コーヒータイム


  「無名作家のメモ」、「無名作家のつぶやき」とでもいうべき欄です。
   このHPの中で、管理人が、最も気楽に書いている部分です。内容は、やはり「文芸について」です。

 
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文芸(2009.12.31)
 人情の機微を描き、ストーリーに趣を凝らす。
 これが、文芸の王道であることは言うを待ちません。文芸は人間を描き、人間の共感を得るべきものであること、これも言うを待ちません。
 しかし、場合によっては、人間を離れることも有り得ます。人間のために離れるのです。勿論、場合によっては、という但し書き付きでです。それが、王道ではないことは確かです。
 若いとか若くないとか、売れるとか売れないとかではありません。もはや、文芸ではないという判定がなされるかもしれません。
 今、激しく思うことは、この一点にあります。


 
詩の時評(2009.12.29)
 12月28日の新聞に、初めて詩の評を取り上げていただきました。初めてというのはちょっと語弊があり、実は前回にも名前だけは載せていただきましたが、本格的なものは今回が初めてです。
 詩で紹介されることは、自分としては実に嬉しいものです。というのも、小説を始めるまでの20年間、短歌、俳句、詩を懸命にやっていたのですが、ことばを削らねばならない短詩形に行き詰まってしまい、散文に転向したという経緯があるからです。
 今、30年の間を経て、海第二期の立ち上げとともに、本格的に、再び短詩にも手をつけてみたところでしたので、今回の紙上での紹介は本当に励みになります。
 あたかも、詩集、句集発刊の準備をしていたときだけに、強く背中を押していただいたという感をもちました。
 
 それに勿論、11月27日には、小説の方も取り上げていただきました。こうやって、紹介していただいたことが、どれだけ大きな励みになることでしょう。
 感謝申し上げるとともに、自分自身も、より成長することができるよう、心したいと思います。


 
合評会(2009.12.23)
 12月20日は、第二期海発足後初めての合評会でした。
 少人数のこぢんまりとした集まりでしたが、しっかりとした意見交換がなされたと思います。なにより、海が、発表する場として恰好の場であろうとの確認ができたのではないかと考えます。
 合評会終了後は、場所を移しての忘年会兼出版祝賀会となりました。
 お酒が入ると話の内容はより濃いものになり、来年への地固めをしっかりすることができたのではないかと感じました。
 要は、書くこと、発表すること、各自が各自の考えのもとに伸びゆくこと、という具合になるのではないでしょうか。すなわち、地道な日常の積み重ねのなかから、大きな目標を目指す、という道筋を歩き続けるということになりましょう。


 
欲張り過ぎると(2009.12.17)
 詩集も句集も、と欲張りすぎるとたいへんです。
 いざ、印刷に回すとなると、一字一字が気になり慎重になるもので、詩や句となるとその数の多さが、作るときとは違い重たくなってきます。
 とはいえ、いくら頭をひねくってみても効果も望めそうもなく、まず妥協することに覚悟を決めました。それでも、700から800句の一つ一つが迫ってきて、わたしのような素人の作のままでいいのか、と詰め寄ってくるのには閉口します。


 
読み返してみて(2009.12.12)
 海の合評会が近付いてきたので、冊子を読み返してみました。
 作成時から2月近くになろうとしている今、読み返してみると、なかなか良いではないか、という感です。
 作成のときは、割付の是非や、間違い発見という目でばかり見ていたので、欠陥ばかり目に付き、それが気持の方にも影響していたのですが、しばらく間を置けば、また違った角度から見ることができるようです。
 その感触が、まあまあということは、やってきたことが無駄ではなかったということになるのでしょうか。勿論、これから真の意味での中身の充実、ということを課題にすべきことになるのですから、糠喜びばかりはしていられません。
 海は、今スタート地点に立ったばかりなのですから。


 
詩誌(2009.12.3)
 このところ、詩誌を続けて受贈しました。
 私も、30年ぶりに詩に親しんでいるところで、これまで以上に親近感を覚えます。詩の持つ直感性(こんなことば、あるのでしたっけ?)は、理屈抜きに入ってきますし、神でも仏でも、怪獣でも登場します。いえ、登場し易い(?)といったら語弊があるのでしょうか。
 もちろん、散文にはない研ぎ澄まされた感性が要求されますので、詩を書き続けるというのは並大抵のことではないと思いますが、時代背景とか、性格描写とか、ストーリー展開とかにあまりとらわれずに済む、というところは魅力です。
 勿論、散文には散文としての落ち着きと、散文ならではの醍醐味があるわけですので、どちらが上だとか、どちらが優れているとかは言えないと思います。
 今回いただいた詩誌は、いずれも作者の全身全霊が込められたと思われる内容で、素直に感服いたしました。


 
書くこと(2009.12.1)
 書いたものは一人歩きする、といいます。まさに、そのようです。
 そんなつもりではなかったのにとか、本当はこういう意図だったのに、とかいう弁明をしないのが文芸、いや芸術一般に言えることですから、それらは覚悟しないといけないのでしょう。
 ただ、本人の不徳のいたすところというのもあり、どうすればもう少し輝きを増すような(無理だよという、内なる声あり)作品が書けるのでしょうか。
 悩ましいところです。


 
公表する(2009.11.29)
 つまらぬことを公表するのは、疲れるものです。
 先日のブログでの公表もさることながら、第一、作品を発表すること自体に問題を孕んでいます。
 本人の意図とは異なるように受け取られても(これはやむなしですが)、そうでないともいいきれず、これは、文芸なるものに身を置いている者の定めなのでしょうね。
 もの言えば唇寒し、のことばが真に迫ってきます。
 あるいは、もう少し人道的な作品の公表はできないものか、などと一人右往左往しています。 


 
若さとは(2009.11.25)
 止せばいいのに、また次のような内容を、公開してしまいました。
 文芸に年齢の制限などなく、外にでることさえままならない人のためにも「海」はある、「海」は開かれている、というような話をしたわけですから、こんなふうな聞いたような話にまとめられるというのは、賦に落ちないということからです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「 同人誌再生の息吹(朝日11.20夕刊)」を読んでの、若干の感想です。
 おおかたの内容に異論があるわけではありませんが、「どこかで、もう言い尽くされたような内容です」、ということに落ち着きますね。
 なんのために、この記事が掲載されたのか、その向かわんとする意図がよくわかりません。
 これは、このコラムの筆者の意見ではないものの、文中の人物の語りとして「同人誌の作品の中には自己満足に陥っているものがある…書かざるを得ない人の発表の場として同人誌は依然重要だし、今後も十分期待できると思う」との一文には、中央文壇に近いもの以外の作品に対する蔑視の姿勢が透けて見えるようで、ちょっと納得がいきません。
 そもそも、「若手世代の執筆陣が活力」という小見出し自体、今の商業誌の姿勢および文壇の姿勢そのものですね。
 若さということにはなんの問題もないのですが、なぜ、わざわざ若さがこう強調されるのでしょう。それも、実年齢だけを数えるという切り口で…。
 くどいようですが、「同人誌の高齢化」などと、誰が言いはじめたのでしょうか。
 もちろん、実年齢を越えた若さもあり、それらの壁などなしに取り込んでいけるのが、同人誌ではないでしょうか。
 いえ、そもそも若さとはなんでしょう。それに、こうも、若くなければならない理由とはなんでしょう。


 
詩集・句集(2009.11.19)
 詩集と句集を作成することにし、16日に原稿を持ち込みました。
 なんで詩集や句集? と尋ねられるかもしれませんが、自分のメッセージを最もよく伝えられるのが両者であると思います。
 小説より先に、詩集・句集を出していたら、いささかは小説の解説? になったのではないか、と思われます。
 この視点で、小説を読んでいただきたいのです。
 ことの善し悪しは問わず、人間関係の云々より先に、この「天の視点」があるのです。決して宗教ではありません。いうなれば、数学や物理が行っているように、宇宙の懐に飛び込み、なにかのメッセージを読み取る、というのが私が小説を書き、そのために詩や句を書くということになっているのです。


 
学歴(2009.11.14)
 ものを書くにも、学歴というのはどうしてもついてくるもので、新聞報道などでおめにかかるのは、○○大以上(あるいはいっそ高校卒)‥‥というふうに、社会の常識の線が出されます。
 それに外れた場合は、学歴のことに触れないままのようです。○○大以下だと、ものを書けるわけがない、いや内容に信用がおけない、という具合なのでしょうか。
 私みたいに学歴コンプレックスを引きずってきた者にとっては、松本清張の気持がよくわかります。学歴など、18歳当時、当人の置かれた環境や事情で異なり、その時期から50年経っても、60年経っても、なおついてくるものですからね。
 文芸における評価も、一体どれくらいこれが影響するのかわかりませんが、これも運のうちなのでしょうか。


 
HPはたいへん(2009.11.7)
 この土、日には詩集、句集のことに目処をつけようと、そのつもりでいました。
 その合間にHPの微修正を、と思い臨んだのですが、何度やっても転送ができないのです。転送ができないと、HPそのものが役立ちません。どころか、またHPを壊してしまった。そうなると、四、五日はゆうに飛ぶ。と最悪の事態を予想し、ガックリきました。
 ならば、とウルトラC(私にとっては)の技を繰り出し、ようやく一日がかりで転送にこぎつけました。やれやれというより、HPはたいへんですし、ITというものの怖さを思い知った一日でした。


 
詩や俳句ばかり(2009.11.1)
 最近、小説の方が大分おろそかになっています。HPの更新には、どうしても手頃な長さのものが必要になってくるからでしょうか。
 小説を、決して忘れているわけではありません。
 とはいえ、やはり、詩や俳句に多く体重が乗っているようです。心して、小説に取り組む時間を確保したいと思います。


 
同人誌のこと(3)(2009.10.31)
 本当に表現したければ、方法を問うより先に、まず表現すればよいと思います。
 その後にくる、発表をどう行うか、ということになり初めて、WEBでもよし、同人誌でもよし、文壇に世話になれればさらによし、と順を追っていけば、道はなんとか開けてくるのではないでしょうか。
 なんだのかんだのいっても、表現をしないことには始まりません。机上の空論をどれだけやっても、空しいだけです。
 文芸は、実際に表現する者にのみ道を開いてくれる筈です。


 
同人誌のこと(2)(2009.10.30)
 いろいろな話を聞き、いろいろな話をしました。
 昨年の中央の同人誌評の廃止以降、同人誌の活動が活発になってきている、との感触でした。
 これだけ、中央文壇から拒否され続けたら、自分たちでやればいい。逆に、中央をも巻き込んで大きくやればいい、というのが道筋ではないでしょうか。
 これまで、中央文壇の動きに囚われすぎていた、という意識がかなり芽生えつつあるようです。新人賞や、芥川賞が排他的であるのなら、もっとスケールの大きいものをつくれば済む。と、今進められている平成維新にあやかってやればいい。というところが落としどころで、同人誌やそれを取り巻くエネルギーの大きさは、中央文壇のそれを数倍も凌ぐのではないか、という気がします。


 
同人誌のこと(2009.10.28)
 同人誌のことで、明日新聞社の人に会うことになりました。
 私が同人誌のことの多くを語れるわけもありませんので、「海」の経験を交えて、表現すること、生涯現役で取り組むことの企図などについて、話してみたいと思います。
 できるだけ、感情を交えずに済ますことができれば、と願うところです。
 それにもう一つ、中央の誌がいかに閉ざされているか、これも形を変えた官僚組織であり、権威主義であるということについては、多少の思うところを語りたいと思います。


 
ものを書く(2009.10.26)
 同人誌と商業誌、などというツラ当てみたいな文章を書いてふんぞり返っていた日には、なにごとでもない足元が寒くなってしまいます。
 もの書き、それも私の場合は、書きたいものを好き勝手に書いているのですから、評論家みたいに斜に構えてみても似合いません。どころか、出だしから間違っています。
 私が刻もうとしているのは、天のアーカイブス(というものが、あるのかどうか?)にであると心してやっているのですから、あちらこちらに文句を並べている段ではないのです。
 書く必要があるなら、書かせてもらえるならと、私個人の祈りの中から、天に聞き、願い、取り進めているのですから、文句のいいようなどある筈はありません。
 私個人の妄想やに過ぎないかもしれませんが、一つの使命を感じ、ものを書いてきました。
 だから、人情に訴えるとか、卑劣なものを暴き出す、とかいった内容のものとはかなり離れた場にいます。では、それはなんだ、と披瀝するにはもう少しの時間が必要なようです。もっとも、政治信条や宗教の類などとはまるで関係のないことです、とだけはいっておきたいものです。


 
同人誌と商業誌(2009.10.24)
 受贈した同人誌に目を通させてもらっています。どの誌も、なかなかレベルの高い作品を掲載しておられます。この傾向は、過去から変わらないものだと思われますが、なにしろこれまで、他誌を手にすることがありませんでした。
 知らないということは怖いもので、「海」の中だけのことで判断し、「海」のなかからちょこんと首を出して外を覗いていました。
 今ようやく気付くに至ったのですが、同人誌というものが、どれだけの深い思いを込めて書かれ、作られ、その多くが埋もれていく運命にあるのかということが、残念なことにも、潔いことにも思われます。
 これまで常々見上げてきた、書店の棚をきらびやかに飾っている本の、いったいどれだけに、この同人誌に伍する、匹敵する、少しでも勝るものがあるのだろうかと、つくづく考えます。
 負け惜しみでいっているわけではありません。
 書棚の本は、専門家チームが背後にいて、スターを生み出すという、あの経済手法を駆使した末に生まれた虚像に、限りなく近いものではないかと思われます。
 自ら光る素地があるのかないのかはおいて、申し合わせたように傲慢な、作られたスターたちの本は、まるで納骨堂に並んだ骨壺のようにさえ思えてなりません。なにかが欠落した抜け殻のようです。
   心から、そう実感することの多いこの頃です。 


 
発送後(2009.10.19)
 昨日、海第2号の発送作業を終えました。
 やれやれ、というわけでもないのですが、帰宅後急に風邪? 具合がひどくなり、今日も職場には出かけたものの、かなり辛くなってきたので、昼から戻ってきました。
 戻ってみると、「南風」が届けられていて、構成員はさほど変わらないのに、小説7編ほかで約150頁。やわらかくて何気ない装丁の、とても好感のもてる誌です。内容も、(前号は)とても充実していて、気に入っている周辺の同人誌数誌の一つです。
 こうやって、他誌の内容を知ることが、なにごとにも代え難い楽しみであり、自分の血肉になるように感じます。
 同じ文芸という道にあって、同行の士と出会うことのできる喜びをしみじみと感じています。


 
発行へ(2009.10.14)
 明日、海第2号が発行されます。
 今号もいろいろなことがありましたが、過ぎてみればこれもよし、です。ただ、一番苦手な会計のことが火を噴きそうな気配が、ないではありません。
 それもこれも、良きように流れてくれれば‥‥ともあれ、私には、これ以上ない経験の場を与えられているのでしょう。


 
発送前(2009.10.12)
 海の発行を3日後にひかえ、発送の準備に追われています。
 あて先、送付状、新しい編集発行内容作成‥‥結構、すべきことは多いのです。
 本当に、この時間が一番良い時間なのですね。新しい誌の装丁、匂い、HPの体裁などに思いを馳せながら、気持は踊ります。
 確かに10月に入り、私自身の気分も落ち着いてきました。9月が、あまりにも重たい時間でしたので。
 ともあれ、海を発送し、自分の作品にも腰を据えて取り組みたいと思います。それに、近いうちに、詩集と句集を出すことにしました。最初に文芸の道に入ったのは、短歌であり、詩であり、句でした。
 この30年、小説にだけ絞ってきました。しかし、詩のことも句のことも忘れたわけではありません。自分のHPを作り、その埋め草にと再開した試作、句作の方が堰をきったように力を増してきました。
 30年以上前の詩や句の作品は、どこぞに消えてしまいました。されど、今、新たな気持で始めたのですから。乞うご期待、といったところです。


 
倉庫(2009.10.11)
 実家が空き家になる運命になりましたが、実家に置かせてもらっている本や印刷物の将来の置き場はどうなるのだろう、と草を毟りながら考えました。
 現在、物置同然に使わせてもらっている場所があるうちはいいのですが、本当に先の見通しが暗くなりました。
 たくさんの本などを持っておられる方は、いったいどのように保管されているのでしょうか。
 話は変わって、以前の雑誌類をあるとき一気に捨ててしまったのでしたが、今、なんということをしでかしたのだろうと、悔いています。
 いくら当時のわが古い作品(例え、幼いものであれ)とはいえ、無いとなると、もうお手上げです。まあ、残しておくほどのものではなかったのだとは思いつつも、こればかりはなんとも手の打ちようがありません。


 
人類救済大作戦(2009.10.10)
 第二期海第2号の最終校正を終え、15日の発行を待つばかりになりました。
 さて、どういうふうに仕上がり、どうこの空間を切り開いていけるか、です。
 文芸に関わるに当たり、関わり方はさまざまだと思いますが、私が、(勝手な思い込みであろうことに過ぎないことでしょうが)文芸に携わることの意味を、物心ついた頃から感じていました。
 宗教だ、と一笑に付され(現実にそうでした)、うさん臭いと奇妙な目で見られ、奇妙な評を受けてきました。
 観念的だとか、フェミニズムの敵だ‥‥等々です。
 表面の字面をなぞれば、そういうふうに読まれ、評されることもいたしかたないのですが、その芯を読んでいただきたい、と思うものです。‥‥そんなふうには読めないよ、というふうにいわれるのは、わが作品にまだまだ力がないのでしょう‥‥。
 しかし、受けを狙うとか、売れるとか、こうすれば読んでもらえるとかの技術論とは、一線を画したいと思います。
 いま、人類がオバマ大統領に託した人類救済大作戦の一端の一毫だけでも担うことができればといえば、また、一笑に付されるのでしょうか。


 
名はなくとも(2009.10.3)
 海の最終のレイアウトなどの依頼をし、久しぶりにちょっと間が空きました。
 文芸という個人が行うことでも、一人だけの好みというのを貫くというわけには、なかなかいかないものですね。
 これこそが、与えられた課題なんでしょう。
 しかし、やはり文芸というものは、なにはともあれ個人の技量が上がらないことには、話にならないでしょう。
 なにが人の心を打つのかどうかもさることながら、自らが「与えられた課題にどう向き合い、どう取り組んでいるか」ということに、まず意を用いるべきなのでしょう。
 抽象論はこのくらいにして、文芸も「芸道」。自らの前にある道を、探り、登り、分け入り、踏み止まり、前進し、極め‥‥ということになりゆくのでしょう。‥‥結局、やはり、抽象論でしか表現できないですね。
 ともあれ、芸道という、なんというすばらしい道に入ったのだろう、とつくづく感じているこの頃ではあります。
 売れるとか、売れないとか、人の上に立つとかいった、この世のしがらみそのものにだけは、まるで興味はありませんが‥‥。


 
カット編:海の割付(2009.10.1)
 割付で、カットのことがなぜこうもトラブルのか、不可解です。
 誰でも、作品の内容を凝縮したものとしてカットを見たいとは思うのでしょうが、カットの存在はそう簡単ではありません。
 もともとは、内容を決めずに描いたカットを、ただ挿入すれば済む、ということになっている筈ですが、第二期海になり、あらかじめ作者本人に割り付け案を示すもので、カットが本文の内容に合う、合わないの議論になってしまったのでした。
 一枚のカットで本文を物語れ、という注文は作者ならぬ編集者(それも、編集実務者)にどうしろというのか、わけがわかりません。
 肝要なのは、作品自体です。なにかわけのわからないところで、無用の混乱が生じるのは実に無益です。作品の充実についてなら、いくらでも耳を傾けますが。
 必要な手を打たねばならないと、強く思います。
 また、50枚以上とか20頁以上の場合は割り増しの費用負担、というのはもともと好むところではありません。100枚の作品が書けなくてどうする、というのが持論ですから、上限額を定める必要があります。
 そうでもしないと、今回のように原稿の出が悪いと、カバーのしようがなくなってしまいます。これも、必要な手を打つ必要があります。


 
海の割付(2009.9.22)
 海第69号の原稿の集まり具合が悪く、有森作品を大急ぎで、特に詩と俳句で大幅に増やしました。
 1同人であった頃は、考えもしなかった全体への配慮も、多少は行えるようになったのかもしれません。
 最も変化したと思えるのは、他誌のガンバリを素直に感じ、受け入れることができるようになったことではないか、ということです。
 これまで、自分が自分が、というスタンスであったのが、いささかは他の作品にまで気が回るようになったような気がします。そんな海のお世話は、実は無形のものを返してくれているのだ、とこの頃改めて感じ入り、胸の内に少し熱いものが湧いてきました。
 ともあれ、結果的には、96頁の体裁になり、10頁ぐらいを急ぎ準備した部分も、もう自分の肌の内に馴染んでいます。


 
文芸的な(6)(2009.9.12)
 以前から読み漁っていた「死の世界」の本などを読み返してみます。が、なにも目新しいものはありません。
 目の前のことから多少それますが、文学・文芸の上で、(単なる私の無知がいわせるのかもしれませんが)この絶対の真実というべき死について、死後について、そのことを通して見た上での生について、などという作品にはあまりお目にかかっていない気がします。
 このあたりに踏み入った途端に、どうも「排斥され?」てしまうのか、「うさんくさい」と退けられるのか、「それなりの作品がない?」のか、それらのいずれか、それらの全てかであるのでしょう。それとも、その類の本は、「レベルの低い・読み物」とみなされてしまうのでしょうか。
 確かに現実を活写する、という手法が主流であることは否めませんが、あまり死ということばを出し過ぎると、推理小説だとか、大衆小説だとか、SFもどきだとかに分類されてしまうことになっているのでしょうか。


 
文芸的な(5)(2009.9.6)
 人(生き物)として生まれた以上、例外なく死にます。
 これほど厳正な事実は、他にないかもしれません。
 私が生まれたときから背負ってきた(大袈裟でしょうか)ことは、このことでした。生まれたときから、死を感じるということがいかなることか説明がつきませんが、少なくとも私にはそれが大問題です。
 じゃあ、なんだ、と思われるでしょうし、自分でもそう思います。
 じゃあなんだ、なんです。私が書こうとしていることは。
 それが、文芸としてどういう意味を持つのか、いまだに理解し得ずにいます。個人の死、他人の死、人類の死、地球の死、宇宙の死、神の死、死の死‥‥こんがらがってきます。
 この一見通過儀礼とも思えることに、「どこからきたのか、どこへいくのか、なんなのか」ということばを投げたまま、いつも立ち尽くしています。


 
掲示板(2009.9.1)
 海のホームページを、内容はさておいて、とにかくカタチとして立ち上げることができ、一安心といきたいところですが、今度は「掲示板」なるものを設けるかどうか、ということに気持ちが移ってきました。
 意見などを得やすいページを設けることは有益だと思われますが、維持の方にも手を回さねばなりません。今は、冊子作成一手集中に、少し慣れてからでもよいのかもしれません。
 それにしても、照葉樹の作品には圧倒されました。これだけのエネルギーをもって書いている作品は、そんなに多くないと思います。


 
ホームページメンテナンス(2009.8.30)
 タグのなにかも全くわからないのに、二つのホームページを作り、管理することになりました。今後が、おおいに思いやられるところです。
 本来、時間は作品の方に多く割くべきところですが、諸々の都合でこうなったことであり、なにか大きな意味があるのでしょう。
 ホームページを作って効果があったと思われるのは、詩や俳句(どちらも、30年ぶりに気楽にやっています)を結構生み出せるということです。勿論、その質のほどは保証の限りではありませんが。


 
芸術、文化の秋(2009.8.26)
 芸術、文化に最もふさわしい季節といえば、やはり秋です。
 書くにも、読むにも、聴くにも、この季節ですね。透き通った空気のせいか、実りの気分をかき立ててくれるのか、身も心も反応します。
 海の原稿締切も間近になりました。
 どんな、素晴らしい作品に出会えるか、楽しみです。
 九州国立博物館で開催されている「阿修羅展」にも、足を運びたいと思っています。


 
海第二期ホームページ公開(2009.8.23)
 海第二期創刊号発行以来2ヶ月、早くホームページを持ちたいと思ってきましたが、ようやく形が整い、公開の運びとなりました。
 その内容の方は徐々に充実する手筈とし、とりあえずは公開の運びとなったことを喜びたいと思います。


 
文芸的な(4)(2009.8.22)
 他のページにも書いたのですが、海のホームページの準備をしていたところ、現在のプロバイダは1容量→1ホームページということで、この作業が宙に浮いてしまいました。
 全く文芸的でないことで、悩みを抱えています。
 それに、この文字です。パソコンの保護のためにオイルを用いたのが悪く、字が滑るのです。これも、大きな悩みです。
 どうも、悩みは文芸だけでなく襲ってくることのようです。


 
文芸的な(3)(2009.8.16)
 地元同人誌の何冊かに目を通す機会に恵まれ、幾つかの作品を読ませていただきました。
 形の上で気付くのは、やはり女性の構成員が大半を占めているということです。そのせいかどうかわかりませんが、女性の文章は、1)キメが細かく、2)人間関係、それも家族関係の記述に優れ、3)日常の何気ないと見える事柄に、しっかりと着目し、4)女性特有の観察眼と嗅覚で文章を紡ぎ出しているということが、よくわかります。
 そのことをどう見るかということはおいて、文芸というものに女性が多く関わるということは、同人誌ならずともいえることで、多くの素晴らしい作品が女性の書き手によって生み出されているということは否めません。
 その反面、当然のことながら、男性の作者が少なく、優秀な作品として紹介されるのも少ないように思われます。
 ここで、男女差のことなどを問題にするつもりなどありませんが、男女に関係なく、「スケールの大きい作品」になかなか出会わない傾向にあります。
 文芸的な、あるいは文学的なということが、「こじんまりとした、私小説風の作品を指す」のだとしたら、少し淋しい気がするのですが。


 
女性の目から見た老い(2009.8.12)
 他誌の10冊程度を前の主宰者から譲り受け、これはと思われる作品を拾い読みしてみました。
 同人誌の持つエネルギーのすさまじさを改めて感じさせられるとともに、同人に女性が多いということもあり、今のテーマは「女性が見た老い」というべきものが大半を占め、その切実さ、緻密さ、的確な技量など、いかにもと思わせるものばかりです。
 そのテーマをどうこういうものではありません。が、テーマはそれだけか、とうんざりする気持ちが一方にあります。多分、これが現実を活写する「文学性」というものでしょう。評論家諸氏の多くもこれらの作品を高く評価し、「‥‥現実の空しさ、危うさ、生きることの苦悩」などといった表現で、これらを紹介しています。
 しかし、文芸がこのように、鍋の中の味付けをどのようにすべきかということばかりで終わってよい筈はありません。
 鍋の外のことも、食うや食わずのことも、まるっきり違う食材のことや、夢や幻のことや、恋愛や性という根元的なことや、時間や空間のことや、人類を離れた次元のことなども、もっともっと多くのことが登場してもよいのではないか、と思う次第です。


 
老害(2009.8.7)
 他誌の作品を読んでいて、非常に人間描写の達者な作品に出会い、一気に読み進んでしまいました。
 内容は、老害ということを柱の一つにしてあり、それも六十二歳という人物は、いわばほぼ同年齢に当たるわけですが、作者の上手さのゆえでしょうが、この歳はもう等しく老害を撒き散らしているのだろうか、多分そうに違いない、と思ったまではよかったのですが、実社会の方の有り体を考え、かなり空しくなってしまいました。
 精神年齢十七歳、などと宣言してはきたものの、これは正真正銘のピエロでしかないな、と思い至りました。老害予備軍(?)が、周りにどれだけの害を与えているのかも、心して考えねばと反省しきりです。
 それにしても、同人誌にも、かなりのレベルの作品があるものです。


 
他誌の作品(2009.8.6)
 先日、前主宰の織坂氏と会い、現状報告を兼ね意見交換などを行いました。
 その際、氏あてに送付されてきていた他誌10誌程度を譲り受けましたが、大急ぎで目を通してみると、どの誌もそれぞれ充実した作品を掲載しており、海だけが特別待遇を受けることは、確率から見て結構厳しいことなのだ、と思い至りました。
 とまれ、海が、これまで同人誌評や地域のマスコミなどにかなりの度合いで取り上げられてきたということは、自信をもって良いことだと思いました。
 幸い、第二期海は、人数こそ多くはないものの、それぞれがかなりの実力を有しており、一定の線が期待でき得るのではないかと、改めて感じ入った次第です。


 
海の評(2009.7.31)
 今日は、西日本新聞の「西日本文学展望」に牧草氏の作品が大きく紹介されました。評価のことは二の次ということにしていましたが、こうやって公に取り上げられるということは悪いものではありません。
 併せて、第一期海の終刊と、第二期海の創刊についての付記もあり、「単なる仲良しクラブではない」と記したことが、問われることになりそうです。
 今後、こころして作品にかかるべき励みにもなり、出だしとしては好意的に受け止められたことを感謝したいと思います。


 
合評会中止(2009.7.26)
 とにかく、この雨。生活を脅かし、交通機関を狂わせ、各地で災害をもたらしています。
 太宰府では、24日の降り始めからの雨量が600ミリを越えたといい、その降りのすさまじさに肝を抜かれます。福岡市天神でも、道路の場所により膝頭あたりまで水が溢れ、その中を歩き、車が動いています。
 それにしても、今朝の雨のすさまじいこと。
 10時過ぎ、数件の問い合わせがあり、このままだと交通機関の乱れも予測され、各所に避難勧告も出されていることから、「中止やむなし」ということになりました。
 第二期海の出発が、このようなことになるのも「象徴的なこと」で、やはり海の道程は嵐の予感が大です。
 救いは、昨日第二期海創刊号をじっくり読んでみて、ある程度納得のいく領域にはある、ということを確認し得たことです。ちょうど、文芸同志会の評も出され、足がかりはできている、と得心することができたこともあります。


 
文芸的な(2)(2009.7.25)
 海の内容ですが、まだ私も読んでいないのです。編集の際、記号として過ぎていったことは知っているのですが、何故か、読むのが怖いような気がして、日伸ばしにしております。
 文芸的なものに、いかほどまで迫ることができているか‥‥どうでしょうか。
 いきさつがいきさつであり、そのような気運が高まったというわけでもなく、発行するようになったということで、なお咀嚼できていないところが多くあります。
 いずれにせよ、これからは中身が問われます。1作でもいいから、まずまずの作品を掲載していけたらと、願うものです。
 次号の締め切り日は、9月20日です。6月21日にメール送信しております。添付ファイルも含め、御一読の上、是非寄稿いただきますようお願いいたします。


 
文芸的な(1)(2009.7.20)
 文芸的(文学的)なものとはなんだろう、と考え出すとわからなくなります。
 誤解を恐れずに言わせてもらえるならば、「作者が訴える真実なものがある」、「他者の共感を呼ぶものがある」というあたりに絞られてしまうのではないか、と私個人は思います。
 その手法として、「技が巧みであり、洗練されている」、「手法が巧みであり、多くの他者を説得する」というあたりが、併せて入ってくるのだろうと考えます。
 そこに、年齢的なものとか、著名人であることとか、話題性が期待できることとか、なども入らないことはないとは言えましょう。しかし、後者が先にありき、ではなかろうと思うのですが、世間の風はそういうふうには吹いていないようです。
 私のような者が作品を生み出す方法とは、失敗作をどれだけたくさん作れるか、ということにかかっています。そして、まんべんなく票を集めるより、一つだけでいいから、高い票が得られれば、という方向を目指しています。


 
賞というもの(2009.7.17)
 文学賞に限らず、賞を受ける人は、幾つも幾つも受けるということになっているようです。当たり前といえば当たり前で、一つが優れていれば他のものも優れているということになるのですから。
 賞というものは、ある賞を受けたから、次の賞がある、という仕組みにもなっているようです。一つの賞が、次の賞に進むための必要条件、というわけですね。
 賞に縁のない私が言うと、全くの僻みになってしまいますが、最初の賞を受けるためにはどうしたらいいのでしょう。
 芥川賞、直木賞が、また決まったようです。
 この頃、この賞の作品を手に取る気がしなくなったのは、やっぱり賞に縁のない者としての、さもしい僻みなのでしょうね、やっぱり。‥‥なにをどう言いくるめようとも、人間なのですね‥‥。


 
書棚から(2009.7.13)
 仕事帰りに、久しぶりに書店を覗いてみました。
 夥しい本、夥しい雑誌の量です。これらを、いったい誰が目にしたり、役立てたりするのだろうと、その量に圧倒されます。
 果たして、この中に、質まできちんと満たしている本や雑誌があるのだろうかと訝ります。
 私のような自費出版ものは、さすがに棚には並べられてはいませんが、夥しい量の本や雑誌が山積みされ、仰々しく売らんかなの表記のされたベストセラーなるものの存在が、毒々しく目に入ります。
 万が一、良い本や雑誌があったとしても、そこに行き着くことの何と困難なことだろうと、気が遠くなりそうです。
 ましてや、海のような同人誌となると‥‥さらに気が遠くなっていくのでした。


 
文学性とは(2009.7.10)
 第二期海創刊号を送付したことに対し、幾通か、丁寧な感想の手紙などをいただいています。
 それは、やはり、などということではなく、当然のことではありますが、「文学性があるのかどうか」という問いかけが、一番多いようです。
 その、文学性とはなにか。
 日頃、文芸ということばに「逃げて」いるところを、やはり見透かされているのですね。
 文学性とはなにか。文学とはなにか‥‥。
 この問いに、なに一つまともに応えることのできない私は、かなり落ち込んでいます。かねてから、「文学」ということばを退け、「文芸」ということばの方にシフトを大きくとっているのですから。
 しかし、やはり、文学なのです。この核をないがしろにして、同人誌などあるものか、というふうにとれないでもありません。
 
たかが文芸誌のこと それだけのこと
 と詠んだのはいいのですが、やはり、ポイントを外すわけにはいかないようです。


 
文学論とは(2009.7.6)
 いつの時代にもあったのでしょうが、文学(という言葉は使いたくないのですが)も売れないといけないのでしょう。
 現在の傾向を見てみますと、1)年少であること、2)他の分野での著名人であること、3)目新しい文化(沖縄であったり、外国であったり)であること、というような外枠が先にあって、作品は二番目か、三番目にくる、ということになっているようです。
 それに、いつも言うことですが、マスコミ(出版、新聞、テレビなど)が先に形を作ってしまう、という「いかにも人間臭い」としか言いようのない仕組みが、文学をも作っているようです。
 一概に、マスコミや評論家の目をどうのこうのというわけではありませんが、無責任に世の中を動かしているのではないか、大衆愚の方へと煽り立てているのではないか、ということをひしひしと感じます。
 それでは、何だ、と逆に問い返されても、応える術を持たない私ではありますが。


 
ISSN登録(2009.7.3)
 上水氏から、ISSN登録はしたのか、との問い合わせを受け、あわてて国立国会図書館のISSN日本センターに登録申請をしました。
 なにしろ、67号までの海は、刊行物としてのなんの届け出もせず、流通にも乗せず、国立国会図書館などにも送付せず、ということであったらしいです。
 これが、第一期海の「内部での熱い討論を行う。外部からの評価は二の次」といった独特の無頼のスタイルであったのかもしれません。
 そこは、第二期海の「発表の場であり、遠く広くに運ぶ場である」とは、相容れないものであるのかもしれません。それらが、この二、三年のトラブルの元であったのやもしれません。
 第一期海の仲間は、権力や風評に媚びず、徹底的に内なるカラーに拘ろうとするシャイで、激しい面を持ち合わせた面々が多かったのでしょうか。


 
ひわきさんに感謝(2009.7.1)
 第二期海については、第一期の終刊ということが先にあり、はたして後はどうしたものだろうということで、やおら発起という柄にもない役を買って出ざるを得ませんでした。そのスタンスは、「主宰者を置かない」、「発表の場に徹する」、という2点でした。
 これは、胡壺さんのスタンスに似ていますね。
 まあ、全くの新たなものではありませんが、なにかを起こすということは、発起者の日頃の有り体が問われ、なかなか賛同が得られずたいへんでした。しかし、私個人的には、今回のことで、無形のなにかを得ることができたように感じています。
 そして、同人誌というものに、中途半端に関わってきた20年というものを、反省させられるよいきっかけになったと思います。
 また、第二期海は、一太郎の利用者が少ないということで、「ワード」で最初から最後までの行程を行ったのですが、ワードのイロハから学ぶ、ということも経験しました。
 というのは、ひわきさんから一太郎バージョンでの御親切な教えを受け、そのまま利用するということにはなりませんでしたが、ワードでの編集にも、ひわきさんのアドバイスを大いに生かし、行うことができたということです。
 ひわきさんには、いろいろなことを相談し、その度に丁寧にお教えいただき、心から感謝いたしております。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。


 
理屈もヘチマも(2009.6.30)
  
理屈もヘチマもなし 創出あるのみ
 これは私の拙作ですが、この句を引いて、今回の第二期「海」の発行のことを励ましてくれた先輩があります。
 そうです、海の大義のためとか、誰かのためとかではなく、自らの「発表の場を求めるため」になしたことです。
 要は、これからにあります。よって、この道を行くのみです。


 
書店風景から(2009.6.26)
 書店を覗いてきました。海は、きれいに並べられていました。
 書店の棚に並ぶと、もうこの号の作とはお別れ、という気分になります。気分は、次に飛びます。次なる号が、この棚に並べられることの方を考えてしまいます。
 私の性格なのかもしれませんが、いったん公にしたものからは気持ちが遠のきます。もう自分がどう考えようと、なにを望もうと、動き出してしまったのです。
 どのような動きをとるのか、どのような軌跡をたどるのか、もう流れにまかせていくことになります。
 作者は、創出に全力を傾けます。
 私の内なる作者は、新たな作品の創出に向かいます。そこに、作者の醍醐味を見出します。創出できる喜びと、生みの苦しみの中に浸ります。


 
詩、俳句(2009.6.22)
 詩、俳句、短歌などの韻文は、この三十年近く御無沙汰をしており、たまたまホームページを立ち上げたため、その埋め草にでもと、気楽にやろうと思い、始めたのでした。
 詩は一回に一遍、俳句は十句、などと楽しみながらやってきたのですが、最近の作を見返してみると、だんだんと軽妙さがなくなり、深刻な趣のものに変わりつつあるようです。
 その内容がいかであれ構わないのですが、あまり社会派的にならないようにと、少々自戒しつつあります。
 素人の「叫び」ほど息苦しいものはなく、その作品あるがゆえに、人を遠ざけるということでは、なにをかいわんやです。
 飄逸な詩や句が書ければ、それが最も望ましいのですが、そこは「芸の域」。なかなか簡単にはいきませんし、三十年近くも遠ざかっていた者が、簡単に戻れる場所ではない筈ではあります。


 
新生海(第二期)創刊号発送(2009.6.21)
 立ち上げることは、たいへんなことでした。と書いたばかりの「新生海(第二期)創刊号」が発行の運びとなり、今日発送準備を終えました。
 新しい海を手にとって、まず発したことばは「綺麗だ!」ということでした。
 明るいブルーの海、いくばくかの雲と空、その色合いといい、構図といい、ビビッとくるのです。印象が良い、といえばそれまでですが、そうです「限りなく透明に近いブルー」という形容が一番ぴったりです。
 それに、題字の「赤」が決まっています。
 こんなに、表紙ばかりを眺めているのもいかがなものかということになりましょうが、見たとき、手に取ったときの印象が良いにこしたことはありません。
 問題は内容です。内容も、かなりの線をいくのではないかと、内容の方にばかり目を向けていた手前、甘いのかもしれませんが、とてもときめいています。
 関係の皆さんに、ただただ感謝! です。


 
発表の原点へ(2009.6.20)
 X様
 私も、まさに、村田喜代子さんが、タイプライターで作成した「発表」という誌で出発された、ということを重く考えています。
 どんなに、なにを飾ろうとも、内容が伴わないことには先に進めません。
 今回の海の発行にあっては、いろんなことがありすぎて、誰が、なんとか、などは問題にするに至っておりません。
 私自身、勝手がわからないもので、なんでもないところにまで、2倍以上の労力を使った?…のだろうことを、反省しております。
 とにかく、立ち上げることは、たいへんなことでした…ということのみです。
 次回以降、よりよいものにできたらと思います。


次号への展望(2009.6.14)
 海68号の原稿を印刷所に持ち込んで1週間、日々の生活にややゆとりが戻ってきました。
 後は表紙の体裁確認と、6月20日の発行日に送付する作業があります。

 気持ちは、もう次号に飛んでいまして、68号の編集作業についての反省点をおさえ、69号はどうするかです。
 一に、本来、作品とはあまり関係のないカットは原則として用いない、二に原稿提出から最終校正に至るまでの間の手順をきちんと定め、協力を依頼するということになりましょうか。
 以前は、自分の作品は自分で原版のフォーマットに貼り付けていたくらいですから、この際、ビジュアルとはいったん縁を切り、内容を充実させることを一義にしてはどうかと考えるものです。
 それに、ワードの扱いにより慣れてもらう、高度な技術を要する割付などはしない、ということも案外大切なことかもしれません。


 
編集総括など(2009.6.8)
 今回のやり方がわかりにくかったであろうことは認めますし、私の方でも初めてのことをやっているので、一つ一つ考えながらのことでした。
 特に、ワードを扱うことの少ない私には、未知の世界で、フォーマットづくりから、割付の仕組みなどを試行錯誤しながらやってきました。
 割付作業は、一時期に集中します。それも、他の方の作品ですから、それを壊さないように、との細心の注意が必要です。
 割付の内容確認を求めるのは、これまで作者への確認が求められていないという意見があり、一方で、作者の原稿から割付への作業過程で、文字が落ちたり、文字が変化したりなどが‥‥なぜだかわかりませんが、起こるということがあり得るからです。
 その前後の違いは、作者本人にしか見分けられないということになります。
 ルビに至っては、一つ一つ確認しながら、付け替えるという作業が必要です。
 イラストに至っては、内容をおおざっぱに掴み、それから探すのですから、一件に2〜3時間をかけます。結果として、次回からはイラストなし、というのもありかなという思いです。
 私にとって編集担当とは、自分自身の作品に拘泥することではなく、1)全体のことをまず見渡す、2)全体のことや状況に配慮する、というのが最も必要だと思うのですが、いかがでしょうか。
 依頼したことは理解されず、必要な問いには殆ど答えてもらえず、ときならぬときに済んだ筈のことが、元に引き戻されるということでは、先に進めません。
 新たな方式ということもあり、いうなれば、支離滅裂の結果でした。
 総括すれば、こういう状況です。私自身の取り組み方への自戒も含め、方法などを考え直したいと思います。


 
散文と韻文(2009.6.4)
 私のような無名作家には、散文も韻文もないのですが、作るということではやはり「気合い」が違うように感じられます。
 あくまでも私の場合ですが、韻文では感情をあまり制御せずにいるのに、散文ではかなり気持ちを整理してかからねばなりません。まあ、感情人間である所以のところでしょうが、小説などはかなりの知力、判断力が問われるように思い、とりかかるまでに相当な空白の時間を過ごさねばなりません。
 これも、後は作品のレベルのことになるのでしょうが、どの形式も冷徹な思考は必要なのでしょうから、私などは、「歌い上げないように」と日頃から自戒しているところです。


 
短歌(2009.6.3)
 詩と俳句は約三十年ぶりに始めましたが、短歌の方にはまだ手を伸ばしていません。
 考えてみれば、一番最初に接したものは、啄木の短歌でしたから、特に思い出深いものがあります。そうです、十五の頃に戻ってしまえるほどの無垢な心が、はたして残っているのかどうか。
 もっとも、短歌に年齢は関係ありませんし、特に十五歳を意識するものでもありません。
 しかし、私の心には「不来方のお城の草に寝ころびて空に吸はれし十五の心」という啄木のうたが、いつもいつも大きなメロディを奏でているのです。


 
詩、俳句、短歌(2009.6.2)
 三十歳半ばに、小説一本に絞ろうと決めてから、二十数年というもの、詩も俳句も短歌も辞め、ひたすら小説を書き続けることにしました。
 元はといえば、十二、三歳の頃から、短歌、俳句、詩、小説の順に取り組んできたのですし、短歌も俳句も詩も、小説に先んじて同人誌に入っていました。
 思うところあって小説に焦点を定め、小説の散文の形を探るため、韻文から意識的に遠ざかろうとしてきたわけです。
 ところが、ホームページを立ち上げ、さあ過去の韻文の作品も載せようとしたところが、当時の同人誌などに掲載した作品が見あたらないのです。それほどの内容でもなく、量的にもたいしたものではないため、あきらめはついたのですが、ホームページの内容がガラ空きでは困ります。
 ままよと、新たに作ることにしたのですが、それが結構作れるのです。勿論、質のことは棚に上げていますから、数だけは未だに止まる気配がありません。自分が楽しめるようにと、もっと種を明かせば、ホームページの埋め草にということで続けております。
 お見苦しい点が多々あろうかと思いますが、こういう次第ですので、御寛容にとお願いするものです。


 
海68号あとがき(2009.5.30)
・ 第一期 海が終刊となり、ある意味での安堵はあったものの、日が経つにつれ、たとえようのない淋しさに見舞われました。
・ 書くという気持ちはなに一つ失っていないのに、書いたものを発表する場がないということです。これは、誰もが予測していたことですが、この「発表の場」がないということの空しさは、予想を越えていました。
・ 1年近く前、ホームページで発信することも選択肢に入れ、読んでもよくわからないIT関係の本を読みあさり、なんとかそれらしきものを設けてみました。
・ ホームページを設けるということは、ある意味で、作品を書かせてくれるという意外な役割を果たしてくれました。しかし、やはり発表の場がないのです。
・ 今回の第二期 海の趣意書には、「高いレベルを目指す」というくだりも入れましたが、その最も肝要なところは、1)書いたものを発表する場を設ける、2)文芸に生涯現役として加わる、という二点を、自らの問題として実現したいということでした。
・ 勿論、同人各位は、評価に値する骨太の作品を生み出すことに全力をあげるものと思われますが、評価云々などに先んじ、「作品を発表する=社会と関わる」ということに、これまでとは異なった、新たな意義を見出したのではないかと思われます。
・ これらのことが、多少の紆余曲折を経て進展し、実現に至ったことを素直に喜び、改めて、関係者に感謝の意を表したいと思うものです。
・ 最後に、第二期 海が、単なる「仲良しクラブ」を目指しているものではない、という一点を加えさせていただきたいと思います。      


 
編集というもの(2009.5.29)
 まだ、編集の行程を終えたわけではありませんが、生まれて初めてボランティアに近いことをやらせてもらいました。
 勿論、初めてのことでもあり、何の問題もなくというわけにはいきませんが、私のような札付きに、よくぞこんな大切なことがまかされたと、なにか不思議なはからいのようなものを感じます。
 あまり仰々しいことをいうと嫌らしくなってしまいますが、私もまだなんとか、社会とかかわっていくことができるのだ、としみじみと感じさせられた大きな体験でした。


 
編集について(2009.5.24)
 X様
 今回、初めて「パソコンを用いた編集」(海では行っていたのですが、私が実際に行うのは初めて、という意味です)を行ってみて、いろいろの問題点に気付かされました。
 編集が、1)「自分にしかわからないのだ」というような閉鎖的なものになってはいけない、2)とはいえ、一定のスタイルの統一性も必要‥というあたりで、次回には、3)扱える方には、フォーマットを送付し、それに原稿を直接書いてもらい→提出→担当者が全体的なスタイルの調整を行うという‥あたりに進められれば理想的ではないか、と考えています。
 福岡地区では、「胡壺」のグループがそういうやり方で、誰が責任者でもなく、個々が同等の責任を持つ、というスタイルを作られており、学ぶべき点が多くあるようです。
 ただ、それができるのは、構成員が、1)きちんと文章が書け、2)ソフトウェアの扱いに十分な力を持ち、3)切磋琢磨はするものの、協力・協調体制にあり、かつ、自己責任を持つ、というあたりの要件を満たすことが必要だと思われます。
※ 御参考までに、有森作成の資料を送付いたします。
※ 特別な製版ソフトなどは敢えて用いず、誰もが開いて見ることができるよう、ワードでの編集にしています。
※ そういう点で、「内容重視」、「ビジュアルには目をつぶる」ということにしています。


 
編集担当者の役割(2009.5.23)
 X様
 カットは、本来どなたかが書かれたものを、借用するというのが多くの場合のやり方だろう、と思います。
 今回は、やむなく別のやり方をやっているため、多くの所に目がいき過ぎるのではないでしょうか。
※ カットを辞めるということも、私の案には当初からあります。

 原稿の内容も、手を付け始めたらきりがないことでしょう。
 期限内に、どれだけのことが書けるかということが、本物の力でしょう。
 特に、編集担当者の場合は、内部を知り得るだけに、余計にけじめというものが必要になるのではないかと思われます。
 編集担当者以外の人には、それらのチャンスはないわけですから。機会均等ということは、最も大事なことだと思われます。
※ 編集担当者は、忘年会の幹事のようなものかと思います。
※ しかし、これをやらせてもらえる(?)ということは、無形のなにかを得ることができるのではないかと、個人的には思うのですが。
  
 同人誌編集のやり方、手順をどこまでやるかは、設定した期限やボランティアの人の手間も考えねばなりません。四六時中、年がら年中それに専従、というのなら話も別でしょうが。
 訂正は「『てにをは』などの微細なことを除いて、原則として行わない」ということを、既にお願いしていることですし、全てがその方向で進んでいます。
 少なくとも、その線が守れないのであれば、こういうことは成り立ち得ません。
※ 遅れて出されるほんの1つの意見で、どれだけの手間と、作業と、説明と、虚脱感が残るか‥やはり、忘年会の幹事ですね。
   
 今回感じることは(以前からもそうですが)、編集担当者が「表に顔を出してはいけない」、「あくまでもボランティアである」、「集まった会費は編集担当者の方では、できるだけ使わない」、というようなことにすべきことを、今更のように感じました。
 
 やっぱりどこかで線を引かねば、ズルズルとわけのわからないものになっていくでしょう。とにかく、やはり、「特定の人の強い意見に左右される」ということは、私の好みではありません。

1)「文芸集団として、あくまでも内容を第一に考える」というのが、第二期海です。
3)もっとも、違う人がビジュアル重視、という第三期を立ち上げられれば、喜んでそれに従うものですが。 


 
海の編集作業・中途(2009.5.16)
 海の原稿締め切り日を過ぎ、若干の未提出分はあるものの、あらかたの形が見えてきました。
 それによると、100頁を越え、内容もそれなりに充実したものになりそうです。
 ただ、私の割付案で、ことが進められるかという懸念はあります。ただ、いろいろの苦心はありましたが、得るところや、気付かされるところの多い作業でした。
 7月1日の発行を控え、しばし小休止といきたいものです。


 
編集作業の推移(2009.5.13)
  なにごとにも、思い込みや行き違いというものは付きもののようで、編集作業も例外ではありません。
 11とか12ポイントとかで作成した原稿を、9.5ポイントに縮小し、A4の中に段組2頁を作るのですから、作者と編集担当との間で意識のズレというものがあるようです。
 原稿ではきちんと枠内に収めていたものが、割付をしてみると、タイトルや作者名やカット挿入などのため、40行ぐらいがはみ出しているとか、9.5ポイントにはルビが打ちにくいとか、奇数頁、偶数頁のこととか、いろいろありすぎて、結構難しいものです。
 なにしろ若葉マークの私ですから、頭の中をグルグル回しながら、なんとかかんとかやっているというところです。


  
WORDか一太郎か(2009.5.9)
 20年来一太郎を使ってきました。ソフトのことなどにあまり詳しくない私は、日本語の微妙な文字の配置に便利のよい一太郎を愛用するものですが、この頃、好むと好まざるとに関わらずWORDを使う機会が増えました。
 職場では、OFFICE2007つまりWORD2007を使っていますが、自宅では2000を強いて使っています。
 MICROSOFT製品になると、始終強制的に「UPGRADE、緊急の更新、自動更新」なるものがあり、(仕方がないこととはわかりつつも)これがやたらと入ってくることが、なんとも不快です。まるで、呼びもしない客に、土足で上がられ、踏みにじられるような感を覚えるのは私だけでしょうか。
 それも、MICROSOFT製品は、容赦なく「Cドライブを占有する」のですから、Cドライブの掃除が好きな私には、不快が募るのです。
 やっぱり一太郎だな、と思う反面、WORDのワープロソフト以外での便利さも捨てがたく、二つのソフトの間をうろうろしています。
 今回、海の編集は、敢えてWORDでやってみようと、なぜかWORDに靡いたりしていますが、番付でいえば、東の横綱にはやはり一太郎を据えたいものです。


  海原稿:編集作業開始(2009.5.5)
 届けられた海の原稿の編集作業とやらを、実際始めてみました。
 それなりに準備し、問題点も予測しての作業ですが、いざやってみると、予測していなかった問題がいろいろ出てきます。
 フォーマットにデータを貼り付けるのは、フォーマットのものと同じフォントにしなければダメだとか、カットを貼り付けるのはWORDか一太郎のどちらがよいかとか、奇数頁と偶数頁の違いとか、ルビの扱いの問題とか、本当に、実際やってみなければわからないことが多く、「やはり!!」と思う反面、「結構面白い!!」というところもあり、はたしてこれからどういう方向に向かうのか、興味津々というところです。


 
海原稿のことなど(2009.5.2)
 海の原稿が届き始めました。いよいよ、これから中身の部分に入って行くことになります。迫力のある原稿が寄せられんことを、期待します。
 ちなみに、原稿の締め切りは5月15日(必着)ですので、よろしくお願いします。

 有森のおぼつかなさをみてか、新たな加入者がありました。古くから有森と親交のある、U氏です。
 U氏はITには殊の外強く、今の有森にはまさに心強い「援軍来たる」です。U氏は優れた文芸人であり、絵画などにも通じており、HPの制作などプロ並みというべき能力の持ち主です。ITだけではなく、文芸そのものの創作においても大いに期待したいものです。
 海(「新生:海」、「第二期:海」)の船出に当たり、嬉しいニュースです。



 雑学の必要(2009.4.25)
 小説などの作品を書く場合、どれだけの素材を扱い、どれだけの掘り下げをすることができるか、これは、いつも目の前に突き付けられる問題です。
 私のように出不精で、人とも活発には交わらず、社会での経験も少ないとなると、一作、一作を進めていくにあたり、コンクリートの壁にでも突き当たるような気持ちになるのですが、多くの方々はいかがでしょうか。
 私は、少ない経験や、訪れたなかの少ない場所からなにかを感じ、連想を逞しくしていくという手法に頼っているのですが、それだと、いつも身辺雑記調の、おきまりの事なかれストーリーを書くということになりかねません。
 このことからの脱皮をしたいと、今の年齢に至っても(少年の日と変わることなく)強く求めているのですが、生活スタイルというのは簡単には変えられるものではないようです。それではということで、基本に立ち返り、他の方の作品を虚心坦懐に読む、他の方の知恵や業績や活動を読むことによって知るということが、私には最も現実的な方法であろうと、思うものです。
 ということは、あいかわらず現在の「穴蔵生活」を続けるほかなく、自分には自分流儀のやり方しかないようで、降って湧いてくるような王道など、ないのかもしれないと感じています。


 
新生「海」(2009.3.29)
 新生「海」が、3月23日スタートしました。
 この貴重な発表の場を、存分に生かしていきたいと思っています。関係の方々も、自らのためにある舞台だとお考えいただき、有効に活用していただきたいと願うものです。
 改めて宣言します。
 新生「海」は、党利党略の場ではありません。他を攻撃する場でもありません。自らを生涯にわたって表現する場であり、願わくば、多くの方々のお役に立てる場でありたいと考えるものです。


 
新生「海」(2009.3.20)
 今日、「海」継続(新生「海」発足)に向けての打ち合わせを行い、基本的事項についての確認を行いました。
 課題はいろいろありますが、要は、やはり作品の善し悪しになりましょう。
 やたらに評価を気にするよりも、自らが書くべきこと、書きたいこと、伝えたいことを、「芸」の域にまで高め、綴り続けることが第一だと思います。
 第二には、その作品を広い場所に運んでやることだと思います。
 それを開始します。関係の方々は、自らの「芸」と真剣に格闘していただきたいと思います。勿論、私も一員です。すべきことは、同じです。
 間もなく、スタートの号砲が鳴らされます。


 
新生「海」(2009.3.15)
 もし現在、発表の場がほしい、というお気持ちがおありの場合は、是非御加入の上、新たな「海」創造のためお力をいただきたいと存じます。
 新しい「海」は、「発表したい方のニーズに応える」、「生涯現役で取り組める」ということを、特に重要な要素にしたいと思います。
 どうぞ、前向きに御検討いただければ、誠に幸いです。


 
新生「海」の発足について(その2)(09.3.7)
 現在の進捗状況をお知らせします。
 編集担当4名(3名+有森)を決めさせていただきました。そこで、今後の具体的な事項について、少なくとも1回は打ち合わせを持ち、方針を決めたいと思います。
 できれば3月中に打ち合わせを行い、6月頃を目途にした発行を目指したいと思います。
 なお、同人への加入希望がおありの場合は、下記当て御連絡いただけると幸いです。
  Email arimori@huk.bbiq.jp


   
新生「海」の発足について(09.2.28)
 各位
 皆様には、ますます御清栄のことと存じ上げます。
 このたび、「海」が第67号をもって終刊となったことに伴い、新生「海」について発起をいたしましたところ、非力な呼びかけ人を勤めました有森にとりましては、誠に心強い下記の方々から加入の同意を得ることができました。
 このことは、望外の喜びでありますとともに、各位が、詩に、評論に、小説にと、それぞれ高く評価され、最も意欲をお持ちの方であるとかねがね思っているところでありますので、新生「海」の道標が明確に見えてきました。
 新生「海」は、第一に表現の場であり、第二にそれを遠くに運ぶ場であり、第三に自らが主人公であって自らを高めていく場であり、第四に文芸を志す者同士の交換の場であり、第五に生涯にわたり文芸にかかわっていくための場であることを目指すところですので、御加入の各位におかれましては、存分に「海」を活用し、存分に泳いでいただきたいと望むものです。
 つまり、これから、メンバーのどなたにも、レベルの高い作品、迫力のある作品[つまりNO1(only1)の作品]を腰を据えて創出いただき、「海」という舞台で演じていただくことで、自らをさらに高め、より積極的に社会に発信していただけるものと、確信するものであります。
  織坂氏が、「海」終刊の挨拶の際に述べられた、他誌の某女史の創作姿勢=「死ぬまで、命がけで作品を書くのみ」(多少、私の勘違いがあるかもしれませんが)という方々が、私たちの近辺に現実におられるということを知り、新生「海」の発刊に当たり、私も座右の銘にさせていただきたいと思い、かつ、そうありたいと願うものです。
 少々堅苦しい弁を並べてしまいましたが、それぞれ将来性豊かな方をメンバーに得て、ここに新生「海」が幕を開けようとしています。
新生「海」同人(09.2.28現在)[氏名省略]
※ 幕開けに当たり、編集担当3名程度を決めさせていただきます。(今回は、有森から担当のお願いをさせていただく予定です。)
※ 上記以外に、同人に推挙(加入)くださる方があれば、呼びかけていただき、連絡いただければ幸いです。
                              2009.2.28  有 森 信 二 


   
新生「海」御案内(2009.2.21)
 その後、お変わりなきことと存じます。
   このたび、新生「海」のことを発起いたしました。
 本来、私ごときの任ではないところですが、「海」は67号をもってやむなく終刊ということになりましたため、急遽68号以降の継続のことを発起した次第です。
 終刊になって、始めて発表する場を失ったことを痛感するところであり、もし現在なにがしかのお気持ちがおありの場合は、是非御加入の上、新たな「海」創造のためお力をいただきたく、よろしくお願いいたします。
 勿論、他誌等に属される等の場合はやむを得ないところですが、前向きに御検討いただければ、誠に幸いです。
   また、「生涯現役」ということも、重要な要素にしたいと思います。
   いかがでしょう。「海」という舞台を、皆様の恰好の活躍の場にお選び願えませんか。


 
作品を発表する(2009.2.14)
 「海」67号で、誌が終刊になった途端、空しさが胸を突き上げてきました。
 今後、日々生み出すであろう作品は、どこにどう発表すればいいのだろうか。私にとって、それは切実な問題でした。勿論、人間関係や、誌名の問題などもいろいろあるのですが、それより、「安心して、キチンと発表できる場」だけは確保しなければならない、ということが自らのテーマとして大きく浮上してきました。
 私の能力や性格からして、誌の責任者にはとても向きませんから、これはどなたかにお願いすることとして、まずは「形を作らねばならない」。とすれば「海」を継続することが、なにより「形+内容」が具体的に目前に示されているのでベストであろう、ということでした。
 表現するための誌、発表するための誌‥それらは、お仕着せでもなく、お願いされるのでもなく、命令に従うのでもなく、「自らが、自らの表現の場として、【どうしても必要】」なのですから、必要なものを作るだけだ、という非常ににシンプルな理由であり、動機であるわけです。


   
新生「海」について(案)(2009.1.25)
 現段階において、【新生「海」について】の以下のような案を考えております。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 謹啓 皆様には、ますます御健勝のことと存じ上げます。
 このたび、新生「海」発刊に向けての若干の経緯を述べるとともに、新生「海」が向かうところの指標について提案させていただきます。
 これまでの、「海」の激しい波濤の様を見ますならば、新生「海」の発起書を書くということも、一時はあり得ないであろうという状態でありました。しかし、これまで多くの先輩同人諸氏が築いてこられた「海」という高い「文化」を、マグマの底に沈めてしまうことはいかがなものかとの煩悶の末、新生「海」の発刊を発起するに至った次第です。
 皆様におかれましては、どうぞ自らのこととしてお考えいただき、もし御賛同いただけるようでしたら、新生「海」の波打ち際に御参集くださいますよう御案内申し上げます。
 なお、私有森は、旧「海」の浅瀬に棲んでいた名なし草の一本であるというだけのものであり、行きがかり上、このような呼びかけの役目を負っているものでありますことを申し添えます。
                                               敬具
                                          2009年2月  日      有 森 信 二
1 「海」の終刊について
  1987年(昭和62年)9月1日創刊の「海」は、当時の「熱き仲間」たちの、連日連夜をも、ものともしない論戦のエネルギーの中から、「熱き思いの文学」を語るため、10名の仲間が集い、詩や評論などを主に発表する場として、同人誌を立ち上げたものです。
  その「海」は、激しいエネルギーの交錯と昇華の過程において、多くの優れた文芸作品を世に送り出し、社会的にも高く評価され、その存在を広く知らしめるところとなりました。
  しかし、近年、初期のエネルギーのなにものかを知る同人も減り、創立期の「海」とはおよそ趣の異なるものとなってきたため、ここに、当初目指してきた誌の役割を終えたものと判断し、「海」67号をもって終刊とすることにいたしました。(織坂氏からの伝聞により記す。)
※ 創刊号から67号までの20年にわたり「海」を牽引されてきたX氏、Y氏にはこの場を借り、深い敬意を表するとともに、心からのお礼を申し上げるものであります。

2 新生「海」の発刊について
-「海」について-
 【文芸作品を発表する場である。】
 【文芸作品を広く、遠くに運ぶ場である。】
 【文芸を志す者に、広く門戸を開放する。】
 【主人公は、同人個々である。】
 【主宰者は置かず、編集委員会(編集担当者で構成)の中に発行責任者を置く。】 
 【編集担当者(発行責任者を含む。)は作者であり、併せて編集・発行という作業を行う。】
  さて、68号以降、新生「海」を名乗ることについて、かなりの意見交換を行いましたが、「海」という誌名の他にこれを越えるものがなく、また、創立期とは内容は異なるものの「海」という誌名を引き継ぐことで、高いハードルの上に、新たなるハードルを設け、次の来訪者である同人諸氏に、憩い、くつろぎ、泳ぎ、潜り、あるいはあてどもなく漂流することなどにより、それぞれの「NO1」(「ONLY1」)を目指してもらうものとします。
 よって、新生「海」は、広く、遠く、深く、高く、どこまでも繋がり、文芸を志す誰もが、かなり自由に出入りできる場である、という意味合いを持つものとします。

3 新生「海」についての資料など
(1)新生「海」についての理念は、同封の「海67号」の「あとがき」などに記載しておりますので、御参照ください。(部数の関係上、同号をお持ちの方には今回送付しておりません。)
(2)現代は冊子離れが激しく、中央の文芸誌の同人雑誌評も昨年12月で打ち切られるという中であり、一方「ケイタイ小説」なるものなどが、オンラインで掲載されたりしてはおりますが、やはり、まとまった冊子に発表することは大切な意味を持つものであると思われます。
 よって、志あらん方は、是非、新生「海」を自由自在に泳いでいただきたいものです。
(3)新生「海」は、加入に関し、これまでの「海」在籍者、全く新たな方など、資格を問いません。御自身の責任ある判断の元、御加入くださるよう御案内いたします。
(4)当方の都合もありますので、御加入いただける場合は、同封のハガキによる送付か、次のEmailへの送信により、2月末日までにお知らせくださるよう、よろしくお願いいたします。
  Email宛先  arimori@huk.bbiq.jp
※ Emailに記していただきたいこと:1)氏名(筆名可)、2)住所、3)電話、4)Email
※ 同人名簿に、2)住所、3)電話、4)Emailを掲載してよいかも併せて記入願います。

(その他参考)
 ※ 同人の経費負担を少なくするため、パソコンを使用するものとし、一太郎又はWORDソフトによる原稿作成を行います。(67号発刊時の一同人当たりの経費:1号につき13,000円。ただし、小説、評論の場合、原稿用紙50枚を超過:3枚につき500円加算)
 ※ 年2回の発行を目指します。


 
X様(2009.1.16)
 ついに、「海」が終わりました。
 十数年にわたり、たいへん貴重な夢を見せていただきました。
 X様は、かねてから、いろいろな面を持った人であると、思ってはいました。それが、友愛に溢れかえらんばかりの顔から、冷徹非情の顔までいくつもの顔を見せてくれました。
 私は、それらはエンターティメンターに徹しようとするX様の質のよいジョークかと、信じて疑いませんでした。本当に肩の凝らない、多くの顔で私たちを和ませてくれている、と心からそう思っていたのです。
 しかし、人は、そんなに多くの顔を持ち得ないものなのですね。
 私も、X様を責めてばかりはいられません。私には、なんといっても「変人」という変わらない顔があります。反骨心の強い私ですから、逆に責めたてていたりしたのかもしれませんね。そうだったとしたら、私も大いに謝らねばなりません。

 しかし、この程度のことではくじけません。
 私は、これを契機に、このようなことだけは行ってはならないと、心するようにしたいと思うばかりです。
 ペンは、他を傷つける道具であってはならないのでした。今後もペンを持ち続ける者として、心していきたいと思います。
 このような我々の上にも、どうぞ高く、広い御心が行われるよう祈るばかりです。


 
X 様(2009.1.10)
 お手紙拝見しました。
 私は、ものぐさな性格でもあり、もともと運営といった面で議論するのが苦手で、できたらこんな話は今回で止めにしたいものです。
 ネットでの評価を、ここぞとばかりに指摘し、「だから海は早々に廃止すべきだ」ということなのですね。
 そのことは、以前の「ネットをちゃらちゃらこねまわし(文章は違うでしょうが)、やっている連中の気が知れない」というふうに書いておられたことと同じ発想のことだと思われますが、Xさん自身、現在ネットの一端を用いられているのですよ。
 新聞しかり、雑誌・同人誌しかり、同人誌の原稿作成しかり、みんなIT技術を用いて作られているものです。

 確かに、以前「西域」という文芸誌がありました。主催者はK氏、T氏とK氏のお三方で、多くの作品を世に出すため、お三方の全額出費でまかなわれていました。勿論、原稿は手書きです。それを活字にし、出版するため、年に各百万円程度の負担をされていました。
(中略)
 うかつなことに、私は海がXさん個人のものだとは、失礼ながら今まで一度も考えたことがありませんでした。構成員全員の、共通の文化財だと理解していましたが。(これが、間違いのようでした。)
 思い起こせば、一昨年あたりの解散騒動も、問題はここにあったのですね。わけがわからないまま、いったい何人の退会者が出たことでしょう。(中略)
懸命に体をはってたいへんな編集作業をされていたU氏のことが、思いやられてなりません。
(中略)

 考えてみれば、私の発想は「西域」にあるようです。(お金の負担ができないということで、例えるのも憚られるのですが)
 広く、遠く、どこまでも繋がっている、と考えていた「海」という誌名は、土台から解釈が間違っていたのですね。
   海67号の後書きに書いた内容は、ただの空小切手だった、というおそまつに、ようやく気が付きました。(新生「海」がならないというのなら。)

 ともあれ、私にとっての「海」は、単なる記号でも、個人の所有物でもありません。
 些事ながら仕事の都合や他の役目もあり、しばらく動けませんが、もし始めるとすれば、誌名は「海」もありです。(ただし、1号から)ということになれば、メンバーは限られてくることになりましょう。
 私にとっての誌名「海」は、広く、遠く、深く、高く、どこまでも繋がっていて、誰でもがかなり自由に出入りできる、という意味合いです。
 もっとも、ここまでくれば、もう「無限大」というような誌名でも同じことになりますが、やはりメンバーは限られてくるでしょう。(例えば、個人誌+αということにでも‥)


 
X様(2009.1.8)
 お手紙拝見しました。
 たいして、なにもすれ違ってはおりません。
 違うといえば、「海」批評資料を送りましたが、これだけの評価を得ています。 Xさんと私とでは、ほんの少しだけ、「海」についての思い入れが違うのかもしれません。私にとって「海」は、われわれの手をも離れた「文化」なのです。

 私の望むところは、以下のようです。
(1)発表の場を持つ。(かつて、私も発表の場が欲しかった。いまも、勿論です。)
(2)高いレベルをめざす。(NO1のつもりで、書きますし、書いてもらいます。)
(3)「海」は、各評価にもあるように、高い「文化」です。できるだけ、この文化を続けたい。他の誌に習う必要などありませんが、他は500号、700号などザラです。
 私にわがままをいわせていただけるのなら、「海」という誌名を継続することです。
※ 67号の「あとがき」にも書きましたように、「海」は新たに幕を開けようとしているのです。(新生「海」という意味です。「文責、有森」としています。)
※ Xさんの御意見や、思い入れなどのことは理解できているつもりですが、このわがままを聞いていただけないものでしょうか。
※ 編集のことで意見をいっているのは、「電子媒体での編集には、かなりの専門的な技量と能力が必要」(普段の仕事からも、その程度がいくばくかはわかります。)であるという、ごく客観的な事実だけをいっているのです。
 いうなれば、印刷会社が本を作るという行程の「印刷直前までの作業」が必要なわけです。
(原稿作成に際しての字数決め、行数決め‥原稿集め‥装丁やレイアウトの想定‥実際の編集作業‥後は省略。‥原稿集めまでの、段取りが一番大切です。)
(4)Xさんにいろいろと相談をしているのは、「海」を辞めるということではなく、どう次に踏み出すかということなのです。
(5)他の誌名などいくら考えても、ビビッときません。どうしても、「海」に戻ります。この直感を大切にするなら(させてもらえるなら)やっぱり、「海」です。
(6)いかがでしょうか。新生「海」ということで、大きくやらせてもらえないでしょうか。

 以上、かなり勝手なことを書き連ねましたが、是非再考いただけないものでしょうか。
 この行方が、「なにもやらない」、「勝手にやろう」という方向に至ることだけは避けたいと思うものです。
   これらは、細かいことでもなんでもありません。実に、根幹をなす大事なのです。


   
X様:「海」の今後(2008.10.31)
 海も‥編集人が辞めたりした(?)ため、またおはちがまわってきました‥たいへんで、今Xさんみたいな方がおられたら、と何度思ったかしれません。
 そこで、1)できるだけ電子データを用いること、2)編集者が特権意識を持たないこと、3)新規の加入希望者にメッセージを送ること、というのを提案しようと思いますが、さて‥。
 最悪の場合、1)、2)、3)が可能な少人数でやるのもよし(海を離れて)、さらにはHPのみで発信するのもよし、という手もありますが、やっぱり、本当に文芸をやりたいのであれば、売れるとか賞をとるとかに関係なく、とにかく「発表する」ことだけは欠かせないと考えています。
 まあ、先のことを悲観せず、時の気まぐれにまかせてやっていこうと、考えています。


 
「海」67号後書きより(2008.10.14)
 中央の文芸誌の掲載内容から、同人誌評が除かれようとしているというニュースは、やはり大きな衝撃です。
 それも、「老人雑誌」という比喩を用いた、かなり意図的な表記で。
 グローバル化の波が、出版界にも押し寄せているであろうことは、想像に難くありません。すなわち、「売れるか、売れないか」という論理の上に立てば、文芸書の占める位置は後者であろうことは、当然の理かと思われます。 
 しかし、ここで、「売れないこと」=「老人雑誌」という短絡的表現だけは気にかかります。
 後期高齢者だの団塊の世代だのという造語が、ずい分無造作に用いられ、あたかも犯罪者集団であるかのごとくに聞こえないでもありません。

 確かに、文芸というものの全てを、あたかも高尚な、あたかも権威的なものとして持ち上げ過ぎてきた、というきらいがないではありません。
 この機運の中、「海」は書きたい、表現したい、と真に望む人には、文芸という範疇の中でのジャンルを問わず、表現の場を提供してみてはどうかと考えます。
 もっとも、その先行きがしかと見えているわけではありませんが。
 ともあれ「海」は、ときには荒れ、ときには凪ぎ、いろいろな局面を経ながら、「文芸作品」をより広い場所に運ぼうとしてきました。その理念は、今後も変わりません。
         

 
X様(2008.10.14)
 先日は、たいへん失礼しました。
 火の音の感想、ずいぶん手加減の上書いていただいた? のだろうな、とありがたく読ませていただきました。

 学園闘争ですか。私はほんの短期間、その入口を覗いただけで、あまりにも怖くて、中に入れませんでした。
 マルクス理論とやらは、私の最も苦手な経済学、社会学の範疇のようであり、どちらかというと物理・天文、スピリチュアズムといった傾向が好みの自分には、最も遠い世界です。
 例えれば、戦争体験者が、いつも戦争を素材に使うということに似ているかもしれません。

 運、不運ということについても、ちょっとした持論があります。「禍福はあざなえる縄のごとし?」でしたか、やはりそれだと思います。
 これは、ストーリーにも、取り入れるべきだと思います。
 で、自らが世に出るチャンスをつかむかどうかということ?。この世界のことは、真面目にやっていれば報われる、というふうにはどうもなっていない、ことが多いようですね。
 もっとも、私の場合は、今生の一回にこだわる(懸命にやるべきです。勿論)ものでもないという見解ですので、いたって気楽です。
 そもそも、人が人を評価する、ということに高邁なものも感じますし、怪し気なものも感じます。(むしろ、後者)

・N賞受賞者の、とりまきの方々。(例えば、自分の研究の方が先ではないか。どうして取り上げてくれない‥。)
・高く上った(賞というものを受けた)がための、人間関係の崩壊。(次なる)恐怖。
・ストレートに世を突き進んでいるがための、ささいな事件→挫折。(T大卒者や超美人は、それだけで危険が一杯?)
 
 考えてみれば、これだけでもストーリーができそうですね。
 と、これは、「チャンスを与えよ」ということに対し、なんの答えにもなっていないですね。

 法則として、「思うこと、言うこと、信じること→それは必ず実現する」となっていますが‥。
 できれば、私の場合は、正面玄関から入る方が好き、というだけのことですので、そういうことであるのなら、私ではない、「この世的にしっかりした方」にお願いしていただければ、解決することだと思います。
             
(全くの参考)
 私もちょうど、女流の方からの著書をいただき、自分なりの感想を書いてみたところでした。
 本当に、御参考まで。(ほんの一部分です。)
 全編を拝読させていただき、心打たれました。
 決して誇張に走らず、奇をてらわず、それを日常の生活の中で、日常の目を通し、やさしいことばで、丹念に描くという手法で、心が、そのほんの少しの心の動きが、いろいろの風景を、多くの事情を、的確に紡ぎ出しておられるのですね。
 正確で、小気味よい表現が、次のページを繰るのももどかしくさせるという、このところ見なかった著書に出会うことができました。
 素直に、感動いたしました。
 とともに、私の作品の軽薄さが思いやられ、今後、本当に心してかからねば、とおおいなる反省をいたしているところです。


 
X様(2008.6.14)
 ご提案のように、あまり議論を繰り返したり、繰り返し過ぎると、一行も書けなくなってしまいますからね。
 私たちは、少なくとも「評論家」を目指しているわけではありませんから、書く前の理屈付けはしつこくは行わない方がいいのではないでしょうか。
 
 それからが、これは私の持論(偏見)になりますが、作品についてあれこれいわれても、困るわけです。劣っていようと、おだてられようと、作者は黙って聞きおくのみです。

 まあ、実作者は、一字から始めて、おびただしい時間を費やし、数万字を連ねていかねばなりません。
 もちろん、よりよい作品に仕上げたいと思わない作者はいない筈です。そのなかで、出来映えについて一番よくわかっているのも本人です。
 巷でいわれるような筋書きどおりにはなかなかならない、というと逃げになってしまいますが、世の中に、よほどの「害悪」をもたらすもの以外は、なんとか鷹揚に見てもらいたいと思うものです。
 もっとも、少なくともペンを持つ者は、相手をペンで傷つけることだけはやめようと思います。
 
 現場の作者には、なにがあろうと、一字、一字を刻んでいくしかやりようがないのです。
 もっとも、その醍醐味がわかるのは、作者にしか与えられない喜びだと思うのですが。

 最後に提案ですが、作者が他の作者のことをとやかくいうのも、酷だとおもいます。
 お前の建てた家は、柱が曲がってるとか、土台がゆがんでいるとか、隣同士の大工が議論をするより、向こう隣のなかなか感じがよいと思う家を見習い、黙って次の建物に取りかかる、というのでは甘過ぎますか。


 
X様(2008.6.12)
 私も、やはり文学を志して、やってきました。
 でも、これは体験談にしか過ぎませんが、「文学」を語る人々にはたいそうな差があるようで、どうにも「私小説的な作品、現実の描写に強い意味をもたそうとする一派−現実以外のことを認めない一派? 檀一雄のような無頼派。人間らしい、という表現で全てを済ましてしまう一派‥」などを「文学」と呼ぶのが習わしのようで、その範疇にないらしい私は、文学から弾かれてしまいます。
 文芸というのも猿回しみたいでどうかと思われますので、もう今では、文学、文芸ということばも、私的には使わないことにしました。‥まだ文芸の方が、肌に合いますが。
 現在のことばを借りて表現するなら、私の場合は「哲学?」のはしっこにそっと居させてもらう、というあたりが一番近いのかもしれません。
 
 私は、宗教の勧めなぞ、なにもしません。宗教は、それこそ文学より、さらに胡散臭いものとして感じます。
 「宗教か」、という差別に近い評価も、数々受けてきましたから。
 ただ、三浦綾子さんたちを評価するのは、特定の宗教を奉じているからというのではなく、人間の傲慢さを知り、人間の行う恥を知っているからです。
 つまり、文学を語ることを職業とする方々の、なんと傲慢なことよ、という一点に尽きます。(もっとも、例外は常にあるかと思いますが。)
 現在は、目に見えることしか認めず、人間のこしらえた科学という一つの理論以外は認めないという、魔女狩りのような状況にありませんか。それこそ「宗教」であり、弾圧ではありませんか。
 人間の頭では考えもつかないこと、そのしくみ、それらをなんとかしてキャッチしようと思うのみです。
 
 やはり、私の直感には、人類という種の危機が感じられます。人類が、万物の霊長などと自らを位置づけているような、その傲慢さには驚かされます。私が書こうとするのは、そこにあります。
 文学、文芸、宗教云々より、小説、詩、短歌、俳句という表現をした方が、自分には素直に響きます。
 急なことで、意を尽くしませんが。


 
X様(2008.6.7)
 一番傾倒しているのは三浦綾子さんです。夫君の三浦光世さんの生き方にも励まされ、勇気を与えられます。
 星野富弘さん(詩画)にも、傾倒しています。
 実に、心優しい、真摯な方たちです。
 最初にいいましたように、私は宗教はもちませんが、三浦さんや星野さんたちの存在に感動するものです。
 三浦さんが世に出た「氷点」の舞台、旭川の見本林を訪ねました。作品の舞台を見ること、これにも興味が尽きません。
 
 私の作品で誰にも読み取ってもらえない点、それはこの「神」(という表現は敢えて用いていない)の視点です。もっとも、三浦さんのように正面から神を描くのではなく、私の場合は、天空の一点にそれを置いていますので、もの書きとしてたいした技量もないし、用い方もよろしくないので、気付いてもらえないようです。
 ここらが、自らの作品を説明できない(説明すると、ますます胡散臭くなる)原因でもあります。
 日常の生活が、「神」の目で見ると、どうなるのか。そう常に問いかけ、心を砕いているのは、その部分だけです。

 私の「神」は、キリストでも釈迦でもなく、八百万の神でもありません。
 神は、全宇宙を統括する唯一の存在(と勝手に定義しておりますが)であります。
 無神論‥無神論‥無神論‥の自らの煩悶のなかから、どうしてもそこに存在しなければならない存在(ブラックホール説のような)、として「神」(仮称)を置きました。
 そして、小説などを書くことで、いつか誰かにわかってもらえる日がくるかもしれない。それまで待とう、という次第です。

 今日、マヤ、アステカ、インカ展を見てきました。
 以前から、マヤやインカに心惹かれます。
 
 その繁栄と滅亡、そこに「神」を見ます。
 人類の滅亡、その後‥などと私がいうのは、例えばそういうことです。天空から見たマヤ、アステカ、インカ‥まず、最初にことばをなくします。ただ、見て、感じるしかない、と詩人のはしくれは、胸いっぱいに風景や風や音を感じます。
 ことばは、ありません。
 ことばになるとしたら、いつの日になるのかわかりませんが、私ではない私が、なにかのインスピレーションを受けたときです。
 
 と、あれや、これやで、私が他の方の作品を評したり、他の方から評されたりすることの「特殊性」がおわかりいただける(?)と思うものです。
 駄文、長文にて失礼します。
 

   
X様(2008.6.6)
 私も60歳なんて、はな垂れ小僧だ。などといっていたのに、こうも頑固になったのか、と反省しきりではあります。
 
 テーマの話ですが、単なる抽象語ではなく、物心ついたときから「どこからきたのか、どこへいくのか、なんなのか」を実感してきました。
 道ばたの雑木の中に、風雨に晒され、むき出しになった甕棺や、古い城跡の松の木などに吹きつける風の音など、心の底をゆり動かされるものがありました。

 突然、ことばの話に移ります。日本語で表現していますが、できたら英語、さらにできたら万国語、さらにできたら時空を往来できるようなことばで書けるといいな、と思っています。
 とはいえ、「思い」も言語。これで時空には通じるのではないかとの思いも一方にはあります。念というものは、ことばを駆使しなくても、もう通じてしまっているのだ、という考えです。

 このように、常に自己矛盾と、非論理とを操っているのですから、説明のしようもなくて、なにかを話すとなると、いきなり塞がってしまいます。これらのことを、どう話していいかわからないから、今は「小説」 という殻に籠もって、本当は逃げているのですね。
 エッセイも、詩も、俳句も、短歌も捨て、小説のみにしようとしたのは30年前です。(説明から逃げるために) こういう来歴があってのことです。(傲岸無礼なのは) 今、心を占めているのは、傍若無人な「人間」という種への「?」です。北極の氷が溶けているからとか、貧富の差が激しい、とかいうことではなく、人間という私への「NO」です。
 どうすればいいのか、・・これまで書いてきた作品の殆どのテーマがそういうことですから、これではますます説明できませんよね。
 蛇足
・自分のふがいなさへの思い、誰もがもっていますよ。
・ことばよりも、世界に(広く)通じるもの。それは、音や絵や映像やスポーツなどではないでしょうか。
    

 
X様(2008.6.5)
 お疲れ様です。
 初心者とか、発展途上とかの区別はないのだ、と思っています。
 100枚が50枚に勝る、とはいえません。短くても、たったの1行ででも表現はできるでしょう。
 私には、また100枚も費やしてしまった、という悔恨がまず先にあるのは確かです。これだけのことを表現するために、100枚も費やす必要があるのか、という問いかけは常にもっています。
 
 万緑の中や 吾子の歯 生えそむる         草田男
 ショパン 弾き終へたるままの 露万朶    草田男 
 芋の露 連山影を 正うす            蛇笏 
 
 これらの秀句を、説明しますか。
 説明した途端に、なにかが崩れます。
 私の場合は、絵として、映像として、風や、雨の音として、感じます。
 

 
X様(2008.6.3)
 お疲れ様でした。
 私は、本来平和主義者で、しゃべるのも好きなんです。
 小説も、そんなに簡単に書いているわけではありません。遅筆も遅筆、大の遅筆で、一作に割く神経たるや、自分が変になりそう(なっているのかも)なくらい追い込んでから、書きます。
 「海」は、広い場所の筈ですが、この頃「??」と思うことが多です。

・日本語や、日本人を極めようなどとは、さらさら思いません。世界は、今壊れかけています。その渦中にいようと、願っています。
・詩人として、今、世界があげている悲鳴を聞いています。

 索 引

X様(2008.6.3)

X様(2008.6.5)

X様(2008.6.6)

X様(2008.6.7)

X様(2008.6.12)

X様(2008.6.14)

X様(2008.10.14)

海67号後書きより(2008.10.14)

X様:「海」の今後(2008.10.31)

X様「海」の存続
(2009.1.8)


X様「海」の存続
(2009.1.10)


X様「海」の存続
(2009.1.16)


新生「海」について(2009.1.25)

作品を発表する(2009.2.14)

新生「海」御案内
(2009.2.21)


新生「海」の発足について
(09.2.28)


新生「海」の発足について(2)
(09.3.7)


新生「海」
(2009.3.15)


新生「海」
(2009.3.20)


新生「海」
(2009.3.29)


雑学の必要
(2009.4.25)


海原稿のことなど(2009.5.2)

海:編集作業開始(2009.5.5)

WORDか一太郎か(2009.5.9)

編集作業の推移(2009.5.13)

海の編集作業・中途(2009.5.16)

編集担当者の役割(2009.5.23)

編集について
(2009.5.24)


編集というもの
(2009.5.29)


海68号あとがき(2009.5.30)

詩、俳句、短歌
(2009.6.2)


短歌(2009.6.3)

散文と韻文
(2009.6.4)


編集総括など
(2009.6.8)


次号への展望
(2009.6.14)


発表の原点へ
(2009.6.20)


新生海第二期創刊号発送
(2009.6.21)


詩、俳句(2009.6.22)

書店風景から(2009.6.26)

理屈もヘチマも(2009.6.30)

ひわきさんに感謝(2009.7.1)

ISSN登録(2009.7.3)

文学論とは(2009.7.6)

文学性とは(2009.7.10)

書棚から(2009.7.13)

賞というもの(2009.7.17)

文芸的な(1)(2009.7.20)

文芸的な(2)(2009.7.25)

合評会中止(2009.7.26)

海の評(2009.7.31)

他誌の作品(2009.8.6)

老害(2009.8.7)

女性の目から見た老い(2009.8.12)

文芸的な(3)(2009.8.16)

文芸的な(4)(2009.8.22)

海第二期ホームページ公開(2009.8.23)

芸術、文化の秋(2009.8.26)

ホームページメンテナンス(2009.8.30)

掲示板(2009.9.1)

文芸的な(5)(2009.9.6)

文芸的な(6)(2009.9.12)

海の割付(2009.9.22)

カット編:海の割付(2009.10.1)

名はなくとも(2009.10.3)

人類救済大作戦(2009.10.10)

倉庫(2009.10.11)

発送前(2009.10.12)

発行へ(2009.10.14)

発送後(2009.10.19)

同人誌と商業誌(2009.10.24)

ものを書く(2009.10.26)

同人誌のこと(2009.10.28)

同人誌のこと(2)(2009.10.30)

同人誌のこと(3)
(2009.10.31)


詩や俳句ばかり(2009.11.1)

HPはたいへん(2009.11.7)

学歴(2009.11.14)

詩集・句集(2009.11.19)

若さとは(2009.11.25)

公表する(2009.11.29)

書くこと(2009.12.1)

詩誌(2009.12.3)

読み返してみて(2009.12.12)

欲張り過ぎると(2009.12.17)

合評会(2009.12.23)

詩の時評(2009.12.29)

文芸(2009.12.31)




















































































































































































































































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