがたいことです。同人誌は、一人よがりに陥ることが多いのですから、みなさんの意見を謙虚に聞く必要があります。厳しい意見の中にこそ、自らの足りない点や、思い込みの部分を教えていただいているのだと思うものです。
 書き手は読まない、とN氏が言われました。N氏は書き手でもありますが、自ら読み手の方に回り、厳しくも的確な評を出しておられます。私たち書き手も、まず読み込むことを疎かにしないことが大切なようです。


 
お礼(2012.04.22)
 受贈誌や、海への感想をいただくので、返事をしたためます。
 負傷中の身でもありますので、100%の能率でというわけにはいきませんが、すべきときにはしないといけません。
 考えてみれば、これほど気遣ってもらっているのだから、ありがたいことです。
 発刊し得たことの冥利に尽きる、と言ってもいいでしょう。
 こうやって意見の交換をしつつ、お互いに刺激し合い、伸びゆくことが出来るものだと思います。一人で、一人に都合のよいペースでやっていた日には、競うことも、進歩することもないかも知れません。よいライバルは、やはり必要ですね。


 
海の評(2012.04.21)
 海第7号(通巻第74号)についての評を、寄せていただいています。
 ありがたく思います。この多用な時期に、心掛けていただき感謝申し上げます。
 海構成員の、現段階での精一杯の表現です。もっともっと向上しなければ、とは心底思うものです。
 励ましをいただいたり、提言等をいただいたことを糧に、個々が自らの作品に取り込んで、さらに遠くに運ぶことができるよう努めたいと思います。


 
小説の評(2012.04.20)
 恐らく、今回の小説の評は芳しくないものと思われます。
 生まれる前→生まれてきた混乱の世→この世の終わり、という具合に書いているのですが、このような書き方に対する批判は必ずある筈です。
 何のことかわからない、という批判もある筈です。
 しかし、批判を覚悟で、私がどうしても書かねばいられなかった内容のものです。それらを、首を洗って待つことにします。


 
現場(2012.04.19)
 同人誌の現場から、という短文を書いて季刊文科へ。その校正が来たので、それに当たりました。このところ、校正作業が続きます。
 どんな内容のことを書くべきか思案しましたが、海第一期の、日も時間もものともしない疾風怒濤の時代のこと、終刊に至る事情、そして第二期立ち上げのいきさつ、第二期が目指すもの、というふうに書けばいくらでも出てきます。
 最後に、第一期で特に活躍された数名の名前を入れました。


 
雑誌(2012.04.18)
 文芸書ばかりではなく、新書等も手にしてみます。スピルチュアズムについて医師が書いた本ですが、なかなか読み応えがあります。
 こういう構成での作品化もいいな、と思ったりしました。文芸人は、やはり四方に目配りが出来、興味を深めることが大切だな、と感じます。
 空想を膨らますにしても、素材や、経験が重要ですから。


 
同人誌2(2012.04.17)
 この時期、同人誌の発行が相次いでいるようです。私の元にも、数冊が送られてきました。それぞれの表現の結果がこうして結実した、ということですね。
 決してマスコミなどで取り上げられることのない同人誌が、こうやって川が静かに流れるように作られているのです。
 片や、マスコミに載せられ、華々しく宣伝され、報道され、売られ、という「プロの本」があります。中身の違いがどこにあるのか、よくわからないのですが。


 
海発行(2012.04.16)
 海第二期第7号(通巻第74号)を今日付けで発行し、発送を終えました。2時間の作業でした。この半年間の成果を表現し、まとめ、送り終えたのですから、それは安堵しました。しかし、発行してしまえば、これはもう過去のものになります。
 評価は気にしません。どう流れて行こうと、それは運命のなすがままです。
 次です。次の冊子に向けて、気持を整理していかねばなりません。ものごとを創り出すということは、それが何であれ、難しく、行く手を阻むものです。
 その行く手に何があるか。私たちは、そのことをしっかり見なければなりません。動機や手法はいかようでもかまいません。前に行くこと、そのことが大事であり、私たち文芸人がなすべきことであろうと思うものです。


 
同人誌(2012.04.15)
 この時期、相次いで同人誌が送られてきます。どうして今の時期に集中するのかはわかりませんが、どの誌も営々と立派な作品を発表しておられます。
 さて、明日は海の発送予定です。午前中に仕上げられればいいな、と思っています。考えてみれば、こうやって世に発表することが出来るということは幸せですね。


 
短編集(2012.04.14)
 全作家短編集の校正が届きました。最近、少し文芸の方から遠ざかり気味でしたので、目の前にある校正刷りを見て、ああ忘れていなかったんだ、と思ったりしました。
 第26回国民文化祭・京都2011の「公式記録」という分厚い本も届きました。


 
少しだけ2(2012.04.13)
 今日も、ほんの少しだけ書けました。体調がビシッとしないので、これだけで今日のところは満足するよりほかありません。
 最近、少し内に籠もりすぎているのかもしれません。


 
少しだけ(2012.04.12)
 5枚ぐらい書きました。1枚でも2枚でも、書けた日はやはり嬉しいですね。
 そんなに無理しなくていいんじゃない、という趣旨の精神科医が書かれた本も読みました。足るを知れば、何でも嬉しくなります。
 今日も、お陰様でした。


 
読書も(2012.04.11)
 身辺があわただしいときは、なかなか直ぐに書くことに結びつかないものです。
 さてはと、積ん読の中から引っ張り出し、目を通していると、これは素材になりそうだというのに出会ったりします。むしろ、多くのことに触れることによって、素材はやって来てくれそうです。
 少子化、過疎化、核家族化、人口や仕事の一極化、田舎の疲弊、葬儀の簡素化、墓地の変化、墓地の一極化、相続の変化等々、時代はものすごいスピードで変わっているのですね。また、高齢者への負担の増加、高齢者医療の後退等々、少子化・高齢化社会の息苦しさがひしひしと伝わってきます。
 確かに、人の命は地球より重い、などと言われた頃がありましたが、その趣旨は変わるわけではないのですが、50年前はこうだった、30年前はこうだった、20年前はこうだったといくら叫んでも、この変化のスピードを緩めることにはなかなかできない、と思わざるを得ないところです。


 
発送準備(2012.04.10)
 発送はおよそ1週間先ですが、いろいろと他の用が入りそうですので、早めの準備をしました。約100通、150部近くを発送します。
 発送、支払い、会計報告、次号作成要領送付と、作業は続きます。


 
校正に(2012.04.09)
 海の校正作業に行ってきました。1人でです。
 校正作業はとても気を使うものです。不適正な部分があれば直さねばなりませんから。扉や目次や詩は全文を読み返し、評論、翻訳、小説は要所をチェックします。印刷所側からの質問・確認事項もありますから、神経を使います。
 今号から、表紙にも少し意思をもたせるべく、主な作品の項目などを表記するようにしました。また、評論、翻訳、小説にはヘッダーを復活することにしました。
 16日に、無事に発送が出来るよう、祈るばかりです。


 
望月の(2012.04.08)
 時候は異なりますが、藤原道長でしたか、「この世をば我が世ぞと思ふ望月の欠けたることのなしと思へば」という歌を詠んだのは。
 栄耀栄華を極めれば、人間こんなふうにもなるのでしょうが、「明日有りと思ふ心の仇桜夜半に嵐の吹かぬものかは」という親鸞の歌もあります。
 万物無常なりと断じた親鸞の歌に、真のものを感じる今日この頃です。


 
無縁の日(2012.04.07)
 文芸とは無縁の日でした。博多港での風景ですが、私と同じくらいの年頃の釣り客が5人ほど賑やかに、ガハハハと大声で騒いでいました。「釣りに温泉に‥‥生きとるうちに遊んどかんばいけん」と、余暇をエンジョイしているようです。
 こんな人たちもいるのだなと思ったものの、考えたら、私のような人種がレアの部類なのだと思い返しました。私に、ガハハハと笑えた日が以前にもあっただろうかと、複雑な思いで入院見舞いが目的の船に乗りました。


 
こんなとき(2012.04.06)
 こんなときに文学? なんて、よく言われたり、言ったりしますが、文芸・文学には、生老病死の全てを内包しておりますから、こんなときこそ文学、と言うべきでしょう。
 尊敬するH氏は、「いつも遺書を書くつもりで、書く」と言われます。
 私も然りだと思います。生老病死が常であり、無常であるのなら、いつも遺書を携えておく必要があります。それほどのものだと思います。


 
全作家(2012.04.05)
 全作家第85号が届きました。今号は、「笑う十七歳」(24歳の大学生の作)が文芸時評賞だとのことで、読んでみると、なるほどこの感覚は私たちには書けない作品です。乱暴なようでいて、結構ナイーブな作品です。
 これには、納得しました。いいかげんなようでいて、生死というものを凝視しているのかも知れません。何といっても、何かを放り投げるようなパワーが漲っています。世間の道徳観からわざとのように離れてみせるところに、才能を見ました。


 
海原稿3(2012.04.04)
 何があろうと、海は仕上げねばなりません。役割と言うより、使命のごときものになりました。自分だけではない、複数名の方の労作が詰まっています。
 こうやって印刷を待つ間が、もっとも充実している時かも知れません。
 ただ、本を作るということだけではありません。今を創るのです。未来を創るのです。小さな同人誌なれど、その内には遠大なテーマと中身を含んでいます。


 
暴風(2012.04.03)
 今朝方から、突然台風並みの猛烈な風が吹き始めました。
 陸上で20〜30メートルほどはありましょうから、もう台風です。海上はもっと凄いようですから、壱岐行を断念しました。
 外を吹き渡る風の音は、ガタピシ、ドン、バタンと激しいものです。
 おまけに風邪です。喉の痛みだけだったのが、激しい咳になりました。マスクをしていても、マスクを飛ばしてしまいそうです。


 
海原稿(2012.04.02)
 海原稿を、ようやく印刷の方に頼むことが出来ました。
 後は、どういう仕上がりになるのか、ということの方に移ります。勿論、途中校正がありますし、順調に4月16日付け発行になることを祈るのみです。
 それにしても海、誰か新規の加入者が出てもらえないものでしょうか。


 
海校正(2012.04.01)
 本来だったら、3月29日に到着する筈の校正原稿がまだ届かないのです。
 ううむ、と唸っても仕方がない。待つのみ、です。
 出来たら明日印刷所持ち込み、としたいのですが。家人の動向などがあったり、いろいろと気持のせく4月です。


 




 索 引



海校正
(2012.04.01)


海原稿
(2012.04.02)


暴風
(2012.04.03)


海原稿3
(2012.04.04)


全作家
(2012.04.05)


こんなとき
(2012.04.06)


無縁の日
(2012.04.07)


望月の
(2012.04.08)


校正に
(2012.04.09)


発送準備
(2012.04.10)


読書も
(2012.04.11)


少しだけ
(2012.04.12)


少しだけ2
(2012.04.13)


短編集
(2012.04.14)


同人誌
(2012.04.15)


海発行
(2012.04.16)


同人誌2
(2012.04.17)


雑誌
(2012.04.18)


現場
(2012.04.19)


小説の評
(2012.04.20)


海の評
(2012.04.21)


お礼
(2012.04.22)


批評
(2012.04.23)


書く
(2012.04.24)


苦情
(2012.04.25)


次の作
(2012.04.26)


世界
(2012.04.27)


投稿
(2012.04.28)


読書
(2012.04.29)


直感
(2012.04.30)


六感
(2012.05.01)


中編
(2012.05.02)


信念
(2012.05.03)


文化面
(2012.05.04)


会計報告
(2012.05.05)


遊びか
(2012.05.06)


確認
(2012.05.07)


文芸漫遊
(2012.05.08)


外野席
(2012.05.09)


書く
(2012.05.10)


書かない
(2012.05.11)


書かねば
(2012.05.12)


玄界灘
(2012.05.13)


作品
(2012.05.14)


アドバイス
(2012.05.15)


肉親
(2012.05.16)


本人
(2012.05.17)


本人2
(2012.05.18)


本から
(2012.05.19)


本から2
(2012.05.20)


本から3
(2012.05.21)


本から4
(2012.05.22)


こんな日
(2012.05.23)


こんな日も
(2012.05.24)


原子力
(2012.05.25)


視点を広く
(2012.05.26)


視野を広げる
(2012.05.27)


田舎と都会
(2012.05.28)


読書
(2012.05.29)


リズム
(2012.05.30)


校正
(2012.05.31)


健康寿命から
(2012.06.01)


タイトル
(2012.06.02)


読み捨て
(2012.06.03)


読み込み
(2012.06.04)


仕上げ
(2012.06.05)


仕上げ2
(2012.06.06)


投稿
(2012.06.07)


次なる作
(2012.06.08)


詩の寄稿
(2012.06.09)


文芸漫遊記
(2012.06.10)


御無沙汰
(2012.06.11)


続無沙汰
(2012.06.12)


2大同人誌
(2012.06.13)


毒を
(2012.06.14)


絶対文感
(2012.06.15)


入会希望
(2012.06.16)


坊っちゃん
(2012.06.17)


こころ
(2012.06.18)


漱石
(2012.06.19)


絶対文感
(2012.06.20)


わが作品
(2012.06.21)


海のHP
(2012.06.22)


海入会
(2012.06.23)


全作家短編集
(2012.06.24)


書き物
(2012.06.25)


プリンタ
(2012.06.26)


作品の書き方
(2012.06.27)


詩は
(2012.06.28)


海の理念
(2012.06.29)


分かりやすい作品
(2012.06.30)


良い作品
(2012.07.01)


文芸拾遺1
(2012.07.02)


文芸拾遺2
(2012.07.03)


文芸拾遺3
(2012.07.04)


文芸拾遺4
(2012.07.05)


僻まず
(2012.07.06)


読むこと
(2012.07.07)


読むには
(2012.07.08)


絶対文感
(2012.07.09)


古本屋
(2012.07.10)


読み書きの速さ(2012.07.11)

読みことを
(2012.07.12)


読書メモ
(2012.07.13)


山気
(2012.07.14)


船中読書
(2012.07.15)


読む
(2012.07.16)


読む2
(2012.07.17)


読む3
(2012.07.18)


読む4
(2012.07.19)


読む5
(2012.07.20)


読む6
(2012.07.21)


読む7
(2012.07.22)


読む8
(2012.07.23)


読む9
(2012.07.24)


書く
(2012.07.25)


書く1
(2012.07.26)


書く2
(2012.07.27)


書く3
(2012.07.28)


書く4
(2012.07.29)


書く5
(2012.07.30)


愚人
(2012.07.31)


愚人の心得
(2012.08.01)


停滞
(2012.08.02)


詩人
(2012.08.03)


散文
(2012.08.04)


30枚
(2012.08.05)


手書き原稿
(2012.08.06)


懇談会
(2012.08.07)


文芸
(2012.08.08)


文芸考
(2012.08.09)


校正
(2012.08.10)


お盆
(2012.08.11)


受贈誌
(2012.08.12)


校正問合せ
(2012.08.13)


編集準備
(2012.08.14)


集中
(2012.08.15)


集中せねば
(2012.08.16)


集中集中
(2012.08.17)


多忙
(2012.08.18)


中編
(2012.08.19)


作品群
(2012.08.20)


わが作品
(2012.08.21)


レイアウト
(2012.08.22)


加入なし
(2012.08.23)


同人誌等
(2012.08.24)


同人誌作家
(2012.08.25)


寄贈書
(2012.08.26)


寄贈書2
(2012.08.27)


寄贈書3
(2012.08.28)


寄贈書4
(2012.08.29)


詩のリズム
(2012.08.30)


寄贈書5
(2012.08.31)


海編集作業
(2012.09.01)


受贈誌
(2012.09.02)


海作品
(2012.09.03)


入会問合せ
(2012.09.04)


同人誌でも
(2012.09.05)


同人誌なれど
(2012.09.06)


海のHP
(2012.09.07)


海の作品
(2012.09.08)


文芸作品
(2012.09.09)


作品は
(2012.09.10)


小さな作品
(2012.09.11)


掌編
(2012.09.12)


海編
(2012.09.13)


他誌編
(2012.09.14)


変化
(2012.09.15)


海の原稿
(2012.09.16)


海の編集
(2012.09.17)


海の編集?
(2012.09.18)


文芸の今後
(2012.09.19)


海の編集1段
(2012.09.20)


海の編集2段
(2012.09.21)


作品へ
(2012.09.22)


プリントアウト
(2012.09.23)


励ましの言葉
(2012.09.24)


図書館
(2012.09.25)


全作家評
(2012.09.26)


文芸思潮
(2012.09.27)


全作家
(2012.09.28)


海校了
(2012.09.29


同人誌作品
(2012.09.30)


原稿持ち込み
(2012.10.01)


印刷発注
(2012.10.02)


読まねば
(2012.10.03)


文学街
(2012.10.04)


文学街2
(2012.10.05)


同人誌文学
(2012.10.08)


作品を
(2012.10.09)


不調のとき
(2012.10.10)


海校正
(2012.10.11)


人生論
(2012.10.12)


作品は
(2012.10.13)


受贈誌等
(2012.10.14)


お礼状など
(2012.10.15)


エッセイ
(2012.10.16)


短編集
(2012.10.17)


海発送
(2012.10.18)


海HP
(2012.10.19)


海発送後
(2012.10.20)


糊剥がし
(2012.10.21)


御意見
(2012.10.22)


御意見2
(2012.10.23)


御意見3
(2012.10.24)


御意見4
(2012.10.25)


親鸞
(2012.10.26)


黒羽作品
(2012.10.27)


合評会
(2012.10.28)


受贈作品
(2012.10.29)


海の送付等
(2012.10.30)


受贈作品2
(2012.10.31)


受贈作品3
(2012.11.01)


会計報告
(2012.11.02)


わが作品
(2012.11.03)


罪と罰
(2012.11.04)


福岡
(2012.11.05)


文学・文芸
(2012.11.06)


短編
(2012.11.07)


文学街へ
(2012.11.08)


作品の話
(2012.11.09)


またも
(2012.11.10)


芸の域
(2012.11.11)


芸の域2
(2012.11.12)


経験は大事
(2012.11.13)


言葉
(2012.11.14)


体調維持
(2012.11.15)


再起
(2012.11.16)


昨日の今日
(2012.11.17)


校正など
(2012.11.19)


外作業中は
(2012.11.20)


チャレンジ
(2012.11.21)


チャレンジ2
(2012.11.22)


何故?
(2012.11.23)


昔の作品
(2012.11.24)


時代小説
(2012.11.25)


小説は難しい
(2012.11.26)


新入会者
(2012.11.27)


文芸思潮
(2012.11.28)


全作家
(2012.11.29)


五木寛之
(2012.11.30)


読む
(2012.12.01)


合評会
(2012.12.02)


書くこと
(2012.12.03)


詩集を読む
(2012.12.04)


詩集を読む2
(2012.12.05)


作品を戴く
(2012.12.06)


郵貯の通帳
(2012.12.07)


次の作品
(2012.12.08)


時間・空間
(2012.12.09)


文芸人ではない(2012.12.10)

読書2作
(2012.12.11)


詩人会
(2012.12.12)


他誌など
(2012.12.13)


海の口座
(2012.12.14)


淋しい時代
(2012.12.15)


古典など
(2012.12.16)


文明の危機
(2012.12.17)


文化欄
(2012.12.18)


文化欄2
(2012.12.19)


文化欄3
(2012.12.20)


神と文学
(2012.12.21)


この間
(2012.12.22)


次作を
(2012.12.23)


全作家
(2012.12.24)


やはり読書
(2012.12.25)


評あれこれ
(2012.12.26)


作品
(2012.12.27)


やはり文章
(2012.12.28)


無駄でなく
(2012.12.29)


見直し
(2012.12.30)


読む、書く
(2012.12.31)















































































































































































































































































































































































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