コーヒータイム


「無名作家のメモ」、「無名作家のつぶやき」とでもいうべき欄です。
このHPの中で、管理人が、最も気楽に書いている部分です。内容は、やはり「文芸について」です。


ということでありましたが、評の類はどうにも苦手であるということがわかりました。
2010年2月からは、「小説に至るメモ」の場として、この欄を使いたいと思います。乱雑なメモ、の類
に終止するかもしれません。

私生活については原則として触れないことにいたします。同人誌等の関係者の記述をする場合に
あっても、出来得る限り御迷惑にならないように心掛けるつもりでおります。


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2009年12月までの分は→ NO1へ

 
 



 
同人誌校正(2012.03.30)
 校正ではとんだトラブルがあります。郵送によるトラブルです。現在レターパック500を用いていますが、要は到達の確認です。
 到達の確認をうまくやらないと、校正以前のことにもなりかねません。
 連絡と伝達、これもおおきな要素を占めますから、これから先の注意すべきポイントとして、おおいに勉強になりました。


 
同人誌に何が3(2012.03.28)
 3月26日、27日に続いての「同人誌に明日はあるか!」です。今日は、実現の可否は置いて、日頃考えるところを書いてみたいと思います。この内容は、昨日文学街に送ったものの要約です。
 ‥‥ならば、この「光の子」をどう扱うか、という方法論になりましょう。
 極めて大胆な提案になりますが、折角見出した光の子は、芥川賞にも直木賞にも匹敵するような「認知」をすべきだと思うものです。
 それが、「同人誌文学賞」なのです。これを同人誌側の力を合わせて結集するならば、芥川賞をも直木賞をも凌ぐ「真の実力を供えた文学者」として、自信をもって世に送り出すことが出来るのではないでしょうか。
 しかし、言うは易し行うは難し、かもしれません。私の小さな考えでは覚束ない限りですが、要点のみを記してみたいと思います。

【同人誌文学賞】
一 同人誌掲載作品(自費出版作品を含む)の中から、真に優れた作品に対し、同人誌文学賞(各四名程度)を贈り、顕彰する。
二 同人誌文学賞は、原則として、年に二回選考する。 
三 同人誌文学賞受賞作品は、出来るだけ全国的に知らしめるため、これを効果的な方法で発表し、あるいは出版する。
四 売ることが目的ではないので、例えば電子媒体等でも読むことができるようにする。
五 同人誌文学賞を選考し、発表等を行うために必要な組織を、同人誌の関係者を中心として設ける。
六 同人誌文学賞は、継続するために特段の努力を行う。
七 同人誌文学賞の運営等については、五の組織において検討する。


 
同人誌に何が2(2012.03.27)
 昨日同人誌について思うところを書いて送りましたが、どうも判然としません。くどいようですが、その判然としないところを書き、再送しました。
 海の校正を2人の方に頼んでいますが、私が見落としていたところを見付けてもらいました。自分自身の思い込みというものは強く、何度繰り返してもミスなどとは気付かないところを、簡単に見付けてもらえます。目を変えると何かが見える、ですね。
 まさに作品の評価もそのとおりでしょう。見る人が変わったり、気分次第でよくも悪くも見えてしまうことでしょう。不思議なことです。


 
同人誌に何が(2012.03.26)
 文学街から、「同人誌に明日はあるか!」ということで書いてほしいとの依頼があり、昨日から取りかかったところです。
 同人誌が発行するものも大手出版社が発行するものも、いずれも作品を世に問うことに違いはないわけですから、同人誌であれ何であれ、真剣に行うということであれば明日はある、という考えです。
 大手出版社の場合は、1)出版する→2)売れる→3)広く読まれる→4)企業として成り立つ→5)作家もすばらしいとされる、という輪の中にあるのですが、同人誌の場合はこのような輪を持ちません。しかし、出版物の内容を良いものにする、ということは十分出来得ることですし、また、大手出版社が掬い取ろうともしないものを、細かい繊毛のような手で取り上げることが出来る、ということも言えるのではないでしょうか。


 
海第7号2(2012.03.24)
 全125頁をプリントアウトし、確認作業に入りました。少なくとも、3人の目を通すようにしています。
 前後の文脈からの字づかいの正誤や、ミスプリントなどを目を変えて確認します。自分一人で行うと、間違いに気付きません。
 それらを経て、4月16日の発行へと向かいます。


 
海第7号(2012.03.23)
 海第7号の原稿がおおかたまとまりました。
 少人数ながら、125頁を数える内容になりそうです。作品を2〜3度通し読みしましたが、かなりの出来ではないかと思います。逆に、このレベルを維持して行くと、新人が入りにくいかも知れない、という危惧もあります。
 編集作業は神経を使う結構キツイものですが、出来上がりを想像すると、達成感と充実感を覚えることの出来る作業です。そして、創造するということの素晴らしさと喜びを感じるときです。


 
吉永小百合論(2012.03.22)
 陽羅義光氏の「吉永小百合論」を読ませてもらいました。陽羅氏は、文学だけではなく、映画や監督や俳優たちを語られる言葉が、実に生き生きとしています。以前、年間1000本の映画を観た、と言われていましたので、納得ではありますが。
 その中から、私が興味をいだいた点は、他の多くを略し、大きく2点です。
 1つは、「吉永小百合の代表作はあるが、3人の監督の代表作にはなっていない。→何故か」という点です。これは、彼女が「優等生」であり、監督に通常のようにこの劣等生を何とかしてやろう、と必死にさせなかったということ等が理由のようです。
 2つ目は、家庭の事情もあってか、母の期待に懸命に応えようとして「生真面目に頑張ってきた」ということのようであり、岡田氏との結婚が、「母からの自立」であったということも驚きです。
 けなげに振る舞ってきたものの、勉学や他のやりたいこと全てを犠牲にしてきた上で成ってきた「少女:小百合」から、「本来の小百合」に脱皮した、ということでしょうか。「母になりたくない」という言葉は、私も聞いたことがありますし、彼女の心に、「家庭、血」というものが大きな翳を落としているのでしょうか。
 現在は、原爆詩の朗読などの、範囲をはみ出さない域で行っている彼女の「控え目な」、しかも「気丈な」姿には、美智子皇后のそれと似たものがあるとの指摘に、首肯するものがあります。
 陽羅氏の自在の文章表現の巧みさには、天性のものが感じられます。


 
海締め切り(2012.03.21)
 海原稿の締め切りが20日で、その整理に没頭しています。原稿は、6割方ぐらいが一挙に出されますので、この時期、気力、体力を使います。
 割り付けた後、流し読みをし、作者本人に確認を依頼するのですが、本人に送付するまでがたいへん厳しい作業になります。一字一句、意味を考えながら読むわけですから、流し読みの時間が、寄せられた原稿に謝しながらも、最も疲れます。
 今号も、120頁を越える内容になりそうで、充実感を覚えています。
 わが原稿の方は、大変化球を投げることにしており、これに対し、どのような目が出るかが心配ではあります。風邪が治りきれずにいますが、大きな夢を見ましょう。


 
命を賭ける(2012.03.19)
 文芸など遊びごとと―いつも言われて久しい私は、これに上手く答えることが出来ませんが、次のような文を紹介し、いく分かの釈明をさせていただきたいと思います。

 予想したくない終末思想の暗雲の下にいる現実が見えてきたのが今回の原発事故の思想的位置づけだ。「原発は安全です」というコマーシャルにマインドコントロールされた結果が、今突きつけられているわけだ。この傀儡カラクリを看破した※※※の作品は、作者が思いもよらぬ予言を我々に突きつけていたのだが、※※たちは、肌身でそのことを見抜いていたのだろう。こうした認識に立てば、作家がなさねばならない事柄は自ずと見えてくるはずだが、さて‥‥(A氏の文の一部)

「文学の世界では一作一作が真剣勝負でなければならず、たとえ原稿用紙一枚でも全力で書くべきだ」という※※さんの考えを披露している。同人雑誌の果たす役割はこれからも重要である。金にも名声にもつながらない同人誌にひたむきに作品を発表している作家こそ純粋文学の担い手であろう。ひたすら鉱脈を追い求め、真摯な態度でのぞんでいる同人誌作家は求道の精神を具現しているのであり、そのたゆまぬ精進は剣士や修行僧のそれと似ているのだと語る。(B氏の文の一部)


 
わが作品(2012.03.18)
 数冊の本を読み、他誌のすぐれた作品を読みましたが、わが作品にそれらが反映されるかというと、そうもいきません。
 むしろ、遅々として進まない感の方が多いような気がします。
 あれだけ気軽に書いていた詩の方も、しばらく御無沙汰しています。
 基本の書を読まねば、という気持の方が強すぎて、私のような者は、読むことと書くことを上手に繋げるというふうには出来ていないようです。創作ということの難しさを、改めて感じています。
(メモ)
 吉本隆明氏が3月16日に、安永蕗子氏(歌人)が3月17日に亡くなった。


 
海の作品(2012.03.17)
 海の作品が寄せられてきます。早速割り付けをし、作者に確認を依頼します。
 今4割方が出たところでしょうか。どのような誌になるか楽しみですが、これからが大詰めの勝負ということになりましょう。
 私も、別の作品ですが、10枚ほど書き進んでみました。


 
メール等のみ(2012.03.16)
 いただいた同人誌や著書についての感想をしたため、郵送あるいはメールで送付するということで、ほぼ一日を費やしました。
 他の方の作品を読ませていただくことはとても参考になり、ありがたいことですが、その素晴らしさのために萎縮してはいけません。
 それらを終え、いざ自分の作品に向かったとき、なかなかリズムに乗れないのもいたしかたないことです。渾身の作品を読んだ余韻が、強く残っているままですから。


 
海について(2012.03.15)
 海第二期についての現状などを書くように求められ、2日かかって書いてみました。いざ書くとなると、結構難しいもので、しかも制限字数以内でとなると、かなり神経を使うものです。
 海作品の原稿締め切り前に目鼻をつけようと思い、大急ぎで書いたところ、依頼先の方は3月末までのところ予定原稿が集まったので、次の号にまわすなどと簡単に仰せになる始末。選択するのは先方だから、こればかりは流れのままにというわけです。
 それより、海本体の原稿、活きのいい作品が出てきてほしいものです。


 
高きを求め(2012.03.14)
 最近のブログでの文芸時評は、とても熱を帯びています。
 書く方も、評する方も、命がけです。作品は、精魂込めて懸命に書くこと、という主張に両者の共通点はあるのですが、やはり経験や見方の違いがあります。
 たかが文芸というなかれ。人生そのもの、丸抱えの生き方そのものを書いて行くのですから、遊び半分では成り立ちません。
 私には評の方は出来ませんが、書く方の立場は少なからずわかります。技術がどうのこうのなどではありません。高い壁に向かってチャレンジして行く、その気持ちです。野球をやらない人が、ボールを投げて打って‥‥遊びだろう、などとよく言いますが、その道に分け入った者にしかわからない‥‥幻のような壁を見ているのかも知れません。


 
道を求め(2012.03.13)
 白石様にあて、懸命に手紙を書いていたときに、白石様の方も私あてに書いておられたのでしょう。今日、届きました。
 やはり、佐賀だけに納まる方ではないので、東京の方に道を求められたようです。これも、思いは同じです。
 こういった自然な思いが、私の場合は身内の一部に理解が得られない部分があり、苦しんでいます。何かを追求していく。その先には、次の道が見えてくる。ただ、そういう自然な出来事なのですが‥‥。


 
驚いた(2012.03.12)
 白石様の作品を読み、驚きました。
 これほど安定感のある書き手に初めて出会った、という驚きです。どこが素晴らしいではなく、どこも素晴らしい。既に、素人の域を脱しておられます。
 日本語が実に素晴らしく、不安を感じません。筋書きも奇ををてらうことなく、安直ではありません。恐らく自然にそうなるのでしょうが、選び抜かれた言葉、場面、心理描写など、舌を巻きます。
 スケールの大きい作品にも、身の回りを書いた作品にも、どこにも浮いたところが見られません。唸りました。


 
書くこと(2012.03.11)
 書くことでは、現実の事象を見据えて書くことも、過去を探りながら書くことも、未来を想像しながら書くことも出来ます。
 観察力、想像力、創造力などを動員して行うのですから、時間がどれだけあっても足りません。ときには、時間の中にすっぽりと入り込むことさえあります。こうなると、1億年も、3億年も必要です。
 文壇がどうこう、などといったことも、時間の彼方(前方、あるいは後方に)に飛び去って行きます。
 想像するということは、光のスピードなど、簡単に越えてしまうことではないでしょうか。ここに、想像と創造の醍醐味を見出します。
 

 
書く(2012.03.10)
 書き、発表することについて、最近は多くの方法が利活用されているようです。
 また、活字離れと一方でよく言われておりますが、中身はいろいろあることでしょう。確かに、PCや携帯や映像などによる表現手段は増えているでしょうし、文章表現自体が面倒だという人たちもあるでしょう。よく聞かれるのは、何で一人でPCなどに向かっていられるの。信じられない、という類のことが多いです。
 明快な答えなどありませんが、「どうしてもそうしなくてはいけないものがある」と感じているからです。お坊さんが、幾つになってもお経を読み、邪馬台国に魅せられた人が、幾つになってもその秘密に胸をとどろかす、ということに似たようなものです。
 若い人で書いておられる方も、本当は多いのではないでしょうか。同人誌といえば、何か堅苦しいところのように思われるかもしれませんが、自分の意見をまとめたり、作品のかたちにまとめようと一生懸命で、いつまでも幼児の心を持った人が多いのです。
(メモ)
 文学街294号到着

 
時とは(2012.03.09)
 すべき時には、すべきタイミングや時期があります。
 人に能力の差など、それほどないかも知れません。しかし、時が至っているかどうかがかなり大切のようです。時が至り、きちんと仕掛ければ、うまくいくのでしょう。
 試みれど、待てど、何の反応もないことがあるかも知れません。
 そういうときは、今はじっと己の内に貯える時期だと思い、いつか芽吹く時が来るのを待つことになりましょう。そうして、じっくりと貯えたものが、一気に花開く時が来るやも知れません。その時のことは、神のみぞ知る、ということなのでしょう。


 
研ぎ澄ます(2012.03.08)
 ときどきは、神経の全てを研ぎ澄まし、往来や原っぱに立ってみたいものです。
 普段は見えもせず、聞こえることのないものが、見えたり聞こえたりするのではないでしょうか。静かに謙虚に佇んでみるとき、世界はまるで異なったものを提示してくれるかも知れません。
 きっと、宙は、想像もつかない、大きなものを抱いている筈です。


 
感じる(2012.03.07)
 感じることは、とても大切なことだと思います。
 感じることで、文芸をはじめとする文化の類は成り立っているのではないか、と考えます。何かを感じることは、喜びであったり、悲しみであったりと、いろいろですが、この感じるということが、生きさせてくれているエネルギーになったり、ヒントになったり、指標になったりしているのではないかと思えます。
 目の前の風景に何を感じるか。そんなことは芸術家きどりの連中の戯言だろうさ、では済まない場合もあるかもしれません。
 実際、右に曲がるか、左に曲がるかなどを、日々感じて生活しています。禍々しい出来事の前には、肌にゾクッとくるような寒さを感じたりします。
 感じることでは、動植物の方が、人間より数段上手と言われます。この勘所がないとすれば、生きて行く上で大変な目に逢い続けることになるかも知れません。
 予知などいかがわしいもののように言われますが、私たち人間も、もともとはたいへん鋭い感受性を有した種族だったとのことです。
 文芸、芸術は、感受性を表に出して行きます。これらの感受性が発信するもの、それらをたまにキャッチしてみるのは、大切なことだと思われます。


 
思い(2012.03.06)
 思いというものは、波動となって相手方に伝わって行くのではないかと思います。もちろん、言葉もそうです。
 では、相手にだけ伝わって行くのかといえば、自らが発した波動は、時をおかずに自分自身にも伝わってくるのだと思われます。
 よく、人を呪わば穴二つ、などと言われますが、「自分←発した自分→相手」のように、力(波動)が働くことを、実際の経験上知っています。
 モノを書くに当たって、恨みを込めて書いたり、攻撃の念を発したりすることの怖さ、を教えてくれているのだと、自戒しています。


 
見えること(2012.03.05)
 私たちが見ることが出来るものは、例えば目の前の風景です。人の顔や表情は見えても、心の中までは見えません。
 しかし、それは、私たちが肉体をまとうという次元の生き物であるので、目に見える範囲が極端に狭められているのだと思います。
 肉体を脱いだとき、見える(と言うより察知する)ことがあまりにも広く、無限大に広がるのであろうことは、十分に考えられることです。
 ということは、今見られていないであろうという行いや、考えの中身まで、見透かされているということのようです。この主をサムシンググレイト、と呼びましょう。サムシンググレイトは、宇宙世界の全てを創造し、宇宙世界の隅々で起こること、宇宙世界構成員の全てが考え、行動することまで、全てを見ているのです。
 幽体離脱を体験したとき、この世の姿は普段見ているだけのようなものではないと、少なくともそう思いました。そして、サムシンググレイトの存在を感じました。宇宙飛行士が宇宙に飛び立ったとき、世界観がガラリと変わるという話をされます。宇宙、すなわち私たちの住んでいる場は、決して刹那的なものではなく、深い意味を十二分にもった信じられないほどに精緻なものに違いないと考えます。


 
懇談会(2012.03.04)
 懇談会を終え、ほっとしています。先生と参加していただいた皆様のお陰です。
 とても実りのある会でした。文芸の現状や、具体的な作品の作法に至るまで、たくさんの意見交換ができました。
 今日のことが、じっくりと発酵し、大きくなる日がきっと来ると思われます。
 参加していただいた皆様、本当にありがとうございました。


 
気配(2012.03.03)
 昔からですが、人の気配というものを感じていました。
 誰もいない空間にも、幾重にも人が重なり合っている。と、そう感じていました。これは病的なものかもしれませんが、人の気配を前に後ろに、よく感じました。
 ですから、目の前の宙空は空っぽなんかじゃない。そこは、あらゆるものたちが行き来している場所だと思っていました。斜めに、上下に、自在に。そう、私は多くの気配を感じながらやってきました。
 電波だって、音波だって、横切って行くでしょう。それです。多分、昔の人や、未来の人や、人以外の諸々が、空間を自由に往来している、というものです。
 時間だって、そこらを通過していて、方法さえわかったら、時間の前や後にくっついて行けるのではないか、とさえ思っていました。
 幽体離脱をしているとき、そういうことを感じていたからです。


 
生命とは(2012.03.02)
 幽体離脱を体験してからというもの、「生命」とは何だろうと自然に考えるようになりました。この問いは、幼時から変わらず持っていたものですが、より深く考えるようになったということでしょうか。
 目の前の現実にあるものだけを見るのではなく、その周囲や、目には見えないもの、いわゆる生命体とは呼ばれない山や川や星や石ころ‥‥でさえ、生きているのだという考えになりました。そうすると、見えているものから見られているというばかりでなく、見えていないものからも見られている、ということが「当然のように」あり得るのだ、ということになります。
 すると、「誰も見ていないからやっちまえ」が、まず出来ないようになります。生命はあまねく辺りを埋めているのですから。
 科学的なことはよくわかりませんが、細菌のようなものも、大宇宙のかたちも、よく似ているのだそうです。
 こうやって、生命というものの不思議を、少しずつ感じるようになりました。


 
幽体離脱(2012.03.01)
 幽体離脱というものを体験したことがあります。18歳のとき、盲腸の具合が悪化して、あまりの苦しさにのたうちながら、ベッドに海老のように丸まっていたとき。それに、その翌日、手術室の中で、4時間もの手術になり、麻酔が1時間で切れて残りの3時間、腸を裂かれるような猛烈な痛みに耐えていたとき。そう、2日続けてでした。
 自分は天空にあり、そうです空の高所から、ベッドに海老のように丸まっている自分の姿を、腹を開けられ腸の癒着を剥がされている手術室の自分を、手術室の上から、病院の屋根を突き抜けよく晴れた空から見下ろしていました。そのほか、夜空の星の並びや、街の風景まで、遠く見えていました。
 奇妙な光景ですが、「あそこに帰らなければ」という声が耳元で囁かなければ、そのまま空を昇り切ってもいいな、と思っていました。
 戻った途端に、元の激しい痛みが襲ってきました。涙を流していました。嬉し涙だったのか、ただ痛さ故の涙だったのか、どちらとも言えませんでした。
 ただ、そのことを契機に、生きているということは、どういう状態のことを言うのかわからなくなったのを思い出します。あの天空に、そのまま止まっていたとしても、自分はそのかたちのままで生きていたのではないか、と思えてならないのです。


 
文化に浴す(2012.02.29)
 人間を始めとした種族がなす「文化」というものは、たいへん重要なワードだと思います。文化という概念の中には、歌、音楽、芝居、映画、絵画、歴史、書、生花、茶、俳句、短歌、詩、焼物、学問、法規、経済、技術、工芸、スポーツ‥‥等々数え切れない内容を含んでいるのだ、と思います。
 私は、文化と言われるものの、一つにでも関わり、チャレンジと変化と創造のダイナミズムに浴したいと願うものです。
 人間という種の一人として生を受けたことに謝し、与えられた使命を探し、与えられた能力をできるだけ多く発揮し、与えられた時間を過ごしたいと思います。


 
発信する(2012.02.28)
 フィクションであるとはいえ、悲観のうちにあれば、悲しい作品を手掛けてしまいます。楽しいことをあまり経験したことのない私など、どうしても後ろ向きの話を手掛けてしまいます。肯定するか、否定するか、これは大切なことですね。
 作品を書くこと(もちろん、日常的に考え、行い、発言することも)は、どこかに波動を送ることになりますから、発信する本人はそのことに責任を持たねばなりません。
 天の法にかなう作品を発信するのは、とても難しいことのようです。 


 
文化を探る(2012.02.27)
 黙していては、文化は近付いてきません。毛利衛氏の話をしておりますが、考え方において私が尊敬する根岸博士(ノーベル化学賞受賞)も同様に、挑戦すること、自ら目的を持って飛び込んで行くこと、という心掛けが必要だと強調されています。
 とにかく、体当たりして行く。何度も怯まずに、挑んで行くことだそうです。
 その真摯な姿勢があれば、向こう側も、文化の広がりの何たるかを見せてくれる筈だといわれます。


 
文化(2012.02.26)
 生まれ育った土地柄は、生業を第一にし、文化などチラリとも見せないというところでした。子供に、隣の村すら見せない、児童書などとんでもない、新聞もラジオもダメ、10円の小遣いも与えない、という徹底ぶりでした。そこには、子供が「文化」の臭いを嗅いだり、広い世界を知ったらもう終わりだ、という「悲愴さ」さえありました。
 食べることは大切ですが、文化を認めないところに、人は慰みを見出せません。
 歌、音楽、芝居、映画、絵画、歴史、書、生花、茶、俳句、短歌、詩、焼物、学問、自分、他人、命、生死、人類、空、天、宇宙、神仏‥‥そんなものを見たり、聞いたり、触れたり、実際に行ったりすることで、喜びを見出したり、工夫をしたり、耐え忍んだり、想像を豊かにしたり、心を耕すことで遙かな存在に思いをいたしたり、計り知れない智慧を感じたりすることが出来るかも知れないのですが‥‥ 。
 それらは問答無用、全て厳禁。そんな中に育ちました。
 他への思いやりということを知ったり、優しさということを知るのに、それらが必ず必要であるかといえばそうでもないのかも知れません。しかし、あれば、もう少し、いやもっと豊かな感動が芽生え、コミュニケーションがとれていたかも知れません‥‥。


 
海原稿(2012.02.25)
 海の原稿が届き始めました。嬉しいことです。
 始まりのときは、ドキドキ感があります。これをこう配置して、このような冊子に仕上げよう、というイメージがだんだんと生まれ始めます。
 原稿の締め切りは3月20日(火)ですから、大部分の原稿はこれからとなるのですが、メンバーの心を乗せた、大切な作品と向かい合うことは、緊張しつつも、なによりの充実のひとときとなります。


 
作品(2012.02.24)
 文芸作品によらず、作品というものを頭から馬鹿にしてはいけないと、思うようになりました。作品によらず、成果と言った方が正しいかもしれません。
 作品―何気ないように見える作品、そこには作者の努力と汗と工夫が、びっしり詰まっていることが多いものです。ほんの一行。一行のスペース。それが馬鹿に出来るものではありません。息遣いです。生き様です。
 生命活動の一端としての成果。それは、日々の積み重ねです。
 たいしたことない、などと言ってた日には、何事をも見ることが出来ないかもしれませんね。謙虚にその前に立つとき、新羅万障に出会うことが出来るかも知れません。


 
他の方の作品(2012.02.23)
 これまで、他の方の作品には目を通しこそすれ、気持まではなかなか込めていなかったように思います。ところが、最近いただいたりする本には、気持まで入れ込んで読んでいることが多いことに、ふと気付きました。
 自分が少し変わったのか、いただく本の趣向が変わったのか。多分、両方だと思うのです。今、その機が熟しかけて来て、多くの出会いをすることが出来ることになっているのかも知れません。自分の方にも、多少なりとも意固地さが少なくなって来た、といえるのかも知れません。
 他の方の作品から学ぶことは多いです。ときには、息遣いまで聞こえたりします。
 出会い。このことは、もっとも大切なことのように思えます。


 
次へ次へ(2012.02.21)
 海第7号(通巻第74号)の、締め切り1か月前の依頼を終え、そろそろ海の原稿作成、整理にかからねばなりません。自分の原稿のある程度の部分は決めているので、あとは詩や俳句です。もっとも、今回の小説作品は、かなりの好悪があろうことが予想され、前号での掲載を延ばしてきたものです。
 全作家短編集の原稿の方はチェックを終え、今日発送しました。
 やらねばならないことが詰まっていますが、なかなか上手に消化することが出来ずにいます。いただいた本の感想も書かねば‥‥。


 
小説や詩を書く(2012.02.20)
 以前に、誰からか、何故に「小説や詩を書くのだ。普通に考えたら、自分の恥ずかしいところをわざわざオープンにするなんて、考えられない。止めた方がよくはないか」といった趣旨(又は抗議)の質問を受けたことがあります。
 そのときは、自分でも答えに窮してしまい、「そこにあるから、やるのだ」式の、誠にしまりのない話をしたことで、相手もますます疑念を深めたようでした。
 今もってこの答えが見付かった訳ではありませんが、「自分はそこに向かわなければならないから」という答えは、やはり間違いではないと思います。
 では、そこに向かう元をなすものは何か、ということになります。それは、当人の宿命とでも言うほかはないのですが、多くの仲間は、「重い病気や、死に近い体験」をし、「体験することにより、己の向かう方向が定まった」という言い方は、ある程度「然り」となるのではないかと思われます。
 人間、人間の営み、取り巻く諸々の有り様のことなどを考えて行けば、そこには洋(あるいは杳)とした場所があります。それに向かい、文芸人たちは歩かねば(き続けねば)ならないのでないだろうか、と考えます。


 
小説作品(2012.02.19)
 全作家短編小説集に掲載していただく作品を3つほどに絞って整理してみましたが、結局銀華文学賞奨励賞作品を選ぶことにしました。
 とはいえ、このままでは少し長いので、全体の書き直しになります。まずPC上で手を加え、プリントアウトして最終の形に仕上げます。これが意外と大変です。
 急ぐな、あわてるな、焦るな。この時点で心掛けるのはこのことです。 


 
日本ペン(2012.02.18)
 日本ペンクラブから、2月15日付けで入会を認める、との連絡を受けました。
 私ごときが、ということになりますが、そうなった上は、頑張らないといけません。何をしてよいのやらわかりませんが、大勢の皆様の足手まといにならないよう、まず気を付けることから始めさせていただきたいと思います。
 御助力をいただいた方々に、心から感謝を申し上げ、今後一層努力・精進していきたいとの言葉を述べさせていただきます。


 
詩など雑談(2012.02.17)
 個人の美術館を訪ねたのですが、話はいつか詩の話になりました。というのも、たまたま巡り会ったのが県詩人会のメンバーだったから、というのもあります。
 個々人の消息のことから、いつか震災や原発をどう読み込むか、という話に移りました。確かに、地域によって対応や考え方に温度差があり、書ける内容にも差異がないわけではありません。待ったなしで進んでいる問題ですが、文芸や詩がどうかかわっていくかについては、この地区ではいろんな意見があり過ぎるようです。


 
文芸懇談会(2012.02.16)
 どういうわけか、私が呼びかけ人になり、文芸懇談会を行うことになりました。
 海だけのメンバーでは足りないので、5つの誌に声を掛け、4つに応じていただけることになりました。イメージもよく浮かばないままに、おずおずと呼びかけたのですが、相談すれば助けていただくことが出来、やはりお願いすべきはお願いする、という姿勢が大切であることを身に染みて感じたことでした。
 何事も一匹狼気取りでは出来にくいということを、私の場合は真に感じました。


 
そんな場合?(2012.02.12)
 私が、他の人の作品をけなしてばかりいて何になる、です。
 私は私の作品を書くことのみ、なのです。よくわかりもしないで、批評家もどきになってどうする、なのです。
 そんな場合じゃありません。私が私であることは、私の作品を書くことにおいてのみある、であるのです。この基本のところを忘れてはいけないのでした。
 書かれた作品を云々するより、5枚でも、10枚でもいいから、私の作品を「創り出す」ことを優先すべきでした。もしくは、そのための下調べをすべきでした。
 創り出す。この困難な作業から逃れては、何も始まらないのです。


 
芥川賞作品(2012.02.11)
 今回の芥川賞は、前々回同様に対照的な作風の受賞者を出し、かつ、記者会見でもかなり話題をまいたので、当該作者の受賞作や候補作2編ほどを読んでみました。
 なんとも、コメントできません。
 確かに、人間の悪も、汚いところも、剥き出しに表現し、伝えることという点では言うことはありません。しかし、この作品群が、お墨付きを得、世を騒がせ、20万部も売るなどという作品群なんだろうか、との違和感は拭えませんでした。


 
文芸は遊び?(2012.02.09)
 私は、ずっと、文芸・文学は遊びだ、と言われて来ました。
 もともと私は、文芸・文化というものからは切り離されて育ってきました。
 現在の老齢化問題などを考えるとき、それも「むべなるかな」という思いがあります。上に広がった人口の構成を眺めていると、文芸・文学などやっている場合か、という強い声が近くで聞こえてきます。
 育った田舎でも、職場でもそうでしたし、今もそれは変わりません。
 文芸・文学産業も、加速度的に質の悪化へとひた走っている感がしないではありません。「人間の本来の姿を切り取るべき」、「人間の悪もそのまま表現すべき」などと言われます。文芸・文学に手を染めている私たちには、ある程度わかる言葉であるのですが、こう「傲慢、劣悪、我が儘」としか言いようのない作品と称されるものが、「売らんがため」にもてはやされるとしたらば、これはいかがか、という思いが消えません。
 水の星がアップアップしている今節、「いわば、毒をも流そう」とする私たちの作品の前で、ふと立ち止まってしまうときがあります。
 やはり、文芸・文学人の大半は、遊びの部類であり、毒の部類であるのかもしれません。ふっと呼吸を吐きながら、そう自問自答するときがあります。
 もっとも、今倫理の話をしているのではありません。


 
掌編特集(2012.02.08)
 全作家の49名の掌編特集は、盛り上がりを感じました。出席者の殆どが作者であるのですから、真剣味が違います。それぞれの作品のレベルもかなりのものです。
 5枚程度というのは短い感があるので、せめて10枚程度に出来ないかとの提案もありましたが、この枚数でも十分作品は書けるのだな、と納得しました。
 海の作品はそれはそれとして、こうした意欲の結集されたところに才能はあり、花開くものだと感じ入りました。やはり、人が人に感化されるということと、その環境がいかに大切であるかについて深く考えさせられたことでした。


 
記録(2012.02.03)
 例えば、カタストロフィーが来て、文明・文化・文芸など、これらを流し尽くすとします。しかし、これらのことは、天の波動の中(天の図書館)には確かに刻み込まれている筈ですから、何もかもが流されて、消えてしまうわけではない訳です。
 戦争や津波のことを考えていると、そんな考えに至りました。
 これまでの歴史の幾多のことは、私には何も知り得ないところですが、天にはそれらを全て記録するところがある筈です。あってほしいと願います。例え、抹殺してしまいたいようなことも、全て‥‥。
(メモ)
 4日、文学街293号届く。


 
時化の海(2012.02.02)
 一日、本物の時化の海に出ていました。玄界灘、この海峡にはなんと幾多のドラマがあることでしょう。古くには、元寇の船を二度にわたり沈めたりもしています。
 私も、この海峡があるお陰で、どれだけ泣かされてきたことか。歯ぎしりしたくなるほどの、辛い思い出に満ちています。
 人の切ない思いや、計らいなど平気で打ち砕いてしまうほどの、荒い灘です。


 
図書館(2012.02.01)
 図書館を利用し始めてから、しばらく自分の所持する本には目を通さずにいます。
 文芸・文学・その関連のあたりに向かい、なんの決め事もなく、そこで出会った本を手にするようにしています。まど・みちお、金子みすゞ、宮沢賢治、茨木のり子、新川和江、中原中也らの詩人、角田光代、乃南アサ、田中慎弥、東野圭吾らのこれまで手に取ることのなかった作家、地球変動の本、物理の本など、ためらいもなく読めることが素晴らしいと考えます。まだ、緒についたばかりです。
 この頃は、児童文学書の方にも足を向けるようになりました。


 
中也ほか(2012.01.30)
 中原中也などの作品を、改めて読み返しています。
 中学、高校、一応大学、その後にわたり読んできた筈ですが、彼らは、このように自在に言葉を操り、このように豊かに感情を通わせ、このように幾多の優れた作品を書いていたのだな、と今更のように感じる次第です。
 これまでの自分は何に感じていたのか、感じることが出来なかったのか、情けないほどです。それほど、彼らは、今私が求め、考えていることと同じような感慨の淵に立ち、尽くせるだけの表現方法で、精一杯に表現してきたのだな、と不覚にも今になって、このことを薄々と知り得たという、情けなくもお粗末な話です。


 
読めども(2012.01.29)
 最近、幅広い分野にわたって図書館の本を借り、集中して読んでいます。しかし、読んだはいいものの、読んだ端から忘れていきます。勿論、吸収の方も遅いのです。
 これは何とかしなければ、と悩まないではありません。もともとが忘れっぽいのか、年齢的なものか。その双方だろうとは思うのですが、少しなりと、手を講じないわけにもいきません。そこで、読んだ後、簡単な要約を行うことにしました。
 同人誌の作品も、人物評とあらすじを簡単に手掛けることにしました。それでも、余程の強烈な作品以外は、薄れています。もう一度読み返したりもします。
 今、要約をどのようにまとめるかを考えています。


 
一字一字(2012.01.27)
 作品を書くのは、一字一字を連ねることによってです。連ねることができず、行ったり来たりしながら、空間を埋めて行きます。
 空間に文字が浮かんでいたり、落ちていたりすれば助かるのですが、私ごときですとそうはいきません。一字一字を積み重ね、空間を少しずつ埋めて行きます。
 ごくたまに、自分でも驚くような字句を並べることがあります。
 その味が忘れられず、一字一字連ねて行きます。


 
読書(2012.01.26)
 わが少ない読書内容ですが、かなり科学者の書かれた本を選ぶことが多いです。最近では、「人は死なない」(矢作直樹)に感動し、その他地球や宙空を扱った本に数冊触れました。詩集では、まど・みちお、柴田トヨ、金子みすゞ、宮沢賢治、萩原朔太郎などを知ったり、読み返したりしています。
 こう書いただけで、読書量の少なさにがっくりきますが、「石巻赤十字病院の100日間」という本には衝撃を受けました。
 現在は、なぜか青来有一作品を読み、「長崎」「ナガサキ」というものについて、考えさせられています。


 
柴田さんの詩集(2012.01.24)
 太宰府検定の本と、柴田トヨさんの詩集 「くじけないで」と「百歳」を購入しました。どうしても手元においておきたい本です。私にとっては宝物です。
 柴田さんの詩集の中、「被災地のあなたに」では、「お願いです/あなたの心だけは/流されないで」と語りかけます。「教わる」では、「人生の終わりに/人間のやさしさを/震災で教わったのです」ともあります。
 批評がどうの、何部売れたの、では量れない詩集です。            


 
売れるから(2012.01.23)
 そうです。売れるから、もしくは、話題を引くだろうから、と言ってもらえばいいのではないでしょうか。
 もっともらしい理屈を並べられると、なんだか淋しくなります。
 一言、職業作家として期待できそうだから、と言ってもらえれば済みます。それ以上は、読んでみなければわかりません。小粒だとか、大粒だとかということも、何をもってそういうことになるのかよくわかりません。
 良さそうだからお知らせします、というあたりが最もよいのかもしれません。


 
芥川賞・直木賞(2012.01.22)
 第146回芥川賞・直木賞審査で、芥川賞に円城塔氏『道化師の蝶』、田中慎弥氏『共喰い』の2作品、直木賞に葉室麟氏『蜩ノ記』が選ばれました。
 田中氏と葉室氏が九州・山口出身(在住)ということで、地元はおおいに沸いておりますが、記者会見での田中氏の答弁に賛否両論があるようで、主催側としては恰好の話題提供になったようです。
(メモ)
 文学街第292号届く。


 
掌編49作(2012.01.19)
 全作家第84号の掌編特集49作、ようやく読み終えました。
 作品全体で100頁に過ぎない、などと思うなかれでした。49の作品のいずれにもそれぞれのテーマがあり、文体があるわけですから、中身が極めて濃いのです。
 3〜4倍の量を読んだような気がしました。当然のことながら、内容は49通りですから、考えさせられるし、重たいものも、軽いものも、難しいものもあり、こうやって比べて見れば違いがよく見えてくるものだ、と気付かされました。
 いい作品は文句なくいい(といっても好みの問題かも?)のですが、読むときの自分の気分の持ちようで受けるものが違う、ということも知りました。


 
柴田さんの詩(2012.01.17)
 千円カット歴、10年にはなりましょう。
 以前は近くにあったのですが、今は大橋という町まで出なければなりません。本屋へ行くついでに寄ります。10分で済むのがとても気に入っています。
 久しぶりに冬の晴れ間となり、気温も5度ほど高いようです。
 図書館にも寄りました。図書館では、できるだけ新書を借りることにしています。探し求めていた柴田トヨさんの「くじけないで」を借ることが出来ました。
 とても感動しました。90歳になって始められた詩が、こんなにも心を打つのはなぜだろうと思います。表現がとても若いのです。そして、明快です。「朝は必ずやってくる」の言葉が、とても鮮烈に響きました。
 真実、勇気をいただいた本でした。


 
作品(2012.01.16)
 完成に至らなくても、作品が出来た日は充実の日です。
 どこをどう歩いているのか、どこをどう走っているのか分かりませんが、1作1作が宝です。日々を過ごし、降りてきたモードの中にいることが出来たということが、有り難いのです。文芸なのか、文学なのか、哲学なのか、はたまた遊びのようなものか。いずれにしても、日々を過ごせたということが有り難いのです。


 
小説(2012.01.15-2)
 小説を書くとなると、一晩や二晩で、というわけにはいきません。三か月も、半年も、というのが私の場合普通です。
 20枚ほどまで書き進めないと、何も始まりません。30枚〜40枚のあたりで、少し腰が座ってきます。このあたりで、全てを書き換えるということもよくあります。
 小説のモードの神様は気紛れで、なかなか降りてきてくれません。
 私のような無名作家の場合は、このような調子でやっています。


 
学問は大切(2012.01.15)
 戦中に育った親は進学したくても出来なかったということですが、その子供世代である私たちも、田舎では進学に理解が得られませんでした。
 なにしろ、労働力となることが一番の時代でした。一坪の土地でも多く持つことが、学問を身に付けるより大切なことだと言われました。
 というのが、私の育った田舎の平均的な考えで、現在では考えられないことですが、子供は家業に明け暮れ、進学の夢は否定され、余計な知恵をもたらすということで、義務教育の学業さえ「適当にする」ことが求められていました。
 ですから、本を読むとかラジオを聞くという「外からの刺激」を、強制的に除かれてしまうという状況でした。学校で教わった「偉人伝」のことなど持ち出し、何度「子供に自由を与えてほしい」と頼み、抗議しても、空しいことでした。
 その親は、今になって「土地より、学問だったなあ」と吐露することはあるのですが、私たちの幼少時、「本など与えられなかった(読む時間もなかった)」ということは深い傷跡のように残っています。勿論、学問は幾つになろうと自らが始め、行えばいいのですから、今がその時か、と考えています。
 文芸・文学を実践する上で、「文芸・文学のことを(よく)知らない」ということが、今最大の問題なのです。


 
詩人とは(2012.01.14)
 あんなことこんなことの方には、老後の問題について書いてしまいましたが、文芸人、とりわけ詩人について考えてみました。
 私が最近知るところとなった、まどみちおさん、金子みすゞさんを見る限り、まどさんは100歳を越えられ、金子さんは26歳で亡くなっていますが、お二人とも幼子のような魂の持ち主だ、ということです。
 詩人の全般について知るわけではありませんが、詩人たるもの、幼子のような魂を持ち続けるからこそ、空に漂っている詩のエキスを、空が伝えてくる振動を、言葉として、詩としてキャッチ出来るのではないか、と考えています。


 
発表すること(2012.01.13)
 海についてのことを多少書かせていただきます。
 海は昭和62年(1987年)に創刊、平成21年(2009年)に第二期を創刊し、現在第二期第6号(通巻73号)となる文芸同人誌で、25年の歴史をもっています。
 第一期の時代は30人ぐらいの構成でしたが、第二期では10人程度で発行しています。当初、この少人数で何がやれるだろうとの危惧がありましたが、少人数は少人数なりにやれるものだと考えています。
 海第二期のスローガンは、1)表現する、2)発表する、3)到達する、4)生涯現役、5)山を移す、としており、特に「発表する」ことが最も重要だと考えています。第二期のような少人数ですと、「余程の失敗作or世の秩序に著しく反する作」でない限り、まず発表いたします。
 そこがポイントです。「完成を待つ余り、年に一作も発表できない」ということでは、いかがかと思うのです。つまり、「恥を書きながら、時評等に取り上げられることを期待し、そこでいただいた意見により、次の恥を書く」という手法です。
 時評等を読ませていただく限り、個々の評者により意見が異なるのですから、「完成する」ということ自体、あまり期待できないことではなかろうか、と思うものです。評者の方々には、いつも「完成にはほど遠い海の作品」をお読みいただくことでの申し訳なさはあるものの、「次、いや、次の次には良い作品を書きたい」というふうに歩こうとする海作品に、よろしく御指導等をお願いするものです。


 
関東文芸同人誌掲示板(2012.01.12)
 関東文芸同人誌掲示板は、とても面白いです。根保氏、東谷氏、高岡氏の3氏が、縦横に書き込んでおられ、この掲示板を読むだけでも楽しくなります。
 殊に、批評から離れた逸話? など、素人の私たちには知り得ない世界です。受賞パーティの経費を受賞者で負担したとか、芥川賞受賞者の逸話、そして現在の出版界の状況に至るまで、興味が尽きません。
 現在の出版界がこのような状況であるから、季刊文科や文芸思潮や全作家が独自の活動を行っているのであろう、という点は然りと思うものです。
 久しぶりに、小説を書き上げました。
※ 全作家(全作家協会)の「電子図書館」も読み応えがあります。


 
しばらくぶり(2012.01.10)
 しばらくぶりに小説を読み、小説を書きました。小説を書くには、やはり小説モードにならねばなりません。いや、散文モード、歩行モードといいましょうか。
 評者の方から言われたように、詩は舞踏モードというのでしょうね。
 両者を自由に操れるのならともかくとして、私の場合、小説に入るには少々の時間をかけて、この散文モードに入る必要があります。今、久しぶりにそのモードにあり、作品として完結するかどうかの目安である40枚あたりにかかっています。
 このモードのまま、1〜3作ぐらい書けたらいいなと考えています。


 
本を読む(2012.01.09)
 本を読むことにも少し慣れてきました。勤務を持っていた40年というもの、すぐ傍に図書館はあるものの、休日にはまず自分の作品を「書く」ことに時間を割いてきたため、本を読まずにきました。その結果が、なんでも「勝手流」になってしまったようです。読書は、幼年期、少年期にも(本がなかったため)怠ってきたことであり、そのことで、文芸・文学のそもそもを知らずにきました。
 恐るべき「無知」といえましょう。それが、最近図書館を利用し始め、せめて1時間は読書の時間に充てるようにしています。すると、今まで皆さんがAAだのBBだのと言っておられたことの一部が、うっすらと見えてきました。
 学ぶべきものは学ぶべき、というこの単純なことに納得するこの頃です。


 
心して(2012.01.06)
 ぼんやりとばかりしてもいられません。小説に、取り組まねばなりません。
 取りかかるまでに、時間がかかります。うまく入り込めたら走り行くことになるのですが。願うことは、小説の気分よ出でよ、ということです。
 まず3枚、10枚‥‥50枚、100枚という具合です。どんな弾を込めるか、が一番の問題です。心したいと思います。


 
送ったり(2012.01.05)
 年賀状を整理していると、海を送っていなかったり、詩集を送ってみようかと思ったりで、メール便で数名に送りました。
 50枚の小説を整理し、うまくいかないので、詩に切り替え2作ほど書きました。
 信頼する評者の方が、一昔前の小説ならなんとか書けそうだ、と書いてくださったので半分安堵はしましたが、新たなものには向いていないという言葉に考え込んでしまいました。一昔前のだろうと何だろうと、書くという空間があるのだったらいいのではないだろうか、などと考えながら、でした。


 
全作家掌編集(2012.01.04)
 49名の掌編集であることは、前に書いたことがあるかもしれません。
 10数名の作品を読んで、メモのようなものを作ってみました。勿論、全員の作品に当たることにしています。
 49という数字を、甘く見ていました。文学賞には、1,000人から2,000人の作品が集中するといいますから、そちらの方はさぞや、との実感が湧いてきました。
 掌編とはいえ、49の作品の全てに向き合うということは、たいへんなことです。しかし、これは私自身がパワーを得るチャンスでもあります。
 小説ばかり読んでいると、急に詩の気分がモヤモヤと湧いてきました。その気分のままに、2作ほど書いてみました。推敲にまで至ってはおりませんが。


 
簡単には書けない(2012.01.03)
 この年末年始、作品が書けません。もっとも、書けないというのが当たり前のことなのでしょう。では、これまでに書いたものは何か。
 こう仕掛けていくと、益々深刻になりそうです。
 書ける。書かせていただいている。これまではそう考えていました。
 結局はそこに戻ることになるでしょうが、学んで書く、ということを自分に課しました。どこまで学べるかはおいて、書きながら学ぶ、学びながら書く、というあたりで進みたいと思っております。
 関係の皆様の御指導等、どうぞよろしくお願い申し上げます。


 
御指導に感謝(2011.12.31)
 文芸に関して、今年は多くの知己を得ました。小説の面、詩の面等で、多方面からの御指導等をいただきました。関係各位に、感謝申し上げます。
 わが作品は、未消化なものばかりが目立ちました。文芸・文学のそもそもからしていい加減な状態であるということが理解できましたので、この基本事項の整理を行った上で作品化していくよう努力したいと思います。
 私どもが寄って立つ「海」の発行についても、多くの方々の御協力を得て、年2回の発刊を実行できました。海が、数多くの時評等で取り上げられたことで、同人に大きな勇気と希望を与えていただきました。有り難うございました。
 今後とも、海について、どうぞよろしくお願い申し上げます。


 
詩と掌編と(2011.12.30)
 押し流されるように、詩と掌編小説に取り組んだ2011年でした。
 息苦しい何かが、中編に向かわせてくれませんでした。
 詩も掌編小説も中途半端なままですが、生涯現役の旗は掲げ続けます。もう少し、文芸・文学についての足腰を強くせねばなりません。適度な勘所で書いてきたものは、そろそろ終わりにして、地に足を着けねばなりません。空から、正確に俯瞰できねばなりません。端緒に着いたばかりです。
 困難なことがあろうと、なかろうと、一歩ずつ歩みます。
 頑張りたいと思います。


 
宮沢賢治(2011.12.28)
 宮沢賢治と聞くと、なにかがとてもおっくうでした。なにかが窮屈でした。ということは、宮沢賢治を全く知らないのでした。
 と言って、宮沢賢治のなにかを掴んだのかと言うとそうでもなく、しかし、「春と修羅」を中心に編まれたらしい「永遠の詩シリーズ」に収められた賢治の詩を読み、例えば妹トシの死をこんなにも慟哭していたのか、農業改良普及事業を行いながら、これほどまでに懸命だったのか、これほどまでに天地(あめつち)のことに思いを馳せていたのか、その詩人としての言葉遣いの、造語の、形容語の、オノマトペなどの使い方の、繰り出す凄みに、その情念の奔流に、驚かされました。
 このように銀河を詠み、時空を詠み、人間を詠んだ詩人が、明治に生まれ、大正、昭和の初めに活躍していたということに、自身の不明と、驚きを禁じ得ません。


 
間違いではない(2011.12.27)
 カオス(混沌)については、数名の方から「よろしくない」との御意見をいただきました。「詩になっていない」とも。
 私もさもありなん、と考えてみました。
 確かに「詩になっていない」のだろうと思いつつ、それに「小説を書いてきたのに何故?」「スタンドプレー?」というような感想もありました。
 そうかもしれない、と思いながらも、「しかし、ああするしかなかった」と考えます。他に取り得る方法はなかったのです。「何もしない」「もっと詩的に熟したものを書く」というふうに、考えれば切りがありません。
 もっと詩的に熟したものを書く、ということについては精一杯努力して行きたいと思います。京都での慟哭するような経験をしたまま、「3.11等を目の前にし」「人類危うし」と考える私には、立ち止まるということは出来ないことでした。


 
人は死なない(2011.12.26)
 新刊書にはめったに手を伸ばさないのですが、誘われるように手にしたのが「人は死なない」という本です。東京大学大学院教授の矢作氏の書です。ブルー地に題字が白抜きという、「カオス(混沌)」と同じ装丁に惹かれたということもありますが。
 その内容は、私がかねがね問題にしてきたことに、90%以上答えていただいています。というより、問題とする点、経験(東大教授との経験が同じということではなく、幽体離脱というような経験)、至る考えが、本の中のかなりの部分で似ています。
 人は生まれたら、必ず死ぬ(肉体の死)、しかし根元のところは死なない、ということにポイントがあります。死→肉体の殻を脱いで、時空の中を自由に動ける、というところもです。日本を代表する研究者の説と私の考えが同じ、と言ったところで笑われてしまうことでしょうが、私の場合は、幼い頃からそう信じてきましたし、既知のこととして、みなさんも同じようにそう思われているのだろう、と考えてきた節があります。
 現実を見、(私も)科学的なことを入り口にして向こうにあるだろう(なければならない)という予測をする、という手法から入って行く点も似ています。
 これは、矢作氏と私とがたまたま似ているということだけではなく、多くの科学者が同じ考えを述べ、スピリチュアズムという確たる研究領域も存在します。
 私の作品(小説や詩)も、多くこの手法によっていますが、残念ながらそうは読んでもらえないようです。勿論、私自身の技量のなさ故のことであろうと思われますが、これを用いると、文芸・文学の域を超えてしまう、ということになるのかもしれません。


 
事実の列記(2011.12.24)
 昨日の詩の件で、1点のみ捕捉させていただきます。
 私の詩は未熟であり、詩とは言えないものであろうことは、私自身よく納得しております。ただ、少しだけ説明をさせていただきます。
 確かに、大震災のことを表現しており、このことで関係の方々に嫌な思いをしていただかないようにと、明白であろうと思われることのみを記しました。
 詩という以前の技量ですので、誤解が生じるのかもしれませんが、私の意図は、現在の不穏な感覚(私だけが感じるもの?)から、このようなことがさらに来ることになるかもしれないという予測と、予防のための一つの表現として記したものです。
 ですから、ニュース的なものを並べ、かつ、これが世間をいたずらに騒がせるものにならないよう、事実であろうことのみの列記に止めたものです。


 
文芸へ(2011.12.23)
 全作家84号が送られてきました。数人の作者が冊子を作っているときには思わないのですが、49人もの掌編競作です。圧巻というか、大きな山脈を見る思いです。49人が、振り絞った作品を載せています。鳥肌が立ちます。
 49人の工夫と、49人のモノを書く動機や、素材や、料理の仕方を学ばせていただきたいと思うものです。

 西日本詩時評にも取り上げていただきましたが、私は詩の奥底を覗いていません。それがどんなことであろうか、とは朧に見えはするのですが、漠然とした気分で「そのあたり」を回っているに過ぎません。
 これは、小説にも言えることです。出来得る範囲ではやっていますが、「何かが足りない」「何かが欠けている」のです。そこが掴めておりません。これは、分かっていて届かない「核心部」です。
 核心部を捉えるため、全力を尽くしていきたいと思います。これからが始まりなのだ、と心しています。


 
文芸の日常へ(2011.12.22)
 少しずつではありますが、日常の状態に戻りつつあります。小説にも、詩にも、何一つ意欲は失っていません。
 いかに現実離れした遊び(と言われるもの)であれ、これは実に真剣に臨むべきものです。芸の道です。行けども行けども果てのない、奥深い道です。
 他愛のないことを、書き連ねているように見られるのかもしれません。しかし、目的は自身の生き様についての座標軸を探っている、ということにほかならないでしょう。生き方にも多くの意見がありましょうが、真剣に己を探り、他との兼ね合いを考え、そこから捉え返すことで、さらに歩を進めて己の道に至ろうとするものです。
 ヒトに恥ずかしいとか、ヒトにどう思われるか、とかいう類の意見もあるようです。それはそうなのかもしれませんが、まず己を確認しようとすることが、そう罵倒されるべき雑事ではないことだろうと思うものです。
 生命の座標軸とは、宇宙空間の中、つまり「縦、横、高さ、時間」のどの位置にあるのだろうか、という絶え間のない問いであり、探求であるのです。


 
文芸を忘れている(2011.12.21)
 ここ数日、文芸のことを忘れています。全作家の会合と家のことが重なったという、悔恨があります。何故この日に重なるのか、全く信じ難いことです。
 最近では、本当に久しぶりに毎日新聞に書評を載せていただきました。今年は、意外なことが意外なところからやって来る、ということのようです。
 今年の言葉が「絆」ということになったように、私たちは苦難より癒しを求めています。文芸・文学などとしかつめらしく言っても、たかだかこの100年に過ぎない(異論はあろうかと思われますが)作品のことです。この100年の中で、既に評価が定まったかのように言われる文芸・文学評も、これからどう揺らいでいくのかわかったものではありません。今隆盛を誇っている作品が、時空を越えたとき、いったいどれだけその時の空気に耐えられるでしょう。
 揺らぎ、流れて行く時間、そのことをもう少し考えてみたいと思います。
(メモ)
 20日、文学街291号届く。


 
わが文芸・文学(2011.12.18)
 身内のトラブルがあると、文芸・文学のことはいったんどこかに消え去りますが、どっこい、よりしたたかになり戻ってきます。
 何故に文芸・文学なのか、その説明は周囲の誰から尋ねられてもうまく答えられないのですが、私の場合は、その中に「宇宙を見、我が座標軸を見る」ということのほかにはないようです。「売ろう」「同情を得よう」「人より、なるだけ上に上ろう」などという気持は欠片もなく、「恥を曝してまでやらねばならない→自分の宇宙空間での位置を探すため」という、他人様には説明にならないような動機と、目的でやっております。
 よく言われます。「何を好き好んで、自虐をやるのか」と。私にも、しかと答えることは出来ないのですが、「そうするしかないのだ」とのみ思うものです。


 
評論というもの(2011.12.15)
 ずい分以前から、評論をやってみなさいと勧められていますが、「文芸、文学」の核が形成されていない今の私には、手が出ずにいます。
 もっとも、精一杯系統だてて「文芸、文学」の核を探り、その時期が来た場合には書かせていただくかも知れません。今、他の文芸誌の方からいただいた作品に対して書かせていただいたりしているのは、感想の域を一歩も出ていません。
 つくづく、評論を書いたり、エッセーを書いたりするのは難しいものだ、と思わせられる次第です。


 
詩というもの(2011.12.13)
 この年齢で詩集を漁っても、詩論を読んでも、なかなか胸の内に飛び込んでくれません。
 詩独特の一筋縄ではいかない表現、にとまどってしまいます。芸術ですから、いろんな表現方法があるのはわかりますが‥‥。
 感覚に訴えてくるのならば、キャッチできます。
 少なくとも言葉の体はなしていてほしいと、これは、ひとえに我が無知、無能からくる願望でしょうか。とんでもない山懐に、紛れ込んでしまったのかもしれません。


 
書店(2011.12.11)
 昨日、久しぶりに書店に寄ってみました。そして、そこに集まる人の多さに感心しました。活字離れが言われて久しく、パソコンや携帯からも情報が得られるという時勢に、こんなにも書店が賑わっているというのが不思議でもあります。
 海も並んでいました。カオス(混沌)も並んでいました。
 人の波は、雑誌、コミックあたりに多いのかなという感じがしましたが、多くはないながらも文芸書、専門書のコーナーにも人はいます。
 週間情報であれ、コミックであれ、やはり情報を求め、自らの肥やしにするために、書店は必要なのだな、と眺め入った次第です。
 文化は与えられるものでもあり、求めるものでもあると改めて思いました。
 情報を統制したり、情報を遮断したりする方法だけは、いかなる目的があろうとも、なされるべきではないと強く思いました。
 今、大震災関係の書が多く出されています。これが書店の企画であれ、知らしめるべきは知らしめた方がよい、という思いです。
 海も、中に入れる情報を規制などいたしません。発信したい情報や作品があれば、積極的に利用していただければ、と考えます。


 
合評会(2011.12.10)
 人数こそ少ないものの、真の書き手による合評会。荒らすために荒れていたかのような、数年前の合評会とは大違いです。
 深酒によらない普通の忘年会、これも第二期の求める姿です。
 書き手がエライなどとは露思わない海第二期。ようやく正常になってきたのではないかと思えます。
 あたかも、天災、人災に喘いでいる中にあり、それに関わっているわれわれ。この空気の流れに異変を感じるからこその文芸人です。他人事のような大騒ぎは、胸につかえてしまい、飲み下すことができません。


 
合評会前夜(2011.12.09)
 福岡地区で集まれる方が少ないので、今一つ盛り上がらないのが残念ですが、とはいえ、一応資料の準備はしなければなりません。
 海第6号を読むこと、第6号に寄せられた評や意見をまとめること、同人の状況(減の報告、増への工夫)、その他問題点、他から寄せられた同人誌etcとなるわけです。海の展望についても、話し合う必要があるでしょう。
 異様な年が続いているのですが、2011年はその極めつけの年であったわけですから、今後、私たちも特別な自覚を持って臨まねばならないことになるでしょう。


 
文学街(2011.12.07)
 文学街の主宰には、いったん原稿を送付し、私の方に訳あってすぐに引っ込めたものの、主宰の方では好意的に扱おうとしていただいたところで、たいへん御迷惑をおかけしたことです。
 で、気になっていた文学街文庫の原稿を今日出してきました。確か、締め切りは来年の5月だったようでしたが。早く出し過ぎたということで、また御迷惑をおかけするかもしれませんが。文庫の方は、別経費が必要で、また一冊を構成するという意味もあり、人数を調整されていたようなので、「参加」という意思表示を出来るだけ早めにお示ししたという意味合いも込めたということです。
 こんなことを書いても、何のことかわかっていただけませんよね。
 要するに、「出すのか出さないのかを早めにお返事した」という訳です。
 しばらく気分的に遠ざかっていた感のある小説2編を、何とかとりまとめることが出来、少しだけホッとしています。
 小説も、詩も、俳句も、変わりなく流れのままに作っていきたいと思います。


 
図書館(2011.12.06)
 図書館というところは、と言うより詩人のことを調べていたのですが、これが見事な高学歴のオンパレードなのです。
 詩人に限らず、奥付のあたりを見ると、AB大学(一流に限り)卒業と、90%以上が書かれています。いやしくも文筆に携わる者が、CD大学(二流以下)卒業とか、その下の学歴では書物自体に信用が置けない、ということなのでしょう。
 図書館は、何といっても知の宝庫なのですから。
 というわけで、図書館の居心地は決して良いわけではないのですが、目的あって利用しようとする者には、この空気に浸るしかないのです。
 十代の後半から、二十代の前半にかけての過ごし方(宿命?)が、その後の数十年を彩る(?)ことになるのですね。
 ブツブツ言わず、無心に利用させていただくということが懸命なのですね。


 
まど・みちお氏(2011.12.05)
 今回急遽出した詩集「カオス(混沌)」を読んでいただいた方から、「まど・みちお」さんの作風のようだ、とのことばをいただきました。ところが、「まど・みちお」さんのことを知らない私は、大あわてです。
 市民図書館で5冊の本を借り、大急ぎで目を通しました。
 「ぞうさん」の作者なのですね。私の詩など遠く及ばないところですが、確かに「まど・みちお」さんの書かれていることと、日頃私が「どこからきたのか、どこへいくのか、なんなのか」と念仏のように唱えていることが、どこかで一致します。「現在のもろもろのことから、宇宙を見ている」という同じ視点に驚くとともに、心の友を得たという夢のような嬉しさに満たされました。
 私と同じようなことを問題にしている、それもすばらしく立派な先駆者がおられるのです。このことを教えていただいたことに、感謝したいと思います。そして、私も、「まど・みちお」さんに習い、勇気を持って努力したいと思った次第でした。


 
図書館利用(2011.12.04)
 体系的な読書をどのように行うか、考えてみたら徒歩5分のところに市民図書館があるのです。いつも貸し出しを受けていたのですが、定期的に出向いて、図書館で最も望ましいと思われる本を探し、数時間をその場で過ごすことの方がよいのですね。
 と思い立ったが吉日ということで赴いたのですが、館内の温度が低く、寒さにいたたまれなくなって2時間で退散する羽目になりました。しかし、この限られた時間に1冊は読めたのですから、大収穫です。これからはできるだけ頻繁に、寒くないように着込んで、出向こうと考えます。
 何といっても、自分の小さな書棚に並ぶ本とは量も内容もスケールが違います。定期的に家を空けることで、家人にも歓迎されることと思います。
(メモ)
 12.4文芸同志会通信に、「カオス(混沌)」の中から「埃」が紹介された。


 
読む書く(2011.12.03)
 書くことも、読むことも大切だと思います。特に私は、読むことにおいて決定的な欠落があります。これは、人の所為にばかりはしておれません。
 できるだけ、読み、調べる習性を身に付けたいと思います。それに、足を運ぶことです。足を運べば、落ち葉の一枚の美しさにだって気付きます。
 御笠川畔を歩いただけで、南京ハゼの朱の美しさに胸打たれました。カモが泳ぎ、色とりどりの鯉が泳いでいます。見知らぬ人と行き交うことも、嬉しいことです。


 
素材の確認(2011.12.02)
 期せずして、お二人から、「書く内容は、徹底的に自ら確認した上で」という御助言をいただきました。触れていただいた点は、おそらく同じ点ではないことと思われますが、書く者の責任の持ち方についての覚悟についてだったと思われます。
 自ら調べたつもり、過去のことを書いたつもり‥‥が、作品の上では「曖昧なまま」残されているというものです。これが一人歩きしてしまうと、誤った情報を発信してしまうことになりますから、重大です。
 同人誌作家においても、ましてや売れっ子作家においては、事象を正確に捉え、発信しなければならないのだという、まさに貴重な体験をさせていただきました。


 
悩み果てず(2011.12.01)
 奇妙な悩みにとらわれています。もっと勉強していたら、いや、あんなに勉強したかったのに。時間も、チャンスもなく‥‥。
 そのせいではないのですが、幼少時の約15年が空白で(学問、読書などから遠ざけられていた)、自分には文学を語れない、というボヤキです。
 そのことのせいにしてはいけないのですが、勉学と読書の時間が殆どなかったことは確かです。家を継がせるために、というよくわからない理由のために。
 事実を知らしめない、外を見せない、というやり方はどこかの国の手法に似て、わずかな情報を得たと知れるや、拷問にも似た仕打ちを受けたものです。


 
はてさて(2011.11.30)
 はてさて、我が文芸はどこに向かおうとするのでしょう。
 できたら、具体的な大きなテーマを明確にして、それに寄り添う形で全体を進めて行きたいものです。
 現在の状態では、テーマが抽象的過ぎて、説明し辛く、語り難く、というところですので、まさか「人類救済」などと言おうものなら益々混迷してきます。
 説明努力が必要なようです。


 
舞踏(2011.11.29)
 散文は歩行、詩は舞踏だとの例えで、適切な指導をいただきました。
 わが作品は途上にあります。優れた作品のよさは分かります。しかし、我が作品を優れたものに引き上げるには、相当の努力と力量が必要のようです。
 芸の奥は遠く深し、ということを身をもって感じております。


 
お礼状(2011.11.27)
 かなりの方へのお礼状を書きました。多くの方から多様な感想が寄せられましたので、嬉しい悲鳴です。
 その中で、「なぜ私が大震災のことを?」というニュアンスの感想もいただきました。考えてみれば、そうなのですね。この大震災のことを気に留め、作品を書き留めていたのは当初からですけれど、作品集にまでしようと考えたのは、東京での会合で「この大事を、どのように捉えているのか」と問われたことが、大きなきっかけになっています。
 私にとってのこの惨事は、まだまだ序の口の出来事と映っているという考えもあります。今の世界は、大きな矛盾や問題を多く抱えています。人口問題、経済の問題、民族問題、宗教問題等々、火球である1天体の、表皮の薄い皮の部分に住んでいる私たちには、人智をはるかに越えた力が襲いかかってきたりします。私たちの存在とは、いったいなんなのでしょう。
 それらについて記し、私たちの来し方行く末について、考えてみたいのです。
 いろいろの御意見があります。有り難く素直に受け止め、明日への活力にさせていただきたいと思うものです。


 
本のこと(2011.11.23)
 非常に気に掛かっていた本のことを、まずまずというふうに捉えてくださる方が数名あり、ほっとしています。私自身としては、この判断が良かったのか悪かったのか、という迷いの中にいますので、少しだけ安堵の気持でいます。
 これまで出してきたときには考えもしなかった、悶々とした気持が続くのは初めての経験です。そうです、次のステップに移るのでした。


 
次は(2011.11.22)
 むら気の多い性格なのでしょう。新しい詩も小説も手がけていませんので、気分を一新、次なる作にかかりたいと思います。
 これからは、わかり易い表現というものを、一応自分に課してみたいと思いますが、いかになりゆくでしょうか。わかり易くて奥が深い、というのが理想なのですから。


 
発送終了(2011.11.21)
 カオス(混沌)の大方の発送を終えました。
 今回は、すごく気の重い作業でした。東日本大震災に起点を置くことで、これが軽々しく語ることが出来得ない、という内容の問題があります。はたしてこれらの記述で済むのか、という疑念が今も残ります。
 もっとも、評価など期待しておりませんので、そこはよいのですが。唯一、この内容をもって関係者の方々の気持を沈めることがないように、とだけは祈るものです。今も、京都の「現代詩フェスティバル」でのショック(重層なす感動)が、まざまざと胸の内に残っています。
(メモ)
 20日、文学街290号届く。


 
カオス(混沌)(2011.11.19)
 東日本大震災に起点を置いた詩集「カオス(混沌)」を、静かに発送いたしました。本当に、静かに、秘かにです。
 京都現代詩フェスティバルでの衝撃があまりにも大きく、この 「カオス(混沌)」の内容を足したり引いたりしようと試みましたが、足すことも引くことも出来ませんでした。その渦中での刊行ですから、自分自身が一番問題を承知しています。
 さはさりながら、止むに止まれぬつもりで、こういう形で公にいたしました。御意見、御叱責、何なりと受け入れるつもりです。


 
掌編の校正(2011.11.18)
 全作家の掌編特集に、50の作品が出されたということでした。
 その校正刷りが来たのですが、掌編と侮るなかれ。わずか5枚の作品ながら、辞書を引き引き5回ぐらい読み返しました。
 短いということは実に難しく、怖いもので、一字一句の言い回しによって、ガラリと視界が変わり、内容が異なってきますから、ないがしろに出来ません。
 ある程度の中編のときには、これほど校正に苦労はしなかったのだが、と自分の文章に自信を失ってしまいそうです。
 明日は、「カオス(混沌)」の発送です。だんだん文芸の深みというか、怖さに気付くようになってきている今、身が竦む思いです。


 
海6号(2011.11.17)
 今回の海6号はそれなりに気持を籠めて編集、作成したのですが、良くも悪くもいろいろの御意見をいただき、本当にありがたいことです。
 いただいた御意見は、是非次号に生かしていきたいと思います。
 ということで、文章というものの難しさ、創り出すということの難しさを知るとともに、次なる作品への強い意欲も湧いてくるのですから、不思議です。
 今まさに感じることは、「文芸は奥深いもの」であるということです。


 
文章の難しさ(2011.11.14)
 文章は難しいものです。これでよい、と一度納得していたものが、3日後に見ると違って見えます。息遣いも、行間の雰囲気も違ってきます。
 また1週間後に見ると、まるで違う感覚に出会い、最初から書き直したくなってきます。文章は、これでよいということは、私の知る範囲ではないようです。何か、どこかが変わらねばならない要素を含むもののようです。
 俳句の5、7、5だって、ああでもないこうでもないと、何日も何年も考えたりするのだそうですから、30枚とか、50枚とか、100枚のどこかが変わらない訳がないのです。文章は、少なくともそのときの自分の事情や感情などに沿って書いている訳ですから、事実関係の誤りを発見したり、事情や感情が変化してきたりで、始終手直しが必要になってきます。それでは、いつまで経っても作品として刷ることは出来ませんから、どこかで「えい」という気合いを入れ、諦めなければなりません。
 もっとも、活字にした後からも、常に手直しがしたくて仕方がありません。


 
風邪の日は?(2011.11.12)
 風邪をこじらせ、起きているのが辛いです。こんなときは、文字を追いかけることも出来ません。集中出来ないし、頭に入ってきません。
 寒暖の差が大きいのが原因でしょうか。
 こういうときは、浮薄な我が作品への反省が思い出されて、追い打ちをかけてきます。欲を出そうなどという気はないのですが、諸々のことを考え、工夫すべき貴重な時間だととらえ、思いをいたしたいと考えます。


 
予定は?(2011.11.08)
 そうだ、海の会計報告も、次号のプラン作りも・案内もせねば、と思い立ったもので、結局1日が飛んでしまいました。
 ATMに行って、資料と見合わせて、会計報告を作って、人数分を印刷します。次号の作成案内も、かなり細かいものを作っているので、全体の流れにそって作成、これも人数分印刷し、併せて郵送します。
 メールでの送付を原則にする、としているもののメールを使われない方が複数人おられますので、結局全員への郵送は省けないままです。
 HPにも概要を載せていますので、これらで1日かかりました。


 
もう1つの海(2011.11.07)
 これまで、海(四日市)と呼ばせていただいていた海の主宰が、この10月に御逝去されたとの知らせが届きました。心から、お悔やみ申し上げます。
 これからは、海(いなべ市)というのでしょうか、そちらの方も私たちの海第二期同様に主宰を置かず、委員会体制で続けられるとのことです。


 
現代詩フェスティバル(2011.11.06)
 京都の現代詩フェスティバル以降、あのあまりの衝撃に、次の作品への取りかかりが叶わずにいます。
 あの惨状を、詩で、極限まで削り取った詩のことばで表現されれば、後に何が書けるのだろう、という思いがあります。悲しみであり、怒りであり、それこそ恩讐を越えた叫びであり、内省であったわけですから、あの詩表現を越えて何が出来るのだろう、と立ち止まらざるを得ません。文芸の、作品のインパクトの凄みに、出会った今は。


 
海の説明(2011.11.05)
 最近海についての問い合わせを複数件いただいたので、「海についての説明」を作ってみました。これが、いざ作るとなるとなかなか難しいもので、海の概略については勿論ですが、まず同人誌の仕組み、同人誌の意義、同人誌の目指すところなどを説明することも必要なことから、「入会案内」の要領でまとめました。
 これを海のHPに掲載したのですが、さてその行く末はどのようになりますやら。具体例を書き過ぎたことで、あまり積極的に勧めていない姿勢のようにも見えますし、どうした方向に流れることになるのでしょうか。


 
文化の日(2011.11.03)
 先日の問い合せに対し、「文芸作品は芸術だから」と書き出し、「文章表現を自分のものにし、日々精進しなければならない」というような趣旨のことを伝えましたが、これは自分への言葉でもありました。
 文化、文芸、これは「自由人の遊び」ととられる向きもあるかもしれませんが、文化、文芸には「遊びも必要であり」、かつ「厳しい精進も必要である」ということが的確な表現であるかもしれません。
 今日は、文化の日です。10月31日に記述したとおり、今は誠に厳しい世情でありますが、文化に触れ、親しむ心を忘れないようにしたいと思います。


 
問い合せ(2011.11.02)
 海が入会案内を出している以上、問い合せもあるわけですが、この回答がなかなか難しさを伴います。
 他の同人誌がされているように、「現在の同人からの推薦」という方法であれば、それなりの対処の仕方があろうと思うのですが、なかなか順調にはいかないものです。
 同人誌はなにより「作品が一番」ですから、「5枚程度の作品添付」としていても、これがなかなか出されません。添付作品がシナリオのプロットであったりすると、これを小説の文章にするにはどう表現するのだろうか、という疑問が真っ先に浮かぶのですが、同人誌の仕組みや文芸の概略(私もおぼつかないのですが)まで書かねばならないようで、結構苦心をします。
 それでも、当方に問い合せがあることを喜びとしたいと思います。


 
文化の底力(2011.10.31)
 第26回国民文化祭・京都2011が、「こころを整える〜文化発心(ほっしん)」をテーマに、10月29日から11月6日までの間、京都府で開催されています。
 イベント事業が80を数え、その他関連事業も盛りだくさんで、この期間を問わず、京都府をあげて盛大に行われています。
 東日本大震災後初の大会となることもあり、「癒しの心、今こそ文化の底力」を基本理念の一つとし、「未曾有の危機に直面し、誰もが人生とは、自分の住む国とは何か、どうあるべきかを自問している今だからこそ、日本の文化や伝統の素晴らしさに改めて触れていただくことで癒しと元気を取り戻し、国民の皆様の震災復興の決意を広く国内外に示す大会にしたいと考えています」(近藤文化庁長官)とあります。
 京都府側からのメッセージにも「京都が誇るプロの一流の技能とアマチュアのひたむきさを融合させ、京都ならではの取り組みを展開し、日本文化の粋に触れる伝統芸能や食文化の祭典など、ほんまもんの魅力を堪能していただきたい」とあり、「文化には人々に癒しや前を向いて進む元気を与え、人と地域の絆を強める力があります。『癒しの心、今こそ文化の底力』を共通の思いとして、東日本大震災で犠牲となられた方々に哀悼の祈りを捧げるとともに、被災地から出演いただく多くの方々と心を一つにし、国内外に安らぎと勇気、復興の意思を発信していきたいと思います」とあります。
 この国民文化祭なるものの存在を知らなかった私が、イベントの一つ、「現代詩フェスティバル」に招かれました。
 10月30日、予想どおり「震災と現場と復興」という作品で殆どが埋められ、それは「誠に凄惨で、かつ胸に染みるほど切なく、それでいて温かい」もので、作品の朗読に皆涙するほどに感動したものです。
 今述べたことには多少の説明が必要ですが、この震災という惨事が、詩へと昇華することを通して、「芸術の表現」として、より深く胸を打つ「凄惨さ、悲しさ、えも言われぬ温もり」へと私たちを導いてくれたのでした。
 ともあれ、文化、芸術、文芸、文学の力というか、その奥の深さを改めて経験させていただくことになりました。そして、京都という文化を育んできた地のもつ底力を、身をもって感じることになりました。


 
数通のお礼状(2011.10.28)
 お礼状を数通書きました。義理でもなんでもなく、気持をいただいた場合にはお礼状を書きます。今回、温かい励まし(ばかりではありませんが)を多くいただきました。次号に繋げる意味で、本当に有り難いことです。
 読み、感じ、筆を執っていただいたのですから、心を込めて書いたつもりです。
 同人誌というものは、一般書店に並んでいる書籍類と異なり、頁を繰っていただいただけでも有り難いものです。文章を売っているわけでもなんでもなく、自分たちが経費を工面し、作り上げているものですから、感謝の気持が格段に違います。
 同人誌では、人気作家のサイン会場での定番である「買ってください」とは一言もいいません。「ぶしつけながら、送らせていただいている」という姿勢を変えるつもりはなく、忘れることもありません。
 一方で、人気作家の書籍や、大手出版社の扱うものに比べ「極端に劣る」などと思ったことがないことも、付け加えさせていただきます。


 Sさんの詩(2011.10.27)
 海6号についての感想で多いものは、障害あるSさんの自分を真剣に見詰めた気品ある詩についてです。Sさんは、NHKのハート展に入選し、NHK教育テレビで放映されました。やはり、読者の方は、誠実な作品に対し、共感していただけるようです。
 なにはともあれ、海6号が一定のレベルにあり得るのは、同人個々の真摯な思いにあるようです。それぞれに対し、感謝したいと思います。


 
到着の連絡2(2011.10.24)
 今回ほど、海の発行に気持を籠めたことはありませんでした。もっとも、本来いつもそうあるべき筈のことですが。
 何故かというと、やはり東日本大震災の後だから、ということになりましょうか。私たちを包んでいる空気が、これまでとは異なるということは事実ですから。このような時期に、文芸人としてどう立ちゆけばいいのか、ということを考えざるを得ません。
 歴史は、戦争や、このような甚大な被災を幾度もくぐってきたに違いありません。しかし、私の直感からいって、「何かの始まり」を予感するのです。善だの悪だのを通り越した、「変わりゆく確かな気配」とでもいったらいいのでしょうか。
 このような時期にいただく「到着の連絡」は、これまでになく心に染みます。生きている者同士からの温かい連絡です。感謝申し上げます。
 海は、今後も誠実に言葉を発信していきたいと努力いたします。


 
到着の連絡(2011.10.22)
 海が到着したとの連絡をいただきます。ただちに読んだ、という便りもいただきます。有り難いことです。発行者として、このときが一番嬉しく、感謝の気持に堪えません。なにはともあれ、キャッチボールが出来るということは、同じ道を志す者として、心強い限りです。
 改めて海6号を手にしてみて、今になって初めて気付く割付や、字配りなどのヒントがあります。素人だからといって甘えてはいられません。気付いたことを次号に生かすべく書き留めておき、気持の半分は既に次号の方にも飛んでいます。


 
発行完了(2011.10.21)
 印刷経費・冊子送付料の支払いを終えました。後は、細かい事務費(事務的な送料など)の支払いを終え、会計報告をします。
 合評会を行い、年末ですので忘年会までやれば、今回の発行作業が完了することになります。これらの時系列でのニュースやお知らせ事項は、HPにも掲載します。メールや郵送による周知もします。大きな行程についての流れはありますが、ケースバイケースでの対応がやはり最も必要になります。
 後は、メディア等での作品の紹介があれば、HPに掲載します。他の誌は他の誌のやり方でそれぞれ行っておられるようですが、学ぶべきは学びたいと思います。
 問題は構成員の増、です。現在の構成員で充分発行には足りていますが、新たな風が吹き込んでくるのを、気長に待つことにしたいと思います。


 
発送終了(2011.10.19)
 海を発送しました。実質約1時間半の作業でした。
 ラベルを貼り、送付状と冊子を必要部数封入し、封をします。最後にメール便のシールを貼り、部数を確認して終わります。
 単純な作業のようですが、結構地道にやる必要があります。
 ともあれ、海第6号(通巻第73号)を社会に放ちました。どのように流れていくのか、後はその流れようにまかせるのみです。


 
発送へ(2011.10.18)
 海は、いよいよ明日発送です。どのような出来上がりなのか、まだ見ていません。
 出来上がったばかりの冊子を手に取るときの感動、これがたまりません。特にたいへんな苦労などしたわけではありませんが、肩の荷がスッと下り、責任が果たせたなあ、という妙な至福を覚えます。
 印刷したラベルと、印刷した送付状などを持ち、印刷所に出向き、粛々と作業をする。それだけのことですが、同人誌は自分だけのための誌ではありませんから。
 大げさに言えば、この日のために数ヶ月を費やしてきたというわけです。


 
文芸人として(2011.10.15)
 3.11に代表される現代の逼迫感、このことに否定的であれ肯定的であれ、文芸人は積極的に係わる必要があるのではないかと考えます。
 N氏の言葉に、「原発事故以来、書き物が億劫になってきた。‥‥一番嫌なのは、文学を老後の愉しみの趣味でやってますという姿勢についてである。‥‥もう少し真剣にやれないかと思う気持ちがくすぶる。‥‥」という例を持ち出して恐縮ですが、「然り」と思うものです。
 勿論、老後の愉しみがよくない、というのではありません。私たちはこの時代の空気の中にあって、今、問われているものがあるのではないか、ということです。そういう真剣な姿勢で、やっていきたいと思うものです。


 
取材旅行から(2011.10.13)
 昨日印刷所で出会った方は、私より3歳ほど上の方ですが、フランスを中心に取材旅行に度々行かれるようです。書かれる内容もランボーについて等々です。
 その他にも、イギリスや中東、南米あたりにまで出掛けられる方々があります。
 それを羨んでいるのではありませんが、私の育ったところでは、そういうことを「遊びごと」と一言で片付けてしまう、極めて閉鎖的な考えがあります。
 なにはともあれ、「自由」を奪ってしまうような一方的な姿勢が、「明日を生み出すことを阻み」、「明日を新たに開くことは悪だ」という極論さえ導きがちです。
 「あんなことこんなこと」にも書きましたように、このままの明日がいつもやって来るだろうという安易な考えの押し付けでは、「今の状態さえ維持できない」かもしれないといっても、過言ではないかもしれません。
 今、知るべきものは深く知り、叡智をもって臨まねば、次には進めないことになりかねません。因習から脱し、大きな広い視野を持つべきだと思います。


 
編集終盤(2011.10.12)
 印刷所で海の校正を行い、終えました。最後の緊張を要する場面です。何度確認しても足りないのですが、2時間近くを要して校了としました。
 次は発送の方の準備に入ります。送付リストを確認、宛名ラベルを印刷します。同様に、送付文書を作成し、印刷します。
 実際の発送作業は、10月19日に印刷所に出向き、行う予定です。
(メモ)
 文学街第289号到着。(277、278号が未着であるので、ハガキを出す。)


 
生き甲斐(2011.10.10)
 満百歳で現役の医療に従事される日野原重明先生の番組を見、心打たれました。
 人は生きているのではなく、生かされている。生かされている命を何かの役に立てる。そういう精神に貫かれて過ごしておられるのだ、と感じ入りました。
 その先生のお言葉の一部を列記してみます。一つ一つが含蓄のある言葉であり、紹介する私には、自分の恥ずかしさの方が先に立ちます。
 しかし、文芸面においても、かくありたいと願うものです。
・道は必ずどこかに続く。
・人生を自分らしく生きる。
・生きがいとは、自分を徹底的に大事にすることから始まる。
・学校を出てからも自分で出来るような頭の仕組みを作る。そして、その仕組みに従って生活をし、行動することが必要なのである。
・人のために生きようとするとき、その人は、もはや孤独ではない。
・自分に与えられた命を、より大きな命の中に溶け込ませるために生きていくことこそ、私たちが生きる究極の目的であり、永遠の命につながることだと思う。
・人々とともに生きる世界に自分を置き、周囲がいま何を必要としているのか、自分には何ができるのかを絶えず考えながら、毎日の生活を送る必要がある。
・どんな逆境にあったとしても、受けているものの方が、与えるものよりも多いことに気付く。受けた恵みを、どこかで返そうと考えたいものである。
・自分の命を自分で格調高く保つための勉強を、めいめいがもっとしなければならない。何より大切なのは、生きることについて、これまで以上の「深さ」を求めることではないだろうか。
・最期に自分の生涯を顧みて、自らが生まれてこうなったことは意味があると考えられるように、今日を生きることである。
・文化は命を愛するものである。命を傷つけるものは、文化でも文明でもない。
・人は主義や主張より前に、人間であることを必要とする。
・どんな困難に直面しても、「ここから始まるのだ」ととらえ直すことができれば、私たちはかならず前進できます。
・生きていることの意味は自分で探し勝ちとるものです。それがつまり生きがいにつながります。
・人生とは未知の自分に挑戦することです。
・ビジョンは大きいほうがいい。たとえ自分が実現できなくても、バトンタッチすればいいのですから。
・きりのない欲望が、あなたをしあわせから遠ざけます。


 
全作家短編集(2011.10.07)
 ベスト3を選ばねばならないため、全作家短編集を読んでいます。
 こうやって読み比べてみると、作品の善し悪しというものがわかってきます。たかが小説というなかれ。たかが短編というなかれ。
 30枚という短さですが、きっちりと上質の作品にしたてたもの、ダラダラと書き流したものなど様々です。巷間にいわれるように、最初の数行で作品の大要がわかるということを、実感しました。読み比べるということが、これから書く自分へ大きな影響を与えてくれそうです。こういう試みは、とてもよいことかも知れません。
(付記)
 全作家第82号掲載の作品「藪の中」が、同83号の時評で紹介されました。


 
編集中盤3(2011.10.04)
 海の編集・校正作業を終え、印刷所に原稿や資料を持参しました。
 ここから発行作業の方に移っていきます。およそ1週間後に印刷所での校正を行い、校了となれば、20日頃に印刷完了となります。
 私の方は、送付先の確認、宛名の印刷、送付先への文書作成、その文書印刷などを終え、発送に臨みます。発送は印刷所に出向き、1人で行います。
 海第6号(通巻第73号)が、こうやって船出していくことになります。


 
編集中盤2(2011.09.29)
 海の方は、データでの確認依頼の分の返事が届き、修正を行いました。
 後は、ペーパーでの確認依頼の分の返事が届けば、編集作業の目鼻がつきます。
 私の方は、2010年1月以降の詩の整理などをしました。


 
編集中盤(2011.09.28)
 編集作業も中盤に入りました。プリントアウトした原稿を、内容の確認を得るため、次の編集委員に送付しました。その確認が終わると、データの最終修正を終え、印刷所に持ち込みます。一応、完全原稿という形で持ち込みます。
 1週間後ぐらいに印刷所での校正を終え、印刷にかかってもらいます。
 その間は、送付ラベル作成、送付状作成等の作業を行い、発送時には印刷所に赴き、封入・発送となります。次号の原稿作成要領も作る必要があります。
 約1か月後に合評会を行い、会計報告をするとの手順に進みます。


 
編集作業(2011.09.25)
 海のおおまかな編集作業を終えました。少ない同人数でありながら、133頁の冊子が誕生する予定です。
 身体の不自由なSさんのNHK「ハート展」入賞などのニュースもあり、今回はとても内容のある海に仕上がるのではないか、という感があります。
 原稿を寄せる同人諸氏の真剣な思いに応えるべく、編集作業も精一杯に行いました。作業は、さらに3人による点検を経て、10月20日の発行を目指します。
 編集子としては、とてもたいへんなときでもあり、至福のときでもあります。同時に、原稿を寄せていただいた同人諸氏に心から感謝するときでもあります。


 
編集開始(2011.09.22)
 9月20日に海の原稿を締め切り、編集を開始しました。分量からいえば、130頁程度になる予定です。内容も、かなり意欲的なものになりそうです。
 私事ですが、第26回国民文化祭・京都2011「現代詩フェスティバル」において、「流す」という詩が、京都府知事賞に選ばれたという連絡がありました。


 
文庫本(2011.09.15)
 2週間に1度は、必ず内科医院に行きます。小さな医院ですが、30年来のかかりつけです。先生は多少気難しいところはありますが、スタッフの明るさと気配りのよさには癒されます。院内はいつも花で飾られています。
 その薬局の話です。待合い所には、手作りの鉢物や手芸品が置いてあり、いつも慰められるのですが、「どうぞ自由にご利用ください」というコーナーができ、文庫本が置いてありました。貸出し用だそうです。角田光代、江國香織らの本がたくさんあります。待合所には、週刊誌や新聞が置かれるのが相場のようですが、このユニークな試みにとても感心しました。


 
身内のこと(2011.09.13)
 身内のことがあると、読み書きがどこかに飛んで行ってしまいます。
 こんなことでは、「書く」なんてことも心細い限りですし、「だからこそ書く」というふうにならねばならないのですが、しばし休憩とならざるを得ません。
 身内や身近なことでいろんなことが降ってくるものですから、それらと上手く付き合いながら、ライフワークのことは忘れることなくやっていきたいと思います。
 9月は今日までに、改作、掌編も含めて小説を4編、詩を9編こなしています。まずまずのペースなのかな、と考えています。


 
腹の底から(2011.09.10)
 自分が手がけられることについてですが、腹の底から書く、という表現になりましょうか。送られてくる多くの同人誌等を見させていただくと、みなさんがいかに努力されているかということがよくわかり、刺激を受けます。
 上手く書くとか、手際よく書くとかでは、ことは通用しないようです。
 文芸は「芸道」です。思い付きや手慰みの類では成せない、遙かな道です。


 
年齢制限なし(2011.09.09)
 もちろん海は、年齢制限はありません。その他、殆ど制限はありません。
 もっとも、1)表現したいという意志があること、2)表現するための最低の経費の負担をすること、3)ペンを攻撃の手段にしないこと、という制限はあります。
 新人とかベテランとか、先生とか生徒とか、そのような区別や制限はありません。
 いつでも入会できます。どなたでも、気軽に覗いてほしいものです。


 
何故文芸に関わるか(2011.09.07)
 自分なりに、広く社会にメッセージを送れたらいいな、ということに尽きます。
 読まれもしないのに? そんな内容で? と問われる向きもおありでしょうが、自分の感じるところを、どなたか1人にでも届けられたらと思うものです。
 これは、長年にわたり抱いてきた願望でもあります。
 文芸は芸術です。音楽や絵画のようにとはいかなくても、優れた作品であれば、人々の感性に直接訴えかけることの出来る、素晴らしいツールなのですから。
 また、これから新たに発信したいと考えておられる方のお手伝いが出来たら、とも思います。私の技量でということではなくとも、少なくとも発表の場を提供するということで、というふうに考えるものです。 


 
没入する(2011.09.06)
 没入するために、書いていると言えるかもしれません。
 それぞれの人がそれぞれの方法を持たれていると思います。私の場合は書くことです。キザなとか、技量もないくせにとか、いろいろな声があるような気もしますが、没入するために書いています。
 海の送付先を、現在の状況に合わせてかなり修正しました。毎号を送ってくださるところを中心に、リストを作り直しました。作成部数に限りがあり、送付にかかる経費も見込んでの、これも編集に係る大切な作業です。


 
編集作業開始(2011.09.05)
 海第6号の編集作業を開始しました。2名からの作品到着。早速、割付に入りました。
 11月の発行まで、格闘の日々となります。
 これこそが本来の業務。今こそが、真剣勝負のときなのです。
 
 Y氏から、さらなる助言をいただきました。
 今こそ一つの時代の終焉のとき、ととらえなければならない。グローバリズムの中、社会も価値観も大きく変革して行く。この荒ぶる時代、不安定の時代、情報の洪水の中にあって、私たち自身も根底からの変革を余儀なくされている、というふうに読みました。


 
素材云々ではなく(2011.09.04)
 Y氏から、適切な助言をいただきました。
 素材云々ではなく、その裁き方、展開の仕方などの中身が大切であり、加えて精神性が求められるということのようでした。納得いたしました。
 言われてみればもっともなことで、同じような素材を使っても、作者によっての裁き加減、味付けの仕方、どのような精神で取り組んでいるのかは、全く違います。
 現場の者は、どうしても素材を追うことにばかり夢中になってしまいますが、目の前の事象からでも、どうにでも料理はできる。それは、作者の技量にかかっている、というふうに考えてみることにしました。
 要するに、文芸とは一言で語れるようなヤワなものではない、と思うのです。


 
生涯現役(2011.09.03)
 ひょっとしたら、このことは以前にも書いたかもしれません。
 文芸を志す者に定年はありません。年齢の多寡にも関係ありません。なぜなら、魂の発露であるからです。
 青春の文芸、老境の文芸など、さまざまなものがあって構わないのですが、意図してどこかの年代のみに限るという定年制のような考えが、世間にはあるようです。
 多分、商品としての価値判断から「文芸従事者を作る」という原理がそうさせているのでしょう。しかし、商品になどならなくても、文芸はあるのです。
 魂の文芸は、年齢や、学歴や、世間の序列の枠を越えて、存在する筈です。
 売ることも買うことも出来ない星が、空に無数無限にあることの意味が、そのことを指し示しているのだと考えるものです。


 
掌編も(2011.09.02)
 今年は、掌編にも2、3チャレンジしました。短編、中編と異なり、掌編には掌編の面白さがあります。詩などを書く向きには、掌編の長さ(短さ)がちょうど呼吸に合うかもしれません。読む側も、掌編の優れた作品に出くわすと、その魅力に取り付かれてしまうかもしれません。
 しかし、長短にかかわらず、作品は作品です。10枚程度で物語を完結させるのですから、技量が必要です。緊張感のある語りが必要です。
 俳句の5、7、5が世界を物語るのに似て、掌編でも大長編に匹敵する作品が書けないとは限りません。私のような浅い呼吸の者には、向いている作法かもしれません。


 
遺稿(2011.09.01)
 義母の遺稿がたくさん出てきました。段ボール箱1杯はあります。
 今から20数年前、文章教室に通い、エッセイや小説を手がけるようになりました。一番熱心に取り組んできたのは油絵ですから、文章教室はどうだろうと思っていたところ、持ち前の負けん気を発揮して、地方の公募展に入賞し、エッセイでは賞金を貰ったりしました。小説では一席に、エッセイでは二席まででしたので、亡くなる直前までエッセイを書き込んでいました。
 原稿を見付けたら、そのまま処分することも忍びず、時間があればデータに取り込み、わが同人誌にでも掲載してみようかと考えています。


 
手紙(2011.08.31)
 N氏へ長い手紙を書きました。お礼の手紙です。
 出会いというものの持つ大切さを、これまで知らなさ過ぎました。自分を低くして見れば、優れた方々が多くおられます。この方々からのメッセージを得ることを知らずにいた自分が、情けないばかりです。
 最も、得たからといって自身がすぐに向上する筈もありません。優れた方々が多くおられる、ということを知り得たこと。それがありがたいのです。


 
投稿(2011.08.30)
 投稿はすれど、なかなか好評価には至りません。それでも、投稿を続けます。
 投稿は、自分の作品を書くという動機付けにもなっています。締め切りがあれば、何とか書ける。ということを自分の制作手法にしています。
 投稿しても、年齢制限があるのか、40歳代頃までは2次ぐらいまでには到達していたのが、まるでダメという結果が多くなりました。勿論、自分の手が落ちたということもあり得ましょうが、今の変化は「見る前に捨てられる」ということなのかもしれない、と勘ぐりたくなったりもします。
 という煩悶を繰り返しながら、飽くことなく投稿をします。
 勿論、同人誌掲載作品も、抜かりなく準備しています。


 
読書(2011.08.28)
 乱読というのは、あまり頭に残らないものと思えます。
 外国文学のいくつかも、鴎外や漱石なども一応読んできたつもりですが、自分の内にあまり残っていないところを見ると、記憶に弱いのかもしれません。
 ときに、自分の書いた作品でさえ、細部を忘れていたりします。こちらの方は、書いたときにはもう次のことを考えているという有態が、影響しているのだとは言えますが。書きっ方し、読みっ方し、という問題もあります。
 若い頃からこうですから、もともと頭が悪いのでしょうね。


 
推敲(2011.08.27)
 我が作品の推敲をしています。本当はこの時間が最も大切で、素晴らしい時間となる筈のところです。しかし、推敲というのは、実に大変な作業です。
 他の方の作品だと気付くことが、自分の作品となると、なかなか気付きません。削り、直すという作業は、自身そのものを問われる大事なのかもしれません。


 
心象風景(2011.08.26)
 N氏の作品を読んでいると、特別な舞台でもなく、突飛な事件などなく、心象風景を実に丁寧に書いてあります。それも、角度を変えたらこうだ、違う立場から見たらこうだ、というふうに、細やかに、かといって何一つくどくはなく、もって回った台詞回しなどなく、一見平凡な装いから、「こんなこともあるのか!」という矢が放たれます。
 浮いた部分などなく、誇張の部分もなく、大人し気なのですが、深く胸を打つものがあります。なるほど、この作品だったら、もし自分が批評家であるとしても、高点を入れざるを得ないだろうな、と考えます。
 嫌味な主張がない、メッキを貼ってますよというところもない、納得の作品です。このような作品が「よし」とされるというのが、初めてわかったような気がします。北とぴあで、Y氏にお尋ねしたとき、「素材云々ではないですよ」と言われたのはこういうことだったのだ、と今になって思い起こしました。


 
こつこつと(2011.08.25)
 超人の作品を読んだからといって、私にそのパワーが芽生えたという訳ではありませんので、何かの伝授を受けることがあれば別として、今はこつこつとやって行く外ありません。行きつ戻りつしながら、一歩ずつというふうに、考えています。
 俄然、やる気が芽生えてきたことだけは確かです。考えてみれば、出だしだけ書いたり、中途で休憩したりしているものが100はあります。取り敢えずは、それらをつぶして行きたいと考えます。


 
超人(2011.08.24)
 H氏の作品を読ませてもらいました。言葉がすごい(鋭い)、内容がすごい、その裏付けとなる精神がすごい。この作者は、きっと超人なのでしょう。
 詳細は知りませんが、聞くところによると、源氏物語や枕草子からはじまり、鴎外や漱石は勿論、ありとあらゆる(多分数十人の)作家の全作品を、また海外の作品をも読みこなし、今は速射砲の如く自身の作品にしておられる。文芸、文学だけではなく、芸術一般に造詣が深そうであり、私などには信じがたい超人だとしか考えられません。
 私のような朴念仁が、よくも出会えたものだと、自分の幸運を喜びつつ、ある意味では自分の愚かさをまざまざと見せられたかのような気にもなるのです


 
健康的?(2011.08.23)
 文芸は健康的か、と問われるとNOと言わざるを得ない面があります。
 人間の、社会の、その他諸々の不健全な部分にも入り込み、赤裸々に描くということも必要ですので、そういう意味では非難されることも多いかも知れません。
 また、売れる、という基準で作られる作品には、問題を多く含む場合もあるかも知れません。そこを狙って作られる作品もあるやも知れません。
 作る側も、決して健全ではあり得ないかも知れません。
 しかし、少なくとも、人間の本質に迫っていくという点では、充分意義ある存在だと思うものです。人間が人間であるための危うい道行き、これを描き出し共有するもの、そこに芸術は、文芸は存在するのではないでしょうか。


 
文を締める(2011.08.22)
 作品の内容に入る前に、まず文を締めるということを自分に課さねばなりません。散文であろうと、詩文であろうと変わりません。そのように努めたいと思います。
 その呼吸を会得しなければなりません。体に覚え込ませなければなりません。
 文芸とは、高度な芸です。「遊びごと」で済むようなものではありません。
 どんなに飄逸な表現であれ、真剣に取り組む必要があります。 


 
オノマトペ(2011.08.21)
 オノマトペとは、擬声語、擬音語、擬態語の総称のことで、バタバタとかワンワンとかいう表現のことです。アドバイスをいただいて気付いたのですが、私はどうも安易に使っているようで、鋭い意見をいただいた、と感謝しています。
 月並みな形容と漠然たる比喩の多用についても、なるほどココなのか、と納得しました。
 もっとも、私自身この両者には気を付けていたつもりですが、我が作品となるとどうしても脇が甘くなり、見逃してしまっているようです。
 以前にも、詩文が饒舌過ぎるとか、「しかし」や「だから」などの接続詞の多用が目立つとのアドバイスをいただき、今後の作品に生かしていきたいと思ったものです。今回も、このあたりのことに充分に気を配り、生かしていきたいと思うものです。


 
3.11(2011.08.20)
 東日本大震災、原発問題について、考え始めたらきりがなくなります。
 私たちは、もっと声をあげなければならない、ということです。政治的なことは専門家に委ねるとして、作品の面での取り組みがあってしかるべきです。
 重大な問題です。今、この問題を避けて通るという訳にはいきません。少なくとも、自分の場合は、ということになります。
(メモ)
 文学街文庫(小・掌編作品選集「6」)が届いた。  


 
タイトル(2011.08.19)
 作品に、タイトルはとても大事です。タイトルの素晴らしさに惹かれ、つい読み進むということもよくあることです。その点、わがタイトルは(も、が正解でしょう)素っ気ないことこの上なく、全体が出来上がってもタイトルをどうしよう、と1週間も考えた挙げ句、結局元のままになるということがいつものパターンです。
 限りなく透明に近いブルー、なんとなくクリスタル、ノルウェイの森―等々、他のタイトルと比べてみては、「まだまだ、自分の場合、中身が足りないからなあ」と、変なところで折り合いをつけるという具合です。
 今日の作品もまだタイトルがなく、彷徨っています。


 
まだ短編を2(2011.08.18)
 短編とは、中編以上に難しいもののようです。60枚、100枚の作品(これも短編ですが)に慣れたリズムには、30枚、20枚、10枚の作品のリズムになかなか入っていけません。
 どうかすると、梗概風になってしまうので、息を整えねばなりません。
 詩や俳句と、散文の息遣いも異なります。もっとも、私の場合は散文崩れの詩というべきものかも知れないので、多くを語り得ないのですが。しかし、これらをこなしてこその文芸‥‥と、勝手に思い込んでいるのです。


 
まだ短編を(2011.08.17)
 中編をなどといっていましたが、まだ短編にかかっています。
 素晴らしい作品を読ませていただいて、さて自分はということになるのですが、やはり一朝一夕に成るものではないのが、作品の難しいところです。
 とにかく、食らいついていく、という心構えだけは持ち得たようですので、真剣に取り組むというのみです。その三合目、あたりにでもあればよいのですが。


 
こうも書けるか(2011.08.16)
 昨日の続きです。女流の方の作品、そこには工夫された素材もありますが、むしろ何気ない日常を描かれたものが多いようです。
 それでいて、心理の襞々を書き分けることで、作品が成っています。こういうことでいいのですね、というよりここにも作品が成り立つのですね、ということの方におおいに驚きと興味を持たされます。


 
女流の方の作品(2011.08.15)
 先般恵与いただいた女流の方の作品を、腰を入れて読んでいます。
 場面の設定が巧みだ、筋立てが巧みだ、などというより、大きな精神の主張があるのですが、それが決してあからさまには描かれず、リアリティの内にしっかりと留まった形で書かれています。そこのところを、「素晴らしい」というべきなのでしょう。
 私の稚拙な読み方の、それも中途ですが、1)大いなる精神がある、2)現実の有り様として捉えてある、3)それらがハーモニーとなって打ち寄せてくる、と言うのが果たして当たっているかどうかは別にして、なんともいえず素晴らしい作品です。


 
中編も(2011.08.14)
 最近、短編や、詩作品などにかかわることが多いようです。しばらく挑んでいなかった、300枚程度の中編にもかかわってみたい、と考えています。
 今、いろんな方々からの励ましをいただいております。この場を借りて、心からお礼を申し上げます。


 
一作、また一作(2011.08.12)
 終わりはありません。一作書けば、次の一作になります。文芸には定年もなければ、若造だの、老骨だのもありません。年齢は、感性と自らが決めるものです。
 これが、多分芸術たる所以のものだろうと思います。もっとも、能力ある人は後進の面倒も見ておられるでしょうが、この世界、達人だのと形容される人は(希にあるとしても)そうそうはいないものと思われます。
 創り出すということは、常に一歩から始めます。山登りと同じです。能力ある人も、新人も、みんな同じ頂上を目指し、目の前の一歩を進めて行きます。
 以前、某誌に入会を申し込んだとき、「若造の来るところではない」と突き放されたことを思い出します。それはそれとして、一つの方針ではあろうと思いますが、慢心したところから生まれ出るものは、小さいような気がします。


 
文芸人(2011.08.10)
 また変なことをいって叱られるかもしれませんが、文芸人、特に詩人の詩人たるところは、取り巻く事象から何かを(先に)読み取ることではないかと思います。
 私が、いつも悲観的なことばかり感じてしまうことで、周囲には随分迷惑をかけているのではないかと反省しきりではありますが、やはり、何か異変の予兆を感じてしまいます。それが何か、と問われて答えられない私ですが、奇妙な何かです。


 
念力(2011.08.09)
 念力のゆるめば死ぬる大暑かな(村上鬼城)
 まさに、そのような暑さです。湿度も高く、気温も35度を超えています。昼過ぎに通り雨があり、いったん気温が下がったかにみえましたが、夕方には元に戻りました。
 このような暑さの中でも、詩を書き、散文を書くことなどは、精神の鍛錬に欠かせないものだと思われます。尼僧になるための猛勉強の話を聞いたこともあり、人間幾つ歳を重ねようとも学ぶことを怠ってはならないし、学ぶことは限りなくあるのだなと思います。


 
素材・書き方(2011.08.07)
 やはり、自己流が会っているのかもしれない、と考えました。
 自分としては、無理な(リアルな)設定に今挑もうとしていますが、もともとは八方破れで可、というスタイルでした。小さくまとまる必要はないのかもしれない、と考えはそこまで戻ってきました。
 自己流、それは自分なりの(宇宙)哲学表現のための作品でありました。四方八方に手を広げていますが、その道を濃くしてゆくのもよいのかもしれない、と考えます。


 
仕方ない(2011.08.06)
 もの書きというものは因果なものです。ひょんなところから、ひょんな意見が飛んできます。以前から気付いてはいましたが、その方が何者かは全く存じません。
 もの書きは、まあ、言われて伸びていくという性格からして、こうやって反省した上で、飽きずに喜んでやって行くことにいたします。
 やる気をさらに持って、という意味でですが。


 
念願の本(2011.08.04)
 直にお願いしたこともあって、女流のN氏から「晩秋の客」という著書をいただきました。誠に光栄です。N氏は、文学界への転載も果たされており、最も注目をされる作家の一人です。
 N氏の作品は、「奥に大いなるものの存在を仄めかしながらも、決して観念的ではない」、「充分なリアリズムの方法を生かして、肉離れのしないみごとな成果をおさめている」、「細部にも工夫が行き届き、大きなテーマへと展開し導く」と評される作風で、かねてからその才筆に注目しておりました。
 このいただいた作品を何度も読み返し、そのエキスを探らしていただき、教えていただきたいと願うものです。


 
生み出す(2011.08.03)
 文芸の最大の特質は、生み出すことにあると思います。
 女性が子供を産むことについては畏敬するばかりですが、比べものにはならなくとも、作品を生み出すということも、生きる人間にとっての醍醐味なのではないかと思います。
 新しい命(作品)の誕生が、いかなる運命のもとに流されるのかはおいて、「生み出す」ということの喜びを知ったなら、もう老いも若きもありません。
 これこそ、最大の社会参画といえるのではないでしょうか。


 
楽しむ(2011.08.01)
 文芸をやっていて「楽しむ」もないのですが、さりとて苦しみに沈んでばかりいても詮ないことです。他の方々の作品を楽しむ。これは出来ます。それに感化されて自分も意欲をかき立てる。これも出来ます。
 要はベスト(が難しいのでしょうが)を尽くし、後は知らない(評価にとらわれない)ということなら、出来るかもしれません。
 私たちは作る側です。何か、一語でも納得するものを生むことが出来ると信じ、一歩ずつ歩む、これなら楽しめるかもしれません。


 
難しい(2011.07.30)
 わが短編を読み直すと、真黒になるほど修正しても、終わらないのです。もともと能力の問題もあるのでしょうが、読み直しても読み直しても、次々と課題が出てきます。
 まてよ、以前は2回ほども読み直せばOKだったのに、と考えてみます。以前がよほどいい加減だったのか、現在が細かすぎるのか。いずれともわからないのですが、作品を書くということは本当に難しいものだと思います。
 殊に、全作家の会などに出たこともあり、より慎重になっていることは否めません。ものを書き、生み出すということの苦しみ。しかし、そこに同時に喜びもあります。


 
短編を(2011.07.29)
 ともかく短編を、ということで一応仕上げていた作品の見直しに入りました。
 すばらしい多くの作品は読むことがあっても、いざ自分が書くとなると、やはり理想どおりにはいきません。なんとか手を加えてみたものの、これで済むわけもありません。
 またしばらく時間を置くことにします。
 という調子で、なんとか1作を一応仕上げてみる、ということにしたいと思います。


 
全作家協会総会等(2011.07.26)
 7.24のこの会合(北区:北とぴあ)は、刺激多いものでした。創作に向かうメンバーの迫力が違います。
 9.11と3.11という事実が突き付けられている現実の中で、どう書いていくのか。このことに誰もが思いをいたしているようです。たいへん重い問題です。
 しかし、会員のみなさんの意欲は、「だからこそ」と漲っているようでした。私も、その意味するところを汲み取っていかねばならないと、おおいに考えさせられました。


 
作家養成講座(2011.07.21)
 若桜木 虔著「作家養成講座」という本を試みに半分ほど読んでみましたが、作家という存在のなんたる厳しさ、人間臭さ、などをまざまざと感じ、世の中に作家(芸術家)ほど厳しい仕打ちを強いられる存在はないのかもしれない、とかねて感じていたとおりの思いを新たにしました。
 とにかく、才能と、運と、学歴と、準備の周到さ斬新さと、人間力と、時間無制限での拘束等々が求められるものだということが延々と述べられています。


 
文芸思潮(2011.07.20)
 文芸思潮第41号が送られてきました。拙作「風の街」が掲載されていますが、今号はまほろば賞候補作7編(胡壺から2編)が掲載されており、東日本大震災のニュース掲載など、426頁の大冊子になっています。
 文芸思潮の意欲がみなぎる冊子といえるでしょう。


 
同人誌関連(2011.07.19)
 一言で、同人誌と呼び捨てるなかれ。これはいつもそう思うのですが、送られてきた冊子数冊を読み、改めて一作一作に込められた「渾身の思いと努力」に敬意を表するものです。なんといっても、一作には作者の人生が描かれています。創作であるのですから、当然のこととして、工夫に工夫を重ねられた形跡が見えます。
 一作は、机の上で気軽に作れるようなものではありません。要するに、手慰みや遊びではないということです。
 その根本精神は、世にもてはやされる作家のものと変わりません。これは芸術家としての表現であり、ライフワークであり、定年のない仕事であることに間違いはありません。
(メモ)
 文学街文庫「6」の追加5冊を注文


 
積ん読2(2011.07.18)
 乱読の必要があることを痛感し、多少本(愛用のBOOK OFFで)を求めてきました。
 それに、読んだもの、読んだ内容を自分の内で整理する必要があると感じていますので、できるだけその作者を代表するであろう作品だけでも、自分なりの整理をし、まとめをしたいと考えています。
 やはり、優れた作品をおおいに参考にさせていただく、ということが喫緊の問題だと思うものです。
(メモ)
 文学街第286号送られてくる。


 
評と作品(2011.07.17)
 小説作品に限っての評は、文芸評論家によるもの、作家でもあり文芸評論家でもある方によるもの、作家によるもの、学者や学芸員によるものなど、いろいろのようです。
 そのどなたもが同じ作品を推されるとなれば、なるほどと思うものですが、そうもいかないところを見ると、評というのは本当に難しいものだな、とつくずく思います。
 というより、文芸作品を創るということは、なんと難しく、それだからこそ底知れない魅力と深みを覚えるのだな、と思う次第です。


 
文学史(2011.07.16)
 大多数の文芸関係者の方と違い、私の場合は幼児期に、本も雑誌も新聞も電波からも遊びからも遠ざけられていたため、文学(文芸)についての系統的な芯を持ち得ないという、決定的な欠陥があります。
 では何をすればよいか。といってもこれという手だてはないのですが、遅ればせながら乱読をすること、文学史に目を通すこと、核となる研究資料を得ること、出歩くことで現実に触れてみること、書き続けること‥‥という、まことに心許ないことを、1からやってみなければならないと思っています。


 
同人誌推薦作(2011.07.15)
 全作家82号の同人誌推薦作(文芸時評賞)を読みました。「幻想の街」(千田よう子)という作品ですが、文章の運び、筋の運び、意外性など、プロの作品にも劣らない内容かと思いました。因習や常識にとらわれない女性の性を大胆に描いていて、同人誌にも、こういう力ある作者がいて、風を吹き込んでいるということに驚かされました。
 評では、今少し内面にまで及んでいればということですが、たいへんすばらしい域にある作品だと感嘆しました。


 
お勧めの本(2011.07.14)
 久しぶりに「お勧めの本」を再開しました。
 あまりにも本を読まないことの自戒を込め、また、読んだ本を整理してみることもタメになるのではないかと、思ったためです。考えてみれば、無計画の計画なる自堕落さでやってきたことが、もう少しマシな方向になるかもしれない、との考えからでもあります。


 
地平を開く(2011.07.13)
 中央の誌に発表すると、その反響の早さに驚かされます。もっとも、欠点もズバリとついて、ということですが。
 実際、評がただちにWEBに乗るのですね。
 これまで福岡という場所で、30年近く発表してきたのですが、やっぱりスピードが違います。問われている「地平を開く‥‥」については、多くの作品でこれまで試してきましたし、それに破れて? 具象に戻るという試みをしたばかりです。
 ともあれ、面白いテーマを突き付けられました。再び、「地平を開く‥‥」の方向に果敢にチャレンジしてみたいものです。


 
肯定する(2011.07.11)
 私にまさに欠けているものは、いらぬ取り越し苦労をして、現実を肯定し得ないということがNO1の座を占めているようです。
 取り越し苦労をして何になる。いつもそう思ってかかるのですが、そのうちにやはりこのマイナススパイラルにはまっています。
 あんなことこんなことに書いたように、今を精いっぱいに心を尽くしてやればいい。できれば、笑顔を浮かべて、というふうに「肯定」の方に向くことといたします。(実際は、努力をいたします、というべきところですが、願望のままではすぐにバックしてしまいますので、敢えて断定の表現にしました。)


 
県詩人会2(2011.07.10)
 県詩人会総会に出席させていただきました。
 出席する前から、「場違いなところに行くのかも知れないなあ」という感じが胸を去来していたのですが、やはりそのようでありました。とはいえ、内容こそ私が十分に理解し得なかったものの、所属を越えて、詩人の方たちが一同に会されているということに、なにより素晴らしさを感じました。
 ついていけるのかなあ、というのが今日のところの率直な感想ですが、お付き合いいただいたMさんにお礼を申し上げるとともに、過去にお付き合いしたことのある何名かの方に、再びお会いすることができたことは、やはり今日の日は特別な意味を持つのだったのだ、と考える次第です。


 
本業にも2(2011.07.09)
 全ての社会的な経験に乏しい私にとって、少々の場所に出向いたり、少々の資料を漁ったりしても、なかなかすぐには実になりません。その方面はじっくり焦点を定めゆくこととして、今は今なりの作業が必要です。
 キャラに気を配ること、第三者の目をも意識すること。このあたりには、もう少し意を用いたいと思います。


 
本業にも(2011.07.07)
 本業の散文に戻らねばなりません。ここで、ちょっと(かなりの)気分の切り替えが必要になります。月末には、全作家の会合にも出ねばなりません。
 とにかく、5枚ほど書いてみました。
 散文の方は、いくら頑張っても2週間や1月で出来上がるものではありません。この呼吸に戻るには、かなりの努力が必要です。


 
焦るなかれ(2011.07.06)
 このことが、20代とはいわずとも、40代ぐらいまでに私の中にあったならと、この頃強く思われます。
 焦りから感情的になり、無茶な頑張りをしたり、背伸びをしたりしてきたことが、どれだけつまらないことになったか、今更ながら、「反省と冷や汗の巻」として残ります。
 しかしながら、わが精神年齢は17歳。教訓を生かせるものなら、これから一歩ずつでも生かすこととし、なんとか良い方向にベクトルを向け直したいと考えます。


 
幼児環境3(2011.07.05)
「八日目の蝉」の流れで、また幼児環境について少し触れさせていただきたいと思います。「この宇宙のなかに子どもたちがいる。これは誰でも知っている。しかし、ひとりひとりの子どものなかに宇宙があることを、誰もが知っているだろうか。それは無限の広がりと深さをもって存在している。(中略)大人たちは小さい子どもを早く大きくしようと焦るあまり、子どもたちのなかにある広大な宇宙を歪曲してしまったり、回復困難なほどに破壊したりする。このような恐ろしいことは、しばしば大人たちの自称する「教育」や「指導」や「善意」という名のもとになされるので、余計にたまらない感じを与える。
 私はふと、大人になるということは、子どもたちのもつこのような素晴らしい宇宙の存在を、少しずつ忘れ去ってゆく過程なのかとさえ思う。(後略)」
 これは、河合隼雄氏の「子どもの宇宙」という著作の冒頭の部分ですが、たいへん共感を覚えます。人間は、大人の助けなしには育たないのですが、その一人一人が持つ「子どもの宇宙」を、どう育てていけばよいのか、たいへん難しい問題だと思います。また、子どもの側に立ってみれば、何もわからないだろうとタカをくくっている大人の、この世の垢にまみれた無知で勝手な都合からくる一挙手一投足を、じっと観察しているのだと、そう考えずにはいられません。 


 
県詩人会(2011.07.04)
 私が詩人会などというと、大笑いされることでしょう。
 30年前、散文1つに絞ると決め、その努力目標の中途にあるからです。
 30年前、詩に挫折しました。その状況が何一つ変わったわけではありません。当時確か、1行を書くために、頭を斜めに、逆さに捻って、唸っていたのですから。
 この4月、まことに妙な経緯で話がやってきて、私自身がまだ何も理解し得ぬまま、昨日「お出でください」との連絡をいただきました。
 考えてみれば、14、15歳の頃から20年近く詩と格闘してきたのですから、「もう一回やってみたら」という天の声なのかもしれないと、そう前向きに考えてみることにしました。


 
幼児環境2(2011.07.03)
 角田光代作「八日目の蝉」を読みました。
 さすがに角田氏だけあって、親と子、子と親というテーマの、スケールの大きな物語をゆったりと丁寧に書き込んであります。
 愛すること―特に、幼いときにどう愛されるべきか。愛されることによってこそ、これが次なる愛に繋がっていくのだ‥‥。というふうに読み、考えました。
 幼いとき、(まだ、人間が天使の翼を持っているとき)親が、どんな事情があれその親が、周囲の者たちが、子供に与える影響の甚大さを、心して読みました。


 
幼児環境(2011.07.02)
 文芸に携わると否とに関わらず、幼児における環境というものがいかに大切なものであろうか、と考えます。
 生業に懸命なため、子供の成長に必要な情操を養わせない、あるいは妨害するという親のもとでは、これからの時間を生きていく子供の核の部分を形成させ得ない、という酷い仕打ちを与えかねません。
 現在では、この情操教育の部分も含めて学校教育が担っているのかもしれません。
 しかし、家庭内における環境(DNAの引き継ぎも含めて)こそが、どのような子供を育てるかの、最も重要な鍵を握っているのだと思います。
 理由あって、外部の情報を遮断する、本を与えない、電波を与えない、学びの手段を与えないとすると、子供はそのような他の世界があり、それは魂の錬磨になるものだということさえも知らずに育つ可能性があります。その結果は、K国のようなマインドコントロールによって埋め込まれた性格を持つ、例えば、広い世界を知らない、命の尊厳や神秘を知らない、極端な保守的人間あるいは人間の優しさを知らない、という大人を育てたりします。(単なる甘やかしを勧めているのではありません)
 特別の事情がないのであれば、子供には愛情を注ぎ、遊びや楽しみを与え、必要な情報は与え、将来の悲観的な例え話などを与えないようにすれば、子供はやがて独り立ちし、自らの責任で行動することができるようになるのではないでしょうか。
 今、しみじみと感じていることの第一です。




 索 引



幼児環境(2011.07.02)

幼児環境2(2011.07.03)

県詩人会(2011.07.04)

幼児環境3(2011.07.05)

焦るなかれ(2011.07.06)

本業にも(2011.07.07)

本業にも2(2011.07.09)

県詩人会2(2011.07.10)

肯定する(2011.07.11)

地平を開く(2011.07.13)

お勧めの本(2011.07.14)

同人誌推薦作(2011.07.15)

文学史(2011.07.16)

評と作品(2011.07.17)

積ん読2(2011.07.18)

同人誌関連(2011.07.19)

文芸思潮(2011.07.20)

作家養成講座(2011.07.21)

全作家協会総会等(2011.07.26)

短編を(2011.07.29)

難しい(2011.07.30)

楽しむ(2011.08.01)

生み出す(2011.08.03)

念願の本(2011.08.04)

仕方ない(2011.08.06)

素材・書き方(2011.08.07)

念力(2011.08.09)

文芸人(2011.08.10)

一作、また一作(2011.08.12)

中編も(2011.08.14)

女流の方の作品(2011.08.15)

こうも書けるか(2011.08.16)

まだ短編を(2011.08.17

まだ短編を2(2011.08.18)

タイトル(2011.08.19)

3.11(2011.08.20)

オノマトペ(2011.08.21)

文を締める(2011.08.22)

健康的?(2011.08.23)

超人(2011.08.24)

こつこつと(2011.08.25)

心象風景(2011.08.26)

推敲(2011.08.27)

読書(2011.08.28)

投稿(2011.08.30)

手紙(2011.08.31)

遺稿(2011.09.01)

掌編も(2011.09.02)

生涯現役(2011.09.03)

素材云々ではなく(2011.09.04)

編集作業開始(2011.09.05)

没入する(2011.09.06)

何故文芸に関わるか(2011.09.07)

年齢制限なし(2011.09.09)

腹の底から(2011.09.10)

身内のこと(2011.09.13)

文庫本(2011.09.15)

編集開始(2011.09.22)

編集作業(2011.09.25)

編集中盤(2011.09.28)

編集中盤2(2011.09.29)

編集中盤3(2011.10.04)

全作家短編集(2011.10.07)

生き甲斐(2011.10.10)

編集終盤(2011.10.12)

取材旅行から(2011.10.13)

文芸人として(2011.10.15)

発送へ(2011.10.18)

発送終了(2011.10.19)

発行完了(2011.10.21)

到着の連絡(2011.10.22)

到着の連絡2(2011.10.24)

Sさんの詩(2011.10.27)

数通のお礼状(2011.10.28)

文化の底力(2011.10.31)

問い合せ(2011.11.02)

文化の日(2011.11.03)

海の説明(2011.11.05)

現代詩フェスティバル(2011.11.06)

もう1つの海(2011.11.07)

予定は?(2011.11.08)

風邪の日は?(2011.11.12)

文章の難しさ(2011.11.14)

海6号(2011.11.17)

掌編の校正(2011.11.18)

カオス(混沌)(2011.11.19)

発送終了(2011.11.21)

次は(2011.11.22)

本のこと(2011.11.23)

お礼状(2011.11.27)

舞踏(2011.11.29)

はてさて(2011.11.30)

悩み果てず(2011.12.01)

素材の確認(2011.12.02)

読む書く(2011.12.03)

図書館利用(2011.12.04)

まど・みちお氏(2011.12.05)

図書館(2011.12.06)

文学街(2011.12.07)

合評会前夜(2011.12.09)

合評会(2011.12.10)

書店(2011.12.11)

詩というもの(2011.12.11)

評論というもの(2011.12.15)

わが文芸・文学(2011.12.18)

文芸を忘れている
(2011.12.21)


文芸の日常へ(2011.12.22)

文芸へ(2011.12.23)

事実の列記(2011.12.24)

人は死なない
(2011.12.26)


間違いではない(2011.12.27)

宮沢賢治
(2011.12.28)


詩と掌編と
(2011.12.30)


御指導に感謝
(2011.12.31)


簡単には書けない
(2012.01.03)


全作家掌編集
(2012.01.04)


送ったり
(2012.01.05)


心して
(2012.01.06)


本を読む
(2012.01.09)


しばらくぶり
(2012.01.10)


関東文芸同人誌掲示板
(2012.01.12)


発表すること
(2012.01.13)


詩人とは
(2012.01.14)


学問は大切
(2012.01.15)


小説
(2012.01.15-2


作品
(2012.01.16)


柴田さんの詩
(2012.01.17)


掌編49作
(2012.01.19)


芥川賞・直木賞(2012.01.22)

売れるから
(2012.01.23)


柴田さんの詩集(2012.01.24)

読書
(2012.01.26)


一字一字
(2012.01.27)


読めども
(2012.01.29)


中也ほか
(2012.01.30)


図書館
(2012.02.01)


時化の海
(2012.02.02)


記録
(2012.02.03)


掌編特集
(2012.02.08)


文芸は遊び?
(2012.02.09)


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そんな場合?
(2012.02.12)


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(2012.02.16)


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(2012.02.21)


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(2012.02.23)


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海原稿
(2012.02.25)


文化
(2012.02.26)


文化を探る
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発信する
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文化に浴す
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幽体離脱
(2012.03.01)


生命とは
(2012.03.02)


気配
(2012.03.03)


懇談会
(2012.03.04)


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(2012.03.05)


思い
(2012.03.06)


感じる
(2012.03.07)


研ぎ澄ます
(2012.03.08)


時とは
(2012.03.09)


書く
(2012.03.10)


書くこと
(2012.03.11)


驚いた
(2012.03.12)


道を求め
(2012.03.13)


高きを求め
(2012.03.14)


海について
(2012.03.15)


メール等のみ
(2012.03.16)


海の作品
(2012.03.17)


わが作品
(2012.03.18)


命を賭ける
(2012.03.19)


海締め切り
(2012.03.21)


吉永小百合論
(2012.03.22)


海第7号
(2012.03.23)


海第7号2
(2012.03.24)


同人誌に何が
(2012.03.26)


同人誌に何が2
(2012.03.27)


同人誌に何が3(2012.03.28)

同人誌校正
(2012.03.30)
















































































































































































































































































































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